データ検索サイト2019~2020(mt008)
データ検索サイト2019~2020(mt008)
コンテンツへスキップ
ホーム
メディア
情報関連
これからのスパコン
シンギュラリティー・日本
ユヴァル・ノア・ハラリ(歴史学者)とは
公文書が消える国
情報セキュリティブログ
暗号資産技術
流出情報、分からぬまま
防災へ、みんなで古文書読み解く
政治関連
新・日本の階級社会
老後レス時代-1
障害者たちの反乱そして国会へ
環境関連
太陽光発電、宇宙から
進むリチウムイオン電池
工芸
うつわ・ドラマチック展
椅子と剣持勇の「近代」
漆芸
日本漆工の研究
乾漆像と塑像
漆器生産地
漆液の採集法
飛鳥奈良時代の漆工
漆塗り技法書
金継ぎ技法
建築
3.11以後の建築
3.11以後の建築・part2
アアルトの家具デザイン
バウハウス創立100周年
建築の日本展
09共生する自然
文化財関連
仏像修理100年
三十三観音の先手観音像
美術院の歴史(岡倉天心の研究・修理の実践)
臼杵磨崖仏・保存修理
近代修理の始まり・奈良・天平の仏像
仏像再興
神さま仏さまの復興
古仏修復情報
岡倉天心と文化財
茨城の文化財
復興のための文化力
歴史
古代史
越境の古代史
混血児たちのネットワーク
日本史
「新皇」将門とは
古代大阪の変遷
古墳時代後期・飛鳥時代
日本愛犬史
聖徳太子
1. 誕生伝承と橘寺(574~)
2. 上宮時代(570?~605)
3.太子をめぐるさまざまな史料
4.四天王寺とは
5. 十七条憲法とは
茨城県の歴史
茨城の城郭
霞ヶ浦の支配者
甲骨文とは何か
韓国史
前方後円墳と外来系文化
古代韓半島と倭国
民俗学
人と動物の昭和誌
美術
工芸
日本現代美術
あいちトリエンナーレ
動画
大浦信行の《遠近を抱えて》
表現の不自由・それ以前
レクイエム・森村泰昌
佃 弘樹
大辻清司のアトリエ訪問
■大辻清司のアトリエ訪問ルポルタージム
赤瀬川原平
ハイレッドセンター
阿部展也①
阿部展也②
日本美術史
乾山焼と光琳(江戸文化)
佐藤玄々(近代彫刻)
広重と北斎の東海道五十三次(江戸文化)
村山槐多・真実の眼・ガランスの夢(近代洋画)
藤川勇造(近代彫刻)
鳥獣戯画とアニメ(現代)
美術評論
あいちトリエンナーレ 「表現の不自由展・その後」中止について
ものとモノのあいだで
垂直の時間
奈良原一高
建築から環境へ
新しいテクノロジーによる作品と美術館
沼田居小論
西洋美術史
オシップ・ザッキン
ジャンヌ・アルプ
ナウム・ガボ
ナウム・ガボの彫刻
写真の起源
日本写真史における初期イギリス写真の意義
神社・寺院関連
墓と葬送の社会史
第1章 市民社会と墓地
第2章 墓地空間
第3章 さまざまな墓制
第5章 祖先祭祀と墳墓
あとがき
異説・国づくりは筑波からと伝わる
神仏習合
山岳仏教と御霊信仰
覚盛上人770年御忌
飛騨の円空
古墳時代後期・飛鳥時代
「古の日本(倭)の歴史」
https://www.yasutarofujita.com/
(平成31年1月14日公表)を情報の組織化という形で個人的に編集したものであり、その著者の藤田泰太郎氏はこの編集作業に一切関与していない。■古墳時代後期・飛鳥時代
藤田 泰太郎
1.古墳時代後期(6世紀、継体天皇~崇峻天皇)
継体天皇(けいたいてんのう、450年?〈允恭天皇39年〉 – 531年3月10日?〈継体天皇25
年2月7日〉)
は応神天皇の5世孫であり、父は彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ、生没年不詳)である。
近江国
高嶋郷三尾野で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である
越前国
高向で育てられて、男大迹王(をほどのおおきみ)として5世紀末の越前地方を統治していた。
506年に武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、
大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人
らが協議して、越前にいた
男大迹王にお迎えを出した
。男大迹王は心中疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかい,あら
こ
)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめてから
即位の決心
をした。
翌年、河内国樟葉宮(かわうちのくすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。継体は、即位19年後の526年、ようやく
大倭
(おおやまと・後の大和国)
に都を定める
ことができた。(百済本記を基にして
継体紀から
年号が定まる
。また、継体天皇は直接に以降の皇統に繋がることが確認されている。)
継体天皇6年(512年)、
大伴金村
は、高句麗によって国土の北半分を奪われた
百済
からの要求を入れて
任那4県を割譲
し、
百済と結んで高句麗、新羅に対抗
しようとしたが、かえって任那の離反、新羅の侵攻を招いた。
527年
、ヤマト王権の
近江毛野
は
6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
。この計画を知った
新羅
は、筑紫の有力者であった
磐井
へ贈賄し、ヤマト王権軍の
妨害を要請
した。
磐井
は挙兵し、火の国(「肥の国」ともいう。現在の長崎、佐賀、熊本の3県を含む地域)と豊の国(豊前国と豊後国)を制圧するとともに、
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
、近江毛野軍の進軍を阻んで交戦した
。
継体天皇
は
大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人
らに将軍の人選を諮問したところ、
麁鹿火が将軍に任命
された。
528年
、
磐井軍
と
麁鹿火
率いる
ヤマト王権軍
が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、
磐井軍
は敗北した。その後
531年
、継体天皇は皇子(
安閑天皇
)に譲位し、その即位と同日に崩御した。
『
百済本記
』では、天皇と皇子が同時に亡くなったとし、政変で
継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆
している。
継体陵とされる今城塚古墳
からの出土と思われる
阿蘇ピンク石(当時石棺に使用)が発
見
されている。
大伴金村
は、安閑、宣化、
欽明天皇の時代
にも
大連として権勢を保ち
、
屯倉(
みやけ・ヤマト王権の支配制度の一つの設置
)
などに励んだ。しかし、欽明天皇の代に入ると天皇と血縁関係を結んだ
蘇我稲目が台頭
し、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(
540年
)には
新羅が任那地方を併合
するという事件があり、
物部尾輿(
もののべ の
おこし
)
などから外交政策の失敗(先の
任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったこと
など)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退した。
雄略朝以来、
倭は百済と同盟関係
にあり、
高句麗の南下
と高句麗の影響を受けた新羅の侵攻に対抗してきた。
512年
、
倭国は任那4県を百済に割譲
した。また、
513年
、
百済より五経博士が渡来
、
538年
、
百済の聖名王により仏教が公伝
した。古墳石室も竪穴式石室に代わって、
朝鮮風の横穴式石室が主流
となった。
554年
、
聖名王が新羅で戦死
する。そしてついに、
562年には任那が新羅によって滅亡させられる
。かくして、古来(縄文時代前期)より維持してきた
南韓の倭国の領土をすべて失う
ことになる。このことは、任那・伊都国連合の出自と思われる崇神・応神天皇を掲げる皇統にとり由々しき事態であり、
ヤマト王権は、任那滅亡以来、度々任那の回復を図るがことごとく失敗した。
6世紀半ば
に大陸から伝わった
仏教を受け入れるかどうか
を巡り、
反対(排仏)派
の
物部尾輿
と、
導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目
が争った(
崇仏論争
)。
552年
、百済の使者から仏教の説明を受けた
欽明天皇(29代)は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」
と問うたところ、
蘇我稲目は賛成
し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば
国神の祟りを招く」と反発
した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、
尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てた
という。
第2段階は
585年
、稲目の息子にあたる
馬子は寺院を建立
し、仏像を祀っていたが、疫病が流行したため、
尾輿の息子
にあたる
守屋が敏達天皇(30代)に仏教受容をとりやめるよう進言
。
馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる
。
用明天皇(31代)即位後
も
両氏は仏教を巡って対立
するが、やがて諸豪族を率いた
馬子
が守屋を討ち滅ぼし(
衣摺の戦い
)、寺院の建立も盛んに行われるようになった。これ以後、邪馬台国以来権力を振るった。物部氏も権勢に陰りがみられるようになり、
蘇我氏の全盛が始まる
。
戦い後、馬子は
泊瀬部皇子
を皇位につけた(
崇峻天皇・すしゅんてんのう・32代
)。この間、
581年
には、中国は
文帝により長い分裂の時代を終えて再び統一
され、国号を
隋とし中央集権体制
をひいた。
崇峻天皇は傀儡で政治の実権は馬子
が持ち、これに不満な天皇は馬子と対立した。
592年
、
馬子
は
東漢駒
に
崇峻天皇を暗殺させた
。その後、馬子は
豊御食炊屋姫
を擁立して皇位につけた(
推古天皇・33代
)。
天皇家史上初の女帝
である。
▶︎
飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭、推古天皇~元明天皇)
聖徳太子
(しょうとくたいし、
574
年2月7日〈敏達天皇3年1月1日〉- 622年4月8日〈推古天皇30年2月22日〉)または
厩戸皇子
(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、
厩戸王
(うまやとおう)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
「聖徳太子」は、後世の尊称ないし諡号である
推古天皇
を中心とした
三頭政治
(聖徳太子
(厩戸皇子)
は皇太子となり、
蘇我馬子
と共に天皇を補佐)が始まり、
天皇を中心とした中央集権体制を目指した
。
593年
、太子は
四天王寺を建立
する。
</3>
594年
、
仏教興隆の詔
を発した。
595年
、
高句麗の僧慧慈が渡来
した。馬子は日本最初の本格的な伽藍配置をもつ
飛鳥寺
を建立する。
慧慈(えじ、? – 推古天皇31年2月22日(623年3月31日))は、飛鳥時代に
高句麗
から渡来した僧。 推古天皇3年(595年)に渡来し、
厩戸皇子の仏教の師
となった。 仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)
法興寺
(蘇我善德が寺司、現在の
飛鳥寺安居院
)が完成すると百済の僧
慧聡
と住し、ともに
三宝の棟梁
と称された
。
598年、隋が高句麗に侵攻
。
600年
、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。
601年
、太子は
斑鳩宮を造営
した。
602年
、再び新羅征討の軍を起こした。
斑鳩宮(いかるがのみや)は、厩戸皇子(聖徳太子)が現在の
奈良県生駒郡斑鳩町
に営んだ宮殿。 日本書紀によると
厩戸皇子
は、推古天皇9年(601年)に
斑鳩宮を造営
し、推古天皇13年(605年)に
移り住んだ
。 また、皇子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(
法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺
)が建立された。
同母弟・
来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めた
が、
来目皇子の死去
のため、遠征は中止となった。
603年
、
冠位十二階を定めた
。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、
天皇の中央集権を強める目的
であった。
604年、十七条憲法を制定
した。
来目皇子(くめのみこ 生没年 : ?~603)・・・
用明天皇
を父とする。
聖徳太子の同母弟
。推古10(602)年、新羅遠征の将軍となり、二万五千の軍勢を率いて筑紫の島郡に行き、そこで船舶を集め出征の準備をした。しかし、来目皇子は推古10(602)年に病に倒れ、翌年筑紫で没した。周防の裟婆(さば)で殯(もがり)が行われ、山口県防府市の桑山の山頂には殯(もがり)のあとにつくられたとされる塔ノ尾古遺跡が残されている。 久米寺は、推古天皇の眼病全快を感謝して来目皇子が建立したと伝わる。
607年、小野妹子と鞍作福利を使者とし随に
国書
を送っ
た。翌年、
返礼の使者
である
裴世清
が訪れた。
607年、太子は法隆寺を建立
する。
鞍作 福利(くらつくり の ふくり、生没年不詳)は、飛鳥時代の通事(通訳)である。姓は村主。
鞍作止利
の子とする系図がある
裴世清(はいせいせい、生没年不詳)は、6世紀後半- 7世紀前半の中国隋代・唐代の官吏。 隋の煬帝による命令で
俀國(倭国)を訪れた使者
として名が知られている。
612年
、
隋の煬帝
、高句麗に遠征するも敗退。
618年
、
李淵
が隋の煬帝を殺害し、
唐を建国
。
620年
、太子は馬子と議して
『国記』、『天皇記』
などを選んだ。
622年、太子は斑鳩宮で倒れ、そのまま逝去
。皇極の御代になると、
蘇我氏の専横
が目立つようになる。
蘇我蝦夷は入鹿を勝手に大臣にする
。
642年
、百済が新羅の諸城を攻める。
643年
、
新羅が唐に援軍を請う
。同年、
入鹿
は蘇我氏と対立してきた聖徳太子の子、
山背大兄王を斑鳩に襲撃した
。
王
は、自分の挙兵によって戦が起き、人々が死ぬのは忍びないとして、
自害
。この事件により蘇我氏の権勢はますます高まり、
蝦夷の横暴と若い入鹿の強硬な政治姿勢
に次第に朝廷の中で孤立を深めていった。
645年、中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する(乙巳の変)
。蘇我蝦夷は自殺し、蘇我本家が滅亡。
翌646年
、
中大兄
皇子は難波の宮で改新の詔を宣する(大化の改新
)。 薄葬令、品部廃止の詔が出される。646年、
冠位19階を制定する
。
653年、遣唐使を送る
。中大兄皇子、幸徳らを
難波宮
に残し、
飛鳥に移る
。
658年、唐が高句麗へ派兵
。
660年
、
唐・新羅が百済を滅ぼす
。
661年
、中大兄皇子が称制す。
663年、百済復興を目指
し
、
新羅軍を撃破すべく2万7千の軍を派遣する
も、
唐軍に白村江の戦で大敗する(百済の役)
。
664年
、
冠位26階を制定
.
兵士・民部・家部の制「甲氏の宣」を施行
。
唐の使者
郭務悰が来日
。
対馬、壱岐、筑紫
に
防人を配置
し、
筑紫に水城を築き
、
唐・新羅の来襲に備える
。
667年
、
中大兄皇子、大津の宮に遷都
。
唐・新羅が高句麗へ侵攻
。
668年、
天智
が即位。
高句麗が滅亡する
。
670年、全国的に戸籍を作る(庚午年籍)
。
671年、近江令を施行
.
太政官制開始。天智天皇没する。
672年
、古代日本最大の内乱である
壬申の乱が起る
。天智天皇の太子・
大友皇子
に対し、皇弟・
大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたもの
である。反乱者である
大海人皇子が朝廷軍に勝利
し
大友皇子が自殺
という、類稀な内乱であった。
翌673年
、
天武天皇(
大海人皇子
)
は
飛鳥浄御原宮
で即位し、唐に対抗できる国家体制の確立を図る。
681年
、
飛鳥浄御原令の編纂を開始
し、
草壁皇子を皇太子
とする。681年、『帝紀』『旧辞』などの筆録・編集開始(『日本書記』)の詔。「禁式92条」の制定。日本および天皇の称号を用いる。
藤原不比等
、
天武・草壁を補佐
。
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。 令22巻。 律令のうち令のみが制定・施行されたものである。 日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多い。
684年
、
天武天皇
が後の
藤原京
を巡行、
八色の姓の制定
。
685年
、四十八階冠位制を施行。
686年
、
天武天皇が没する
。
689年
、草壁皇子が没する。
690年
、
持統天皇が即位する
。飛鳥浄御原管制を施行。戸令により庚寅年籍を作る。
694年
、
藤原京へ遷都
。
696年
、高市皇子が没する。
697年
、持統天皇が譲位し、
文武天皇が即位
。
701年、大宝律令を施行
。
703年
、持統が没する。
707年
、
藤原不比等
の官僚として活躍を認め200戸の封土を与える。文武天皇が没し、
元明天皇が即位
。
710年、
平城京に遷都
。712年、
太安萬侶(おおのやすまろ)が『古事記
』を献上。
太 安万侶(おお の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は安麻呂とも記される。姓は朝臣。小錦下・多品治の子とする後世の系図がある。官位は従四位下・民部卿、贈従三位。『古事記』の編者。
713年
、諸国に
『風土記』の編纂
を命じる
。
奈良時代初期の官撰の地誌。
元明天皇の詔
により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。
714年、
首皇子が立太子になる。
715年
、元明天皇が譲位して、元正天皇が即位。
718年
、
養老律令が完成
。
720年
、
舎人親王らが『日本書記』を奏上
。藤原不比等没する。
721年
、元明天皇が没する。
724年
、元正天皇が譲位し、
聖武天皇が即位
する。
▶︎ 飛鳥・白鳳文化の開化と日本の国家体制の確立 と都城の建設
倭国は百済と同盟関係を組み
、高句麗の南下とその影響を受けた新羅の侵攻に当たり、
512年には百済に任那4県を割譲した
。また、
538年、百済の聖名王
により
仏教が公伝した
。しかし、
554年、聖名王が新羅で戦死する
。ついに、562年には任那が新羅によって滅亡させられる。
658年、唐が高句麗へ派兵
。
660年、唐・新羅が百済を滅ぼす
。さらに667年、唐・新羅が高句麗へ侵攻。
668年
、
高句麗が滅亡する
。
この任那、百済さらに
高句麗の滅亡
により
南韓の倭人の帰来、仏僧・知識人・工人が倭国に避難、渡来した
。かくて、
推古朝を頂点として大和を中心に仏教文化の飛鳥文化が開花
した。
飛鳥文化の時期は、一般に仏教渡来から大化の改新
までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた
中国大陸の南北朝の文化の影響を受けた、国際性豊かな文化でもある。
多くの大寺院が建立され、仏教文化の最初の興隆期であった。
それに続く、
白鳳文化
とは、
645年(大化元年)の大化の改新から710年
(和銅3年)の
平城京遷都までの飛鳥時代
に華咲いたおおらかな文化
であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表されるものである。なお、白鳳とは『日本書紀』に現れない元号(逸元号などという)の一つである(しかし『続日本紀』には白鳳が記されている)。
天武天皇の頃
には使用されたと考えられており、
白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
ヤマト王権
は大化の改新以降、強大な唐に対抗できる国家体制を確立しようとした。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令で初めて国家体制を敷いた重要な時期と重なっている。
681年、天武は『日本書記』の編纂開始の詔
を出し、日本および天皇の称号を用いた。日本は任那の同義語であり、ヤマト王権は天皇家の故地である任那の滅亡にともなう新しい時代に対応して、国家的自立と自負を表明するため、‘任那’の栄光の記憶を復活し、しかも‘日の御子’の治める国にふさわしく‘日本’という国号を立てたのではあるまいか。
天武朝
では新しい国家の首都である
藤原京が造営が始まった
が、この宮が日本で最初の都市といえる。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から
3代の天皇(持統・文武・元明)
に続けて使用された宮となったことが大きな特徴としてあげられる。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられる。
藤原京は宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設
となった。藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年に審議が始まり、
708年には元明天皇により遷都の詔が出された
。唐の都「
長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造
され、
710年に遷都
された。
さらに、
712年、『古事記』
、
太朝臣安萬侶によって献上さる
。
720年
、舎人親王らにより日本の正史である『
日本書記』が奏上される。
Top