前方後円墳と外来系文化

■前方後円墳と外来系文化

 1980年代、姜仁求(カンイング)の意欲的な踏査により、韓半島の各所に前方後円形の古墳が存在するとされた。しかし測量調査や発掘調査などにより、その多く否定され、現在日本列島との関係が確実視される前方後円墳の分布は、栄山江流域を中心とする全羅南道と一部の全羅北道地域に限られている。今後新しい古墳が発見される可能性は大いにあるため、分布域が多少変動することも考えられるが、その中心が全羅南道地域であることは変わらないであろう。

 現時点では十数基の存在が確認されており、測量調査、発掘調査が実施されたものも多い。その結果、従来は候補であったものが実際には前方後円墳でないと判明することもある。前方後円墳は絶対数が少ないため、一つ一つの存在窒体の評価や解釈に影響を与える比重は大きい。それ考えるとむしろ疑わしいものは数に入れないという姿勢が望ましいのではないか。

 栄山江流域の考古資料でさらに重要なのは、前方後円墳という古墳そのものに加え、様々な日本列島系の要素が在地系の文化に混じってみられる点である。後述するように、その種類は古墳に伴う横穴式石室や円筒形土器(埴輪形土製品)を含め、副葬品としての馬具、甲冑、大刀、集落から出土する須恵器、祭祀遺跡から出土する子持勾玉(こもちまがたま)などの祭祀遺物に至るまで多岐にわたる。また、日本列島から持ち込まれた須恵器以外に、須恵器を模倣して現地で製作されたと考えられるいわゆる須恵器系土器も在地の土器として定着しており、羅州五良洞(オリャンドン)遺跡などで窯跡も調査されている。

 以上のような状況から、栄山江流域は他と異なる独自の伝統的墓葬制を維持しながらも、特に日本列島勢力と深いつながりを持っていたようにみえる。実際に従来の研究でほ、百済と日本列島(ヤマト王権)との交流を論じる際に、栄山江流域や九州地方の集団が中継的役割を担ったとの解釈も提示されている。ただし、栄山江流域の遺跡では日本列島系の遺構・遺物のみが発見されるわけではない。百済や日本列島以外の様々な地域の文物も搬入されている。諸地域の結節点としての栄山江流域の性格とともに、この地域の集団が積極的に外部の文物取り入れ、それにょって諸外国との関係維持に努めていた状況もうかがえる。

▶︎存否論から始まった論争

 このような地域に前方後円墳は造られた。伝統的な墓制の変遷のなかに組み込むことができず、特定の時期に独立した展開をみせる山江流域の前方後円墳をどのように評価すべきか、以下にみていきたい。伝統墓制の展開から切り離された前方後円墳の本質を正確に把握するためには、特異な墳形だけでなく、その他の特徴や古墳が造られた周辺の状況も合わせて評価する必要がある。様々な観点が示されている栄山江流域の前方後円墳の存在意義に対して明確な結論を下すことはできないが、議論の糸口となる基礎情報を提示することにより、改めて問題点を整理してみよう。

 韓国の前方後円墳に関わる論争ははや日韓の考古学史を彩る一つの主要テーマといっていい。その主題は、存否論争、起源論争、被葬者論争に整理できる。発掘調査の進展により、これらの論争のうちのいくつかはすでに解決されている。

 韓半島に前方後円墳があるのではないかという意見は、日本の植民地時代の羅州津南古墳群に対する調査によって、墳丘や出土遣物から「倭人の墓」であると指摘されたことに端を発し、1970年代初めにも韓国の研究者によって扶除地域にその存在が指摘されている。しかしこれらの存在はその後、陰に陽に否定され、その後の議論にはつながっていない。

 今日に続く韓半島前方後円墳論に先鞭をつけたのは、先にも触れた姜仁求(カンイング)による各地の古墳探査である。その際に前方後円墳である可能性が指摘された羅州新村里6号墳、霊岩内洞里古墳、務安社倉里古墳、威安末伊山16・22ロち墳、高霊本館洞古墳などほすべて誤認であったが、慶尚南道固城松鶴洞1号墳(舞妓山古墳)が前方後円墳であるか否かに関しては、特に日本の研究者の間で学術的議論を逸脱しそうなほどの論争がおこなわれた。論争の当事者のほとんどはすでに鬼籍に入られている。発掘を経ていない段階で、この古墳が前方後円墳であることの「是」と「非」を唱えた両派の研究者は、それぞれの学問的スタンスのみならず、韓国考古学界および韓国との個人的関係や距離感こ応じて自説を展開していたような印象さえ受ける。その意味で、韓国との個人的関係や距離感に応じて自説を展開していたような印象さえ受ける。その意味で、この論争に決着をつけるた芝は、発掘によって客観的資料が提示されるのを待つしかなかった。

 後述するように、松鶴洞1号墳はその後、発掘調査がおこなわれ、報告者によって「前方後円墳ではない」という結論が出された。激しい論争の舞台となった古墳は「非」前方後円墳との評価が下されたわけである。その間にも、仁求は栄山江流域において前方復円形の古墳を見出し、海南(ヘナム)の方山里古墳(パンサンニ・長鼓峯・チャンゴボン・古墳)や龍頭里(ヨンドゥリ)古墳霊岩チャラボン古墳などの測量や発掘調査をおこなっており、前方後円墳の存在を確定させる上で貢献している

 こうして1980年代を中心に議論された韓国における前方後円墳の存否は、その後、栄山江流域で10基を超える前方後円墳が確認発掘されるに至り、その存在自体を否定する見解はなくなった。韓国では、日本列島の古墳とは区別するべきであるという立場から、あえて「前方後円墳」という呼称を用いない研究者もいるものの、これらが日本列島との関係において理解されるべきものであることはみとめられており、その関係がどのようなものであったのかという点に議論の比重は移っている

▶︎日本列島の前方後円墳の起源?

 ここでいう起源論争とは、日本列島の前方後円墳の起源が韓半島にあるのかどうかという議論ことである。かつてその起源を高句麗の積石塚などに求める説があった。現在の北朝鮮にあたる鴨禄江流域の慈江道松岩里(ジャガンドソンアムニ)古墳群雲坪里古墳群などの高句麗積石塚には、円形の石積み方形部を造り付けたような形態のものが存在する。年代的にも日本の古墳の出現より200年ほどさかのぼることから、それらを日本の前方後円墳の源流と考えるのである(全浩天『前方後円墳の源流・!・高句麗の前方後円形積石塚』未来社、1991年)。

 このほか、前述した礼徳里寓家村(イェドンニマンガチョン)などのイモムシ形の棺墳丘墓が、日本の前方後円墳の源流になったという説もみられた。不定形の甕棺墳丘墓の築造集団が日本列島に渡って、前方後円形の墳丘を持つ古墳を完成させ、その後栄山江流域に里帰りして前方後円墳を築造したとする説であった(林永珍(イムヨンジン)「光州月桂洞の長鼓墳二基」、韓国考古学会、1994年)。

 日本の前方後円墳の起源が韓国にあるであろうことと、栄山江流域の前方後円墳築造の時期が日本のものよりさかのぼらないことを合理的に説明しょうとした説であるといえる。しかし、多葬を基本とする聾棺墳丘墓と日本の前方後円墳では墓の機能からして本質的に異なることもあり、論者はこの説をすでに撤回しているようであるため、過去の研究史の一部として扱うべきであろう。

 一方、姜仁求(カンイング)もみずから前方後円墳と認定した多くの古墳を、日本列島の前方後円墳の起源として位置づけた。あるいは日本列島の前方後円墳の起源を韓半島内に求めること自体、古墳探索の一つの動機であったのかもしれない。そのうちの多くは前方後円墳とは関係のない在地系の古墳であることが明らかになっているが、チャラボン古墳に関しては、前方部が極端に小さいという形態的特徴から、日本の前方後円墳よりも時期が古い確実な例として発掘調査がおこなわれた(姜仁求(カンイング)「チァラボン古墳』韓国精神文化研究院、1992年)。

 現在、韓半島の前方後円墳で発掘調査が実施されたものは多い。緊急確認調査を含め、埋葬施設まで確認されたものは高敵七岩里古墳、霊岩チャラボン古墳、威平馬山里1号墳、威平新徳1号墳、光州明花洞古墳、光州月桂洞1・2号墳、海南龍頭里古墳、海南方山里古墳など、全体の半数以上に上る。埋葬施設や出土遺物から、いずれも五世紀後半〜六世紀前半の時間幅から逸脱するものではなく、特に六世紀前半に築造されたものが大部分であると判断される。少なくとも、これらが日本列島の出現期の古墳よりはるかに遅れることは明らかであり、栄山江流域の前方後円墳が日本の古墳の起源になることはありえない。日本列島内において弥生墳丘墓から前方後円墳への連続性が確認できるかぎり、その起源をあえて外部に求める必要はないといえよう。