飛騨の円空

■飛騨の円空・・・その活動の一端に関する試論

浅見龍介(東京国立博物館)

▶︎ 円空の飛騨来訪に関する従来の説

 円空は、故郷の美濃をはじめ、尾張、飛騨に多くの仏像を残している。現存するもっとも古い仏像は棟札から寛文3年(1668)32歳の作と知られる現在の郡上市美並町根村の神明神社にある天照大神坐像阿賀田大権規坐像神像の三体である。

棟札(むなふだ、むねふだ)は、寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、棟木・梁など建物内部の高所に取り付けた札である。

 寛文6年(1666)35歳には北海道に渡り、このころ道南および東北で造った仏像が50体以上残っている。その後は関東、中部、北陸などを巡り、西は近畿まで足跡が知られる。ここで問題にするのは飛騨である。故郷美濃の隣国であるが、円空が訪れたのは晩年とする意見が多い。その根拠は、千光寺所蔵の弁財天坐像(9)厨子扉に朱漆で善かれた次の銘文である。(挿図1)

奉寄進弁財天女御厨子
現世安穏後生善生衆人愛敬所願成就祈修
貞享二年五月吉祥日 川原町針田屋 八右衛門
成田三体内  平吉

 しかし、この銘文は貞享2年(1685)54歳に厨子が寄進されたことを示すだけで、円空が追ってすぐに寄進されたとは限らない。このほかにも貞享3年に円空が飛騨にいた証拠とされる資料がある。(挿図2)

薬師如来 奉掛鰐口板戸村中寄進 貞享三年六月吉日 川原町錦屋伝四郎

 板殿薬師堂(いたんどやくしどう)にある鰐口(わにぐち・仏堂・神殿の前に掛け、つるした綱で打ち鳴らす道具。銅または鉄で作り、平たい円形で中空。下方に横長の口がある)に陰刻された銘文である。円空作の薬師如来立像(36)があるので、造った時にあわせて寄進されたものなら、貞享3年に円空が滞在した証拠となるが、断定できる文言はないのでこれも根拠にならない。高山市の個人所蔵厨子に記された銘文も同様である。

貞享三丙寅年三月 円空自作 小人賀郷板殿村 願主忽次郎

 現在この厨子に納められている像は円空仏ではないとのことである。かつてはあったのかもしれないが、この銘文も忽次郎という人が厨子をこの年に造ったということ以上の証拠にならない。しかし、これだけまとまるとなぜ関連資料が貞享に多いのかという理由も問題になる。その理由は不明だが、貞享2、3年ころ円空が飛騨に滞在した可能性は考えるべきだろう。円空没後に編纂された地誌『飛州志』にも貞享末年に円空が飛騨の某寺で語ったとすることばが記されている

 次に、飛騨にいたことを示すのは、桂峯寺・十一面観音菩薩立像(39)今上皇帝立像(40)背面の元禄3年(1690)59歳の銘で、一具で伝来した善女龍王立像(41)も同時の作と見られ、この年に飛騨の地にいたことは確かだろう

 以上のとおり従来貞享2年頃と元禄3年頃に円空は飛騨に滞在したと考えられてきた。そして銘文がない像はすべてこのいずれかの時期の作と捉えられてきたが、根拠は示されていない。像の作風、制作技法などの特徴を観察して制作時期を推定することができれば、円空がいつ飛騨に来たか、もう少し確かな展望が開ける可能性がある。

▶︎円空、延宝来訪説の検討

 

 『飛州志』の円空に関する記述では、「何レノ年本土二人ツテ深山二居レルヤ。凡延宝ノ頃、山中ノ民始メテ是ヲ見タリ」と記されている。『飛州志』は享保13年(1728)幕府直轄領である飛騨国の代官となった長谷川忠崇が編纂した地誌である。最初の調査は円空没後40年ほどから始められた、円空に関するもっとも早い記録である。「山中ノ民」への聞き取り調査で「およそ延宝ノ頃」という回答があったのだろうが、傍証はない。谷口順三氏は延宝ころの作風を示す金山町所在の地蔵菩薩像を挙げている(谷口順三「飛騨の円空仏」『円空研究』4、人間の科学社、1975年)。台座の特色ある形が、寛文9年(1669)に造られた関市武儀町雁曽礼の白山神社の像に共通するので、この像が当初から飛騨にあったとすれば寛文から延宝初年に円空が訪れた証拠になる。ただし、谷口氏がそれに続けて挙げる像はいずれも高さ6㎝程度の小像で、この大きさの像はあまり作風に変化がなく、根拠にはならない。また、金山は高山よりずっと南で、美濃、尾張に近い

 ここで注目すべきは東山白山神社の如意輪観音菩薩坐像(上図右)である。この作品で円空は左手先、両足先を表わさないが、両足先を重ねること、左手は膝の後方で地面につくことは衣を通してうかがわれる形から明らかである。さらに、右手の親指を少し曲げ、小指の先を少し反らせる繊細な表現が見られる点は特に注目すべきである。また、顔の聖跡が細かく、後期の作品に見られるようなざっくりした租さはない。

 耳は耳輪と対耳輪が表わされ(挿図3・4)、台座の蓮弁に縦の線を密に刻む点も北海道、東北の像に酷似する。からだは聖跡を渡って表面を滑らかにし、像底は台形で、像の奥行きは薄く、背面は平整の跡が平行になるように削る点も、秋田県能代市の龍泉寺の十一面観音立像と共通する(挿図5・6)。


 この像と同様の如意輪観音坐像三重県いなべ市の東林寺(上図4点)にある。しかし東林寺像はからだの表面に聖跡が残り、衣文や頭髪の彫りなどに租さがあり、思惟手指先の細やかな表現もない。おそらく東山白山神社像より制作時期が遅れると見られる。三重県での円空の造像は延宝2年(1674)43歳にまとまっている。東林寺像がこの時の作とすれば、東山白山神社像は寛文9年(1669)38歳から延宝元年(1773)42歳ころの作である可能性が高い。

 飛騨国分寺の弁財天立像(上図左)は顔が東山白山神社の如意輪観音坐像によく似ている。眉の曲線まっすぐの目笑みを含む口などの形がきわめて近い。像底は方形で像の奥行きは薄く、背面の墓跡は目立たないが平豊で削る。からだは衣で覆われるが、墓跡は目立たず、全体に衣文を刻む点も類似しており、近い時期の作と見られる。

 素玄寺の不動明王立(上図右)像底が方形、奥行きが薄く、背面は平鑿で削る。そして両腕とからだの間、剣とからだの間を彫り透かす。背面では腕の形だけでなく、胸から腰に至るからだの線も表わしている。これも近い時期の作である可能性がある。

 東山神明神社の柿本人麿坐像(上図左)立体感の表現が東山白山神社の如意輪観音堂像によく似ている左手を膝の後ろにつくような姿勢が共通するが、愛知県・荒子観音寺、愛知県・願成寺(二体)の人麿像(上図右)はその表現が明確ではない。そして神明神社像は衣の身頃と袖が明瞭に段差で表わされているが、ほかの三体はそれがない。さらに神明神社の人麿像はほかの三体と比べると、顎ひげを下に伸ばさず、顎の下に線刻するだけであることが異なる。顔が損傷して表情がわからない願成寺の一体は別として、神明神社の顔と他の二体の顔は表情も異なる。神明神社像は翁面の目のように目頭が少し下を向き、一度曲がって目尻に至る形に特徴があり、そして口端を上げて笑顔を作る。ほかの二体の目はゆるやかに湾曲し、口は一文字に結ばれている。荒子観音寺と願成寺の三体は相近い時期に、東山神明神社像はこれとは異なる時期に造られたと見られる。そしてその時期は東山白山神社の如意輪観音坐像に近い時期と考えるのが妥当だろう。

 以上のように、東山白山神社・如意輪観音坐像の制作は作風と制作手法の特徴により、寛文末年から延宝初年と見られ、それが正しければ円空がこの時期に飛騨に来た証拠となるそしてこれと近い作風を示す飛騨国分寺・弁財天立像、東山神明神社・柿本人麿坐像、素玄寺・不動明王立像も同じ時に造られた可能性が考えられる。

▶︎両面宿禰坐像造立の経緯

 円空が寛文末年から延宝年間に飛騨に来たとすれば、千光寺を訪れた可能性も当然考えられる。これまで、弁財天坐像の厨子銘にある貞享2年から3年(1686)55歳まで滞在して千光寺のすべての像を造ったと考えられてきたが、はたしてそうだろうか。特に両面宿禰坐像1)は指の関節や爪など細部まで表現する点に注意すべきで、千光寺の像の中でも異色である。また、円空仏ではめずらしく光背が表わされることも注目すべきである。光背にある渦巻き文は、寛文9年の愛知県・鉈(なた)薬師の十二神将立像に表わされたのが早く、晩年には見られなくなる。さらにこの像の像底は方形で、木心を込めるが、今回の出品作のほとんど(仁王、狛犬などを除く)は木心をはずしており、この点も留意する必要がある。

 全体的な傾向として、円空の作風は、具象から抽象に向かうと言えるだろう桂峯寺の三体に特徴的な割ったままの部分を多く残すつくりは、同じ上宝町蔵柱にある神明神社の神像、千光寺の三十三観音立像をはじめ、各地にきわめて多く見られる。しかし、東北、北海道には見られないので、寛文年間以降のある時点で創造したものであろう。茨城県笠間市の月崇寺・観音菩薩立像は背面に「御木地土作大明神」という銘文があって、円空の出自に関する論議で注目された像だが、延宝8年(1680)49歳の年紀をともなう点でも貴重な作品である。この像が胸前で技手する形で手先も、岩座に立つ足先も表わさない、腕は割り放したままで下半身は鑿で削る、という簡略なつくりの像の早い例である。造形の簡略化は大量に造るという意図のもと行なわれたと考えられる。『浄海雑記』に記される、円空の十二万体造像発願の真偽は不明であるが、千体仏など木端で小像を造った時の造像法をより大きな像にも用いたのは、数多く造るためだろう。両面宿禰坐像はそれとは異なりかなり時間をかけて造ったものと見られる。

 延宝七年48歳に円空が変更したものがある。背面に書く梵字である。小島梯次氏によれば、北海道、東北の寛文年間の像は六種種子、その後金剛界五仏種子に変わり、延宝七年を境に大日三種真言に変わる(小島梯次「円空仏の背面梵字による造像年推定試論」『円空研究』別巻2・総集編、人間の科学社、1979年)。それとともに、梵字の一番上の文字が「イ」から「ウ」に変わる。飛騨にある像で梵字の書かれたものはすべて「」である。これに従えば、両面宿禰坐像も延宝七年以後の作ということになる。両面宿禰は飛騨にいたと伝わる怪物であるが、その特殊な形や伝承から制作の背景をうかがう手がかりがあるので、少し詳しく見ておこう。

 『日本書紀』仁徳天皇六十五年 飛騨国有一人、日宿礫、其為人、壱体有両面、面各相背、頂合無項、各有手足、其有膝而無洞踵。力多以軽捷、左右侃剣、 四手並用弓矢、是以不随皇命、掠略人民、為楽。於是、遣和珂臣祖難波板子武振熊而課之。

 宿禰という名前の人の姿が描写されている。一つの体に二つの顔があり、互いに背を向けて頭の頂は一つだが項がない。各有手足というのはその後に「四手」とあるので、顔一つにつきそれぞれ手足があるということである。ただし膝はあるが膕(ひかがみ・膝の裏の窪み)と踵(かかと)がないというから脚も顔と同様に背面が貼り付いているということだろう。左右の腰に佩(は・身に着ける)き、四本の手まで弓矢を使うという。この異形の怪物が天皇の命令に従わず、人々を苦しめたので武振熊(たけふるくま)を遣わして征伐したというのである。

 おそらく五世紀ころの飛騨の豪族が大和朝廷に帰順しなかったことを反映した説話と考えられている。ここで問題は、円空が像を造る際に何に基づいたかということである。『日本書紀』の記述と比べると、顔が横に並び、足は四本に見えず、手に弓矢ではなく斧を持、そのほかの二手は印を結ぶ、というように大分異なる。円空は三重県菰野町(こものちょう)の明福寺に阿弥陀如来と薬師如来が背中合わせになった両面仏を造っているので、『日本書紀』の記述に忠実に造ることもできたはずである。それをしなかった理由は二つ考えられる。一つは『日本書紀』を見ずに別の資料に拠った可能性、もう一つは『日本書紀』を見てはいたが忠実に造らなかったという可能性である。円空が千光寺を訪れたときに確実に目にしたものとして「千光寺記」がある。その両面宿健に関する記述を引用する。(挿図7)

 東山道飛駄ノ国大野郡小人賀郷出/羽平山上有窟、石巌苔滑万木生茂異/干他所也、従此巌宿傑出現也、御長十八丈、/一頭両面四肘両脚、足指前後出也、着甲田/帯兵杖二手結印、是則救世観音化身也

 元和7年(1621)11月の奥書玄海の署名がある。千光寺永禄7年(1564)武田軍の攻撃を受けて焼失したといい、その後天正16年(1588)難を逃れて信州にいた玄海亮輝を高山藩主金森長近が呼び戻して再興させた。それはともかく、ここには両面宿禰が出現した(両面窟)救世観音の化身という『日本書紀』にはない話が加わっている。これが『日本書紀』とは全く別に飛騨に伝わっていた話ではないことは、仁徳天皇の頃ということが一致する点から明らかである。

 円空の像は「千光寺記」足指が前後に出る、甲胃を着けるという点を採用していない。甲冑は省略したと考えられ、坐像にした時点足指の表現も切り捨てたのだろう。「千光寺記」の記述にない斧を持たせ坐像にしたのはなぜだろうか。「千光寺記」以外に円空が参照する資料があっただろうか。現存する資料を見てみよう。

 

 宿禰が住んだと伝える窟(両面窟)に近い丹生川町日面の善久寺に伝わる「斐太国小人賀出羽ケ平両面宿灘大菩薩出現記」(以下「出現記」とする)は「千光寺記」にさらに物語を加えたものである。両面宿禰の姿に関する記述は「長一丈八尺竜頭両面四手両脚身にて甲冑を若し兵杖を帯び、二手には斧お持ち、一方の二手には印を結んで、宿禰と云う化相の物、忽然として出現せり」とあり、二手に斧を持つという記述が注目される。しかし文末に「一度一度参詣せられよ」と記すなど書きぶりから円空よりだいぶ下った時期の資料と思われる。善久寺両面宿禰立像の手は一方合掌、他方は印を結ぶとも失を持つ形とも見える腕にそれぞれ斧を置いている。しかし、非常に不自然で、当初からの持ち物とは考えられない。従って「出現記」は斧を置いた後、つまり善久寺両面宿禰立像の制作よりも遅れる時期の成立と考えられる。そして善久寺の像はその硬直した作風から江戸時代後期の作と見られるので、「出現記」、彫像ともに円空より後の時代のものと見られ、円空がこれを参照したとは考え難い。

 関市下之保の日龍峰寺に伝来する「美濃国武儀郡津保谷下之保大日山日龍峰寺之縁起」には「飛騨国蜂賀の巌窟より両面四手の異人生出せり。其貌夜叉に似たり。身には鎧を帯し、四腎には鉾・錫杖・斧・八角の檜杖、此四物を持し給う」とある。これも「千光寺記」から派生したものだろう。奥書きに延宝5年(1677)46歳の年紀がある。持ち物が大きく変わっており、斧が入っていることが注目される。日龍峰寺の両面宿儺立像江戸時代の作と見られ、二腎は錫杖、鉾を持つのにふさわしく手を上げて高い位置で握っている。持ち物に斧が入っている点が注目されるが、他の持ち物は円空の像と異なる。武儀郡は円空がたびたび訪れて多くの仏像を残しているので、日龍峰寺の縁起を見た可能性はあるだろう。しかし、斧以外の持ち物は採用していないのでこれに基づいたとも言い難い。

 以上のとおり円空の両面宿儺坐像と一致する資料は見当たらず、特に坐像であること、斧を持つことの意味が問題となる。

 前述したように、円空仏にはきわめてめずらしい光背を備えることから考えると、これが円空一人の創意でない可能性もあるだろう千光寺住職の注文による制作かもしれない。両面に顔がある場合、光背は設けられない。一方の顔の正面向きに安置すると反対側の顔は見えないので、横向きに安置する方が効果的ではあるが、そうすると礼拝には不便である。この像が両面とせずに顔を横に並べて光背をつけたのは正面から礼拝することを考えてのことではないだろうか。

 人民を苦しめたと『日本書紀』に記す両面宿儺を開山とした千光寺にとって宿儺は敬うべき対象である。救世観音の化身という話を付加して、『斐太後風土記』の筆者富田礼彦から仏教伝来以前なのに辻棲(つじつま)が合わないと酷評されている。

 それは別として、動物や人を傷つける弓矢ではなく斧を持たせたのは、両面宿儺を飛騨の山の民の祖として位置づけ、斧を持たせるのがふさわしいと考えたからではないだろうか。悪人として記す『日本書紀』に忠実に造る必要もないと円空と住職舜乗が話し合って坐像にしたのかもしれない。しかし超人としての性格を保ち、仁徳天皇の時代にいたことを示すために『日本書紀』の両面四手は継承する必要があった。

 

 現在残る両面宿健の彫像は私見では円空の像より早い作例は見当たらない。伝承も元和(げんな)7年(1621)の「千光寺記」がもっとも古い。現在千光寺に宿儺堂があり、石像が安置されているが、「千光寺記」の全山焼失の記事にその堂の名前がないのは不審である。両面宿儺の伝説がいつ飛騨で普及したのか不明であるが、天正年間の千光寺再興期に両面宿儺を開山とする伝説を創り、流布した可能性があるのではないだろうか。両面宿儺の伝説は飛騨にくまなく残るのではなく、千光寺周辺と千光寺に関連する地域、修験者が往来した土地に限られている。千光寺が両面宿儺伝説の発信元であることはまず間違いないだろう。そして円空の両面宿儺像が入念で、しかも迫力を備えるのは、飛騨の山の民の祖としての宿儺に対する思いの深さによるのではないだろうか。

 [東京国立博物館東洋室長]