ハイレッドセンター

■ハイレッドセンター

 ハイレッド・センター(以後「HRC」と表記)は、第15回読売アンデパンダン展(1963)直後に誕生した。その時点では、翌年の第16回展が中止になることは決まっておらず、読売アンパンの喧騒はまだ完全に終っていなかったが、彼らはすでに「反芸術」とは異なる新しい場所へと向かつていた

 1960年代前半、読売アンパン周辺の作家たちの多くは、アラン・カプローが提唱したような、アクション・ペインティンクからアッセンブリッジ、エンヴァイラメントを経て、ハプニングへと至る流れを期せずしてたどっていた。1950年代末、アンフォルメルの影響を受けたこれらの作家たちの作品も、1960年頃には身のまわりにあるオブジェを組み合わせたアッサンブラージュヘと移行し、さらに1962年頃には、空間を覆いつくすエンヴァイラメント的特質を見せ始めていた。

 一方で1962年ジョン・ケージや小野洋子らの来日にも刺激されて、この頃には日本でもハプニングやイヴェントを行う作家が増えつつあった。この時期の日本の現代美術家たちは、すでにアメリカやヨーロッパの美術に関する情報を断片的とはいえリアルタイムに近いかたちで受容していたが、日本のこうした動きは、アメリカの単純な後追いとは言えない。事実カプローの著作でも、「具体」をはじめ日本人作家の先額的な活動が紹介されていたように、すでに60年代初頭から、日本でもパフォーマンスに対する関心は高かったヨシダ・ヨシエも、日本の芸術家たちが小野洋子のイヴェントに協力し、「なんの不思議もなく受け入れたのは、ハプニング前駆症状に、すでに日本の前衛芸術界が浸っていたからであろう」と述べている。

 いずれにせよ単体の物としての作品形態を突き崩そうとするこのような志向性が、美術館を舞台とする読売アンデパンダン展の運営と齟齬をきたし、同展終了の大きな要因となったことは否めない。1963年にHRCを結成することになる赤瀬川原平、中西夏之、高松次郎も、前年の1962年に、HRCとも言うべきハプニングやイヴェントを行っている。

 8月に国立公民館で行われた《敗戦記念晩餐会》では、ネオ・ダダ系やグループ音楽系の出演者が舞台で晩餐を繰り広げ、様々なパフォーマンスを展開した。3カ月前に草月アートセンターで行われた小野洋子作品発表会に出演していた赤瀬川も、この《敗戦記念晩餐会》に参加していた。直後の10月、中西と高松を中心に、《山手線事件》という都市を舞台にした「直接行動」も行われているが、赤瀬川はこれには参加していない。

 こうしたなか、雑誌「形象』主催の座談会「直接行動の兆」(1962年11月)で、高松、赤瀬川、中西の3人が揃ったことがきっかけとなり、同年5月、HRCの公式活動が始まった。3人の頭文字を英語化して組み合わせたこのグループ名には、当初から行為の匿名性の問題が内包されていた。実際HRCの活動には、3人の合法部員以外にも、途中から加わる第4のメンバー和泉達だけでなく、刀根康尚、小杉武久、風倉匠、川仁宏、今泉省彦、谷川晃一なども参加している。そのなかのひとり谷川は、内科画廊にいたら、《首都圏清掃整理促進運動》に参加するように誘われたと述べており、不特定の作家の参加が意図されていたようである。

 また赤瀬川が和泉と2人だけで制作した印刷物《特報!通信衛星は何者に使われているか!》が、HRCの名前で発表された例からも、このグループにおいて行為の匿名性が強く意識されていたことが分かる。石子順造は、HRCのこのような特質を次のように評している。

 「HRC」は、特別な規約やスローガンをもった組織体ではなく、かなり自由であいまいな集合体だった。そのことは同時に、そこにかかわる各個人の自発性なり自主性を、最大限に確保するやり方でありながら、その時その場の虎接性、貝体性を尊重するものであったと言えようから

 またHRCはイヴェント時にメンバーが背広を着用するとともに、グループ名の入った名刺を用意し、形式ばった文面の案内状や文書を制作するなど、企業や団体を模したような特徴を多く備えてい。彼らは事前に練られた綿密な計画に基づいて、冷静にイヴェントを実行した。

 グループ最初の公式活動は、5月に行われた「第5次ミキサー計画」だった。中原佑介企画により新宿第一画廊で中西の個展を開くというプランが、HRCの最初の展覧会に転じたという。この展覧会の冒頭では、高松の紐、赤瀬川の梱包と千円札、中西の洗濯バサミとコンパクトオブジェが「三人の物品」として提示された。それらは、直前の第15回読売アンデパンダン展における各作家の出品作でもあった。

 この時点ではまだ、オブジェの存在が前面に押し出されていたわけだが、決して単体のオブジェが会場でそのまま提示されたわけではない。例えば赤瀬川の展示では、クラフト紙と麻紐による梱包やボルトで留められた千円札パネルが所狭しと空間を覆い尽くし、その傍らにシェル賞美術展終了後に画廊宛てに返送されて来た彼の絵画の包みがそのまま置かれていた。また中西のセクションとの境界では、赤瀬川の《模型千円札パネル作品》を中西の無数の《洗濯バサミ》が取り囲むという展示も行われた。これらは末期のアンデパンダンにその萌芽が見られた、エンヴァイラメント的空間志向を発展させたものと言えるだろう。赤瀬川自身はこの時期の梱包を、「作品としてあるとはいえ不定形な行為」と評している。実際、ちょうと2年前に赤瀬川が個展「現代の呪物」で行った、作品を等間隔で壁に掛ける伝統的な展示方法と比べると、その違いは歴然としている。

 同月末、内科画廊オープン前の旧宮田内科診療所を拠点に行われた第6次ミキサー計画」では、「三人の物品」は診療所を飛び出して、路上に進出した。言いかえるなら、梱包や洗濯バサミなどの物品を便って、三人は路上で「直接行動」を行ったのである。このとき赤瀬川は、多数の梱包を路上に移動させ、さらに改札口を通ってそれらを新橋駅のホームにまで持ち込んた。現存する写真の大半は、路上や駅のホームに置かれた梱包だけを記録に残しているが、実際にはそれらを移動させる赤瀬川たちの行為と、それに対する通行人や乗客の反応こそが大きな意味を持ったことだろう。またこの「第6次ミキサー計画」のとき、HRCは《物品贈呈式》を行い、今泉省彦と川仁宏に「三人の物品」を贈呈して自由に使わせようとした。結局二人は現れなかったが、この《物品贈呈式》によって、HRCは物品にさらなる匿名性を付加すると同時に、物品自体を放棄しようとしたとも考えられる。

 これ以後、中原佑介企画の「不在の部屋」展や「OFF MUSEUM 展」のように、個々のメンバーが個別に参加した展覧会は別として、グループとしての活動は、公共の場におけるイヴェントなどが中心となっていく。

 翌1964年1月、HRCは帝国ホテルを舞台に《シェルター計画》を実行した。身体計測によって得た招待者のデータをカルテに記録するとともに、6方向から撮影した彼らの写真を使って箱型のシェルターを作ろうというプロジェクトであった。招待者たちは、手袋を持参のうえ、千円札をチケットに入場するなど、様々な儀式めいた行為を指示され、HRCのメンバーも、背広を着て無表情、無言で彼らに応対したという。身体計測を受けた招待者は、AからDまで4サイズあるシェルターを注文可能であったが、大半はおみやげとして用意されたハイレッド缶詰だけを買って帰った。その後注文された小型のシェルターを作ろうとした形跡は残っているものの、結局未完のまま放棄されたらしい。すでにHRCにとっては、物としての作品をつくることよりも、情報としての身体データを収集するという行為自体がより重要になっていたからだろう。

 5月には内科画廊を会場に、展覧会期中ギャラリーを閉鎖する《大パノラマ展》が開催された。「お暇の節は、どうぞおいでにならぬ様、こ案内申し上けます」と案内状に書かれたこのイヴェントでは、本来見せるべき画廊の内側ではなく、画廊の外側すべてをパノラマとして見せようとした。本来あるべき空間の内と外を入れ替えるというこの試みは、少なくとも赤瀬川にとっては、《シェルター計画》のときに販売したハイレッド缶詰のひとつ《宇宙の缶詰》の発想の延長線上にあった。ちなみに最終日にオープニング=クロージングりヾ−ティが開かれ、ジャスパー・ジョーンズが扉の封印を解くと同時に、サム・フランシス、小野洋子、瀧口修造、大岡信なとの招待客が画廊内に足を踏み入れた。

■千円札裁判の展開

 赤瀬川原平は、1963年の第15回読売アンデパンダン展出品作として、当時流通していたB号券千円札の拡大模写《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》を制作した。またちょうどこの頃、個展「あいまいな海について」の案内状に千円札を緑色原寸大で印刷し、現金書留を使って関係者100名ほどに送付した。その後さらなる千円札の印刷を発注するが、印刷所のミスにより、上質紙に黒緑色で刷られた3枚続きの《模型千円札Il》と1枚のクラフト紙に3つの千円札のイメージが並ぶ墨一色の《模型千円札ⅠⅠⅠ》が作られてしまった。のちに赤瀬川は、前者を素材に用いて《模型千円札Ⅰ・パネル作品》を、後者で《模型千円札ⅠⅠⅠ梱包作品》をそれぞれ制作している。

 最終的に原寸大に裁断された《模型千円札》が完成し、結果として4種類の《模型千円札》が存在することとなった。これらはHRC初期に、梱包作品とともに赤瀬川の主要物品として位置付けられ、展覧会で展示されたり、雑誌「形象」8号に付録として綴じ込まれたりした。 ところが1964年1月、赤瀬川は予期せぬ警察からの訪問を受けるとともに、警視庁捜査3課に任意出頭を求められ、取調を受けることとなった。前年末、犯罪者同盟のメンバーが万引きで摘発されたことがきっかけで、模型千円札の存在が警察に知られてしまっていた。摘発されたメンバーが所持していた単行本『赤い風船」あるいは牝狼の夜のなかにあった、吉岡康弘撮影の写真がワイセツ物にあたるとして、神奈川県警戸塚暑が同書発行者の宮原安寿のアパートにガサ入れを行ったところ、赤瀬川の千円札が発見されたのたった。さらに同書奥付にあった印刷所にも捜査の手が回り、不運なことにそこが模型千円札を刷った会社であったため、千円札と同寸大の写真製版原版も発見されてしまった

 ちょうどこの頃、「チ・37号事件」と呼ばれる贋札事件が世を騒がせており、当初警察はこの事件との関連性を疑ったらしい。数回の聴取によって、赤瀬川がこの事作とは無関係であることは明らかになったが、印刷業者とともに書類送検処分を受けることとなった。原寸大とはいえ、租悪な紙に単色で印刷された、裏面がない《模型千円札》は、寺山修二も「赤瀬川原平のニセ札というのは、使用にたえなかった。使用にたえなかったという意味で作品だった」と評したように、明らかにニセ札として使用できるレベルのものではなかつた。

 この聴取期間中、「自称超前衛派の若い画家」が引き起こした「チ・37号事件」との関連が疑われるニセ札事件として朝日新聞紙上でセンセーショナルに報道されてしまう。赤瀬川は2月、「日本読書新聞」に「“資本主義リアリズム”論」を掲載して事件に対する反論を行い、それまで単に「千円札」と呼んでいた印刷物を「模型」と定義することで、それらが「使用不可能」である点を強調した。またハイレッド・センターも、《朝日新聞社抗議イヴェント》を行うとともに、朝日新聞社に抗議文書を内容証明で郵送。加えて「ハイレッド通信』の千円札特集号として、週刊誌の内容と版組を模した『目薬特報」を発行した。

 赤瀬川は、翌年1月より4回にわたり東京地方検察庁に任意出頭を求められたのち、11月になって「通貨及証券模造取締法」違反で2人の印刷業者とともに起訴されてしまう。ニセ札を製造した容疑ではなく、あくまで「紙幣に紛らわしい外観をもつものを」模造したという容疑によってであった。

 1965年11月、時の警察庁長官が「思想的変質者」という不明瞭な言葉を使って、左翼系の不穏分子に対する警戒感を表明した。この曖昧な言葉には、新左翼の運動家だけでなく、犯罪者同盟、ハイレッド・センター、VAN映画科学研究所、現代思潮社グループなど、赤瀬川周辺の芸術家・文化人サークルも含まれていたらしい。赤瀬川も≡形象二8号の「スパイ規約」の末尾に、「対人用、ピストル、最新バズーカ型弾丸腐蝕保証付他設完価談辛勝赤瀬川971−3101」という、新聞の三行広告を模したコラージュを掲載したことがあったが、当時の前衛たちが、このような当局の日から見れば不穏で不可解な活動をおこない、警戒感を持たれていたことも事実であった。

 起訴された当初、赤瀬川は国選弁護人を依頼するつもりだったらしいが、川仁宏の紹介で、公安事件を得意とする杉本昌純弁護士に弁護を依頼した。杉本の勧めもあって、専門的な知識を持つ特別弁護人として、瀧口修造、中原佑介(のち針生一郎を追加申請)を選任した、翌年1月には千円札事件懇談会が発足し、事務局長の川仁宏と、瀧口、中西夏之、高松次郎、今泉省彦が参加。のちに杉本、中原、針生、大島辰雄、石子順造、ヨシダヨシエ、刀根康尚、羽永光利らも同会に加わった。事務局は最初モダンアート・センター・オブ・ジャパンに置かれたが、のちにおぎくぼ画廊に移された。

 千円札裁判は、基本的に芸術裁判として闘われた。憲法の「表現の自由」を楯に、「芸術は法律によって裁かれるべきではない」こと、模型千円札の芸術的な性格、機能から見て、通貨に対する公の信用を害するとは考えにくいことなどが主張された。同時に、起訴の根拠ともなった明治28年制定の「通貨及証券模造取締法」が、時代遅れの法律であることも弁護側の主張のポイントとなった。そもそも赤瀬川を起訴した「通貨及証券模造取締法」には、使用の目的に関しては特に規定がないため、芸術であるか否かは刑の確定において必ずしも重要ではなく、本来紙幣に紛らわしいか否かが大きな争点となるはずである。赤瀬川も法廷で《紛らわしさ検査票》を提出するなど、この点を争う姿勢も見せたが、これが裁判の主要な争点になることはなかった。芸術としての評価は「犯罪既遂律の情状というべきもの」という検察側の主張に対して、弁護側はあくまで芸術の特殊性・独立性を説きつつ、最先端の芸術論や模型千円札についての証言をつみ重ねていった

 千円札裁判は、千円札事件懇談会を結成し、評論家や作家たちを多数巻き込んだ時点で、すでに赤瀬川個人の裁判ではなくなっていた。事実公判では、赤瀬川と3人の特別弁護人以外にも、第1審で中西夏之、高松次郎、刀根康尚、篠原有司男、山本孝、愛甲健児、福沢一郎、鈴木慶則、大島辰男、粟津潔、溢澤龍彦、池田龍雄、中村宏、軟山邦晴、山田宗睦、川仁宏、第2審で斎藤義重、奥村康弘が証言台に立ち、自論を展開した。弁護側はできる限り多くの証人を召喚する姿勢を貫いたのに対して、検察側は、証人喚問の3回目あたりからこれ以上の弁護側証人は不要と主張し始め、第1審だけで11回に及ぶ公判のなかで、結局ひとりの証人も申請しなかった

 弁護側証人たちは、自身の視点に基づいて様々な芸術論を展開した。例えば中西夏之は、裁判の証拠固めとして整理した膨大なデータや資料をもとに、ハイレッド・センターの活動について2日間にわたって詳しく証言した。城之内元暗による《シェルター計画》のフイルムやハイレッド・センターの記録スライドも上映され、当時は美術関係者ですら断片的にしか知らなかったであろう同グループの活動の全貌が、このときはじめて明らかにされた。

 公判のなかで特に注目すべき出来事は、第1事業1回公判で、赤瀬川をはじめとする現代美術家たちの作品が、弁護側の証拠として法廷内に持ち込まれたときであろう。全長10mを超える中西の《男子総カタログタログ》が法廷いっぱいに広げられ、「不在の部屋」展に出品された赤瀬川による梱包扇風機が異音をたてるなど、一時的とはいえ法廷内が前衛芸術に占拠された。この出来事はすでに当時から、池田龍雄、石子順造、大島辰男らによってハプニング、刀根康尚によりイヴェントとそれぞれの文章のなかで評されており、法廷で行われた、半ば偶然かつ半ば意図されたHRCのイヴェントあるいはハプニングとして見ることも可能であろう。

 また椿近代画廊の千円札裁判支援「現代美術小品即売展(1966年7月)を皮切りに、裁判支援を目的にした催しも開かれた。1967年8月の村松画廊における「表現の不自由展」では、約100名もの芸術家が参加したが、そのなかには水木しげるの名前も見える。このときは、草月会館ホールでシンポジウムも開かれている。また1966年7−8月、足立正生らVAN映画科学研究所の協力によって、千円札裁判支援・実験映画祭「天井舘旗揚興行」が荻窪画廊で開かれた。

 このように赤瀬川個人の作品としてつくられた模型千円札であったが、裁判に巻き込まれることによって、現代美術界の一大イヴェントヘと発展した。冨井玲子は、模 型千円札が生み出したこの現象を、次のように評している。

 作品としての《模型千円札事件》は単一の事象ではなく、そもそも無名だった複製千円札が、司法の介入を契機に《模型千円札≫という作品性を獲得し、そこから派生して展開された様々な言説活動や関連作品をすべて取り込んで、一種の〈作品空間〉を形成する総体として筆者は定義している。美術史において、現代美術・前衛美術は、論者によって定義が一定しない部分もあるとはいえ、むしろ「既成のモノの価値に異議申し立てをすること」を定義とすることで、その本質がより鮮明になってくるのではないだろうか。たとえば、日本の1960年代に、批評家・宮川淳に「日常性への下降」と評された反芸術は、近代的な絵画彫刻が標榜する自律するモノとしての芸術性の否定を標榜するものであり、現代美術的な「異議申し立て」の代表例だろう。

 ところで、現代美術の「作品」は、「既成のモノの価値に異議申し立てをする」という性格上、その出発点においてはコレクターや美術館などによってモノとして収集展示されることを拒否する傾向にある。だが、現代美術それ自体が制度化すると同時に、写真記録、再制作などを通じて美術館収蔵品の地位を確立した作品例も少なくはない。言わば、日常性へ下降した現代美術はUターンして、芸術性に再上昇したのである。

 ただし、ここで注意すべきは、「芸術」や「制度」、また「モノ」ですら、必ずしも静止的な概念ではなく、その内実は過去半世紀の間に、現代美術をふくめ批判的な諸動向に誘発されて構造変化をとげている点である。
さて、このダイナミックな構造変化を跡付け、その意味を知るための格好のてがかりを提供してくれるのが、赤瀬川原平・他による《模型千円札事件》である。
ただし、これは通常の意味における「作品」ではない。反芸術の代表作家・赤瀬川は、63年頃からオフセットで複製印刷させた千円札を個展の案内状や梱包作品に使う作品を制作していた。その複製千円札が64年に違法の嫌疑を受け、事情聴取、起訴から裁判に発展し、70年に最高裁判決で有罪・執行猶予が確定した。

 核となるモノとしては、くだんの複製が《模型千円札》と命名されている。これは紙切れに過ぎないモノなのだが、それが無名の存在として日常空間に潜み、裁判所という公空間に引き出され、複製出版物として情報空間に流通、最近では美術館に展示・収蔵されて芸術空間の合法的住人となり、画廊が扱う商品として市場空間にも出回る。この移動の過程で、紙切れは「作品」としてのアウラを獲得・増加していく。

 さらに、裁判自体が一種のイヴェント作品となり、千円札事件懇談会が一種の言説空間を形成するなど、複製千円札にまつわる行為すべてを取り込んで《模型千円札事件》がある。こうして、複製作品をめぐるマトリックス、すなわち「作品空間」が形成されていく。
かくなる「作品空間」に実体はないが、モノの持つ価値のあり方を従来のベンヤミン的礼拝価値・展示価値や資本主義的市場価値だけに限定せず、情報価値にまで拡張して考察するためには不可欠の概念になるのではないか、と思われる。 

 芸術をめぐる膨大な言説を生み出し、HRCや赤瀬川の作品空間を拡大させた千円札裁判は、司法とのやり 取りのなかで偶然生じた出来事=ハプニングの側面と、 千円札事件懇談会が企画した芸術プロジェクトとしての 側面を持つと言えるだろう。それは確かにひとつの「作品空間」と呼ぶべきものかもしれない。

 10か月間にわたって行われた第1審では、1967年6月、赤瀬川は懲役3カ月執行猶予1年の判決を受けた。判決は模型千円札を芸術と認めながらも、紙幣の信用性という公共の福祉の前には、表現の自由が制限されることもやむをえないとした。裁判当初、千円札を印刷した段階で有罪と主張していた検察側は、最終的にはそれらを裁断した時点で有罪と変節したこともあって、《模型千円札梱包作品》や《模型千円札Ⅲ》など約30点の押収品が無罪となって返却されたのに対し、印刷原版のみが没収処分とされた。直後赤瀬川だけが判決を不服として控訴したが、1968年11月に控訴棄却の判決を受け、さらに千円札原版の返却を求めておこなわれた上告審でも、1970年4月、上告棄却の判決を受けた。

 この裁判は美術界だけに留まらず、広くマスコミの注目を集め、様々な反応を呼んた。美術界を中心に赤瀬川を擁護する発言も目立ったが、一方で、坂崎乙郎のような保守派による前衛批判をはじめ、弁護側の方針に対する批判も見られた。言うなかでもこの裁判が、模型千円札の芸術性を前面に押し出して争われたことに対する批判が多かった。瀬木慎一は、赤瀬川たちが「反芸術」を標榜しておきながら、起訴されるに及んで突如自らの作品を芸術と主張し始めたことを非難した。宮川淳も「芸術の名において、しかし、まさしくそのような大義名分をこそ、芸術、そしてとくに現代の芸術は否定してきた」のであり、裁判の方針は芸術の持つ本質的な無名性絶対的な自由への要求と矛盾すると述べた。今泉省彦も工藤晋の偽名を使って、芸術の名のもとに、千円札が本来持つ攻撃性を放棄したことを批判した。

 ただ現在の視点から振り返ると、芸術裁判として闘ったからこそ、その成果ともいうべき膨大で広範な芸術言説が生みだされ千円札裁判が現代美術史上意義深い出来事になったという側面は否定できない。HRC3人による対談のなかで中西夏之も、「非常に難しい局面だったけど、じっさいあれ犯罪でやったら、あんな面白い裁判にならなかった。何にも問題が出てこないから」と述べ、高松次郎も「あれはしかし芸術って言わなかったら、ほんとふつうの裁判だよな。どこにでもある」と答えている。(MH)

■60年代のコラボレーション

 従来の芸術メディアの融合によって生まれた,新たなメディアのことで,一般的には 1950年代後半から 60年代前半にかけてのさまざまな試みに対する概念である。文字の配列や大小を考慮して,視覚的な効果が意図された「視覚詩」や,それ自体無意味な言葉を用いるなどの方法によって,意味よりも音響的効果を狙う「音響詩」などは代表的な例である。視覚的・演劇的要素と音楽的事象との融合を図った「ハプニング」や「イベント」といったパフォーマンスにも,インターメディア性は指摘できる。インターメディアは,既成のメディアの境界に位置し,そのどれにも属さずに,またどの要素も個別に分離できないという意味で,たとえばオペラのように,複数のメディアを並列させるだけの「ミクスト・メディア」からは区別される。

 視覚芸術において、ミクストメディア とは、一つ以上の媒体または素材を用いた美術工芸品のことである。 類似の言葉でマルチメディアがあり、音楽とスライドショーを連動して上映すること、文章の中に動画や音声を埋め込む事を示す。またメディアミックスは単一の作品を異なった媒体や素材で展開することである。

  

 1960年代は、美術に限らず、音楽・映画・舞籍・演劇など幅広い分野の芸術家たちが、自らの活動領域を超えて異分野の作家たちと交流し、積極的にコラボレーションを行った時代である。複数の芸術分野の中間にあって、それらを横断するような新しい試みが次々と行われ、インターメディアという言葉が生まれたのもこの頃であった。赤瀬川も早くから他の美術家が行うイヴェントやハプニングなどに協力していたが、その活動は決して美術分野のみに限定されなかった。映画人たちの影響を受けて自らも映画制作に手を染め、暗黒舞踏や状況劇場の舞台裏置やポスターも幾度か手がけた。本章では、パフォーマンス、映画、舞踏・演劇という3つの領域の作家たちと赤瀬川の交流から生まれた、‘60年代のコラボレーションを紹介したい。

 赤瀬川原平は、60年代のパフォーマンス史のなかで、重要な証言者として位置づけられる。実際に彼は、多くの時代を代表するパフォーマンスの現場に居合わせ、それらに出演してきた。黒ダライ児は、この時期の赤瀬川がこの分野で果たした役割について、次のように述べている。

 アントナン・アルトーやアラン・カプローのような、実践者であり、かつ強力な理論家でもあった作家はほとんどいない。貴重な例外が赤瀬川原平であり、刀根康尚 である。赤瀬川のエッセイは、彼とその周辺で起こった パフォーマンスおよび政治的・社会的文脈を理解するのに不可欠なだけでなく、その傑出した文章力(批評性と感覚的なディティールを結びつける才能)により、理論とはいいがたいにしても、反芸術とパフォーマンスの結びつきを考える際のヒントに満ちている。

 赤瀬川とパフォーマンスとの関わりは、「ネオ・ダダ」の時代にまで遡る。けれども、篠原有司男、吉村益信、風倉匠を筆頭に、ハプニングやイヴェントの分野で先駆的役割を果たしたこのグループにあって、彼がこの種の活動に積極的に加わった形跡は見られない。ネオ・ダダのアクション特有の、デモンストレーション的かつ表現主義的な特質が肌にあわなかつたのかもしれない。一方で、吉村益信が第3回ネオ・ダダ展の際に銀座で行ったアクションに随伴したり、風倉匠の個展(1961、村松画廊)で行われた椅子のハプニングにも翻案者というかたちで参加するなど、演者というよりは協力者としての立ち位置がこの時期には日立つ。

 1962年5月、赤瀬川は草月会館ホールで行われた「小野洋子作品発表会」に出演した。30人を超える出演者の1人だったこともあり、「手伝いでステージにあがって、いろいろなことをやったりした」と、この時のことを控え目に回想している。様々なイヴェントが繰り広げられたこの発表会のラストでは、赤瀬川を含む出演者全員がステージに上がり、聴衆のだれか一人を凝視して、相手が目をそらしたら別の人を選ぶというイヴェントを行った。当初、観客が全員帰るまで続けられる予定だったらしいが、ホールの管理人の要望で、12時を前にして打ち切られたという。ネオ・ダダの肉体派たちが行ったエネルギッシュで表現主義的なパフォーマンスとは対照的に、小野のそれはクールでコンセプチュアルな傾向を帯びていた。日常的行為を日常のコンテクストからズラして舞台上で行う小野の手法は、赤瀬川やHR〔のパフォーマンスにも少なからず影響を与えたと思われる。

 事実この発表会以降、赤瀬川は、様々なイヴェントやハプニングに積極的に参加するようになる。3カ月後に行われた「敗戦記念晩餐会」では、「小野洋子作品発表会」に出演した吉村益信、刀根康尚、小杉武久、土方実らとともに、観客の前で食事を続けながら、様々なハプニングを展開した。そしてこの直後、HRCの活動のなかで、多くのイヴェントを積極的に主導していく。HRC時代にはNETテレビに出演し、単独でパフォーマンスを行ったこともあった。1963年には、HRCのメンバーとともに、ナムジュン・パイクの作品発表会にも出演している。このときの赤瀬川は、ステージに座布団を敷いて、仲間とともにそのうえで花札をしたという。

 その後も赤瀬川は、様々な機会に仲間の芸術家のパフォーマンスに協力したり、出演したりしている。1963年末に草月会席ホールの「SWEET16」で、飯村隆彦スグノーン・プレイに協力したときは、高松次郎の背中に投影された飯村の《いろ》というフイルムのフレームに治って、高松のジャケットを四角く切り取った。またこの催しでは小杉武久の《マーリカ》にも出演し、扇風機が飛び散らす花びらを舞台上で写真に撮影した。1965年未には、ヨシダ・ヨシエのモダンアート・センター・オブ・ジャパンで開かれた「ミューズ週間」にも参加。ジュラルミン・ケースから、アクアラングを着用した風倉匠が飛び出るイヴェントをおこなった。さらに1966年末、草月会館ホールと京都会館第ニホールで2回にわたって行われた「バイオゴード・プロセス」でも、小杉、風音、中西夏之、川仁宏らとともに、刀根康尚《Theater  Pieace for Computer》に出演している。刀根が2個のランプのオン・オフで繰り出す4パターンの指示にあわせて、演者たちが4通りの動作を行うこのイヴェントで、赤瀬川は袖口の瓶から醤油を垂らしながらアイロンで牛肉を焼き、ホール内を焼肉の臭いで満した。

 前述したように、赤瀬川は刀根康尚や小杉武久のパフォーマンスにこの時期幾度か協力しているが、1964年頃、その刀掛こ勧められて《梱包》という作品を作曲している。作曲といっても、これは言葉によるインストラクション形式の作品であり、赤瀬川の指示書を見た演者が行う一種のパフォーマンスである。この作品は小杉によってアメリカにもたらされ、秋山邦晴指揮のもと、カーネギーホールのフルクサス・コンサートで演奏された。赤瀬川の梱包作品よろしく、指揮者は指揮棒を、演奏者は自らの楽器を梱包したという。フルクサスには、この秋山や小杉以外にも多くの日本人が参加しており、彼らを通してHRCの活動もニューヨークに紹介されていた。実際にフルクサスのメンバーによって、《シェルター計画》と《首都圏清掃整理促進運動》のアメリカ版、《Hotel Event》と《Street Ceaning Events》がニューヨークで実行されている。またHRCのフルクサス・エディションが生まれたり、久保田成子によってHRCの情報をまとめた印刷物が作られたりしたが、そこでは赤瀬川と久保田とのあいだの文通が大きな役割を果たしていた。

 

 1960年代前半、VAN映画科学研究所に集った映画人と赤瀬川周辺の前衛美術家たちは、たがいに頻繁に行き来し合った。城之内元晴、足立正生をはじめとするVANのメンバーは、ネオ・ダダの拠点ホワイトハウスやヨシダヨシエが主催するモダンアートセンター・オブ・ジャパンに顔を出し、赤瀬川、風合、刀根、小杉ら美術家たちも、荻窪のVANに出入りした。この交流を通じて、美術家たちが実験映画を制作し、また映画人がハプニングに参加することで、分野横断型のインターメディアが生まれる素地が築かれていった。

 足立正生を中心に日大映研が制作した映画《鎖陰》(1963)は、60年代前衛映画の金字塔とも言うべき作品である。1964年5月には、映画館での通常の上映を否定するかたちで、「鎖陰の儀」というイヴェントとしてこの映画が京都で上映された。このとき東京から、赤瀬川、風倉をはじめ美術家たちも自費で参加し、ハプニングと映画のための催しを繰り広げた。赤瀬川は初日の円山音楽堂では、紙に火を付けてステージにまき散らすというハプニングを行った。2日後の祇園会館では、《鎖陰》上映中、犯罪者同盟のメンバーによって後半のフイルムが盗まれるという事件が起こり、会場が大混乱に陥るなか、バットでカラーボールを客席に打ち込むハプニングを行った。さらに同月、京都大学西部講堂で開かれた「<鎖陰>上映会」では、小杉らとともに、「街中のパンを買い占めて、ロに入れて噛んでは吐き出してバケツにためていくというのをやった」とも証言している。その後も赤瀬川は、未完に終わった足立の映画《ロトを殺した二人の息子たち》の自費出版シナリオ(1966)の装丁を引き受けるとともに、1971年には、足立を中心に制作された映画《赤軍−PFLP世界戦争宣言》のポスターデザインも担当している。

 同じ1964年の年末、飯村隆彦やドナルド・リチーが中心となって、無審査自由出品の読売アンデパンダン展をモデルに、実験映画祭「紀伊国屋エキスペリメントフィルム・アンデパンダン」が紀伊国屋ホールで開催された。

 無審査自由出品、120秒の短篇という規定に加え、他分野の芸術家の参加が促されたこともあって、このアンデパンダンには、赤瀬川をはじめ、風倉、刀嶺などVANで映画人と交流した美術家も参加していた。赤瀬川が出品した実験映画《ホモロジー》は、石膏彫刻を素材に作られたオブジェ《ホモロジー》の静止した姿を、あえて映画によって捉えた作品であった。

 1960年代、土方巽の暗黒舞昏や唐十郎の状況劇場のために、多くの美術家が舞台美術やポスター制作を過当した。1963年に草月会館ホールで行われた土方巽DANCE EXPERlENCEの会「あんま・愛欲を支える劇場の話」でも、中西夏之らが舞台美術を手がけた。観客席が、畳を敷きつめられ舞台に変わる一方で、本来の舞台には、観客席として椅子が置かれ、その一部を赤瀬川がハトロン紙で梱包した。また中西の証言によれば、このとき風倉匠が赤瀬川に梱包されて劇場の梁の上に放置され、公演終了時に袋を破って「水をくれ」と叫んだという。赤瀬川は、1965年の土方巽による「バラ色ダンス」でも舞台美術に協力し、幕状の作品《肋膜判断》を舞台に設置した。暗黒舞踏関連では、この他にも笠井叡による「舞踏への招宴」(1967)のポスターと舞台美術を担当している。

 唐十郎の状況劇場は、早くから演劇の制度性やその成立根拠を問う姿勢を見せていたが、このような視点は、当時、赤瀬川周辺の美術家たちのあいだでも共有されていた。また土俗的でキッチュなものへの関心という点でも唐と近い場所にいた赤瀬川は、1969年、状況劇場の舞台「少女都市」のポスターと舞台美術を担当した。このとき舞台装置のひとつとして、60年代初頭に制作したゴムチューブ作品を提供したらしいが、公演期間中に舞台上で燃やされてしまったという。 (MH)

■トマソンから路上観察

 1972年、赤瀬川は松田哲夫、南伸坊とともに四谷本塩町の旅館、祥平舘に滞在し、その建物に付設された階段状の物体、後のトマソン第一号となる「純粋階段」を発見した。その物体は人が上り下りできる段差があるものの、建物の出入り口には通じておらず、建築物の一部としての機能を失っている。ところが、堂々たる佇まいのその物体は、手すりの補修箇所が確認されるなど、一定の配慮のもと取り扱われているようであり、役に立っていないにもかかわらず、保存されている奇妙な状況が確認された。その翌年、赤瀬川は西武池袋線の江古田駅にて、不要となった窓口が必要以上に丁寧な造作により塞がれた「無用窓口」を発見、数ヶ月後には、お茶の水の三楽病院において、出入り口がセメントでしっかり塗り固められ、立派な門構えだけが残された「無用門」発見の知らせを南伸坊より受ける。この3件の連続した発見から、その存在に対する謎はいっそう明確なものとして意識されるようになった。それらはいずれも、街のただ中に実用性を欠いた状態で存在し、本来実用性を欠いているはずの芸術作品のようでありながらも、創作意図を持たないことによって、芸術作品を凌駕する無意味さを備えており、そこから「超芸術」という概念が浮上した。

 1981年には赤瀬川が講師を務めていた美学校の「考現学」教場において、「探査街頭授業」が行われる。その様子は当時『ウィークエンド・スーパー」誌で連載されていた「自宅で出来るルポ」において発表され、生徒達とともに「アタゴタイプ」物件や「麻布谷町無用煙突」発見の様子が伝えられた。

 それらが「トマソン」と命名されるのは1982年、同じく美学校「考現学」教場における渋谷・代官山探査の後、居酒屋で行われた反省会でのことであった。この「トマソン」とは、当時大リーグから鳴り物入りで読売ジャイアンツに移籍したものの、豪快に三振を繰り返す四番打者となつてしまったプロ野球選手、ゲーリー・トマソンからとられた名称であり、無用の長物的なあり方をユーモラスに、また神秘的な響きをもつて伝えている。その後、美学校の生徒であった鈴木剛を会長とする「超芸術探査本部トマソン観測センター」が発足され、物件調査と投稿者からの報告の受付、審査とデータ管理や、展覧会開催などを担い、その活動は現在も継続されている。

また、「トマソン」を展開させたもうひとつの要素に雑誌連載がある。上述の「自宅で出来るルポ」での超芸術の紹介は1回にとどまり、本格的な連載は1983年から85年にかけて、「写真時代』での「町の超芸術を探せ」および「考現学講座」として発表された。

 

 連載では、まず手瀬川をはじめとするトマソン観測センターが発見した物件の紹介を行い、その定義「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」を示し、トマソンは意図的に制作されるのではなく、物件として発見されることによって初めて出現すること、そして、各物件が「庇タイプ」(庇たけが壁面に取り残され、何も庇うことのない庇)や、「アタゴタイプ」(途中で切断され、路傍に無意味に突き出ている桂)といったタイプごとに分類される例を挙げ、その基本的な考え方と発見手法について一般読者との共通許諾を形成する。その律、読者による投稿物件をトマソン観測センターの発見物件と合わせて紹介し、審査とコメントを通して徐々に、対象とするトマソン物件の広がりと、トマソン物件とそうでない物の境界、その魅力についての理解が深められていった。

  1983年には、トマソン観測センターによる超芸術展悶える街並」が新宿のギャラリー612にて開催された。その内容は、トマソンという概念と、物件の事例を伝えるばかりでなく、展覧会というメディアでの発表に応じて、その提示方法の可能性を模索する意欲的なものであった。

 トマソンの報告用紙が収められたファイル、物件写真のパネルに加えて、トマソン物件の模型、ゲーリー・トマソン選手の肖像写真パネル、同選手の読売ジャイアンツ入団を報じたスポーツ新聞などが会場に並び、さらには「布谷町無用煙突」に関する展示物として、赤瀬川による油彩画《沈む谷町》、そして飯村昭彦による煙突頂上からの俯瞰写真、同じく飯村が煙突頂上で採取した、突端断面の拓本などが展示されていた。《沈む谷町》は金色の額に収められ、飯村による拓本は軸装されるなど、格調高い美術作品に見立てる演出が施され、また、名品物件の絵はがきセット、ポスター、報告用紙を販売、記念講演会も併せて催すなど、美術展のお約束を踏襲した、パロディとして見ることができる。

 とはいえ、これらは展覧会のための例外的な読みであり、トマソンにおける最も基本的な形式は報告書にある。「超芸術トマソン報告用紙」と記された様式には、発見場所、発見者、発見年月日などの基本情報の欄があり、物件の外形的特徴を記すための欄が下に設けられている。報告者は物件の形状、状況についての分析、場合によっては発見時の状況や印象、心情を文字情報と図を用いて記し、所在地の地図、物件写真を貼付する。一見して分かるのは、物件写真はあくまでも複数の情報のうちのひとつに過ぎず、審美的に鑑賞しやすい形式にはなっていないことである。というのも、これらが展示や発表を主な活用法として想定されておらず、データの蓄積と今後のさらなる調査のための資料と位置づけられているためであるが、また一方で、科学的調査の厳格さを漂わせる演出ともなっている。

 トマソンは当初、芸術という制度からの解放を赤瀬川にもたらしたが、トマソン物件として認定するための厳格な規定が、対象を制限し自由な観察行為への制約として意識され始める。それに対して、より緩やかに対象を規定する「路上観察」は、トマソン物件に適合しないがゆえに取りこばされてゆく事象をも捉えることのできる有効な視点となる。そして、それまでの芸術的、学術的感心から外れた対象に感心を抱く、異なる分野における観察者たちとの出会いと共鳴の中で「路上観察学会」が形成されていった。

 1985年、マンホールのふたの調査と研究を行っていた林丈二の自宅に、赤瀬川のほか、建築史家である藤森照信、歯科医で建築物の欠片のコレクターである一木努らが集い、林によるヨーロッパ旅行の報告会が開かれた。翌年のはじめには上記に松田哲夫、南伸坊を加えたメンバーによって路上観察学会が結成され、同年4月号の「芸術新潮』の特集「珍々京都楽しみ図絵」として調査の成果を発表する。5月には、筑摩書房より『路上親察学入門』を刊行、上記のメンバーに加えて、トマソン観測センターの関係者および、荒俣宏、四方田犬彦、杉浦日向子、とり・みきといった多方面の専門家が参加することで、対象領域やアプローチの多様性を反映した幅広い内容の構成となっている。

 また、同メンバーによって‘月には発会式が行われる。東京、神田学士会館前にて、モ ̄ニング姿で居並び、学会名が記された横断幕を掲げ、藤森無情が発会の辞を読み上げた。その様子は新聞、テレビによって紹介される一大パフォーマンスとなった。

その観察行為と発表の形態は、街歩きを行い、掃影した物件写真を用いたスライド講演や、図版にタイトル、コメントを加えて誌面を構成するというスタイルが定着していく。その際のタイトルやコメントは、観察者の解釈や、状況の読み替えを示し、おかしみを発生させるものとして、重要な役割を担っている。発会式後も雑誌での特集、テレビ出演、大学での講演会、美術庸での展覧会を通して展開された一連のキャンペーンが功を奏し、様々なメディアでさらなる露出を重ね、またたく間にポピュラーな活動となった。「路上観察」という言葉が一般に知れ渡り、なかには、路上観察を標模するグループが各地に結成されるといった社会現象を巻き起こした。また、路上観察学会は調査の一環として地方を訪れ、現地での路上観察を実施する形態を取り始めたが、訪問された地域にとっても、その知られざる魅力を再発見する契機となることから歓迎されるようになる。次第に地方自治体や国土交通省といった公的機関が彼らを招聘し、町おこしなどに関連づけられていく事態にまで及んだ

 彼らが「路的」あるいは「路上的」と表現し、対象としたのは、社会における規範や合理的秩序から外れる物や、こぼれ落ちてしまう物であり、自身の観察態度を含めて、人々のうけを狙ったもの、何らかの目的意識に基づいたものとは無縁な状態を重視していた。そのように規範や合理性から逸脱した事態に意味を見出すものの、その 背景や成立要件を探求し、解明していこうとする姿勢は 希薄と言える。むしろ、分からないままの状態を見立てにより楽しみ、あるいは、物件を創作した人々の意図をある程度理解しながらも、その破綻によって生じる誤読の余地を積極的に押し広げ、誤つた解釈が生む不条理な仮想を展開する。そのような姿勢はたとえば、「燃えないゴミは(金)だけです」との文言が記されたハリガミを捉えた《燃やせないゴミ》といった物件に顕著に見られる。

 路上観察学会への参加を契機に、赤瀬川にとってのトマソンは路上観察の一部へと包摂され、また、それとは逆に路上観察学会で発見された物件がトマソン物件として登録されるように、両者は相互に影響を及ぼしながら展開し、赤瀬川によるトマソン探査は路上観察へと緩やかに移行していった。そして1988年には、「第8回オマージュ兼口修造屏」として佐谷画鹿で開催された赤瀬川の個展「トマソン黙示浸」において、物件写真をもとにしたオフセット版画が「作品」として発表される。タイトルは「トマソン」とされているものの、実際には路上観察物作を多数含んでいることから、トマソンと路上観察の物件が一体的なものとして取り扱われるようになっていること、そして、赤瀬川自身が「トマソンの芸術化」と形容するように、それまでの物件報告から芸術作品へと移行させ、物件の「発見者」が作品の「作者」へと転じたことにおいて、この「トマソン黙示録」は重要な事例と考えられる。その律、赤瀬川個人による表現行為としての路上観察は写真集の出版やプリント写真の展示が中心となり、主に書籍やスライド講義で展開された路上観察学会の表現形式とは異なった、より従来の美術作品に近い形式をとるようになり、後のライカ同盟などに見られる写真表現へとつながって行く。 (MT)​