ものとモノのあいだで

ものとモノのあいだで

安達一樹 

▶︎はじめに

 この展覧会は、日本の近代彫塑への入門として企画したものである。荻原守衛と朝倉文夫という、ロダニズムと官展系アカデミズムをそれぞれ代表する二人の作品を京寸比し、共通点と相違点を明らかにすることにより、「彫塑とは何か」という基本的な問題について考えることが、この展覧会の趣旨である。ここ数年の間に、荻原とロダニズムについて正面から取り組んだり、荻原や朝倉を同時代人として扱ったりする展覧会が相次いで開催されている。これまで、この二人はロダン派と官展派と単純に色分けされてきたが、その扱われかたには、派閥という多分に興味本位的な面が作用していると思われる。近年の見直しの動きは、作品本位に日本の近代彫塑の歴史を考え直す良い機会であると思う。

 荻原と朝倉の作品を素直に比べることにより、より基本的な問題についての答えが得られることを期待してのものである。

 ところで、今回、なぜ彫刻ではなく彫塑という用語を用いたかについて簡単に触れておこう。彫塑という用語は明治27年に大村西崖が「京都美術協会雑誌」に「彫塑論」を発表したところから始まることはよく知られている。その内容は、立体作品を作るための方法としては、「消滅的ノ彫刻卜捏成ノ塑造」があることから、総称としてそれぞれの方法から「彫」と「塑」を採つた「彫塑」という新しい名称を提唱し、また、彫刻と塑造それぞれの方法の特徴とそれに属する下位の分類(木彫・泥塑)などを定義したものである。この分類に従えば、萩原も朝倉も塑造の作家である。もちろん、これらをまとめて彫刻という用語で紹介しても全く問題なく、その方が一般的かもしれない。しかしながら、彫刻という用語は、刻んで作るというイメージが強く、例えば、粘土による塑造から石膏原型を経て金属に鋳造されたブロンズ像について、現在でも、金属の塊を彫つて作ったと誤解されることがある。この展覧会は入門展であることから、一般にはあまり馴染みがないかもしれないが、塑造の面を強調して、あえて彫塑という用語を採用したものてある。

〈塑〉は粘土を意味し,塑造(クレー・モデリングclay modelling)は粘土で造形する技法をいう。 これによってつくられる彫刻が塑像である。 彫刻の技法は大別して,木彫や石彫など材料から形を彫り出すカービングcarvingと,粘土などの素材をくっつけて自由な形をつくりだすモデリングmodellingに分かれる。

▶︎時代背景

 荻原と朝倉について述べる前に、当時の状況を理解するために、日本の近代彫塑の流れについて概観しておこう。

 明治時代の初め、仏像、置物や人形などはそれぞれ独立して存在し、現在用いられているような包括的な彫刻や彫塑といった概念は存在しなかった。最も早い時期のものとしては、明治6年ウィーン万博への出品規定に包括的な名称として「像ヲ作ル術」が用いられている。洋風彫塑そのものは、明治9年に開校した官立の美術教育施設である工部美術学校に彫刻科が設置され、イタリア人の彫塑家ヴィンチェンツォ・ラグーザが彫刻学を教授したことに始まる。

 その内容は、全く白紙の状態であった日本に洋風彫塑の基礎を教えることにあり、教科内容は「彫刻学ハ石膏ヲ以テ各種ノ物形ヲ模造スル等ノ話術ヲ教ユ」と規定されていた。この規定は、日本の近代彫刻に大きな影響を与えることとなった。これ以降、彫塑とは、各種の物の形を再現的に作る技術としてとらえられるようになったからである。

 ところで、このようにして始まつた彫塑も、すぐに大きな変革を迎えることとなる。国粋主義や伝統美術の保護なとの風潮の台頭などにより、工部美術学校彫刻科が明治15年に廃止され、洋風彫塑は停滞を余儀なくされるのである。この過渡期には、外国人に人気を博した象牙彫刻(牙彫)が極めて短期間であるが隆盛を極め、牙彫家を中心に彫刻家が集まり、東京彫工会が設立されたりしている。

 また、伝統美術保護の動きは籠池会の結成を経て、明治22年の東京美術学校の開校に至ることとなつた。

 東京美術学校にも、彫刻科が設けられたが、伝統美術保護の流れを受けて木彫科のみの出発となり、教授陣には、江戸時代以来の生粋の職人である竹内久一高村光雲、石川光明が就任した。

 一方で同じ明治22年に、洋風美術の振興を目的とした明治美術会が結成され、イタリアで洋風彫塑を学んだ長沼守敬が参加している。明治27年には、先に触れたように大村西崖が「彫塑論」を発表し、彫塑の領域を学問的に論じた。

 明治30年代に入ると、洋風美術の普及に伴い、明治30年には東京美術学校彫刻科の在学生卒業生を中心に青年彫塑会が結成され、明治32年には東京美術学校彫刻科塑造科が新設される。

 また、この前後には、ヨーロッパに留学した大熊氏広(帰国22年〉、新海竹太郎(同35年)、武石弘三郎(同42年)などの帰国もあり、洋風彫塑も復活を見せることとなる。なお、明治35年には、久米桂一郎によりロダンが日本に紹介されている

 明治40年、あたかも明治の美術の仕上げのように、フランスのサロンに倣って、官展の文部省美術展覧会(文展)が開催される。その第三部彫刻部の出品は明治時代に限れば塑造が中心となっている。そして、いよいよこの文展で荻原も朝倉も世に出ていくのである

 明治時代の日本の近代彫塑は、以上のような流れであつた。しかし、その実状について、高村光太郎は、後年、「明治以来の日本の彫刻界は甚だしく知性を欠いてゐた。(中略、・彼らは皆生粋の一流江戸職人であつた。その一種の気風が後進の上にも伝播して広く彫刻界を左右し、頭より腕といふやうなむしろ腕ばかりといふやうな彫刻社会が出来上がり、「彫刻そのもの」の性質について考察するやうなことは夢にもおよはず、狭い見解と、甚だ横柄な党派的小縄張との中で其の腕を磨いてゐたに過ぎない年月が長くつついた。

 一方、工部大学の外人彫刻家等の薫陶をうけた西洋風彫刻家の一団西洋風建築装飾や、銅像製作の請負師のやうな風習を造つてしまひ、甚だ拙劣な銅像を何の芸術根拠もなく公園や庭園にむやみに建て始めた。」と、彫刻とは何かという問題の観点から、その欠如を指摘している。高村光太郎は自分自身、木彫と洋風彫塑の両方を学んだ作家であり、同時に日本の近代彫塑の理論面での第一人者であつた。また、高村光太郎の父・高村光雲は東京美術学校教授、帝室技芸昌、文展審査委昌である。このような環境、立場からすれば、文中にある評価の面については、高村が当時の彫刻界に対して攻撃的な態度をとり続けていることから割り引くとしても、当時の社会的な様子は、大筋としてはこのようなことであつたと考えてよいだろう。

 人の造型思考の形成このような状況の中で、荻原と朝倉の造型思考はそれぞれどのように形成されたのだろうか。

 萩原は、明治12年に長野県南安曇郡乗穂高村矢原偶在の穂高町に生まれている。18歳で初めて油彩画を見て感動し、やがて画家を志して明治32年20歳で上京小山正太郎の私塾不同舎で学び始めるものの、明治34年22歳で渡米し、アメリカとフランスで教育を受け、ロダンに出会って彫塑に転向し、明治41年3月に29歳で帰国、その秋の第2回文展で新帰朝者としてデビューしている。この経歴からして、萩原は日本で正規の美術教育を受けておらず、また、当時の美術界の状況とは無縁でデビューに至ったことは明らかである。基本的には欧米で西洋の造型思考を学び、ロタンの造型を彫塑の本質として身につけていたといっていいだろう。

 一方、朝倉は明治16年大分県大野郡池田村池在(現在の朝地町)に生まれている。明治35年に、彫塑家である兄の渡辺長男を頼って上京、翌年には東京美術学校彫刻選科に入学、明治40年に卒業、続けて研究科に進学、明治41年舅2回文展で無名の青年が最高賞を得るという華々しいデビューを飾ることになる。しかし、無名とはいいながらも、東京美術学校在学中から、動物彫刻の原型制作のアルバイトを行つたり、東京鋳金会展、東京彫工会展、銅像制作の募集に対する応募なとを行い、少なからぬ受賞歴がある。この活動歴を見れば、朝倉が完全に日本の美術界の中で育ったことは一目瞭然である。このことは、朝倉の造型思考が、明治初年以来の「像ヲ作ル術」の呪縛を受けていることを示している。それぞれの立場30歳で明治時代の内に早逝した荻原と、81歳の長寿を保ち日月治・大正・昭和と生きた朝倉を比較するのはなかなか難しいことである。

 しかし、ここでは諸事情は考慮せずに、単純に二人を比較することとする。

 荻原の彫刻についての考え方は「彫刻の本旨、即ち中心題目は、・・・製作に依て一種内的な力(inner power)の表現さるゝことである。生命(Life)の表現さる・・・ことである。彫刻の制作品にして此のインナーパワー若しくはライフが表現されて居なければ完全な作とは言へぬ。」という言葉に尽きる。

 一方、朝倉は、「彫刻の本体は形の調律であります。形と申しますのは物の象の輪郭でもなければ陰影でもありません。無論、点でも線でも平面でもありません。立体そのものの形を指して単に形即ち物象を申すのであります。物象即ち立体が彫刻の本体であつて(中略)それでは、彫刻の本体とする立体とは何であるか。美や線や平面というやうな仮設にによつて認識されたものではありません。それ等の仮設の集合体ではなくして、我々の地上にある森羅万象ありとあらゆるものがすべて立体であります。」と語っている。

 単純にいえば、彫刻とは荻原は内なる力が表されることと考え、朝倉は目に見える全ての立体物といっている内と外、この正反対の立場は制作にどのように影響しているか、ここでは、「自然」「肖像」「モデルと表現」をテーマに比べてみることとしよう。

▶︎ 自  然

 萩原も朝倉もどちらも、自分は自然をもとに制作を行つていると述べている。例えば、荻原は自分の師と仰ぐロダンを紹介する文章で「一体欧州の芸術は大概グリ−キ(注‥ギリシャ)を模倣する。又上古にグリーキあるを知つて、エジプトの在るを知らなかつた。故に彼等は体形の端麗といふことを悟り得ても、偉大という点に欠けてをる。巧みに外形を模擬することは出来、能くお手本には近付いてをるが、直接自然に行つてオリジナルを生ずるということが少い。然るにロダンは、独りこの模写の迷夢より醒めて、自然即ち真芸術に生活してをる。ロダンズム〔注ロダニズム)即ち自然主義は最近欧州芸術界の光明なる標傍である。」と紹介し、自分が自然主義の作家であることを示している。

 一方、朝倉も<墓守>(上図右)の制作にあたって「そして、これまで制作の主題をどちらかといへば、ロマンチックな題材に求めることが真の芸術であるやうに思つてゐたのであつたが、このお爺さんをモデルとして制作してゐると、何を苦しんで探し求めるのだ、自然のままゝでよい。自然そのまゝでよい自然そのまゝの表現の価値が芸術の価値に帰着する芸術家の力は物を考へる力でなくて物を見る力だ、そして表現する力だ、ということに帰納される。」と自然が根本であることを語っている。

 しかし、ここでは、同じ自然という言葉を用いているものの、その捉え方がかなり違つている。荻原は「直接自然に行つてオリジナルを生ずる」という自然から作品を生み出すという内側からのアプローチの方向を示しているのに対し、朝倉は「自然そのまゝの表現の価値が芸術の価値に帰着する」と自然を対象物として外側からアプローチして作品化する方向である。

 ところが、これを制作にあたってのモデルに対する考え方で展開すると、萩原は「塑像の際は余の流儀として最初よリモデルに拠(よ)るやうにして居る。初から頭で考え出し、自分の思ふ通りに姿勢を作らして、それから着手するやうなことは為さぬ。色々の姿勢を見て居る中に、之が最も自然に近い、最も真性格を示して居ると看取した所で、夫をモデルとして始める。其方が自然無難でもあり又自然に適ふて居る。」となり、朝倉では「それでもモデルを使つて製作する時は、初めから何を製作しようと決めないで、モデルの自由な動作の中から、自分に最も共鳴した形を撰ぶやうにしてゐる。これをもう一歩進めていふならば、ある内容の思想からその形を表はさうとしたものでなくして、その形が直に内容を表明するに到つてゐるのたといへる。こんな風に己の美感に反映したまゝの自然の姿を、何処までも正直に表現することに勉めるのが、今の自分の行き方であつて、頭の中で無暗(むやみ)捏(こ)ね上げるやうなことは、決して企てない処である。」と、二人の言ってしいることは全く同じように見える。

 つまり、荻原と朝倉は表裏一体と考えてもよいのではないだろうか。肖像肖像では、朝倉ほど多くの肖像作品を作った彫塑家はいないだろうと思われる。その朝倉は肖像作品について「記念像を作るにしても、つまりは形に現はすことであるが、人の表情は感情の流れによつて瞬間々々に変るものである。記念像に作る場合は、そのどこを捉へるかゞ問題であって、最も似たものを作るためには、その人の一番の特徴を表はさなければならない。」「その人その人で、その接してゐた年齢と場所と職場でその人の思出の顔は作家の前に百面相のやうになって出て来るものである。が、それを捕へて万人がなる程と頷(うなず)くやうに表現するのが作家の技術である。」などと述べ、変化する表情の「どこを捉へるかが問題」で「その人一番の特徴を表」し、「万人がなる程と頷くやうに表現する」という、見て誰もが納得する、いわゆる外側から見た「らしさ」に主眼を置いていることが解る。しかし、ここで注意しなければならないのは、「らしさ」というのは抽象的なもので具体的なものではないことである。具体的なある一面では万人を納得させることは不可能である。ある人には似ているといわれ、別の人には似ていないといわれる。従って万人が納得する「らしさ」は、外側からの様々な情報を集めて、一つのその人「らしさ」として纏め上げた抽象的なものとならざるを得ない。そうなると、場合によつては朝倉に、前述の自然を対象物として作品化するという外側からのアプローチの立場と、抽象的な「らしさ」が、折り合わないという事態が起こり」得る。それは、朝倉の<父と母の像>上図右)の制作時のことである。朝倉は「F母の像』の方は約1カ月かゝつて了つた。どうしてもピックリゆかないんだね。それは母が上京して来るについて、どうもよそ行きの顔になつているんだね。入歯なんかして、まアおしやれをして来られたと言うわけなんだね。しかし矢張り少年の頃の印象は強いもので、深く刻み込まれた郷里の母の印象と、一方に一寸とりすました眼の前に居る母の像とがピタリいかないんだね。その時も『母の像』を前にして、制作は、現実そのまゝにしてやらなければ…と言うことに帰結したんだが、意外に時間がかゝつたわけです。」と述べており、かなり苦しんだようである。しかし、結論としては、その場合は外側からのアプローチを堅持したようである。

 一方、荻原が注文により制作した肖像作品は<北条虎吉像>(上図左)とく宮内氏像>(上図右)の2点のみである。そしてその2点のうち、<宮内氏像>については、「F宮内氏像』も依頼をうけてやつたのですが、「どうも宮内氏の人格がつかめないから作りやうがない」と云つて乗気になれないやうでした。」というような友人の発言もある。このように制作が困難であつた原因が、「人格がつかめないから」ということであれば、荻原は肖像作品でも、その人の人格という内側からアプローチしようとしていたことになる。また、荻原は銅像についても「偉人英雄のライフの具体化である」といっており、萩原は、とのような造型でもその内側からアプローチしていといえよう。

 この肖像作品では、二人が堅持したそれぞれのアプローチの違いが、作品評価の大きな違いとなって表れてきている。それは、肖像作品を見る場合に普通の人も一番気になる、本人に似ているかとうかという問題についてである。

 朝倉は、「形が似ないでその人の性格が現はれてゐるなとといふ事は、あり得ないわけで、形あつてこそ、性格なりその内面をも現はすに至るものなのだ。自分は、内面的だが形が似ないなどという、肖像には打つかつたことがない。反対に若し、そんな肖像彫刻があり得るものとすれば内面が似ないに相違なく、同時に形が似てゐない証拠であらう。それだから、私は内面をと志すより」も、形の似てゐるものを先にするものである。」とし、荻原は「次に世人の尤も苦にする事は、其の面貌の宛然(えんぜん・そっくりであること)故人の如くなるや否や、所謂写真的の意味に於て、似る似ないの問題である。対当物に似ると云ふ事、個性の発揮が勿論第一必条件なるも、此れ同時に、此を芸術化せざるべからず、即ち理想と技巧の一致、内部生命の発露、生ける彼等を青銅の中に再現せねばならぬのである。」といい、日本の銅像について「ドレを見ても皆千篇一律の立像で、顔貌は似て居(る)だらうが、人物の性格が表はれて居らぬのがある。ドーモ生きて居らぬ、魂がない、云はゞ死骸である。勿論銅像だから生物ではないが、彫刻でも絵画でも、技術の上より云へば生物同様のもので、其人の性格も作者の精神も表はれて居らねばならぬものだ。遺憾ながら日本の現在のものには夫が欠乏して居る。単に写真の引延ばしに過ぎないのが多い。

 今にも口を開き、手を動かし歩き出(す)やうな風致がなければ、技術上の価値ありとは認められぬものである。」として、「我国に於ける銅像建設の嚆矢(こうし・事のはじめ)とも云ふべき大村卿の銅像、比較的旧き西郷南洲翁の銅像に甚だ面白い意味を見出すに反し、近頃建設された海軍省の三銅像を始めとして、(中略)拙劣になりつゝあるに非ずや、否、肖像の意義が全然誤解されつゝあるに非ずやと云ふ感じを深くするのみである。」のように、「其人の性格も作者の精神も」と内側からのアプローチを重視し、当時の東京の、朝倉が一等に当選した作品を含む銅像群を難じている。ところで、萩原が面白昧があるとしている、東京・上野の西郷隆盛像であるが、この像は、除幕式のときに遺族から本人に似ていないといわれたという作品である。しかし、荻原は「あれは拙(つたな・へた)いと云う人が多いやうですが、私はさうは思ひません。(中略)川上さんや品川さんの像は、形は実物そつくりかも知れない。(中略)何所にか其キャラククーの閃めきが出て居ねばならぬと思ひます。所がどうです。技巧はいか様細かいやうですが、それだけでは何の価値がありませう。之に反して西郷像は手法は拙(つたな)いに違ひはない。兎に角あれを見ると、これが大西郷だと断はらなくとも大西郷の精神気腕を認め得ると信じます。」と内面性の視点から評価するのである。ちなみに朝倉は西郷像について「早い話が近代を例にとつても、大西郷だが、これがどうもよくわからぬものの一つになつてゐる」と否定的見解である。

 モチーフとして、具体的な人物像が提示された場合、制作の対象が一個の個人として動かし難く存在することから、あくまで内側からのアプローチを重視する荻原と、外側からのアプローチを堅持する朝倉とでは、とちらも同様に対象となる個人を抽象化しつつも、抽象化の遠いから対立せざるを得なかつた。つまり、内の「ライフ」を取るか、外の「らしさ」を取るかの違いである。また、その抽象化の違いにより、萩原は2点目で困難に陥ることとなり、朝倉は大量の肖像作品を制作することができたのではないだろうか。

▶︎モデルと表現

 モデルは前述の「自然」のところでも出てきたが、「肖像」での立場の違いを踏まえて、モデルは表現を規定するかどうかについて考えてみたい。

 萩原はモデルの問劃こ関連して、「一の製作をするにはモデルが必要である。百姓が高僧のモデルとなり、下らぬ女が高潔なる婦人のモデルとなることも有る。モデルたる人の品格精神は何でも構はぬ、唯その身体が、芸術家の精神を現はすに足れば充分である。(中略)凡そ何物を描写しやうとも、それが芸術品としての生命は、芸術家の人格が現はれてをるといふことにある。」と、表現されるのは「芸術家の人格」であり、モデルに表現が規定されないという見解である。しかしながら、荻原が<労働者>・(上図右)を制作した際には、モデルの性質を原因とする作品構想の変更が行われており、また、先に触れたように、<宮内氏像>でもモデルの人格により制作に困難が生じていたことなとを考えると、荻原は、本人の見解とは関係なく、制作をモデルに規定されていたといえるだろう。

 ところで、朝倉も、「作品の内容とか思想とかいふものは、如何なる場合でも必ず個々の作家の個々の性格の現れである」として、作品は作家の性格の現れといっている。ところが、荻原の<文覚>(上図左)をめくる思い出話の中で、朝会は萩原の<文覚>のモデルが人力車夫であったことを告げて、「だからその体はどこからどこまで車の梶棒を一生とつた体に出来ているんだ(中略)車夫に出来上つたモデルをいくら荒いタッチで取り扱つても文覚になりつこないよ」と語つている。<文覚>のモデルについては、漁師という説もあるが、それは措いておくとしても、朝倉も、表現内容とは別に、制作はモデルに規定されるという立場であることがわかる

 いずにせよ、二人とも、アプローチの違いにもかかわらず、表現は作者の性格の表れであり、制作はモデルに規定されるということである。言い換えれば、作品は制作された実体としては条件に規定される具体的なモノであるが、内容は作者が見出したもの、共鳴したもの、作者の性格の表れという抽象的なものであるということである。

▶︎おわりに

 以上、述べてきことを簡単にまとめると、お互いに交錯する要素を孕(はら)みながらも、荻原は目に見えない内側から、そして朝倉は、目に見える外側から造型を行おうとしているということであり、そのどちらからアプローチしても、表現は作者の性格の表れであり、共通の解が求められるということである。この解こそ、「彫塑とは何か」の答えである。それは、朝倉の<吊された猫>(No31)に対して高村光太郎が「彫刻は彫刻で可いのだ。(中略)何にしても此の猫は、彫刻を彫刻として扱つたところに愉快なところがある。」と述べているとおり「彫塑とは彫塑という物である」ということである。萩原と朝倉は、同じ物をちょうど反対側から、すなわち、荻原は、ロダンから学んだ「ライフ」という内面から彫塑という抽象的なものを提示し、朝倉は「像ヲ作ル術」の呪縛の中での外面的かつ観念的実体としてのモノから出発しながらも、彫塑という抽象的なものを表現し得たのである。

 日本の近代彫塑は、技術的には明治初期にラグーザによって西洋から移入された。しかし、ラグーザの滞日はあまりにも短く、技術の伝授のみであつた。また日本の姿勢も技術として受入れたことから、彫塑は大村西崖の「彫塑論』にも見られるように技術上の括りに過ぎなかつた。それが、荻原が「ライフ」という抽象的な内容を持った彫塑を日本に持ち込んだことにより、彫塑は技術ではなく美術となったのである。

 ところで、日本の美術の歴史を振り返ると、いわゆる職人芸という技術の極致が優れた美術作品を生み出している。技術を極めて美に至る。職人芸という観点からすれば、彫塑を「像ヲ作ル術」として始めながら抽象的な彫塑に至った朝倉は、日本の近代彫塑に於いて、技術を極めることにより美術となし得た、名匠ともいえる作家ではないだろうか。

 抽象的なものとしての彫塑を具体的なモノで示した荻原具体的なモノを技術で抽象的なものとした朝倉、明治時代のある一時期、この二人が同時に存在したということは、日本の近代彫塑にとつてまさに天恵という他はない

(徳島県立近代美術館主任学芸員)