オシップ・ザッキン

ザッキン・・・人と芸術

中山公男(美術評論家)

 オシップ・ザッキン(1890-1967・ロシアのリトアニア生まれ)は、近代の西欧彫刻家としては珍しく早くから日本で親しまれている。1924年34歳には東京でその個展が開催されたようであるし、二科会の在外特別会員として二科展にも出品していた。第二次大戦後も何度か日本での展示が行われている。戦前からの縁もあったろうし、フジカワ画廊美津島徳蔵氏と彫刻家の親密な友情が、これらの展覧会を可能にさせたのだろう。と同時に、東洋的といってもよい神秘的な感性がその造形のなかにひそんでいることが広い共感を喚んだともいえるだろう。

 写真で見る限り、その風貌は、彫刻家というより教授然としている。優しげで知的、しかしどこか悲劇的で孤独な表情は、粘土や木に挑む人というより、土や木や右の声を静かに聴こうとする詩人に近い。それは、彫刻の造形そのものにも見られるこの彫刻家のもつ多角的な感性のあらわれだろう。

 彼の著書『槌と鑿(のみ)』(Paris1968)は、もちろん彼の自伝的回想録としても、折りに触れての彫刻論としても、あるいは伝説的なエコール・ド・パリの貴重な証言のひとつとしても興味深い。しかし、とりわけて興味深いのは、スモレンスクでの幼年時代や少年時代サンダーランドやロンドン、パリでの青年時代の回想である。それは、シャガール(1909年19歳のとき会う)の『我が生涯』の色彩と光にみちた文章とは全く別種の、しかし貧しさの回想では類似した文章である。

 彼の文章は、自然について語るときには、とつぜんのように明るさを帯び詩的になる。だが、室内について語るときには、慎重な、ときにはおずおずとした観察家の言葉になっている。

 たとえば、彼の最初の記憶は、「窓の前にテーブルの置かれた大きな部屋の室内、テーブルの上には、私のイニシアルのO.Zが白で縫い取りされた一足の短靴」、そして二度目の記憶も同じ部屋の壁際に並んだ椅子、三番目の記憶も突き当りに窓のある長い大きな部屋である。どの部屋も暗い。しかし、ある朝、彼が目ざめると、窓からの光が、少しずつ暗がりに触れてゆく。

 彼の文章は、こうして、くりかえし、部屋や廊下について語る。サンダーランドの初等美術学校1905年15歳に初めて通いだしたとき、その市庁舎の狭い階段を上ってゆく三階の部屋に、たくさんの石膏が置かれていたこと。ロンドン(サンダーランド・母方の従兄弟のもとで過ごす)に出ていって、この無断のロンドン行きを怒った父親からの送金が絶え、生活を立てるために叔父から贈られた彫刻刀のセットをもち、家具のための木彫を制作する工場を訪れたときのことなど、つねに彼の回想は部屋を起点にしている。もちろん、ロンドンの町やパリの街並みも彼を驚かす。驚かすというよりおずおずとさせ、ときには悲しませる。

 「別な街路に入るために路を変えると、また三番目の路が続いて、メランコリックなつながりとなる」とロンドンの最初の印象を語っている。

 ロンドンで身心ともに疲れ果て、やっと父親から帰国の旅費をもらって故郷に帰り、やがて父親からパリに出る許可を得て1909年19歳パリに着いた彼は、美術学校のアンジャルベールのアトリエに入る。なんという騒がしさ、言葉もわからぬままにデッサンしていると、最初イーゼルを置いた場所が、他の画学生たちによってしだいに追い払われ、最後にはモデルもまともに見ることのできない片隅に追い払われてしまう。

 彼がやっと落ち着いた部屋は、翌年に引っ越しした一室、あの有名な「蜜蜂の巣」である。どうかしたら、この部屋は全く空っぽであったから彼は落ち着いたのかもしれない。彼は、部屋の家具調度のたぐいを、なけなしの金をはたいて買った寝台以外は、「蜜蜂の巣」の中庭に捨てられたゴミのなかから見つけ始める。貴重な粘土も石もここから見出す。アカシアの木でつくられた赤いビロード張りの寝椅子を拾ったのもここである。一本欠けた脚の代りに石を置けばよかった。アトリエの傍には、官展の彫刻家のブーシェのアトリエ群が在り、そのひとつが塾になっていた。ザッキンはここにまぎれこんで、彫刻台をひとつ盗んでいる。

 のちにザッキンがここを出て行かざるをえない羽目になったとき、手押車に荷物を積んで出て行こうとする彼を、「蜜蜂の巣」の門番が押しとどめ、「ブーシェさんのアトリエのものを持ち出していないか」どうかを調べられる。門番の目にはすべてがらくたで何ひとつ問題はなかった。だが、ザッキンは、すべて車に積んであったものはーシュのアトリエからの盗品だったと告白している。

 こうした「室内」の暗さ、漠然とした恐れさえ抱かせるなにかに対して、ザッキンにとって自然はつねに詩的で明るい。

 「蜜蜂の巣」の窓は、すべて悲しげなさんざしの樹で飾られているのだが、この樹も、「春ともなれば、花の白い雲となり、門と窓がそのなかに穴を明けている。あたり一面には高価な化粧石鹸の香りがただよう」。

 子供の頃、母方の伯父の家、スモレンスタから10キロほどの土地で、ドニエープル河の渡し舟の製造を業としている家族の許に滞在したことがある。この母とその兄は、18世紀にスコットランドからロシアにやってきた家族の子孫である。そのときの「爽やかな夏の晴れたある朝、私は伯父の大きな平屋を出て流れに治って遠くまで拡がる深い森に行った。道すがら、構築中の舟がある傍を通りすぎたが、その一隻は、今にもドニエープルに入って行こうとする巨大な貝のように見えて、小道のすぐきわに置かれていた。若い農婦たちが、日の光で輝くようなタールをその舟に塗っていた。松の燃えるにおいがした。とつぜん、農婦の一人、若いばら色の肌の娘が、刷毛でタールを塗りながら、私に、野卑な言葉を投げかけた。思いもかけず荒っぽい言葉ですっかり驚いた私は、まるで矢のような速さで森のなかに逃げこんだが、高い松の樹のために日が翳(かげ)っているように思えた。私は、小さな流れを横切らざるをえなかったが、押し寄せる小さな飛沫は、まるで真珠と戯れているかのようだった……」。

 彼は、自然について語るとき、にわかに生き生きとする。それだけではなく、部屋のなかでの行動に比べて、はるかにすばやく積極的である。ところで、この小川の流れを渡っているとき、彼は足を滑らせて、ようやく他方の岸に這い上るのだが、その足の滑ったところに驚くほど白い色をした粘土を発見する。柔らかく指の跡がつき、いくらでも展ばすことのできる土の感触こそ、彼が生涯で最初に経験した心を奪う粘土の感触であり、生涯を通じて経験し続けるものとなる。

 「ジグザグに人間の迷路に入りこんでゆく終りのない階段のようなある子供の生」という言葉が、ザッキンの回想録の冒頭の真に出てくる。「左も右も鏡がはりつめてあって、そこを通る子供の姿が無限に映っているとっても長い廊下。その廊下はあまりに長いので、いつのまにか曲っていたり、急に狭くなったり暗くなったりするのではないかと思える」。

 母方の血にスコットランド(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成するカントリーの一つ)の家系を受け継ぎ・・・といってもピョートル大帝の時代の移住だから余りにも遠い血である・・・祖父や伯父は深い森の開拓者、父のアレクセイは、ある死語の教授だというが、どんな種類の言語だったかわからない。いずれにせよ、広やかで豊かな草原や森や大河に育まれた血筋である。それに、黒海とバルト海のあいだ、ドニエープル河に沿うスモレンスクは、スラヴ族のもっとも古い町のひとつである。オシップは、その土地に住みついて、典型的なスラヴ人となることも可能だったはずである。しかし、この子供は敢えて、ジグザグの迷路を、暗い長い廊下を選ぶ。ひとつの部屋から飛びだして、果樹園に、森に入ることができたはずなのに、彼は敢えて、別な部屋、「もうひとつの現実」を選ぼうとする。破滅、滅亡に対して恐ろしく敏感な感受性をもっているのに、どうかしたら破滅しか待ちうけていないかもしれない「別な部屋」へと、ほとんど流亡に近い移住を続ける

 スモレンスクから長い旅でイギリスのダーラム近くのサンダーランドへ、そしてロンドンで、木彫りの職で辛うじて生計を立てる窮乏の生活。一度帰国したあとパリへ。それらのどの土地でも彼は部屋を変えようとし、移転しようとしている。住む部屋も、職場も、通うアカデミーも。しかし、ときには、「蜜蜂の巣」と同様、スモレンスクの父親の書斎の隅とかパリの美術学校の図書室とか、彼にとって憩いとなる場所をみつけることもある。

 第一次大戦の戦禍のなかで、フランス在住の外人として義勇軍に参加したザッキンは、エペルネの野戦病院の担架兵として勤務するが、ランスに翌1915年転戦した彼は、この土地でドイツ軍の毒ガスにやられ長く病いと飢えで苦しむ。そして、この戦争では、家を追われて流亡したスモレンスクの彼の家族たちも悲惨な死を迎えている。

 自然の牧歌性と「部屋」、明るさと悲臥たえざるエスケープとたえぎる挑戦。実際、この彫刻家は、ジグザグの道を歩まざるをえない相剋を内部にもつという運命につきまとわれているかに見える。

 もちろん、これらのことは、彼自身の言葉による回想録から抽き出されたひとつの印象でしかない。しかし、彼の造形が、ほとんどつねに純粋造形の課題と、ある種の抒情的表現主義の統一あるいは相剋の上に成り立っていることを想起すれば、私たちが、どこかで、オシップ・ザッキンという彫刻家の内面に立ち入らざるをえないことも、また確かなことだろう。

 彼の彫刻は、ある「エコール(学派,流派)」の主義あるいは技法に押しこめることは困難である。ブールデルのかなり強烈な影響と、ニグロの彫刻やキュビスム彫刻の側面からの影響、抽象彫刻にいちじるしく接近しながら、主題性、テーマ性をついに放棄することのない姿勢。そしてきわめて静止的、凝固的な作品へのアプローチを見せる一方で、バロック的、フトゥリズモ的な力動性、拡散性へと向かう彼の造形。それらは、近代彫刻史の整然とした枠に押しこめることを拒否する矛盾を見せてくれる。

 もっとも良い便法は、いわゆる「エコール・ド・パリ」の伝説的なメンバーの一人として片づけることである。

 実際、彼が、スモレンスクからパリに出てきたのが1909年19歳、翌年には「蜜蜂の巣」にアトリエを借り、1912年22歳には、そこからヴォージラール街114に移り住む。さらに翌年にはルースレ街351928年38歳以後モンパルナスに近いアサス街100bis(今日のザッキン美術館)に移るが、それまではまさにモンパルナスの最初期からの住人である。

 交友は、すでにゲイテアスクで会っていたシャガール、マックス・ジャコア、アポリネール、サンドラール、ブランクーシ、アルキペンコ、リブシッツ、ピカソ、ドローネ、シュルヴァージュ、セルジュ・フェラ、モディリアーニ、キスリングたちと、これもまたモンパルナスの星座のすべてに及んでいる

 ザッキンの母方の伯父がヴィテブスクに住んでいたことは前に触れた。1908年、ロンドンから失意のままに故郷に帰ったときにも、伯父の誘いでヴィテブスクに滞在する。そしてこの小さな魅惑的な町で多少名の知られていたのがペンという名の画家で、そのペンが、町には絵画を学ぶ青年がいて、聖ぺテルスブルグの美術学校に学んでいると語る。その画家がちょうどぺテスブルグから帰ってくる。シャガールという名の青年である。駅に近い町外れに食料雑貨店を営む父親の家は、遠くからでも塩漬けの鰊(ニシン)の匂いがしたという。シャガールの部屋は、壁いっぱいに彼の、「素朴な、しかし感動的な」絵が飾ってあったという。やがてこの二人は、パリで、モンパルナスで再会することになる。

 モディリアーニとも彼はすでに第一次大戦前、カフェ「ラ・ロトンド」で顔見知りになっていたが、1918年28歳にリュクサンブール公園で散歩中に、光るビロードの服を着たモディリアーニに出会い親しく話しあう。モディリアーニは当時、彼の初期の頭部像を彫刻し始めたばかりだったという。そしてモディリアーニが同棲した相手、イギリスから来た詩人のベアトリス・へ−スティングスを紹介したのもザッキンである。こうして同じ年、ザッキンはモディリアーニ、キスリングとともに展覧会を開催している。

 こうした出会いのエピソードは尽きない。けれども、このような伝説とともに、「エコール・ド・パリ」を「エコール・ド・パリ」たらしめているのは、彼らのきわめて個性的な造形に共通している本質が、前衛的な造形と表現主義的傾向の結合であったという事実を忘れてはならない。

 エコール・ド・パリの時代とは、キュビスム、オルフィスム、ピュリスム、フトゥリズモ、抽象、シュルレアリスムと、もっとも尖鋭な前衛の挑戦が試みられた時代でもある。エコール・ド・パリも、彼らの交友からして、必然的に、これらの挑戦に参加し、影響を受け、ときには主体的に新たな造形に挑んだ。しかし、前衛の運動が、造形の課題を中核としてひたすらに前進しようとし、あるいは、シュルレアリスムにおけるように、ある思想の明確化を求めたのに対して、いわゆるエコール・ド・パリの芸術家たちは純粋造形や明確な主義主張とは、まったく別な場所、つまり、実はもっとも人間的な、日常的な部分のさまざまな情緒にこだわっていた。愛や悲しみや、歌や祈りや訴えなど。それこそが、彼らの生活を保証するものだったからである。

 エコール・ド・パリの成員は、いずれも、なんらかの形で「デラシネ(根無し草。転じて、故郷や祖国から切り離された人)」、根こぎにされた者たちであった。必ずしも祖国喪失者でもなくユダヤ人でもなかったが、流亡を余儀なくされた者、あるいは自ら流亡を選んだ芸術家たちである。パリの「自由」が、そうした芸術家たちを生かしめる唯一の根拠であった。この自由とは、芸術的挑戦の自由でもあり、同時に、不可欠的に、日常的な自由であった。

  かといって、彼らは、パリの日常性だけにしがみついていたのではない。喪った故国の回想造形的な伝統という点でも、故国の想い出という点でも、彼らは、回想と現実の二重写しのなかに彼ら自身の世界を見ているシャガールがそうであり、モディリアーニがそうであり、スーティンが、あるいはキスリング、そしてブランクーシがそうであったようにザッキンもまたそうであった。

 そして、これらのエコール・ド・パリを評価しようとするとき、単なる感傷主義としてではなく、前衛の甘美な妥協としてではなく、パリ派の表現主義として理解し評価することが必要となる。とくに、1920年代は、前衛的造形と、その対立物としての情緒性とが結合した時代であり、その時期の美術の豊かさと成果は、その結合に由来するものだったということができる。

 第一次大戦の虚脱からようやく立ち直ろうとしたヨーロッパは、人間性の回復、日常的情緒への復帰、「物」の感性への還帰を求める。キュビスム的技法をひとつの根拠としながらアングル風の古典主義へと転回しようとしたピカソがそのもっとも良い例である。人間が、自然が、物が、ふたたび発言し始め、それらにまつわる情緒が、神話が、伝説尖鋭な造形と結びついたエコール・ド・パリの表現主義、そしてザッキンのそれも、そこでこそ生きることができた。

 1920年代のパリの美術における人間、物とそれにまつわる情緒の回復は、ふたつの方向からの刺戟を受けていた。ひとつは、地中海地域の古典的な感性である。ピカソが、バルセロナで、アンティーブで、そしてイタリア旅行で、堂々とした人間像へと転回する契機をえたように、多くの画家、彫刻家たちは、地中海沿岸に接触することによって、物と人間に対する視覚を、それらに関する情緒を回復させた。20年代「絵画の帝王」とさえ呼ばれたルノワールたちが、早くから地中海の新鮮な感性によって制作していただけではなく、若い芸術家たちが、一年のある時期を地中海沿岸で過ごすことが通例とさえなり、北の抽象的理念に、色彩と情緒と物の具象性を附け加えた。

 もうひとつの刺戟は、ロシアから、ウクライナの大草原からやってくる。シヤガール、スーティン、キスリング、あるいはカンディンスキー、そしてザッキンたち。 そこでも、自然は、たとえ象徴的な記号に圧縮されていたとしても決して死んではいない。スーティンのように、森に、草に、腐肉に、霊の存在を、生の証しをみつめる画家すらいた。地中海沿岸の感性はなんらかの形で古典的人間主義に結びついていたが、逆に、ロシアの神秘な魂は、イコンやあるいは大自然の霊的なものと結びついている

 こうした要素によってこそ、1920年代は豊能でありえたとすれば、ザッキンの彫刻の意味もそこにある。

破壊された都市」の雛形・・・オランダのロッテルダム市は第二次世界大戦中の1940年5月14日ドイツ軍の爆撃により壊滅的な破壊を受けた。11,000以上の家屋が破壊され、78,000人が家を失い、多くの死傷者を出した。1946年ザッキンは古い友人を訪ねてオランダに行った際にこの惨状に出会う。「ロッテルダムを通り過ぎようとした時、列車の窓から私は奇妙で信じ難い光景を見た。そこには広大な荒野のみがあった。それはまるで映画を、破局を描いた映画を見るかのようだった。火によって黒々と焼かれた教会の廃嘘がそびえ立っており、まるで火山から生まれ出た有史以前の野獣の歯のようだった。私が見たものが、私を眠らせなかった。それはまるで、私自身が大虐殺に襲われたかのようだった。1946年のある朝、私は高さ2フィートの彫像を赤粘土で型づけ始めた。これがロッテルダムの廃墟に対する私の最初の反応であった」。

 こうしてザッキンのロッテルダム記念碑の連作が始められる。《破壊された都市≫連作の第一作は、ミュンへンとベルリンで開かれた展覧会に出品されたが、この作品はテラコッタで作られていたために、パリへの帰途、粉々になってしまった。ザッキンはこの作品のレプリカを制作し、後にブロンズに鋳造された。

上図の《「破壊された都市」の雛形がこれである。ドイツ軍の爆撃による惨劇を後世に伝えるために、またこれを乗り越えて復興の象徴とするためにもオランダおよびロッテルダム市は、何らかの記念碑を必要としていた。記念碑建立の計画はアムステルダム市立美術館長サンドベルグを中心に1948年に開始された。1951年の春、ザッキンはこの委員会から20フィートに近い高さのブロンズによる記念碑の制作を依頼された。この依頼を受けて、彼はまず高さ8フィートの作品を制作した。今回出品される<破壊された都市》は、これと同型のものである。また、この年、上半身のみの《「破壊された都市」のトルソ≫も制作されている。1953年5月15口、ロッテルダム港に近いルーフェハーフェン北岸、オブロング広場において除幕式が行なわれた。

 上方に向けられた顔は苦痛に歪み大きく開けられた口は何事かを叫んでいる。喉は吐き出されるべき息によって膨らんでいる。巨大な腕が大きく上空に向かって高く差し伸べられ、筋肉が強く隆起している。手の平の筋肉も緊張を見せている。そしてなによりも強い印象を与えるのはこの像の胸の部分である。上半身は胸の真ん中で爆発があったかのように引き裂かれている。厚い鉄板が砲弾によって爆破されたように、鋭い裂け目を見せている。それは我々に爆撃の激しさを喚起し、傷跡の深さを突きつけてくる。足元の木は、焼け残ったために一枚の葉もつけていない。またそれゆえに冒涜された生命のイメージを与えるのである。像の太い両足は、強く大地を踏み締めている。それは、苦痛に歪み傷ついた上半身を支え、力動感に満ちた安定を生み出している

 ザッキンの言うとおり、この像は「恐怖と激情を表現しており、空に向かって腕を差し上げ、傷ついた身体から戦慄の叫びをあげているのである」。

 この記念碑は何を表現しようとしているのか。この記念碑の意味は何か。ザッキンはこう自ら問い、この問いに自ら次のように答えている。すなわち「それは、神の恩寵によって生き、森のごとく自然に育ち行くことのみを願っていたこの街に加えられた非人間的な苦痛抱擁しようとしているのである。それは、隣人に歴史上最も非道な拷問を加えたこれらの殺戮者たちの残虐行為にたいする恐怖の叫びなのである」。

 彫刻が、とりわけこのような表現主義的な強い個性を持つ彫刻が理解を得ることはたやすいことではない。当然のように、設置当時、オランダの新聞紙上でこの記念碑について熱い議論がまきおこつた。しかしこのことによって、この記念碑が人々によく知られるところとなった。また、現代美術が有効な表現の方法として公衆に認知されるきっかけとなったのである

 この記念碑がロッテルダムの人々によって受け入れられるようになった思いがけない有様についてザッキンは次のようにインタヴューに答えている。「雪がたくさん降り、私の彫刻を見ていた子供たちが雪だるまを作り始めた。その雪だるまの胸には[記念碑のように]穴があいていた。新聞はすばやくこれを写真に撮り、報道した。これが、この街に加えられた深い傷を忘れ得ないオランダの人々の心の内に響いたのだ。突然私の彫刻は明瞭に理解され得る言葉を彼らに語り始めたのである」。

 近代において芸術は、宗教や政治の支配から離脱し、自らの自律件を獲得しようと闘い続けてきた。彫刻においては、とりわけフランス中世の造形やアフリカ黒人彫刻、そして絵画におけるキュビスムからの示唆を受けつつ前衛彫刻家たちは、文学的・宗教的主題を拒否し、作品そのものの量塊やその構造によって自律した空間を創造しようとしてきた。

 対象の単なる模倣・再現から離脱し新しい多様な素材を駆使し、幻想と抽象を大胆に作品中に導入することによって、現実を拒否し、まったく別の時間および空間を自らの手によって創り出そうと格闘したのである。

 デュシャン=ゲイヨン、アルキペンコ、ローランス、ガルガロ、アルプ、ゴンザレス、ペグスネルらが新たな彫刻、造形の創造者であった。そしてまたザッキンもその一人であった。

 たしかに抽象芸術は現実のイメージを拒絶することによって完全な自律性を手にしたとは言える。しかし、ザッキンの採った方法はこれとは全く逆のやりかたであった。ザッキンの作品の内にいかに抽象的な、無機的な形態が見られようと、作品のすべての要素は必ず現実の世界に由来するものなのである。いかに直線的かつ無機的な表現であろうと、必ずそれは自然の存在のうちにその源泉を持っているのである。それは、現実との関連をまったく持たない抽象ではなく、存在の有様をかなう限り突きつめていくところに生まれてくる抽象的表現なのである

 ザッキンにとって抽象的表現は、存在の真実の姿を最も端的に語ろうとする時に、必然的に生み出されてくるものであった。そして、ここからザッキン彫刻のもう一つの特徴が現われる。

 ザッキンの彫刻作品においては、前述したような抽象的かつ無機的なフォルムの構成の中に、必ず具象的なフォルムまたは有機的なフォルムが付加されることによって、作品に豊かな意味が与えられ、全体が生き生きとしたものとなる。

 ザッキンの劇的な造形とその表現主義が、より高く評価されたもうひとつの時代がある。第二次大戦後、1940年代末から1960年代前半にかけてである。大戦中、アメリカに移住したザッキンは、1945年55歳にパリに帰っている。そのすぐ2年後、1947年に、彼は、オランダの友人、医師のへンク・ウイーゲルスマの招きを受けて旅行する。このとき汽車のコンパートメントから、ドイツ空軍の爆撃によって徹底的に爆撃されたロッテルダムを見る。友人の医師の家族もこの爆撃によって全滅していた。見渡す限り瓦礫と傷ついた舗道で、その道のあいだに名も無い灰色の植物が、下水溝に流れる海からの水の混じった水を求めて生きている。その光景が、《破壊された都市≫の模型となり、やがて、1953年のロッテルダムの記念碑の除幕となる。ロッテルダムは、彼が初めてスモレンスタを旅立ち汽車で最初に着いた港、イギリスへ少年を連れて行った船の港であった。

 1949年には、パリ国立近代美術館で、大規模な個展が開催され、翌1950年には、ヴェネツィア・ビエンナーレで大賞がザッキンにあたえられる。この前後というのは、たとえば、ビュッフェやジャコメッティたちがもっとも声価をえた時期でもある。大戦と戦後の悲惨さが酷薄な人間像として表現され、それに対する共感が広くえられたためである。

 しかし、周知のように、不条理をみつめようとするこの傾向は、より尖鋭な、いわば非人間主義を造形の内部に閉じこめた抽象美術の傾向によってしだいに駆逐されてゆくこそして60年代、抽象芸術がしだいに主導権を握るにつれて具象芸術がかなり長期の停滞を強いられたことは、現代美術史のひとつの経験となった。相対的にザッキンの評価も若干の低迷を経験せざるをえなかったことは事実だろう。

 イオネル・ジャヌーによるカタログ・レゾネによれば、現存のザッキンの作品の最初期に属するものは1908年作の4点であるが、うち2点は、ザッキン自身によって破毀(はき)され、もしくは未発見となっている。その後の作品においても、破毀もしくは未発見が多いようである。1908年作の《英雄の頭部≫ジャヌー・カタログ・上図)はアステカ文明の彫像を想わせる強さをもち、頭頂部の小ささや、実直ぐな太い鼻掛ま明らかにプールデルを連想させる。

 一方、彼は、その回想録で「私は、自然に則って制作することをしなかった」と書き、肖像の場合でも「別なもの」を求めたとしている。ブールデル、デスピオ、そしてしだいに若い芸術家たちを刺戟しだしていた民俗彫刻、とりわけアフリカの黒人彫刻が彼の造形に取り入れられる。もちろん同じ潮流のなかで仕事をするブランクーシ、リブシナノ、モディリアーニたちの制作との相互刺戟もたえず観察されるようである。アンデパンダン展にブランクーシやアルキペンコが出品していたが、そうした展覧会を見ての帰りだろう。「展覧会を見て夕方遅くアトリエに帰りついた私の東は思いもかけない新しいことや、あまりにも明白な理念でいっぱいになっていた。私は、まるで臼で挽かれた穀物のように打ち砕かれていた」。1913年、ルースレ街にアトリエをもっていた時期、現代彫刻の革新の時期である。こうした新しい造形、新しい理念の模索は1917、18年頃まで続く。

 1919年、この頃、ザッキンの彫刻は、ある種の確定性、静けさ、そしてその静けさのなかからの語りかけを見せる。模索の時代が終り、ようやく彼の独創的な作風が生れだした時期といえるだろう。もちろん、ここにも、前年から親交していたモディリアーニたちとの造形上の接触の痕跡をうかがうことができる。しかし、彼のみつめていたプリミティヴイスムが、ここでは沈黙、凝固、不動性の詩を獲得する。面、(リョウ・かど)は単純化され、しかも有機的なつながり、複合的な面の層のなかで、確定性をそなえる。そしてその静かな凝固した形態にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、人は、ここから情緒の静かな浸出を認めることができる。本展出品作でいうなら《ギターをもつ若い娘≫下図)など、1919−22年の作品群である。「彫刻が創造するオブジェは、それを見る人にある情緒をあたえなければならない」とザッキンはいう。その表現がまうやく確定するのである。

 彼は、粘土、木、石を自由に扱った。しかし、この時期の彼の技法を決定しているのは木彫であり、木彫の面、稜、ヴォリュームであると思える。彼は、木であれ石であれ、どこかで見つけた素材を相手にした。だが、ある大木をアトリエに運びこんだとき、その木をみつめ、その木の声をききとったという。彼のなかにはスモレンスクの森を拓く開拓者、森の声を聴く農夫の心が宿っている。

 1922年の《立つ女≫(上図右)には、半球形の凹面、平行した三角形の溝があらわれている。彫刻への凹面の利用は、黒人彫刻の刺戟以来のものである。凹面、あるいは空虚な空間を利用し、新たな造形空間を創造することは、当時のすべての若い彫刻家の目的であった。

 この凹面とアコーデオンの蛇腹型の溝の利用は、1920年代前半には、方形、長方形などと組み合わせられ、後半には、流動的な曲面と組み合わせられてザッキンの彫刻の特性を形づくる。

 扇やアコーデオンの波型と角ばった立方体を組み合わせたかのような作品群は、ピカソの著名2点の大作《三人の音楽師(1921年)などを想起させる。主題そのものも楽師であり、1920年代前半の佳き時代にふさわしい。ザッキンは、この角ばった立方体を放棄して、たとえば1925年の《ヴィオラを持つ女≫(上図右)の柔らかな曲線の導入を試みたときのことをこう回想している。

 「私はといえば、漠然とではあるが、キュビスムの禁欲的な姿勢が色彩を追放して若々しい欲望や挑戦を不毛のものとし、自由な思考の救済者である潜在的な狂気を侵してしまうのではないかと思っていた。私は、自由で気狂いじみた無限を前にして立ちすくみ、他の同じような直線に結びつくことになる直線に敵意をもって行きづまっていた。私は窒息していたのだ」。ザッキンは、つねに自らの安定に行きづまり、別な部屋、別な情緒を求める流亡者である。

 曲面の体系は、1930年代40歳まで、しだいに複雑化して、空間を錯綜させつつ展開してゆく。とりわけ、いわば粘土の厚い板を切断面を明確にしたまま巻きつけたり、波打たせたりして構成する手法が加わり、それが彼の彫刻空間に変化と屈折をあたえる。そうした錯綜、変化、屈折は、同時に、彼の思考なり抒情の錯綜を物語っているともいえるだろう。たとえば、《小さな使者>(上図左)とか<使者>(上図右)

<使者>は、1937年パリで開かれた万国博覧会の「異国の木のバヴィリオン」のファサードを飾る彫像として制作された(原作は木彫)。奇しくもリプシッツはこの博覧会のために記念碑的な大きさの《怪鳥を絞め殺すプロメテウス≫と題された石膏像を制作している。リプシッツと同じくザッキンも後年、情念に満ちた動物の造形によつて、理性を抑圧する狂気の存在を表現しようと試みるが(≪不死鳥−フェニックス≫、1944年)、《使都が私たちに伝えるのはむしろ希望のメッセージである。いずれにせよリブシナノの作品であれザッキンのそれであれ、すぐれた表現には第二次世界大戦勃発前夜の芸術家の危機意識が満ちている。

1935年にザッキンは木彫りで大作《ホモ・サピエンス≫を制作する。古代風の衣裳に包まれた二人の人物、彼らの顔はそれぞれ多様である。左側の人物の顔は二つに分かれ、左半分は巻物に、右半分は古代風の円柱に姿を変えている。また右側の女性の顔は日時計そのものとなってその表面に目と口が描きこまれている。書物・建築・発明。これら二人の人物が、人類(ホモ・サピエンス)にとっての芸術と学問のミューズたちを具現化していることはあきらかであろう。ブロンズに鋳造されたこの《ホモ・サピエンス≫では、木彫の先の作品と比較してみると、波うつような衣の襞(ひだ)に覆われた膝の上にのる、三角定規・・・いまや帆をつきたてて走る船のようにもみえる・・・そしてコンパスを抱えているその姿に変更はないが、一方の人物の顔の一部は、円柱のままに残されているのに対して、右側の人物から日時計のイメージは消え、普通の女性の姿に変えられている。その女性の淋しげな表情は何を意味するのであろうか。人物に残された円柱のモチーフには、暗い時代にあっても、人類の古代からの知恵の有効性を信じたザッキンの信念がこめられているのではないか。  

 あるいは《ホモ・サピエンス≫(上図左)といった哲学的な思考が主題となり、他方では《ディアーナ≫(上図右)とか《ヴィーナス誕生≫、<三美神>(cat.no.47、48)といった神話的主題が登場する。

ザッキンは、三人の女性像を多く制作している。≪三人姉妹または三美神≫(1926年)≪コンチェルト≫(cat.no.7)、《コンチェルト≫(1928年)、《マェナデスまたはフリアユ≫(1929年)、《ヴィーナス誕生≫(下図)、《三美神≫、《三美神(大)≫、《放蕩娘の帰還≫などをあげることができる。

 基本的なモチーフとなっているのは、古来〈三美神〉と呼ばれてきたものである。ギリシア・ローマ神話においては、彼女らはアフロデイテ(ヴィーナス)に仕える下級の女神たちである。へシオドスによれば、「輝き」を象徴するアグライア、「喜び」を象徴するエウプロシュネ、「花盛り」を象徴するタレイアの三人とされる。この三人は豊能の大女神が三分裂して生まれてきたものと考えられ、豊餞の好ましい面すなわち恩恵を与え、受け、返礼することを象徴するものとされる。それゆえ、典雅と優美と友愛の擬人神として、ギリシアのヘレニズム期に生まれて以降、今日に至るまで多くの作品に繰り返し様々な形で表現されてきたのである。 このく三美神〉のモチーフは、神々のために歌いかつ舞う姿で描かれることが多く、またラファェルロが描いたように外側の二人がこちら側を向き、真ん中の一人が背を向けるという形で描かれることも多い。 ザッキンの作品のうち、1926年制作の《三美神≫は、この〈三美神〉のテーマ系列のうちでも早い時期のものであり、直線が多用されていてキュビスムの影響を比較的強く見て取ることができる。しかし、同年制作の《コンチェルト≫および1928年制作の同じく《コンチェルト≫において、顔の表情や腕の線の柔らかさ、また存在を分析的にではなく全体的に捉えようとする指向などに、キュビスムの影響から脱し自らの資質に忠実に生きようとするザッキンの姿を見ることができる。

 そして、これらの主題的にも造形的にも複合的な作品系列のあいだに、なめらかな肌をもち、なめらかな輪郭線をもつ頭像や女性像がまぎれこんでいるのも観察される。ザッキンは、つねに、両義的なものの支配を試みようとするのである。

 こうして1920年代後半から1940年まで、彼の多角的な創造が試みられる。30年代末には、アポリネール、ロートレアモン、アルフレッド・ジャリ、アルテユール・ランボーといった詩人たちの記念碑の雛型模型が数多く制作されていることは、彼の詩想がより内面化していったことを物語っている内面の複雑化は造形の複雑化を意味する。そして、内面の混迷は、必ずしも詩想の醇化そのものではない。時代は急速度に暗くなりつつあった。彼の詩想は、大戦前の社会的背景を反映するかのように、彼にとって生得的な内面の迷路へ入りこむ。造形はしだいに謎めく。1940年の作品《供物≫(下図)は、怪物的ですらある。おそらく、戦禍に捧げられた供物(くもつ)を示すものと思われる。

 

 この怪奇な謎は、難を避けたアメリカで、<戦士><囚人≫の形態表現にまで高まり、あるいは《泣き叫ぶ道化師≫(上図右)へと展開する。

1906年にはじめて訪れ以後長くパリに滞在するイタリア人ジーノ・セヴュリーニは第一次世界大戦前からイタリアの仮面劇「コメディア・デテルテ」(セヴュリーニの友人であった詩人アポリネールはこの劇を『イタリア喜劇。と定義している)に熱狂していた。彼は第一次世界大戦が終わると、好んでこの仮面劇の登場人物たちを自身の作品に登場させる。

 しかし、セヴュリーニが、アッレッキーノ、プルチネッラ、これら「コメディア・デラルテ」の登場人物たちを配する絵画空間は、幾何学的に分割され構成された数理的なものであった。《カルタ遊びをする人々≫(1924年)について、セヴュリーニは「セザンヌの同名の作品を、自分自身の[画面]構成の幾何学的『手段。によって制作し直そうと望んだ」と述べている。数理的原則に従って分割され構成された画面に置かれると、これらの人物たちは、あたかも魔法にかけられたかのように不思議な不動性を帯び、その空間は魔術的な雰囲気をかもしだす。舞台の登場人物のように描きこまれた人物たち。この戦中の文脈のなかに、戦後の「破壊された都市」や《人間の森≫が生れる。それらは、叫び、苦しみ、絶望のすべてのもつ鋭角性と、それにもかかわらず復活しようとする人間性の証言となっている。

 しかし、そこにも、ザッキンのもうひとつの貌(ぼう・かたち)があらわれる。ファン・ゴッホをテーマとする一連の作品群である。彼は、彼自身の人生と制作とを、この「呪われた画家」に擬していたのだろう。「何カ月ものあいだ、ザッキンは、ファン・ゴッホとともに生き、考えた」とプラクスは語っている。彼は、つねに対象に同化する。ファン・ゴッホも、対象に合一することによって自らの世界を創造する種族の芸術家である。ザッキンは、対象に同化する以前に、ファン・ゴッホの苦闘に自らを見ていたにちがいない。無数の溝、いわば存在そのものの亀裂というべき溝を全身にもち、おそるべき質感を肌にそなえるゴッホ像、およそゴッホらしからぬ長身のやせこけたその姿は、ザッキンの自画像とさえいえるだろう。

 彼は、年とった自らを「老いた密猟者」になぞらえ、そしてオルフェになぞらえている。

 彼は1948年プチ・バレ美術館を訪れ、かつて彼が制作した高さ2.5mの喩の木の《オルフェ≫を見て不満をおぼえる。「オルフェは単なる音楽師ではない」と。オルフェとは、人類が大昔に経験したある「できごと」だと考える。人間がまだ四つ脚で歩いていたとき、森のざわめきやけものたちの叫びの混然とした状態のなかで、楽器を生み、混沌を鎮めようとした、その「できごと」をいうのだと彼は考える。そのオブレフユ現象を想起するためには、人間そのものが楽器となり、最初の時代の不安な叫び、しかし旋律のある音の古い記憶を呼びさまさねばならないと。こうして彼の庭に立つ《オルフェ≫像が生れる。

 ザッキンが、グランド・ショーミュールのアカデミーで、ブールデルの後をひきつぎ、多くの日本の彫刻家を育てたことは周知の事実である。また、戦後ザッキンが来日し、その助力によってロダンとブールデルの展覧会が開催されたことも、一般には知られていない事実である。さらにその背後に、フジカワ画廊の美津島徳蔵氏が、来日したザッキンを世話し、その親交から、ザッキンの助力がえられたという事実があったことも記しておくべきだろう。

 奈良、京都、高野山を廻ったザッキンは、日本の仏像についても、実に鋭い直観的な判断と、意外なほどの博識を示したという。しかし、ザッキンが、小川から丸い石を拾って、美津島氏の眼の前につきだし「弘法大師」とおどけてみせたという話が興味深かった。彼は、土から、森から、石から生れ、そして弘法大師ではないが、悲劇のオルフェたるべく運命づけられた彫刻家であった。