椅子と剣持勇の「近代」

■椅子と剣持勇の「近代」

鹿野政直(早稲田大学名誉教授)

▶︎産業工芸という場で 

 剣持勇(1912−71年)に向きあわせてくれたのは、一昨年さいわいにも入手できた全一巻五分冊の「剣持勇の世界』)であった。自死ののち2年にして書籍のかたちに凝縮して示された剣持の生の記録は、彼の死がもたらした衝撃の深さを抗(あらが・争う)いがたく留めつつ、「デザイン」というジャンルを地でゆく装丁と造本をもってわたくしに迫った。

 陸軍将校の鋭(えい・先がとがっている)を父とする次男として生まれ(母はとみ)、長男につづく意味をもってかと名づけられ、14歳(数え年)のとき次姉秀子弟仁とともに「1. 両親ノ言二従フベシ云々」以下全13か条の遵守を血判書で誓ったという経歴からは、厳格な家風に染めあげられていたというイメージがでてくるこがその一方で、遺されている小学校時代の絵入りの日記(剣持恭子氏蔵)には、都市中流家庭の暮らしぶりがよく争ろるとともに、少年の美術嗜好も示されている。

 これは、中学生のころ彫ることや描くことに巧みであったとの兄弟たちの回想とも一致する。その延長線上に1929年東京高等工芸学校・木材加工科入学があったのであろう。そうしてデザイナーとしての剣持勇は、32年の同校卒業、仙台市所在の商工省工芸指導所入所とともに出発する。

 級友の多くが就職先としてデパートの家具設計室や工芸学校を選ぶなかで、工芸指導所は、若い剣持にとって念願の職場であった。彼は卒業前年の夏をそこで研究生として過ごしている。「そのひと夏で私は工芸指導所の雰囲気がいっペんに好きになり、念願叶って採用となったときの喜びは、仙台という東北の地へ去るなどという淋しさを一度に吹き飛ばしてしまった」〔そこからは、指導所で創作活動にはげむ機会をえて精進したいとの想いが伝わってくる。入所して第三部(設計)の助手に配属されるが、仕事が第一部(木工・漆工)の成果の見本制作デザインに止まるのに飽きたらず、具申して、「日本人が日常に必要な家貝の研究と試作に真正面からとりくむ仕事を認めてもらった」というところにも、そうした初心が浮きでている。

 まだその言葉もなかったに等しいデザインの分野に身を投じようとする志は、国策との接点、そのもとへの参集を不可避とした。剣持が入学した東京高等工芸学校も、彼が入所した商工省工芸指導所もともに、1920年代における「工芸」をめぐる環境、より正確にいえば政策の激変を象徴する国家機関であった。

 1922年創立の東京高等工芸学校は、それまでの同種の教育機関がいわゆる美術工芸に重心をかけるなかで、工芸図案科・金属工芸科・木材工芸科や印刷工芸科さらに同科内の写真部から成り、生産と工芸の結びつきをめぎした。名人気質の手仕事という工芸イメージを打破するように、背広に黒いソフトを学生の制服とし、「木工場には木工機械が並び、塗装工場もあるというこの学校は、「ベンチ・ワークを重視し、また輸出を伸ばさねば富国強兵につながらない、という校是(あるいは国是)から英語にもかなり力を入れていた」という。そのような特色が、ひらかれてゆく工芸の新しい分野をめぎす若者たちを惹きつけたに違いなく、剣持もそんな一人であったのであろう)

 1928年に開設された工芸指導所は、はるかに直接に国家意思を体現していた。「我国在来ノ工芸的手工業二対シテ、工業二関スル最新ノ科学及技術ヲ応用利用スルコトラ指導奨励シテ、ソノ製品ヲ海外市場二輪出スル二適当ナラシムルコトハ甚ダ必要」とするとともに、その任務を、「東北在来ノ工芸的手工業ノ産業化」によって遂行しようとの、開設に当っての商工大臣告辞に、その目的はまぎれなく示されている。農商務省から独立してほどない商工省にとって、独自性を打ちだす事業の一つであった。

 この地には、豊富なブナ材を用いて曲木家具の製作をはじめていた湯沢の秋田木工や、家具・建具の専業者へ踏みだしはじめたのちの天童木工などの地場産業があったが、それらはこの国家機関の「指導」の受け皿となった。また東北帝国大学金属材料研究所との協力のもとに、地元仙台の経済界の有力者たちに東北工芸製作所を発足させる機運をつくつた。さらに、官民一体での工芸振興団体や作品展を出現させていった。とともに東京高等工芸学校は、剣持をふくめ工芸指導所への有力な人材供給源となった。

 制作者たちのなかにあって「工芸」の概念は、1922年代から32年代にかけてはげしく揺さぶられつつあった。「新興工芸」「実在工芸」「民衆的工芸(民芸)」などの表現が浮上して、機能性・実用性・民衆性に新しい美を求める運動が、いわゆる美術工芸に収斂されない工芸観を、それぞれの角度から披瀝(ひれき・心の中の考えをつつみかくさず、打ち明けること)してきていた。また相容れないとされてきた「生活」と「工芸」が結合して、「生活工芸」という言葉が使われるようになった。そのなかにあって商工省は「産業工芸」の旗を立てたことになるこ「工芸」観のそんな変動期は剣持に、主体としてのデザイナー志望が国策としての産業工芸とドッキングし、先頭グループの一人として養成され、スタッフとして出発するという人生をもたらした。一方、1928年に発足した型而工房は、日本のバウハウスを自任しっつ、商業主義が政府とともにいかに民衆工芸の美化を叫ぶとも、所詮「美術工芸品のにせ物」を生みだすほかないとの認識から、「科学的、経済的、生産的価値ノ合理化ヲ実現」することによる新しい機能美の量産=規格化という旗印を鮮明に掲げた

 東京高等工芸学校のもつ諸学科のなかで剣持が選んだ木材工芸科は、伝統産業ともっとも深く関連する学科であった近代化が構造用材料の金属化を推進して木材はその分だけ過去性を帯び、またそうした金属化で優位を詰る欧米にたいしては‥日本“を濃厚に湛えるとともに、国内的には日常性になじむ素材であった。同時に木材工芸科は、素材にたいして、鋸・かんな・のみ妄り・かなづちなど木工工具に止まらず、のこぎり盤・穴あけ機械・かんな撃穿削機械・削取機械・研磨機械など木工機械を用いる点で、木材工芸の観念を大きくはみだす性質をもたぎるをえなかった欧米で開発された接着剤や曲木技法をも活用しっつ、それは、一木でなく合板を、また一品かぎりでなく量産を、積極的に価値とする視点を押しだした。木を素材として「産業工芸」に向うことは、伝統や在来に深く根ざしつつ、そのなかからの革新をという覚悟と方向を否応なく準備した。

 そのなかでも剣持が張りつくことになる椅子という家具は、独特の位置を占めている。腰掛を含め近代化とともに公的な空間から始まった椅子の使用は、いわゆる文化住宅を媒介として私生活の場に浸透していったが、それは、「椅子かたたみか」との慣用句に示されるように、生活様式の(いかに部分的であれ)茜洋化“を象徴する意味をもった。その分だけ伝統と切れており、モデルは欧米にしか求められなかった。それゆえ、もしそのような歴史的条件に思いを致しつつ、日本で椅子の製作に携わり、しかも美と実用性を兼ね備えようとすれば、深く在来性に根ざす木工という分野で、依拠すべき祖形をもたないまま、欧米と拮抗しうる、あるいは欧米での評価に堪えうる造形をめぎすという覚悟を必要とした。と同時に、椅子を軸とする”生活改善”のすすめへの決意とも連なっていた。

 剣持がどのような発心のもとに木材工芸の、それも椅子に到達したかの片鱗は、のちに、「椅子が特に日本では粗悪であるとの理由で初めの課題として選んだ」と語られている。ことさらに凹部を選んでの出発であったじそれだけに椅子は、彼にとって「近代」への想念を発酵させ、それと格闘するに当っての酵母となった。入所の翌年から、工芸指導所の機関誌『工芸ニュース』や『工芸研究』に、「単位家具に依る椅子式化」「椅子の標準寸法に関する研究」「椅子の規範原型」木製仕事椅子」などの文章を発表しはじめている。自信と野心に満ちたインテリア・デザイナーとして、と付けくわえるべきであろう。勤務先や同僚への鬱憤、上司に逆らってまでの椅子研究への固執、模倣への拒否などの脈打つ当時の日記にいう。「競争者来れ。俺の工芸指導所における地盤は、設計技術者として、室内建築家としての特徴そのものに存在する」。やはり日記の表現を借りれば、「現代の技術家的芸術家」として生きようとした。

 その場合、剣持にとって痛棒をともなう指針となったのが、ブルーノ・タウトの教えであったことはよく知られている。工芸指導所の展示を酷評したことによりかえって同所に招かれたタウトは、「作品はそれ自身のうちに一個の世界を包蔵」するとの信念のもと、欧米の模倣に類する作品や輸出向けに迎合的な作品を「いかもの」として峻拒し、「近刊の外国稚誌に散見する流行に追随すること」でなく、「優秀な日本の伝統的工芸文化を現代の新しい諸条件に適応させることによってのみ、『日本型』ともいうべき独自の新形式を創作して、国際的標準から望も優秀な製品を世界市場に供給することができる」と主張した。彼は、ドイツ近代家具の図書丸写しの試作椅子を取り上げると、「この椅子にみえる椅子ならざるものと床にたたきつけ、所員たちに「試作は繰り返すように、そして、その度に構造家、経済人、主婦、美学省からなる総合的批判を経るように」と教えて倦(う・失望)まなかった。

 すくなくとも剣持には、この教えはこびりついて離れなかったようである。彼をふくむグループは冬の鳴子温泉で、「雪を媒体とする坐姿における人体曲面の実験」に取りくむことになる。この実験はタウトからは一笑に付されるほどの評価しか受けていないが、ともあれ創造への第一歩ではあった。

▶︎「戦ふ工芸」と規格化

 だが時勢は工芸指導所に、「産業工芸」を掲げての輸出振興・不況克服・生活改善という本来の目的に専念することを許さなかった。1931年の「満州」事変にはじまる戦時体制化は、37年の日中戦争の全面化以後総動員体制をもたらし、さらに41年のアジア太平洋戦争へと拡大深化する。そのなかで工芸指導所は、官庁の一翼をなす機関として、工芸をとおしての戦争への貢献を業務とするに至る。『工芸ニュース』を改称した『工芸指導』の44年段階での自己規定を借りれば「戦ふ工芸」となった。

 『産業工芸試験所三〇年史』の記述や、眺めることのできた『工芸ニュース』の記事、さらに元所員たちの回想を繋ぎあわせると、「戦ふ工芸」はおもに、代用品研究にはじまり、戦時型生活用品いう規格化とその製作、南方工芸の研究木製飛行機(実用にならなかった)や木製のおとり機の製作などとして操りひろげられている。それは、竹材をも含む木工部門を、あらたな接着剤開発の使命を負う化学試験部門とともに、一挙に脚光を浴びる存在へと引きだした。

 剣持勇も、その機構内の存在として、工芸の戦力としての活用に邁進することになった。商工省が軍需省となり、そのなかで剣持も軍需技師に任ぜられて、きびしく木製飛行機の製造を指導したことなどが、戦時下の彼について語られている。

 だがその一方で戦争は剣持に、家具についてのそれまでの研鑽の結果をまとめる機会をもたらした。唯一の単著となつた「規格家具』が、いうまでもなくそれである。戦時下で迫られる住生活の”合理化“が、家具の規格化を必然の要件とし、その分野での若き精鋭に、理念上技術上の指針を求めるという機運を作ったのであったろう。

 その主題に向きあって剣持は、国民の生活を困難に追いこまずにはいない戦争を、逆に生活の革新を図るべき好機と捉えようとした。全体への視野と論理学的明快さの能力を示したこの著書で、彼はいう。1940年のいわゆる「新体制」以来、生活の合理化が、旧来の衣食住の様式に厳しい批判をくわえつつ進展しているが、「生活の科学化にせよ、美化にせよ、合理化にせよ、生活用具、家具を考へに入れずしては徹底する筈がない」。そのようにのべて剣持は、日本の家具什器が、ナチス・ドイツの実現してきた「倫理性、科学性、芸術性の凡てを失ってゐる」とし、その原田を欧米の作品の「形式的な模倣に陥り、混乱を来した」ことに求めつつ、日本独特でしかも「世界に共鳴せらるべき」造形理論としての「簡素美」を提唱した。そのうえ公定価格設定は製品。商品の質の低下を避けがたくもたらしていた。それらの悪条件を克服する方途は、規格化による量産のほかはないこそこには、蔽(おお・被せ隠す)いがたくなってきていた物資の不足品質の低下を、幾分でも食いとめるとともに、生活合理化の契機としようとの逆転の発想が働いていた

 きわどい論理の組み立てというほかないが、戦時体制は、ナチス・ドイツヘの同調性をも論拠の一つとして剣持に、生活の科学化・美化・合理化の推進という目標を立てさせたことになる。三者を並べる表現には、科学化・合理化という機能性の追求に止まらず、その条件を背負うがゆえの新しい美の創造に繋げようとの抱負がこめられている。戦争は、剣持にとって、生活に焦点を当てて近代」の達成への情熱を描きたてる事態との意味をもった。

 いかに「近代」を貝体的に作品として実現できるかの試金石は、剣持の場合、当然、椅子であった。「椅子の科学」が今日まで欠けていたと彼はいい、「椅子は人体の雌型」との理念のもとに「日本人の為めに良き椅子の定型を削らん」として、「人体の解剖学的知識」をも援用しっつ繰りかえされた研究の成果が、叙述の内容をなしている。その成果は、用途に応じて人体にもっとも快適で疲労度も少ない、つまり機能的でしかも美しい。「簡素美」の作品へと結晶してゆくべきものであった。

 こうした論議は、椅子や作業台の、「年若き産業戦士の体躯」への不適合が、「無意識のうちにも、疲労が与へる、作業の能率の低下と、体位の保持に影響するところ甚大」という、差し迫った必要にも促されていた。とはいえ、文脈上ではそれは副次的な位置にあり、基本的には剣持の認識は椅子に象徴される家具の改革を、「生活科学の重要問題の一つ」とする域に達した。その意味で戦争はこのデザイナーを、「生活」の”発見“へと導いた

 工芸指導所は、東京に移っていた本所が戦災に遭うなかで、1945年8月の日本降伏を迎え、連合国軍の占領とともに、その家族用住宅=デペンデントハウス(略称DH)のための家具を、設計・製作・供するという使命を与えられる。東京を初め全国九つの都市に計13,118戸を建設し備品を整えるに至るこの占領軍指令は、資材と技術に乏しい状況下で破天荒のプロジェクトであるとともに、建設業界・木工業界にとって立ち直りへの契機をも与える受注仕事をなした。工業技術庁の所管となったこととあわせ(のち産業工芸試験所と改称)、産業指導所の戦後への転身であった。

 剣持は、降伏の翌年半ばに東北支所勤務に任ぜられたこともあって、デペンデントハウスには深くは関わっていない。日本側スタッフの「工作」担当者の一人として名前があがってはいるが、「DHの設計に当たっては工作技術の面で工作図のチェック等に協力した」程度に止まるようであり、同種の経験として、むしろ赴任地である仙台での米軍オフィサークラブのための家具設計が、彼に大きな教訓を与えた。

 その経験を剣持は直後に、「量産家具の研究」−実験生産『米軍オフィサークラブのための家具』について」(1947年)としてまとめている表題の付け方が示すように、米軍という窓を通して「質の高い木製品を多量に安価に生産する」システムに接したことは、彼に強烈な刺激を与えた。「従来日本に於ては企業規模が小さく、従って手工的量産方式に依りしかも品質粗悪を極め」、一方で工芸の研究指導機関は「ともすれば試作品本位になり市場生産から遊離したアトリエ的性格のものとなり」という記述には、初めてそのなかで揉(も)まれたアメリカの「コンベアシステム生産」方式への驚きが率直にでている。

 ドイツ・モデル(そのなかにはナチスだけでなくバウハウスもあったというべきだが)からアメリカモデルヘの転換であったが、剣持の意識にあってはたぶんに、戦時下での規格化とその量産体制への方向づけの延長線上にあった。戦争遂行のために彼が、生活様式の改革をもあわせて視野にいれながらめざし、しかも遂げえなかった「生産の合理化」は、敗戦後になって旧敵国アメリカのシステムからの刺激のもとに、現実化の途をみいだした。

 そればかりではなかった。製作を指令された家具が、木製アームチェア2000木製ティ・テーブル1000から成っていたこと、なかんずく前者は、剣持の心をほとんど弾ませた。指定された「使用快適、構造堅牢、資材節用、生産迅速、形態美」の設計条件を満たすべく、かつて規範原型の研究で試作されていたものに改良を加えて設計図を作り、製作した「アーム、後脚、および背受の組合せを三角構造とし、背板に成型合板を、座に曲面箸の子を使用して掛け心地を良くし」たこの椅子は、「アメリカ将士及びその子女達の好評を博した」。

 志向していたまま試作段階に留め置かれていた方向が、初めて実用に供された=その意味ではデザイナとしての剣持にとって、初期の規範原型、戦中の「規格化」、戦後のDH住宅は、ホップ、ステップ、ジャンプの関係にある。そのことは彼に、椅子の、将来における日本人の生活への採りいれに展望をもたらした。

▶︎「ジャパニーズ・モダーン」とそのゆくえ

 米軍オフィサークラブのための椅子設計の強烈な刺激にも媒介されて、戦後の剣持勇は、とくに椅子を念頭に、デザインの新たなありようへの思索を重ねていったようである。その結晶はわたくしには、とりわけ「研究試作・・・モールデッド・ファニチュア・・・成型合板家具」(1949年)、「試作研究・・・高周波による新しき木製品(1950年)、「現代のリヴィング・ダイニング」(1950年)、「デザインとデザイナー」(1951年)などに窺えた。

 それらのうち前二者で剣持は、高周波加工という新しい技術が、量産をも視野にいれつつ新しい造形の現実化への途をひらいたことを、熱っぽく説いた。この技術は、「薄板積層の構成・・いいかえれば「成型合板構成」や、「冷庄では不可能な『無理な曲面形状』」を容易にし、それによって、「前脚と座、後脚と座、座と背受が一体化した成型合板」の木製ダイニングチェアーや「前後脚と座を一体化し、背受と座を一体化し」た安楽椅子という、「非常に簡素化した構造」の家具の設計と生産それも量産を可能にした、というのである。

 そのようなデザインを可能にしたこと、また量産への展望をもちえたことに、剣持は実態としての「近代」への確かな手応えをもった。「最も近代的な木材構成の様式」「健全なる近代感覚を以て造形の正道を通りうる形態の創作」「材料の経済、軽量で堅牢な構造、近代的な形態や画期的な生産工程」「U字形を交叉させた脚は(中略)近代的デザインの基調」等々と、「近代」を額出させる言いまわしは、彼がそれへの実感をつかみ、彼のうちにそれが規準として立ち上がりつつあったことを示している。とともにその「近代」は、「近代的なFAR EASTERN」でなければならなかった。

 それを受けたとの観を呈する後二者は、そんな剣持の「近代的なFAR EASTERN」を創りだそうとの模索を伝えるエッセイである。彼は、椅子国民でない日本人には椅子の製造と輸出が大きなハンディキャップを背負うことを認めつつ、いかにすればイミテーションでなくオリジナリティをだせるかに固執する。「日本から家具を輸出する場合(中略)、独特のデザインによって、日本のデザイナーの名前においてそれが売られるような取引をしたい形のオリジンは、構造的にか工作的にか機能的にか、ともかく基本技術オリジンを生み出さなければ、形のオリジンも本物ではない」。 そのように問う一方で剣持は、1930年代の造形の「ひややかさ」と対比しての「人間化」の方向に、べつの突破口をみつけようともする(「北欧や東洋(日本や支那)の造形における木材や植物材料を用いた、温みのある造形・・・そのなかでも、現代益々重視される(単純美)を本質的に伝承して来ている日本の造形において、木や竹やミスやタタミなどによって表現されている感覚は、1950年代の造形が取戻そうとしている人間的なものを、心ゆくまで湛えている」、「木材は、木目が美しいということの外に見る人の視線に対する投射光線の方向が変るにつれて表面効果を一変する」、「かく、近代の造形感覚は、単純に平滑な面を嫌い表面の質感美を求めている」。そのうえでデザイナーを、やがてひろく使われる「人間工学」という言葉を意識してかしないでか、「ヒューマン・エンジニヤー」と位置づけている。

 ここまでくれば、剣持を代表する論考とされる「ジャパニーズ・モダーン」まで一歩だというべきであろう。そのなかで彼は、スウェーデン工芸に「機械と手、人間と自然、理知と感情、それまでどうしても融和しなかった矛盾するもの」の「見事な一致」、「何よりも人間的なその美しさ」「異国趣味とか、骨董趣味とか、貴重珍奇とかそんなものでなく土地に根ざしたほんもの」の造出を見、その上に立って、「かつては日本では、通常の視覚言語であったシンプリシティの美が、今日では世界を通じての美の言葉となった」としつつ、そこに根ざす造形美すなわち「ジャパニーズ・モダーン・デザイン」を主張した。とともにその主張をもって彼は、「アメリカ人の日本に対する異国趣味につけこむファッション・デザイン」「ジャポニカ」や、「シンプリシティの美を知らな」くなった日本人、「純粋美術」なる固定観念の横行、伝統といえば「伝統的様式の踏襲」と短絡する思考などを一挙に振り払おうとしたのであった。その前年に海外のデザイン状況をみてまわる機会をつかんでいたことが、発想や自信の根底にもなっていたであろう。

 作品としての丸橋子(ラウンジチェア、1960年)は、素材としての藤、包みこむかたちの柔らかさ・温かさ、自然にみえる円形がもつ安定感、坐ったとき人体をそのまま受けいれてくれる安らぎ感、そうして一切の装飾を排したシンプリシティにおいて、抱懐するプリンシプルの紡晶であった。豊口克平は、かつて新建築運動の研究者によって紹介され型而工房同人たちを圧倒した金属管家具の近代的特徴について、「装飾の省略、単純な形態、飛翔する軽さ、光沢のある肌、空気を包み込んだフォルム、連続するカーブ」と挙げているが、その件(くだ)りを読んだとき、膝丸橋子はその特徴を非金属で完成させた作品との感を深くした。

 藤丸椅子を製作した1960年代初期までに剣持は、勤務を辞めて剣持勇デザイン研究所を設立していた(1955年)。それは彼にとって、念願としてきたに違いない職能的自立の具現であったろう。基礎を固めるまでに少なからぬ共闘もあったと推測されるが、以来多くの仕事を受注して、デザイナーとしても組織の責任者・運営者としても、ほとばしるように成果を生みだしつづけてきていた

 だがそのなかで剣持の文章には、これまでなかったような影が見え隠れしはじめる。始まっていた高度経済成長によって、日本は”豊かな国“へとイメージを一変させつつ世界における存在感を増していった。その高揚感・達成感が広まるなかで、彼には、絶望感・空虚感がどうしようもなく蓄えられていったかにみえる。「日本ブームで、ただ、外国に対して、日本のデザインがもてるというのはやはりちょんまげもっていけばうける、歌舞伎をもっていけばうけるというような具合のことで(中略)、やっぱり百メートルラインに並んでの名声じゃないですよ」、ではどうすればいいか、「それならいっそ、本物がきて、徹底的にそれにまいっちゃって、それでも、なおかつ勇気があれば、それを、なお吸収して、自分のものにして出していく。もしないならだめですよ」。

 この暗い予感は、幾たびかの欧米への旅を通じても強められていったようである。60年代の半ば剣持は、旅での見聞から、「デザインが大きな転回点に達しているのではないかという感じ」をもった。「これは私にとって、興味というより無気味な実感でもあった。何かが止まってしまって別の何物かが目に見えないところで静かに動きだしているという感じ」。彼にとっては、「近代」の制覇ののちの、デザインないしそれ以上に生の様式の変化への気配が感じとられた機会であった。公共の場所でなら「『ご存じモダン・デザイン』にざらに出会う」反面で、「私生活ではソッポを向かれている様子」の発見、ないし私生活がそのような方向へと流れつつあるとの発見であった。

 それは剣持にとって、めぎしていたはずの様式が「既成化」しっつあるとともに、「新しいナニカが生れる動機が芽生えている」との感触の起動であったっ彼はそのとき”ポストモダン”の淵をのぞいたのであった。そうしていう。「それが高次の機能主義デザインにまで飛躍するか、20世紀ルネサンスともいうべき人間復興へ回避するか」。この問いのまえに佇んで彼は、「ふり出しに戻って初めからやり直せといわれているのであろうか。また果してそれによって明日への正しい道が開かれるか」との思索をみずからに課すことになる。

 「デザイナーとしての私の姿勢は、いうまでもなく前衛であり、180年に及ぶモダン・ムーブメント(生活近代化運動)の越しかた行くすえの一直線のどこかに在るものと自負している」と剣持は、1964年に書いている。だがその「前衛」性の先に、捉えきれぬ「ナニカ」がみえた。真に「前衛」であったがゆえに、それを鋭く感知しえたというべきだが、未来を探る視線は、ヒッピーの「否定的な世紀末的感覚」にかえって「未来の『ノン・ファニチュア(イスのない)生活様式をみたり、ヨーロッパの国際デザイン展や北欧のもの作りのさまに、「1970年以後の脱工業化社会に備えるデザイン界の『新しい波』の静かな高まりを感じ取った」り、「シロウトをしてクロウトはだしのデザイン」を可能とする機運を看取したりという言葉のはしばし、なかでも、これまでなかったことだが、「若い人」の感受性や創造力ヘの、もはや自分はもちえないとの響きが聞こえてくるような手放しの讃美に窺える(1969年の連載「日本美発掘」に凝集するのめりこむような〝土俗美“の収集は、それと並行しての、根っこを求めての旅でもあったろう。

 近代日本をつうじて芸術家たち・思想家たちは、欧米を主とする外からの衝撃にたいして、(旧来の)塁守でも反発でも模倣でもない途を探るという課題を、みずからの宿命とした。あるいはそれを宿命と受けとめることにより、創造者たりえた。剣持勇は、その課題をデザインの分野で引き受け、もっとも鋭角的に壁の突破へとわが身を突き進ませたひとであった。それだけにその先に、「頭でなく体全体から絞りでたものこそ芸術の本性」と説き、非妥協的に「オリジナリー」に固執したこの探求者が、どんな造形への途を拓いたか、それに接したいとの念の強まるのを覚えずにはいられない。