広重と北斎の東海道五十三次(江戸文化)

■広重と北斎の東海道五十三次

▶︎歌川広重の宿場図絵シリーズ「東海道五拾三次」

 歌川広重は旅行ずきだった。女房にも知らさず長旅に出ることもあったという。

 天保3年(1832)、広重は、幕府の御馬進献の一行に加わり京へ上った。その際のスケッチをもとに、天保5年(1834)「東海道五拾三次」シリーズが、保永堂と仙鶴堂の両者共同で刊行され、大ヒットを放ち、広重は一躍、流行画家となった。

歌川広重 寛政9年~安政5年(1797~1858) 本姓は安藤、俗称徳兵衛という。定火消同心・安藤源右衛門の子として江戸・八代州河岸に生まれた。13歳の時に両親に先立たれ、若くして家督を継ぐ。しかし生来の絵好きから歌川豊広に入門。長い修業の末、天保3年(1832)36歳のとき京都旅行の際のスケッチをもとに翌年、「東海道五 拾三次」宿場図シリーズを発表し大ヒット、出世作となる。以来、江戸の名所は言うに及ばず、地方の八景もの、富士山、道中ものなど日本国中の風光明媚な行楽地、名所が絵の対象となった。広重の絵には自然の美をたたえ、雪月花の風雅を愛で、人間の哀しさ、旅のわびしさなどセンチメンタルな人情の機微が織り込まれ、江戸人の生活を詩的に表現している。

 

 これは富士詣(もう)で、江の島詣で、お伊勢参りなどの旅行ブームや、十返舎一九弥次喜多道中記なる小説「東海道中膝栗毛」のヒットも、時代背景にあったからだと言われている。しかし、この「東海道五拾三次」は単なる風景画ではない人間が主役である。四季折々の自然風物のなかに、庶民人情や旅人の哀歓が実に巧妙に織り込まれ、郷愁がそそられる。このヒットによって、広重は後に20数種を越える「五十三次」を世に発表した。「五十三次名所図会」(蔦屋版・安政2年・1855)は広重晩年の作で、今までとは違って視点を高くし茫洋(ぼうよう・ひろびろとしたさま)とした烏瞰風景画(鳥が高く飛んでいる時の視野図)となっている。

▶︎葛飾北斎の「東海道五十三次」

 葛飾北斎も「東海道五十三次」シリーズ図を多く描いているが、中判、小判サイズのため広重のようなヒット作はない。当シリーズは、歌川広重の「東海道五拾三次」(保永堂版)よりおよそ30年前の享和4年正月(文化元年・1803)の作と図中に記されている。当初、北斎がシリーズ67枚全図を描いたが、後に何らかの理由によって「日本橋」「原」「鞠子」「藤枝」「鳩海」「宮」「京都」を北斎の娘婿・柳川重信が改作している。ここでは、葛飾北斎・柳川重信併せて紹介する。

葛飾北斎 宝暦10年~嘉永2年(1760~1849)中島姓、幼名時太郎、俗称鉄蔵。勝川春草に入門、春朗と号したが、寛政中頃破門されたのち、宗理、可候、辰政、北斎、為一、画狂人、卍など30余り改名し、93回も転居を繰り返したという。文化期の洋風版画は特筆される。摺物、肉筆画に優品が多い。挿絵本「北斎漫画」は有名。70歳頃の「富嶽三十六景」は代表作。広重と並ぶ風景画の巨匠。嘉永2年90歳まで旺盛なエネルギーで精力的に活躍、赤貧をとおし作画三昧に暮れた。

お江戸日本橋 七ツ立ち・・・ ♪

  唄でも知られたように、江戸立ちは早朝と決まっていた。日本橋から京までおよそ500キロ。十数日余りの旅がはじまる。早朝七ツは、午前4時である。広重の署名の下には、版元主人の孫八・鶴喜の朱丸印が押されている。保永堂(竹内孫八)と仙鶴堂(鶴屋吉右衛門)の共同出版ではじめられたが・・・。

▶︎ 品川・日の出

▶︎ 川崎 六郷渡船▶︎ 神奈川 臺之景(だいのけい)▶︎保土ヶ谷 新町橋

▶︎ 箱根 湖水図

 大岩ばかりで構築したような山が天にもとどかんばかりにそびえ立つ。木も生えぬ裸出した天然の山肌は、風雪の厳しさを物語っている。背後に、幾重にも重なる突兀(とつこつ)とした山々。「天下の険、千尋の谷」とうたわれたのは、いいえて、実に実感である。山あいの峠を下る参勤交代の大名行列が遠々とつづく。このシリーズには数多く大名行列が登場する。それほどに参勤交代が激しく行われた。

 険しい山々から目を左に移せば、眼下に芦の湖の景観がパッと開ける。静かな湖面。湖畔に箱根権現社の屋根屋根が描き添えられ、遠景の山並みの彼方には、雪化粧をした富士が美しい姿を見せている。白峰が陽光の空に吸い込まれるように、無輪郭の白いシルエットとして描かれている。「箱根八里」の山越えは、大井川とともに東海道中の最大難所といわれたのは、九十九折(つづらおり)につづく急な山道と、取調べの厳しい関所があったからである。「箱根の関所」は天正18年(1590)に軍略的、政治的のため設置され、なかでも「鉄砲に出女の監視が厳しかったという。「箱根八里」とは、小田原・箱根間が4里8町(16.57キロ)、箱根・三島間が3里28町(14.83キロ)で、合わせて8里となることからいわれた。

▶︎ 沼津 黄昏図

 曲がりくねった黄瀬川に沿った道を急ぐ旅姿の親子三人。金毘羅宮に奉納する猿田彦の赤い面が、異様にもの悲しい表情に見え、強い印象を与える。母が持つひしゃくは、巡礼が施しを受ける喜捨の風習。この巡礼親子三人旅には、何かわけがありそうで、長旅に疲れた後ろ姿が見る者の心をしめつける。空も水も紺青一色に、木立や民家は薄墨トーンで統一。大きな月を白ぬきにして、全体を光と影に包み、三人を引き立たせる手法は、郷愁ノスタルジアを感じさせる。涙もろい広重の得意とする抒情センチメンタルの世界である。▶︎ 蒲原 夜之雪

 音のない静寂の世界。人物のみわずかに色彩が施され、他はモノクロトーン。シリーズの中でも詩情あふれる傑作である。「夜の雪」となっているが、図は昼間のように明るい。この図は初版で、俗に言う「天ぼかし」といわれる。空の上部が一文字に強く彩色され下方に向ってボカシの手法がとられている。後に、出版社は夜の雰囲気を強調するために「天ぼかし」をやめて、「地ぼかし」とした。流布品は、ニの後版が多い。この図は初版の稀少品である。「庄野」とともにシリーズ中の二大名作といわれ、一方は「夏の雨の静」、こちらは「冬の雪の静」として対照的に比較される。蒲原は、温暖な所で大雪の記録はないという。広重がこの地を訪れたのは夏の暑い時期で、雪の図は広重の創意である。

▶︎ 島田 大井川駿岸

 川幅約1300mの大井川の渡しは街道一の難所であった。渡し賃は水深により異なり、肩車では水深膝下通し46文から脇通し90文まで、水深5尺になると全面川止め。そうなると島田宿も対岸の金谷宿も川止めをくった旅人でごったがえしたばくち場は繁盛し、飯盛り女(遊女)は引っばりだこ。川止めがつづけば旅人の懐(ふところ)も底をついてしまう。旅の運・不運は、この大井川で決まる。難所のゆえんである。

▶︎日坂 佐夜ノ中山

 金谷宿と日坂宿のちょうど中ほどに立ちはだかる佐夜ノ中山峠。その峠を下れば「夜泣き石」の伝説で有名な大石が道の真ん中に居すわっていた。

 夜な夜なこの大石が泣くという。その昔、妊婦が金谷の夫を訪ねる途中、この佐夜ノ中山で無残にも山賊に斬り殺された。このとき、そばにあった大石が「赤子を助けてくれ!」と泣いたという腹の子は観音さまのご慈悲で取り出され、村人の助けで飴で育てられた。その子が成人して、母の仇を討ったという。『佐夜中山子育観音夜啼石(よなきいし)敵討(かたきうち)由来』という縁起本から、さまざまに伝わった。以来、「子育て飴」はこの地の名物として、辺りの茶屋で売られていた。いまも子育て観音、夜泣き石が、久延寺に安置されている

 広重は、この哀切の物語が秘められた「夜泣き石」を主人公に、旅人たちが不思議がって見ている様子を写生している画面の右上から左下方に向けて急な坂道の大胆な構図。眼下には山々が見おろせる。例によって、旅人たちや里人の寸描も良い。

▶︎ 浜松 冬枯ノ図

▶︎ 舞坂 今切真景

 広重描く舞坂の図には、山並みの向こうに富士の白峰が恥ずかしそうに顔をのぞかしている。対岸の突兀(とつこつ・高く突き出ているさま)とした山は舘山寺村櫛半島。広重は実景よりも奇形にデフォルメをし、浜名湖の眺望に奇趣をねらい美的効果を盛り上げた。手前土堤の向こう下が「今切の渡し」の船着場。湖面にはハマグリ漁の漁船がちらほら。舟から離れて浅瀬に立つ漁師もいる。