2. 上宮時代(570?~605)

■上宮時代(570?~605)

▶︎上之宮遺跡発掘

 後に述べるが、法隆寺の夢殿のある東院伽藍を「上宮(じょうぐう)王院」という。「上官」という名は、聖徳太子のことをいう名前として、上宮王、上宮太子あるいは上宮王家というようによく使われる。それほど、「上宮」は太子にとって、重要な宮殿であつた。右にのべたように、仮に、太子の誕生の地が橘寺あたりとすれば、上宮(かみつみや)に居を移したことになる。

 『日本書記」推古天皇元年(593)紀に次のようにある(現代語訳)

父の用明天皇は聖徳太子を、大そう、かわいがられて宮殿の南の上殿に(かみつみや)に住まわされた。そこで、太子の名を上宮厩戸豊聡耳太子(かみつのみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)とよぶことにされた。

 聖徳太子につけられたいくつかの名前に関しては、すでに述べたが、「上宮」というよび名は、宮殿によることは、右の記事によって知ることができる。もう一つの資料『上宮聖徳望帝説』にも、上宮の場所は用明天皇の宮の南にあつたとしている。用明天皇が、即位して新しい宮で即位したとすれば585年のことである。用明天皇の即位年に、聖徳太子は、十二歳となっている。用明天皇の、磐余(いわれ)の新しい宮は、池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)とよばれた。太子が上宮に上宮に居住したのは、用明天皇が即位した頃であろう。多感な少年時代の頃である。太子が斑鳩に居をうつすのは、推古天皇13年(605)であるから、上宮で、およそ20年の年月を送っている

 上宮の位置をめぐっても、いくつかの太子伝には橘寺尼寺とか、明日香村上居(じょうご)とか、さまざまに述べられてきた。しかし、例えば坂本太郎氏は、奈良県桜井市の上之宮という集落の名こそ、上宮に由来すると指摘している。また、田村円澄氏も上宮の位置について同様の見解を述べている。

 その上之宮で、昭和63年(1988)から平成2年(1990)にかけて桜井市教育委員会によって発掘調査がなされた。私にとって、なつかしく、苦い思い出が、遠景の中にある。このことに関連して、やや詳細に述べておきたい。「聖徳太子を歩く」にあたっての、見落とすことのできない場所である。しばらく、ゆっくりと文章を読んでいただきたい。

 発掘調査によって、6世紀中葉から7世紀前半にかけての建物および苑地遺構が検出された。図に示すように六世紀末に相当する第四期の遺構群が注目された。中央に頑丈に作られたらしい四面庇(しめんびさし)付建物の存在を推定させる柱穴が確認された。北の脇殿ではないかと思われる建物(建物1)は、2×10間の間仕切り付き建物とみられる。

 遺跡の地形は北側が低く、苑地状の遺構があったことが推定され、南の端には、溝と柵列が作られていたことも判明した。この遺跡の発掘担当者清水真一氏は、六世紀中葉(ちゅうよう)〜後半にかけて倉庫群らしいものがあったこの地が、六世紀後半〜末にかけて、四面庇付建物や脇殿をもつ建物群に変化し六世紀末葉(まつよう)には、南北が100m近い範囲で、苑地(えんち・庭園)をもつ居館が作られており、建物の配置や性格から「宮殿であると考えることができるだろう」と、報告書に記し、聖徳太子の上宮であることを示唆した。ところが、さまざま思惑をからめて頭からそれを否定する見解がだされた。その一つには、遺跡の東古代阿倍(阿部)氏の本拠である安倍地区があり、遺構は阿倍氏の居館とみるものであった。諸説が、阿倍氏居館説を、まるでおうむ返しのように唱えるのは、どの程度この地を踏んで、独自に考えたのであろうか。

 『日本書紀』大化4年二月条に右大臣の阿倍大臣四衆(わくさのおこないびと・比丘(正式の男性僧)・比丘尼(女性僧)・優婆塞(うばそく・在家の男性仏教信者)・優婆夷(うばい・在家の女性仏教信者)を四天王寺に招き、に招き、像四体を迎えて塔内に安置し、鼓を重ねて霊鷺山(りょうじゅせん・釈迦の浄土)の像を作ったとある。阿倍大臣の太子信仰がうかがわれる記事であるが、この阿倍右大臣は、阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)と称する人物である。その名にいう「倉梯」は、桜井市倉橋という地名で現代に伝わるが、この地は、寺川の上流にあたり、蘇我稲目の娘小姉君の血を引く崇唆天皇宮を置いた場所である。そのことから、阿倍氏は、小姉君系と対立的でないと思われ、やはり小姉君とつながる聖徳太子の上宮が、寺川に沿ってある上之宮遺跡にその跡をのこしていたことは、大いにありうることである。

▶︎出土した木簡、鼈甲(べっこう) 

 また、上之宮遺跡では木簡も出土した。この木簡の発見をめぐつて鬼頭清明氏はこの遺跡の重要性に注目されるに十分なものがあったと、次のように述べた (『奈良新聞』平成二年六月十六日号)。

 木簡の釈文は別口塗銀□其項口頭刀十口とある。第二文字は「」と読めそうであり、第五文字は糸へんで線とか経とかの文字が連想できるという。第二文字が「金」だとすると、この大刀金銀装の大刀であったともいえる。

 そのことで思いうかぶのは、光明皇太后によって、東大寺に献納された百本の大刀のうち、二十一本が金と銀とを用いて飾られていたことである。金銀装の大刀十本となると、光明皇太后が東大寺に献納した金銀装の大刀の半分の数になる。また、上之宮遺跡出土木簡の第一文字が「別に」と記されていることから、大刀十本以外にも財物の類を記した長文の木簡の一部を削りとったものとみられる。

 木簡から、上之宮遺跡は金銀装の大刀を多数保有できる有力貴族層、大王家との関連が予想できる。とすれば、上之宮遺跡を太子の上宮という説は有力となる。

 木簡の削り屑とともに、亀甲の断片も出土した。正倉院宝物などに甲細工があるように貴重な細工物が所有されていたと思われる。

 以上、述べてきたように、推古紀元年四月条および『上宮聖徳法王帝説』の記事にしたがって用明天皇の宮の南に聖徳太子のなり上宮があるという地理的関係は、後述するように用明天皇の池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)を桜井市谷付近に、そしてその西方に磐余地(いわれのち)を比定し、桜井市上之宮の地が用明天皇の宮の比定地の南にあたることから、このあたりに上宮が営まれた可能性は高くなる。

 上之宮遺跡から発掘された四面庇をもつ建物を中心とする建築遺構は、その年代が6世紀末とされていることからも、上宮の遺構であるとみなしてよいであろう。

上之宮遺跡発掘調査

平成11年7月から約2カ月の間、上之宮遺跡において発掘調査が行われました。この上之宮遺跡は、聖徳太子が幼年期を過ごした上宮(かみつみや)跡とする説が有力です。その説にふさわしく、昭和62年に最初に調査が行われて以来、居館跡とみられる柱穴や石組の園池遺構をはじめとする遺構、また木簡、琴柱、べっ甲など盛期を偲ばせる多くの遺物が発見されています。


さて、今回の調査は南北30メートル、東西3メートルのトレンチより60~80センチメートルの柱穴が列を成して検出され、またその列に平行する20~60センチメートルの5本の溝も同時に検出されました。柱穴列は建物などに対応し、塀や柵の役割を担っていたと思われます。なお、一部の柱穴から内 が施された柱の根元の部分が発見されました。この内 は運搬用に空けたものか、転用材なのかは現在検討中です。溝の性格については今のところ不明ですが、溝が石組列を切ることから遺構がいくつかの時期にわたることが改めて確認できました。遺物については、6世紀頃の須恵器や土師器が見つかったほか馬歯、獣骨、スラッグが発見されました。また、包含層より黄色と緑色に色分けしたガラス玉の破片が出土しました。上之宮遺跡の北側については、過去の調査例があまり多くありません。今後調査例が増えるに従って、今回発見された遺構の性格もよりはっきりしてくるものと思われます。

 さらにこの建築遺構について、宮本長二郎氏は「主殿北方の付属建物には翼廊がとりついて、北の石敷遺構と連絡し、水施設などを備えた庭園と一体化し、上宮にふさわしい格式を備えているといえること。

 また主殿の平面形式が梁間の大きい正方形に近く、四面庇付建物として最も古いと思われること。付属建物の桁行を長くして間仕切りを設ける例も本遺跡が初見で、七世紀にはいって飛鳥板蓋宮伝承地飛鳥稲淵宮殿址などの例が現れる。古代宮室の付属建物の形式として一般化するものであること。さらに付属建物に取り付く翼廊は、寺院では金堂や講堂に取り付く回廊の例はあるが、少なくとも7~8世紀の宮殿遺跡には類例がなく、宮殿建築としても画期的な遺跡である」とし、「個々の建築や屋敷の規模は大きくはないが、時代を先取りしたその構えは、いかにも厩戸皇子邸と想定するにふさわしいものといえる」と述べる。

 さまざまな思惑が上之宮遺跡をめぐつて飛びかったために、遺跡の重要性について十分な評価がなされなかったと、私にとって苦い思い出がよみがえるが、右にみたように、上之宮遺跡の建物跡を阿倍氏の居館とする短絡的な指摘はしりぞけてよいであろう。

 発掘当時、太子の上宮とする説も出ていたこともあって、区画整理事業によって建設された住宅地の一画に、隠れるように苑地遺構の石組みを復原されたものだけが作られた。先に記したように、阿倍氏の居館ならば、潰してもよいという安易な説が免罪符のようになったと、私は憶測する。

 上宮王家の記念すべき土地とみなしてよく、現状では「聖徳太子を歩く」の「元標」であるにもかかわらず、古ぼけた小さな説明板には、豪族の邸宅地と断定風に書かれ、末尾に上宮の可能性もあるとする。日本の歴史上、最高級の遺跡と認めうるにもかかわらず、余りにも貧困な文化財行政としか、私の目にはうつらなかった。

 発掘調査から30年を経て、当時調査を指揮した清水真一氏は「上之宮遺跡が、聖徳太子の『上宮』宮殿の可能性を持たないかという問いかけに対して、調査担当者としては、十分に可能性を持つと答えたい」とのべ、建築遺構を詳しく再説している。

▶︎用明天皇の宮

 上之宮遺跡を聖徳太子の上宮とみるには、父用明天皇の宮の位置について、おおよその検討をしておくのも重要な手続きである。用明天皇の南に上宮があったとするから上之宮遺跡の北に用明天皇の池辺双槻宮の位置を想定する手がかりがなくてはならない。

 池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)にいう「池辺」の「池」は、履中天皇磐余椎櫻宮(いわれのわかざくらの)に作られた磐余池(いわれのいけ)とみてよいであろう。

 『日本書紀』履中天皇2年10月条に、「磐余(いわれの)に都つくる」、12月条に「磐余地を作る」、3年11月条に、天皇と皇后とが両枝船(ふたまたぶね・二艘をつなぎあわせた舟、南太平洋の島々で用いられるカヌーを左右につないだ双胴船のようなものか)に乗って磐余市磯池(いわれのいちしいけ)で、遊んだとある。おそらく磐余地は、履中天皇の磐余椎櫻宮の苑地を構成する池ではなかったかと思われ、記事のつながりからみて磐余市磯池と同じ池と解するのが自然である。そこで磐余椎櫻宮はどこにあったか、その場所を探してみよう。

 宮でなくなった後に後世、宮の伝承地として神社がまつられる場合がある。例えば、反正天皇丹比柴離宮(たじひのしばがきのみや)と広庭神祠(ひろばのやしろ・大阪府松原市柴籠神社)、継体天皇の楠葉宮(くずはのみや)と交野天神社(かたのてんじんじゃ・大阪府枚方市樟葉)などの伝承地をあげることができる。

 磐余椎櫻宮(いわれのわかざくらの)の場合も、右の事例によるならば、神社名と由緒から、桜井市谷の式内社(しきないしゃ)若櫻神社との関連をとりあげるべきであろう。実は、桜井市には、谷より西方の池之内という集落に「椎櫻神社」があり、式内社とする。式内社は延喜式内社ともよばれ、平安時代927年に完成した律令の細則をのせる『延喜式』の神名帳に名をつらねる神社である。それゆえ由緒ある神社ということになる。その『延書式』を紐解くと、「城上郡五座」の一つとして「若櫻神社」があげられている。「稚櫻神社」とは、表記されていない。この表記の違いを無視することはできない。谷の場合は、先に記したように、『延喜式』の表記にしたがって「若櫻神社」と鳥居の前の石標に彫られている。式内社である場合、神社名の表記を『延喜式』のそれを変えることは考えられない。そのような表記上の問題を十分に配慮すれば、桜井市谷の若櫻神社の鎮座する場所は、本来の「櫻宮」の地であったが、平安時代の文字の簡略化にしたがって「若櫻神社」と表記されたとみなしてよいであろう。少なくとも西方の池之内の「稚櫻神社」を式内社とみることは、むずかしい。

 右のような説明に次のような事例を重ねておくのがよいかもしれない。『古事記』では、写本の真福寺本(14世紀後半)において「若櫻部」と表記していることからも「稚櫻」という漢字表記は、用いられなくなったと思われる。

▶︎磐余地はどこか

 履中天皇磐余椎櫻宮(いわれのわかざくらのみや)のおおよその推定地は、見当がついたが、宮と関係してあったと思われる磐余地の場所を比定することによって、用明天皇の池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)の場所も想定でき、上宮の所在地を確かめることができる。若櫻神社をもって履中天皇の磐余椎櫻宮を、若櫻神社あたりに比定できる可能性は高いと、先に述べた。とすれば磐余地は若櫻神社の鎮座する丘陵の西側にあった可能性が高い。したがって用明天皇の池辺双槻宮もそこから遠く離れて立地していたとは考えられない。

 そこで、聖徳太子の父、用明天皇の池辺双槻宮をどこに求められるかということを考えるには磐余地がどこにあったかということが問題となろう。磐余地の比定地については、長年というよりは、思い出したように議論が浮かびあがってくる感がする。そして、いつも通説的な比定地でもってよしとする意見が研究者やマスコミ関係者によって、ほとんど慎重な吟味もなしに、これもまたおうむ返しのようにとりあげられてきた。


 私は、すでに自説を述べてきたが、近年では 『飛鳥の覇者』(文英堂、二〇一一年) にもかなり詳しく論じたつもりであるが、ほとんど、一瞥(いちべつ・ちらっとみる)もされなかったような印象をもった。しかし、平成27年3月22日、太子の命日とされる日の斑鳩町(いかるがまち)における講演会で私は戦後間もなくの駐日米軍撮影の空中写真に若桜神社の西方に、はっきりと他の堤の痕跡が読み取れることを指摘した。そのことは、やっといくつかのメディアが丁寧にとりあげてくれた。

 以下この事については、詳しく書いておくことにしたい。なぜならば「聖徳太子をあるく」というテーマに関しては、磐余地近くにあった用明天皇の宮とその南の上宮との位置関係は、見おとすことができないと思うからである。図に示すように磐余地と用明天皇の位置関係が認められるならば、上之宮遺跡を聖徳太子の上宮跡としてよいであろう。

 私の磐余地の比定を長年にわたって認めようとせず、通説化したのは、橿原市池尻町から桜井市池ノ内町あたりに残る、古い時代に谷をせきとめてつくられた他の跡である。この地に磐余地を通説化することになつたのは、檀原考古学研究所の報告書『磐余・池ノ内古墳群』(奈良県史跡名勝天然記念物調査璧口第二八冊、一九七三年)所収の論考による。通説化した磐余地の比定をもとに、報道関係者が発掘調査を大きくとりあげ、私がこれまで述べてきた見解に耳をかさないか、あるいはしりぞけるという状況がつくりあげられた。以下に、できるだけ丁寧に私見を述べたいCやや冗長となるが、聖徳太子の上宮の場所を定めるという重要な問題であるので、添えた地図と対照しながら、熟読していただきたい。

 (1)大正三年(一空四)に刊行された『大和志料』には次のように記されている

和名抄ニ十市郡池上郷卜見ユ、巳廃シ方城詳カナラスト雄、池上ハ池辺こシテ 即チ磐余地二因レル処卜恩ハルレハ今ノ池内、池尻ヨリ安倍地方二亘レル郷名 ナルヘシ……池己ニ涸レ其跡詳カナラスト雖、池上ハ池辺ニシテ即チ磐余池ニ因レル処ト思ハワレハ今ノ池内、池尻ヨリ安倍地方ニ恒レリ村ノ大字二池ノ内アリ、池尻御厨子山ノ東南‥池田山、池尻ノ束二島井ノ小 字ヲ存セリ、此等皆磐余地ノ故跡ナルヘシ。

 この『大和志料』の記述について前掲の論考は、「まことに卓説を提示している。私も磐余地の所在地について『大和志料』の説に異論ない」とする。

 『大和志料』の言うことを「卓説」と認めているが、卓説か、どうかは論証をまたねばならないのが、先に「卓説」とみなしてしまうと、先入観となつて史料による検証も、客観性を失いかねないのではをかろうか。

 (2)右のように卓説としながらも、「ただ問題は、香久山村池尻(橿原市池尻町)と安倍村池ノ内(桜井市池ノ内町)に残る小字から、かつてこの地に他の存在していたことは判明するが、果してその池が磐余地であるかどうかということである」と、ためらい感が漂う。

 (3)『大和志料』には『和名抄』(『和名類衆抄』10世紀前半に作られた辞書)に十市郡池上郷(とおち)を磐余地に由来すると書かれている。このことも池上郷という郷名が磐余地に由来するかどうかは、史料的にそれを認める保証はない。しかし、上記論考では、池上郷は磐余地と関わるものとされている。これも『大聖心料』によってっくられた先入観がぬぐいきれていない。

 (4)次の大津皇子の辞世の歌(『万葉集』巻〒四一六)は橿原市池尻・桜井市池ノ内のいわゆる通説の磐余地(いわれのち)との地理的関係でとりあげられているが、図に明らかなように桜井市谷付近からの方が近い距離である。

大津皇子、被死らしめらゆる時、磐余の他の披にして沸を流して作りましし御歌一首   ももづたふ磐余の他に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 死を賜った大津皇子は訳語田の家で刑死するが、その眼前に磐余地の堤があったということになる。但しこの歌は大津皇子の自作であるという保証はない。むしろ清少納言の『枕草子』(三重段)の次の文からも磐余地の場所を想定できる。

池は、かつまたの池、いはれの池、にゑの池、初瀬まうでしに、水鳥のひまな くゐてたちさはぎしがいとをかしう見えし也。

 平安時代の初瀬詣(はつせもうで)では、三輪山山麓にあったと推定できる海柘楷市(つばいち・今日、椿市観音桜井市金屋に安置するので、海柘楷市が、この付近にあったとされるが、観音をまつった時代はあきらかでない)で、宿泊するか、あるいは参詣の支度をするのが常であった。

 かつまたの池は、薬師寺近くの大池というが、確かな位置はわからない。にゑの池は、山城国綴喜郡にあったとされるが、この池の所在地も未詳である。京から初瀬に至るルートは、奈良盆地の東よりに走る上ツ道を奈良あたりから南下したので、水鳥の鳴き声が聞こえるというならば、やはり先にあげた桜井市谷付近に磐余の池を求めるのが極めて自然であろう。また付近に「池田」や「ミドロ」の小字名があることもかつて池沼のあったことを想定させる。さらに、谷の小字名に「君殿」があり、『大和志』には石寸山口神社について「今、なみつき双槻神社と称する」とあることも無視できない。

 ここまで記して、なおも磐余池を橿原市池尻・桜井市池ノ内付近に比定することが可能だと、主張されるのであろうか。右のように、磐余地の位置を推定すると、履中天皇の宮と太子の用明天皇の宮の位置もおおよそ想定でき、そして太子の上宮の場所も上之宮遺跡に求めてよいことになろう。

 なお、磐余池の場所を比定するために、天平宝字五年十一月二十七日の「大和国十市荘券」という史料が使われているが、史料の解釈に再検討が必要なことは、すでに前著に書いたので、ここではくりかえさないでおきたい。

 さらに、地図を参照していただきたい。谷の近くをながれる寺川をはさんで東側、上之宮の北に桜井市河西という集落がある。もともと「こうざい」とよばれていた。そのことから『上官聖徳法王帝説』にいう崇唆天皇の宮である「石寸神前宮」の所在地を想定させる。なぜならば、「神前」と漢字で表記して「こうざき」とよむ事例があり、神前は「かみさき」ともよまれていたとしても、「こうさき」とよまれたことも想定でき、さらに「こうざい」と音が変化し、「河西」と漢字表記になったと解することもできよう。