「新皇」将門とは

■即位の歴史的意義  

木村茂光 

▶︎「新皇」即位の場面

 常陸国・下野国・上野国の国府を襲い、それぞれの印鎰(やく・鑰・役所の公印と倉庫のかぎ)を奪って国司を追い出して関東を制圧した平将門は、いよいよ上野国府で「新皇」を宣言する。将門の乱のクライマックスである。

『将門記』はその場面を次のように記している。プロローグでも紹介したが、重要な場面なので再度引用しよう。

時に、一昌枝(しょうぎ)ありて云へらく、八幡大菩薩の使とくちばしる。朕が位を蔭子(おんし)平将門に授け奉る。その位記(いき)は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂表(れいこんひょう)すらく、右八幡大菩薩八万の軍を起して、朕の位を授け奉らん。今須(すべから)く升二(32)相の音楽を以て、早くこれを迎へ奉るべし、と。爰(ここ)に将門、頂(うなじ)を捧げて再拝す。(中略)斯(ここ)に於て、自ら製して諱号(いみな)を奏し、将門を名づけて新皇と日(い)ふ。

 前半を中心に現代語訳すると以下のようになろう。

 その時、一人の昌伎=巫女が現れ神がかりの芸になって次のように口走った。「私は八幡大菩薩の使者である。朕(天皇)の位を平将門に授けよう。その位記(位階を記した証明書)は左大臣正二位菅原道真の霊魂が捧げるところである。(後略)

 非常に衝撃的な場面である。武蔵・常陸・上野・下野の国府を掌握した将門は、ついに平安京の天皇に対抗して自分が「新皇」、すなわち新しい天皇であることを宣言したのである。日本史上珍しい皇統の分裂が起こつた決定的な瞬間である。そして、その皇統の分裂を保証したのが八幡大菩薩=八幡神と菅原道真の霊魂であった。八幡神と道真の霊魂が突如関東に出現したことも奇妙なできごとだし、後述するように、さ世紀の前半怨霊として中央政界で荒れ狂っていた道真の霊が反乱者将門の「新皇」即位を保証したのだから、怨霊(おんりょう)と反乱者の結びつきというこれまた非常に希有な現象が起こつた瞬間といえよう。さらに『将門記』は、この後、「新皇」将門が関東諸国の国司を任命し「王城」=宮都を「下総国の南亭」に建設せよと命じたこと、さらに左右大臣ら「文武百官」を定めたと記している。まさに関東に新しい「国家」が建設されようとした瞬間であった。

▶︎「新皇」即位をめぐる三つの論点

平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使したこのように、将門の「新皇」即位に関する記述は、単に八幡神と道真の霊魂が突如登場するだけでなく、なによりも皇統(天皇の血統)に関わる大事件だけに、この「新皇」即位前後の場面については多くの研究者が言及している。それらを整理すると、以下の三つの論点に集約される。

 その一つは「新皇」宣言の契機となった道真の霊魂と八幡神の役割についてである。二点目坂東諸国の国司補任と王城建設などにみられる将門の国家構想である。そして第三点は、いうまでもなく「新皇」宣言の政治的な意味である。

 もう少し詳しく述べるならば、第一の道真の霊と八幡神の問題は、単に両信仰の拡大とその要因というような問題だけではなく、律令制的な神武体系にはない新しい二つの霊と神が「新皇」を正統化する神々として登場しているという、当時の国家的な宗教構造に関わる大きな問題であった。

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

 第二の将門の国家構想については、石母田正の律令国家を模した「みじめな構想」であるという評価から(石母田1956)、鎌倉幕府の国家構想の前提であるという網野善彦の評価(網野1982)まで、さまざまな意見が出されている。これについては、将門の乱全体の評価とも関わるのでエピローグで再度取り上げることにしたい。

 第三は、当時の皇統や王権に関わる大問題である。この問題は、第一の「新皇」を正統「新皇」即位の歴史的意義化する新しい神々の問題とも絡んで当時の天皇制や王権の問題と密接に関係していることはいうまでもない。このように理解すると、詳しくは「「新皇」即位と王土王民思想」の章で検討するが、天慶2年(940)正月に発布された将門追討の太政官符に王土王民思想が発現されていることの意味も重要になつてこよう。

王土王民思想(おうどおうみんしそう)とは、地上にある全ての土地は天命を受けた帝王のものであり、そこに住む全ての人民は帝王の支配物であるという思想のこと。

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治のことである。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。

 このように、将門の乱は中世成立期における武士の反乱や武士成立論にとどまらない大きな歴史的意味をもった乱であったのであり、当時の政治的・宗教的状況全体のなかで解明されなければならない問題なのである。

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。

 ところで、将門の乱を含めた承平・天慶の乱国家論二土権論と宗教構造上に占める歴史的位置について、大きな視点から発言をしているのは上島享である(上島二2010)。上島は将門の乱を直接扱っているわけではないが、中世的な国家・王権の成立と、それに並行する中世的宗教構造の成立の重要な画期として承平・天慶の乱を高く評価している。

 以下、上島の成果を参考にしながら、将門の「新皇」即位の歴史的意義について考えるが、ここでは第一に指摘した道真の霊魂と八幡神の登場の意味について考えることにし、第三は次章「「新皇」即位と王土王民思想」で検討することにしたい。

平将門の乱
桓武天皇の血をひく祖父「高望王」が、関東の国司から、地元定着する。
935年、土地争いから、平将門は、叔父平国香、源護らと戦う
936年、源護の告訴によって、朝廷によばれる
937年、朱雀天皇即位による大赦で、関東に戻る / 富士山噴火
938年、承平から、天慶に元号が変更
   「興世王」と「藤原玄明」を国司からかくまい、国司と対立する
939年、関東各地の国府を襲撃し、国府印を奪う
940年、新皇を名乗り、朝廷軍に討伐される

【平将門の血統】
桓武天皇系の血をひく「高望王(たかもちおう)」は、平の姓を賜って臣下降籍し、
国司となった上総(千葉県)に任期後も住み着き、原野開墾し、富と武力を増しつつ、
子世代の時には、上総・常陸・下総・相模へと勢力拡大を続けていた。

■「新皇」将門の国家構想・・・エピローグ 

▶︎将門の国家構想

 最後に、「新皇」将門が東国に建設しようとした国家の構想についめることにしたい。検討し、それを通じて「平将門の乱」のもつ歴史的意義についてまとめることにしたい。

 天慶2年(939)12月下旬、神憑(が)かった巫女が口走った八幡大菩薩の託宣(たくせん・神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること)によって「新皇」を名乗った将門は、早速、奉国国家樹立に向けての政策を展開する。

「国府の軍三千人はすべて討ち取られてしまった。将門の将兵は僅か千余人であったが、府下を包囲して人々を自由に動かせなかった」(「坂東市本将門記」現代語訳)常陸国府の軍が待ち構えていたが、平将門はこれをあっけなく蹴散らした。お尋ね者、藤原玄明(はるあき)の身柄引き渡しをめぐる常陸国司、藤原維幾(これちよ)との交渉は決裂、939(天慶2)年11月21日、ついに合戦となった。国府を焼き打ちし、国司の権威の象徴である印鎰(いんやく)(国印と国倉の鍵)を奪ったことで、一族の抗争は国家への反乱事件に発展した。「一カ国討つも八カ国討つも同じ」。将門は12月に下野、上野の国府も攻略。他国の役人も逃亡し、将門は坂東8カ国を手中に収めた。

 その最初は坂東八ヵ国の国司の任命である。下野守に舎弟平将頼(まさより)上野守に常羽御厩(いくはのみまや)別当の多治経明(たじのつねあき)、常陸介に藤原玄茂(はるもち)、上総守に武蔵権守輿世(おきよ)王、安房守に文屋好立(ふみやのよしたつ)、相模守に平将文(まさぶみ)、伊豆守に平将武(まさたけ)、下総守に平将為(まさため)が任命された。将門の子や同盟者の輿世王どが任命されている。ただ、武蔵国司が任命されていない理由はわからない。

 続いて、将門は「王城」の建設を命じる。「其の記文」(記録)には次のように記されていた。

 王城を下絵国の亭南(ていなん)に建つべし。兼ねて檥橋(うきはし)を以て号して京の山崎となし、相馬郡大井津を以て号して京の大津と為さん、と。

  「王城」を建設しようした「下絵国の亭南」の場所は不明だが、檥橋(「」は「船の準備をするふなよそおい」のこと)を京都南郊の山崎に、「大井津」を近江国の大津になぞらえていることは、将門が平安京に似せて「王城」を建設しようとしたことは間違いない。

 さらに続けて、「左右大臣・納言・参議・文武百官・六弁八史」の任命、「内印・外印」(天皇の印と太政官の印)の寸法・文字などの確定を行った。宮都の建設、官僚の任命が矢継ぎ早に実施されたことがわかる。しかし、「狐疑(こぎ)するは暦日博士のみ」(任命が疑わしいのは暦日博士だけ)とあるように、専門性の高い技術と能力を必要とする暦を作る暦日博士は人材を確保できず、任命されなかったようである。

 以上が『将門記』が伝える「新皇」将門の東国国家の構想であるが、身近な同盟者を任命している国司はさておくとしても、「文武百官・六弁八史(「文武」は文官と武官のこと。「百官」はたくさんの役人ということから、全ての役人のたとえ)」(朝廷の中下級官人)が任命されたり、「内印・外印」までも造ろうとしていることなどから、この記事の真偽を含めて、将門の国家構想をめぐつてはさまざまな評価がなされている。

▶︎「みじめな構想」という評価

 その代表的な見解をいくつか紹介しよう(昭和50年(1975)以前の詳細は佐伯他1975参照)。

 まず、石母田正の評価である(石母田1950)。石母田は将門の「王城建設以下の計画が実現されたかどうかはうたがわしい」としながらも、「将門が実現しようとしたものは(中略)第一に彼が独立の小国家を建設しようとしたことであり、第二にその国家が京都の天皇制国家の模倣であったことである」とし、さらに「天位につき、王城をきずき、百官を任命するというみじめな構想」(「たんなる無邪気な地方豪族の喜劇」とも)であるときびしく評価し、その要因を将門の階級的基盤が私営田領主にあったことに求めている。

在地領主(ざいちりょうしゅ)とは、中世日本の荘園公領制の下、荘園・公領(国衙領)の在地(現地)において所領を実際に支配していた武士層(領主)のこと。京都など都市部に拠点を有する皇室・公家・寺社などの都市領主(荘園領主や知行国主)などと対比される存在である。

 石母田のこの評価は、中世社会の成立を在地領主武士の成長過程を基軸に考えようとしていた時代のものだけに、将門の国家構想も彼の在地領主武士としての未熟さを前提に評価しており、いまからみると古さを感じざるを得ない。しかし、この評価がその後の中世在地領主制研究武士研究に大きな影響を与えたことはいうまでもない。

▶︎同時代的な評価の必要性 

 

 このきびしい評価に対し、異を唱えたのは高橋昌明である。高橋は、戸田芳實の、将門は「前将軍の家系をもつ一種の辺境軍事貴族」でありこのきびしい評価に対し、異を唱えたのは高橋昌明である。高橋は、戸田芳實の、将門は「前将軍の家系をもつ一種の辺境軍事貴族」であり「国家の傭兵軍の地位を与えられている」という評価(戸田1968)を前提にしつつ、次のように述べる(高橋1971)。

東国に律令国家のミニチュア版を構築しようという試みが、もし「みじめな構想」という文学的形容でよばれるべきものであるとすれば、むしろそれは国家の傭兵(給料を払う契約でやとう兵隊)=国将軍の、原理的には国家の走狗(人の手先になって働く者をいやしんで言う語)でしかない存在の、階級的反映としての政治的構想力の貧しさによるものと考えねばならないのである。

 石母田をはじめとする多くの研究者が、将門の国家構想を虚構と評価したり、源頼朝が建設した鎌倉幕府との比較で消極的・否定的にとらえようとするなかで、将門の同時代的な政治的位置=「国家の傭兵」という性格からそれを評価しょうとした視点は新しい。

 また、高橋は、将門の「独立国家」建設が容易であった条件として、

前代の群党蜂起が国都を超え、東国全域にまたがる交通形態を持ち、従ってこれの鎮圧兵力の行動もまたこれに規定され、早くから東国全体にその影響力を持っていたからに他ならない。

 と、将門一族が、東国の治安維持を任務とした軍事貴族として、東国全体の交通体系に関わつていたことを指摘しているが、これも将門一族の東国における政治的地位を示す重要な指摘ということができよう。

 この高橋の「将門の乱」研究は、当時、盛んになりつつあった王朝国家論、国衛軍制研究の成果を踏まえた新しい評価であっただけに議論を呼んだ(佐伯他1976、高橋修二・2015)。しかし、石母田・高橋が提起した将門の国家構想そのものについては、その後、十分検討されてきたとはいえない。

 例えば、高橋論文以後に本格的な「将門の乱」研究を発表した福田豊彦は将門の国家構想を「空騒ぎ」であり、「作者がその将門論を展開するためのフィクションであろう」といい、「独立政権のビジョンはみられ」ない、とまったく否定的な評を与えている(福田1981)。また、近年、新しい将門研究を発表している川尻秋生や鈴木哲雄も、東国政権の先駆として評価すべきとか、坂東を政治的に主体性をもった領域=「坂東国家」として表出させたことの歴史的意義を認めながらも、国家構想については、律令国家を模倣しただけのものでとても新政権きといえる代物ではない(川尻2007)、京都の朝廷をまねちもので、あくまでも将門の政権構想にすぎない(鈴木)、とこれまた否定的というか消極的である。

 以上のような評価をもとにすれば、「新皇」将門の国家構想は京都の朝廷の支配構造に倣ったものであり、「律令国家のミニチュア版」を建設しようとする「みじめな構想」のようにみえる。しかし、このような評価は、当時、なにか新しい国家構想を生み出せるような政治的、思想的条件や可能性があったかのような考え=幻想を前提にしているといわざるを得ない。そのような幻想(多分に武士発展史的な幻想)を前提に将門の国家構想を評価するのは正しい方法ということはできない。

 10世紀初頭、延喜新制を推進した当時の最高権力者藤原時平・忠平が作り出した王朝国家(体制)も律令制以来の太政官機構を残していたし、政策の基本も、律令制支配の矛盾に直面していた諸国の国司たちが生み出した現実的対応である「国例」(その国だけに通用する便宜的な支配方式)を体制化したものだったのである。しかし、延喜新制によって律令国家から王朝国家への移行が推進されたこは間違いないし、その歴史的意義は高く評価されなければならないことはいうまでもない。

 将門の国家構想を同時代的に評価しなければならない所以である。以下、高橋の視点に学びながら、将門の国家構想に関する私の考えを述べることにしたい。

▶︎将門の政治基盤 

 多くの研究者が指摘するように、確かに平氏一族は国司や鎮守府将軍など律令国家体制に基づく政治的地位を基盤に活動しており、かつ将門の合戦が国府を舞台にすることが多く、それも国司の国内支配権の象徴である「印鑰(いんやく)」=国印と国倉の(こくそう)鍵を奪うという行為をともなっていたことを考えれば、平氏一族、そして将門の行動は律令国家支配体制を前提にしており、かつその枠内での反乱であるかのようにみえる。

 しかし、川端新の成果(川端1998)をもとに述べたように、国司とのあいだで「移牒(いちょう・ある役所から管轄の異なる他の役所へ文書で通知すること)」を授受する将門の政治的地位は「疑似宮司化」された準公的な性格をもつ存在であったし、彼らの拠点であった「営所」も彼らの性格を裏付けるように準公的な性格をもつ施設であった(第二章「国府襲撃と将門の政治的位置」参照)。

 これらのことから、彼ら平氏一族は、「国家の傭兵(ようへい・給料を払う契約でやとう兵隊)」という地位だけから評価することはできず、九世紀後半から東国の治安維持を担う過程で、東国という地域において実力を発揮できる独自の勢力基盤、政治基盤を構築していたと考えることができよう。

 また、高橋がいう東国の交通体系への関与についても、将門一族の「群党蜂起」 への対応を契機にしていた可能性が高いが、伯父良兼らの本拠が常陸国府と下野国府・東山道とを結ぶ交通の要衝にあったこと、そして、鎮守府将軍であった将門の父良持の「遺領」問題などを含めて、彼ら一族が奥羽地方の「富」とその分配に対して強い関心をもっていたことなどを考え合わせるならば「群党蜂起」への対応だけでなく、平氏一族が形成してきた支配構造そのものに関東の交通体系の掌握が組み込まれていたと評価すべきであろう(第一章「平氏一族内紛の要因」参照)。もちろん、二者択一的に考える必要はないが、平氏一族内紛の要因として「奥羽地方の富」の領有と分配があったと考える本書にとっては、やはりこの点は強訴しておきたいと思う。

 このように、将門とその一族の存在形態は、関東・東国の治安維持を任務とした軍事費族としての性格をもちながらも、この地域を勢力下におくための独自の政治基盤を形成していたのであり、それは筑波山西麓を拠点に形成された奥羽まで繋がる交通網の掌握によって裏付けられていたといえよう。

▶︎『将門記』作者の画期性

「将門記」所載地名一覧
常陸国
かの国(常陸)新治都川曲村
常陸国信太郡の寺前の津
同国(常陸)水守の営所
(常陸国真壁郡)服織の宿
常陸国の石田の庄
相馬郡大井の津
吉田都蒜間の江
下総国
下総国香取郡の神前
下総国豊田郡栗栖院常羽の御厩
同郡(豊田)の下大方郷堀越の渡
豊田都岡崎村
豊田郡鎌拾の宿
幸鳴郡葦津の江・広河の江
幸鴫の広江
幸嶋郡の北山
結城郡法城寺・鵡鴨の橋
下総国の亭南・桟橋
常陸・下総両国の堺,子飼の渡
常陸・下総国以外
信濃小県郡の国分寺・千阿川
(武蔵国)比企郡狭服山・経基が骨所
国・郡名記載なし
野本・石田・大串・取木等
筑波山
弓袋の山の南の硲
石井の営所(ニカ所)
石井の福
川口村
その他
足柄・碓氷二閑
京の山埼
京の大津
 注・大村2000をもとに作成.

 続いて、石母田が「みじめな構想」、高橋が「政治的構想力の貧しさ」と評価した点について考えたい。この時に参考になるのは竹内光浩の評価である (竹内一九九三)。

 竹内は「天神信仰」拡大の歴史的意味を検討するなかで、高橋とは違った視点から石母田を批判する。それは、将門の「新皇」即位の根拠として八幡大菩薩と菅原道真の霊が登場することに関してで、次のように述べている。

 将門の目指した東国国家が、たとえ天皇を頂点とする律令国家のミニチュア版だったとしても、それを将門の古代豪族的限界とする説はあたらない。(中略)もし古代律令国家のミニチュアを東国に構築するのであれば、伊勢の天照大神を戴くか、鹿島香取の神を戴けば十分である。しかしそうはしなかった。むしろ古代律令国家を支えてきたそうした神々ではなく、王権によって疎外され都の貴族たちを恐怖の底に落とし始めていた道真の怨霊神を戴いたのである。そこに『将門記』作者の画期性と、彼の古代律令国家への精神史的反抗表現を担うに足りるほどの勢力に成長していた将門たちの反乱の質を読み取るべきではなかろう

 すなわち、竹内は将門が新皇に即位するにあたって、それまでの律令制的な神祗(しんぎ)体系に則った神々(天照大神や鹿島神・香取神)を皇位継承の論拠にするのではなく、怨霊(おんりょう)として都の貴族たちを恐怖におとしめていた菅原道真の霊をその論拠にしたところに、「『将門記』の作者の画期性」を求めているのである。そして、それは「古代律令国家への精神史的反抗表現」であったともいう。石母田・高橋にはなかった新しい視角からの評価といえよう。

 本書でも、竹内の指摘を受けつつ、将門が「新皇」に即位するに際して、それまでの皇統継承の論理とは異なる天命思想を採用していたこと、律令制的な神祇体系にはない新興八幡神と道真の霊(怨霊)を根拠にしていたことを指摘し、将門の「新皇」即位がこれまでの皇位継承の論理とは明らかに違っていたことを述べた(第三章「「新皇」即位と八幡神・道真の霊」と第四章「「新皇」即位と王土王民思想」参照)。竹内のいうとおり、将門の「新皇」即位は「みじめな構想」などではなく、思想的・精神史的には京都の天皇・天皇制を相対化するような大きな「画期性」を孕(はら)んでいたと評価すべきである。

 もう一つ、竹内の評価で注目すべきは、「将門記』作者の画期性」に続いて、「彼(作者)の古代律令国家への精神史的反抗表現を担うに足りるほどの勢力に成長していた将門たちの反乱の質を読み取るべきではなかろうか」という指摘である。すなわち、竹内は『将門記』の作者が将門の「新皇」即位の論拠として道真の怨霊や八幡神をもちだし、律令国家への「精神史的反抗表現」を採ることができたのは、それを担保できるほど将門の乱の「質」の高まりがあったからだというのである。これまた鋭い指摘といえよう。

律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制であった。また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

 私は、竹内が指摘したこの問題を、当時の「王権の揺らぎ」と将門の乱に対する朝廷の対応=王土王民思想の発現から解こうとした(「「新皇」即位と王土王民思想」参照)。すなわち、「王権の揺らぎ」のなかに将門の「新皇」即位の可能性を、王土王民思想の発現のなかに将門の乱の実現可能性をみようとしたのである。

▶︎国家構想の主体性

 さらに、将門の主体的な構想は、彼の支配領域に関する認識によく現れている。まず、新皇を称した後の弟将平の諌言(かんげん・目上の人の過失などを指摘して忠告すること)に対して、将門は、

凡そ入国を領せんの程に、一朝の軍攻め来らば、足柄・碓氷(うすい)二関を固め、当に坂東を禦(ふせ)ぐべし。

 

と反論し、もし「一朝」=朝廷の軍勢が攻めてきたならば、足柄関と碓氷関を固めて坂東=関東を守るだけだ、といい放っている。東海道の足柄関と東山道の碓氷関を自分の支配領域の境界と認識し、それより東側=関東を自らの「国家」として守ろうというのである。もちろん、このような領域認識は、「あづま」という語がこれ以前からも散見するよぅに(伊勢物語』など)、将門独自なものではないが、彼の国家構想のなかに政治的領域として明確に位置付けられていたことは重要であろう。

 このような認識は国家構想を発した後の将門の行動にもみられる。将門は上野国府で国家構想を発表した後に「武蔵・相模等」を「巡検」し、「みな印鑰を領掌し、公務を勤むべきの由を留守の国掌(国務に携わる国府の役人)に仰」せて、「相模国より下総に帰」っている。この経路は上野国−武蔵国−相模国となるが、これは前述した碓氷関と足柄関とを南北に結ぶルートであり、自らの支配領域である関東の西側の境界を掌握しようとする行動であったと評価できよう。

 さらに、下総国に帰って間もなく、「未だ馬の蹄を休めず」、「遺(のこ)りの敵等を討たんがために、五千の兵を帯して常陸国に発向」し、「奈何(那珂)・久慈両部」まで赴き、両部に勢力をもっていた藤原氏と協力関係結んでいる。『将門記』はこの発向の目的を平貞盛らの居所を探すためだと記すが、これは常陸国府の北側に位置する同国の太平洋側を支配下に治めるための巡検でもあったと考えるべきである(以上、鈴木二〇一二)。

 すなわち、将門は国家構想を発した後、ただちに自分の国家=支配領域である坂東八カ国の西側の国々(武蔵と相模)と常陸国中部を巡検し、その実際的な掌握を企図しているのである。将門は「王城」を建設し、諸国司を任命するだけでは不十分であることを十分認識していた。だからこそ、支配領域の境界を巡検し、「国掌」を押さえ地域の有力者を掌握するなどして着実に国家構想を実現しようとしたのである。

国掌とは平安時代、国司の下で、記録・雑務を担当した下級役人

 『将門記』は、将門のこれらの行動に先立ち、

然るに新皇、井底の浅き励みを案じて、堺外の広き謀(はかりごと)を存せず。   (現代語訳‥井戸の底からみるような視野の狭い考えしかもっておらず、広い視野に立った「謀」=計画をもっていなかった。)

と記すが、将門の行動を上記のように考えれば、将門は自分の国家領域を支配するための政策をしっかりもっていたということができよう。

 この点に関して鈴木は、将門の国家構想において陸奥国との国境が意識化されていないことを疑問視しているが(鈴木2012)、それは、川尻が将門が13000の軍兵を率いて陸奥・出羽両国を襲撃しようとしたこと、将門の弟将種が舅の伴有梁とともに陸奥国で謀叛を起こしたという記録の存在から、「将門がめざした独立国家の中に、東北地方も含まれていた可能性を認めたいと思う」といっていることが正しいと思う(川尻2007)。

▶︎将門と頼朝の境界認識   

 これは、鈴木の成果(鈴木1994)をもとに以前に述べたことがあるが、将門が支配下に置こうとした国家領域は、実は源頼朝が直接支配下に治めようとした領域と同じであったことは注目しなければならない(木村2016)。頼朝挙兵直後の合戦が西は富士川の合戦、東は常陸国の金砂合戦(現茨城県常陸太田市に所在した金砂城に佐竹氏を攻めた合戦)であったこと、建久四年(1193)のいわゆる富士の巻狩りが三原野(上野国と信濃国の国境)、那須野(下野国と陸奥国の国境)、そして富士の裾野(伊豆・相模両国と駿河国の国境)の三カ所で行われたことを想起していただきたい。ここに現れる頼朝の境界認識は将門のそれとまったく同じである。関東に限っていえば、頼朝の境界認識は将門の国家構想を踏襲していたということもできる。

▶︎将門の国家構想の意義

 以上、将門の国家構想について検討した。その特徴は

 第一に、将門ら平氏一族は律令国家体制を前提にしているものの、筑波山西麓を中心に交通体系を掌握して、次の世代まで受け継がれるような(常陸平氏の成立)独自の政治基盤を形成しており、それを前提とした国家構想であったことである。

 第二は、将門の「新皇」即位は、それまで皇統が律令に則った神々を根拠にしていたのに対して、八幡神と道真の霊という新たな「神」を根拠としており、律令国家体制を相対化しようという意識が存在したことである。

そして第三に、単に王城を築くだけでなく、自らの国家領域を確定し、その領域の掌握をさまざまな方策によって実現しようとしていたことである。

 これらの特徴は、将門の国家構想を「みじめな構想」とか「空騒ぎ」と評価することが、ある種の「幻想」に基づいた、いかに一方的な評価であるかを示している。もしこのような否定的な評価が正しいとするならば、王土王民思想を発現し、「憂国の士」や「田夫野(でんぷや)叟(そう)・村の老人」まで動員して将門の乱を鏡圧しょうとした朝廷の対応策もまた「空騒ぎ」と評価せざるを得なくなる。私は、朝廷がこれまでして将門の乱を鎮圧しようとした点に、将門の国家構想が現実的な可能性をもっていた、ないしは実現化するような危機感を当時の支配者層に与えていたと評価すべきだと考える。

▶︎平将門の乱の歴史的意義

 さて、高橋(昌)は、将門の国家構想を「可能性に終わった分権的封建国家の一構成部分をなすものであったともいえるのではないか」と積極的に評価している(高橋1971)。非常に魅力的な評価であるが、私はそこまで踏み込んだ評価をすることはできない。

 なぜなら、将門と平氏一族は独自の権力基盤を形成し、将門の国家構想がそれに基づいていたとはいえ、彼らの支配構造には、封建制の構成要素である土地領有の構造とそれに基づく主従制的な支配原理をほとんど確認できないからである。それは、彼らの合戦が主に焼土戦であったことや、平良兼が丈部小春丸(はつせかべのこはるまる)を従者へ誘う条件が動産であって不動産=領地ではなかったこと、さらに将門と同盟者輿世王らとの人的関係をみれば明らかである。彼らの支配構造が封建制的な諸条件によって支えられていたとはどうしてもいえない。

 しかし、だからといって将門の乱の歴史的意義を低く評価することにも賛成できない。将門らの支配構造に中世的な要素が希薄であったことと、その反乱が国家史的に果たした意味と意義は明らかに異なっていると考えるからである。

 平将門の乱は、政治的・社会的・思想的にも日本古代の国家・王権が大きな転換を迎えていた時期に起こつた点にこそ意義があるのであって、武士成立史、武家政権成立の前史という狭い枠からの評価ではその全体的な意義を評価したことにならない。

 この反乱を経過するなかで、日本の国家は律令制国家から王朝国家(体制)へ大きく展開した。武士もこの反乱の鎮圧者の子孫が「イエ」を形成することによって成立するといわれている(川尻2007)。また、上島が力説するように、中世的な皇統意識、二十二社制につながる中世的な神武体系も、この反乱を重要な契機として形成されてくる。さらにシダラ神事件にみられるように、富豪層を中心とした中世村落の起点をこの時期に求めることも可であろう(河音1967)。

 もちろん、このような政治的・社会的・思想的な転換は現在の研究成果に基づく評価であることは承知しているし、これらの転換のすべてが将門の乱に起因しているというつもりもない。

受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以後に呼んだ呼称。

 しかし、将門を含めた平氏一族が勢力の基盤とし、かつその権威の故襲撃の対象となった国府や郡衝が、この乱を経過するなかで大きく改変されていったことは間違いないし(受領制への移行、郡衛の崩壊など)、将門が「新皇」即位に際して戴いた八幡神と道真の霊(天神)が、この後、中世的な神献体系のなかで重きをなしていったことも前述した。さらに、将門ら平氏一族の遺産を継承した平貞盛・繁盛流が筑波郡街の権威を利用しっつ、それに近接する水守や多気を拠点に武士団=常陸平氏として成長していったことも接々説明した。

 このように、将門の乱は関東という京・畿内から遠く離れた領域を舞台に起こつた反乱であったが、この反乱から読み取ることができる諸特徴はまさに全国的な政治的・社会的・思想的な変化を体現するものばかりであった。ここにこそ、平将門の乱の歴史的意義があるといえよう。

 実際、唐帝国と渤海の滅亡(907年と926年)高麗の建国(918年)と新羅の滅亡(936年)という東アジアの構造的な変化、国内的には律令制国家の崩壊、延喜新制を主導した藤原時平の死、菅原道真の怨霊の肥大化と醍醐天皇の死、シダラ神事件にみられるような新しい神や新興勢力(富豪層)の登場など、当時の支配層が政治的・社会的・思想的に大きな転換が進行しっつあることを現実的なものとして認識する条件は十分そろつていた。

 このように、日本の社会全体が大きな転換点を迎えていた時、律令国家・王朝国家が支配の根幹としていた国府を襲い、さらに中国由来の天命思想を掲げ、新興の八幡神・道真の霊を根拠に「新皇」を名乗って王城を建設するという将門の行動=反乱は、たとえ彼らの政治基盤が多分に律令制的権威に依存する性格を残していたとしても、朱雀天皇を初めとする支配者層にその大転換を象徴するできごととして認識されたことは間違いないであろう。彼らが将門の乱に読み取った危機感は相当なものであったはずである。

 繰り返しになるが、朝廷が王土王民思想という強力なイデオロギーを発動してなりふり構わず将門の乱を鎮圧しなければならなかったところに、将門の乱の時代的な象徴性と朝廷の危機感の大きさを読み取ることができる。

 以上のように、平将門の乱は9世紀後半から10世紀前半にかけて進行していた日本国家、日本社会の大きな転換を体現し、象徴する事件であったのであり、かつ結果としてその転換を推進する役割を果たした反乱であったということができよう。