■岡倉天心と文化財保護・・・美術院に受け継がれる伝説
西川杏太郎
▶︎明治維新。文化遺産保護のはじまり
明治維新。文明開化の大波の背後で、強列盲廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。これは明治元年(1868)の『神仏分離令』という太政官布告をきっかけとするものですが、一方、古い歴史を持つ仏教寺院では、どこも社会の大変革に伴って財政的に窮乏状態となり、たとえば奈良興福寺の五重塔そのほか著名な古建築が民間に払い下げられようとしたり、鎌倉大仏が地金の値段で国外に売られようとしたとか、また天平写経が荒縄で束ねられて、奈良の古物商の店先に山積みされたりということまで起こつたといいます。
また都会では文明開化の波の中で、古い物は捨て、なんでも新しいものに飛びつくという、おそるべき風潮も生まれてきたのです。明治政府はこうしたわが国の伝統的な文化遺産の散佚(さんいつ・まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること)を喰いとめようとして、まず明治四年(1871)5月に『古器旧物保存方』と名づけた太政官布告を公布し、全国の所有者の啓蒙に乗り出すのです。これはわが国の文化遺産保護への政府による取り組みの第一歩として特筆すべきことといえるでしょう。
その主文は「古器旧物の類は古今時勢の変遷、制度風俗の沿革を考証し侯ため、其稗益するところ少なからず候ところ、自然、古きを厭い、新しきを競い候流弊より、おいおい遺失毀壊におよび候ては、実に愛惜すべき事に候僕、各地方において歴世蔵貯しおり侯古器旧物の類、別紙品目の通り、細大を論ぜす厚く保全いたすべき事。ただし品目ならびに所蔵人名の委詳を記載し、其官庁より差し出すべき事。」とあり、これに続いて別紙として「祭器、古玉宝石、石努雷斧、古鏡古鈴、銅器、古瓦、武器、古書画、古書籍並古経文、扁額、楽器、鐘鈷碑銘墨本、印章、文房諸具、農具、工匠器械、車輿、屋内諸具、布吊、衣服装飾、皮革、貨幣、諸金製造器、陶磁器、漆器、度量権衡、茶器香具花器、遊戯具、雛峨等偶人並児玩、古仏像並仏具、化石」の31項目を列記し、それぞれに内容を細かく注記し、文末には「右品物は上は神代より近世に至る迄、和品舶斎に拘らず」と記されています。これを通読してみると、当時、古器旧物の保存に対する政府の危機感が見事にあらわされているようです。また31品目のリストの内容は、いわゆる美術工芸品(絵画、彫刻、工芸、書跡古文書、考古資料)のほか民俗文化財の全領域や化石・標本など記念物の一部までを含む、不動産を除くすべての分野をカバーしていることもわかります。この布告に.よって各府県から報告された記録は、現在、東京国立博物館に保管されています。
ついで明治5年(1872)、政府によって奈良・京都ほか近畿圏の古社寺や正倉院の宝物調査が行われます。その記録である『壬申検査古器物目録』によると、これは翌1873年開催のウィーン万国博覧会への出品物選定を主な目的としたものですが、ここでも古器物の散佚を防ぐことの重要性や博物館建設の必要性も説かれています。こうした流れの中で明治15年(1882)ころから専門家による実態調査がはじまり、ここではじめて岡倉天心たちが調査に加わり、大活躍するのです。
そして明治21年(1888)、宮内省に「臨時全国宝物取調局」が設置され、全国の古美術品調査が行われはじめ、その後十年間に、古文書、絵画、彫刻、工芸品、書跡の五部門で、合計21万5091件の作品の調査が行われています。こうした実態把握を経て、いよいよ明治30年(1897)「古社寺保存法」が制定され、まず古建築、古美術品を対象とした本の行政がスタートし、これが現在の「文化財保護法」にそのまま受けつがれて行くのです。
▶︎岡倉天心の経歴
文久2年(1862)横浜に生まれた岡倉覚三(天心)は、明治10年(1877)14歳・東京大学の学生となり、政治学、理財学を専攻し、当時大学のお雇い教師であったアーネスト・フェノロサに師事します。このフェノロサから天心は大変大きな影響を受け、明治13年(1880)17歳で大学を卒業するとすぐ文部省のお雇いとなり、翌年には学務局に勤務し、そこで明治政府が抱えている文化行政の諸問題に大きな関心を持ち、フェノロサが奈良・京都の古い寺院の仏像や仏画など文化遺産の調査をして歩くのに通訳として同行し、天心自身も日本の古美術研究を同時に行なっていったのです。
まず明治15年(1882)19歳、天心はフェノロサや文部省の九鬼隆一とともに近畿社寺の宝物調査を行い、明治17年(1884)21歳・には法隆寺夢殿の秘仏、救世観音像をはじめて開扉(かいひ)調査したことは大変有名な逸話となって伝えられています。
また天心は明治19年(1886)23歳、政府の美術取調委員として浜尾新、フェノロサと共に欧米に出張し、各国の美術行政、学校制度、博物館事情などの視察も行っています。明治21年(1888)25歳には、前に述べたように、宮内省に臨時全国宝物取調局が設立され、天心はその幹部専門家として大活躍し、その後の「古社寺保存法」制定にも同様、天心は委員として深く関興して行きます。
明治22年(1889)26歳 には、いよいよ東京美術学校(今の東京藝術大学)が開設され、また帝国博物館(今の東京国立博物館)も改組開館されると天心は、まず博物館の理事・美術部長となり、展示品の充実に腕をふるい、翌年には東京美術学校の校長にも就任、また教授として数年にわたり「日本美術史」の講義も行っています。これは日本における学術的な日本美術史の初講義として有名です。
このように上野の山の二つの機関で天心は大いに活動しますが、しかし明治31年(1893)30歳、帝国博物館では九鬼隆一が総長の職を更迭され、続いて天心も理事・美術部長の職を辞していますが、それだけでなく、東京美術学校の校長も辞めなければという事件に発展し、この時、同時に橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山など、天心を慕っていた東京美術学校の教授、助教授17名も辞職し、天心と行動を共にするのです。
▶︎ 天心、日本美術院を創設1第一部と第二部 この年の秋、天心は伝統的な日本美術の研究とそれによる新しい日本美術の創造を提唱し、東京谷中に「日本美術院」を創設します。そして日本画の新制作については橋本雅邦以下の画家グループが早速精力的に制作に取りかかります。
この時、東京美術学校教授の職を辞してこれに加わった17名の中に、当時、助教授であった30歳の若き彫刻家新納忠之介がいたのです。
天心はこの新納忠之介に命じて古美術の修理、研究を担当させます。そして折りから発足した「古社寺保存法」によって国宝に指定された仏像など古美術品の修理を行わせはじめるのです。新納ははじめての大仕事に戸惑います。そこで奈良にまず居を定め、当時奈良在住の寺出入りの仏師や当時名人といわれた漆工、木工、金工や模造専門の技術者たちを集め、その人たちの技術を結集し、またその技術を整理しながら学び、修理方法を確立しようと大変な苦労をしたようです。
特に明治34年(1901)ころ、新納忠之介は天心(38歳)から東大寺三月堂の乾漆造の巨像群が国宝に指定されたので、その修理をするよう命ぜられます。新納は、手を触れたこともない、そんなむづかしい仕事は、無経験な者には出来ないと答えると、天心は激烈な口調で、むづかしい事をやるのが、研究者の仕事であると叱りつけたといいます。「一体、先生は私を殺すつもりですか」と答えると「うむ、殺すつもりだ。芸術の上では君を殺すつもりだ」と説得され、新納は死を賭してこの仕事をやることに決心したと、新納自身が自著の中で述べています。初期の美術院第二部の苦悩の様が手に取るようにわかる気がします。
明治39年(1906)43歳、天心は日本美術院を改組。新制作部門を第一部(アトリエは茨城県五浦)、国宝修理および技法研究部門は第二部とし、第二部は奈良東大寺勧学院に工房をかまえ、本格的な活動をはじめます。
一方、天心は明治37年(1904)41歳からボストン美術館に毎年招かれ、東洋美術整理の職につき、また日本美術院同人による作品展を米国内に巡回させたり、さらに明治42年(1909)46歳には、新納忠之介をボストン美術館に派遣し、館蔵の仏像彫刻修理に当たらせ、翌年には天心自身が、同館の初代東洋美術部長にも就任。精力的に国内外での活動を続けて行きます。
大正2年(1913)天心は50歳で逝去しますが、その翌年、日本美術院の第一部と第二部は、円満に別れることになり、新制作部門は日本美術院を再興、院展として栄え、現在に至り、第二部は新納忠之介のもとで奈良水門町に工房をかまえ、国宝修理に専念します。これが一般に「奈良美術院」と呼ばれたのです。
(嘗て新納忠之介の住まいで、現在大学の寮となっている。)
戦中、戦後の混乱をのりこえ、新納忠之介は精力的に活動し、昭和29年(1954)85歳の長寿で他界します。
その後も美術院の活動は充実し、昭和30年(1955)には工房の中心を京都に移し、「美術院国宝修理所」を名乗り、活動は続けられ、昭和43年(1968)には文部省所管の財団法人美術院となつて、経営の合理化も進み、昭和51年(1976)には、美術院が持つ「木造彫刻修理技術」が、文化庁による無形文化財の一部門「選定保存技術」保持団体として選定され、また本年春、公益財団法人美術院となり、岡倉天心創設以来、115年の歴史を刻むことになったのです。
▶︎ 現代の美術院・国宝修理所と技師達
美術院では、天心の目ざした日本美術の技法研究と保存修理という大きな命題を決して忘れることなく、国宝(重要文化財、地方指定文化財)修理の現場では、まず作品の材質や技法を細かく調査してそれを記録し、修理に当たっては、その施工内容を詳細に記録し、また作品の図解を必ず造り、そこに色分けで、修理した部分と、補足した部分(新補)を明示して来ました。この伝統は、新納忠之介以来、確実に伝えられ、現在もさらに詳細な記録として保存されているのです。またこうした研究の積み重ねによって、七世紀、飛鳥時代から一人世紀、江戸時代まで、夫々の時代の彫刻作品が持つ技法や材質の特色を知ることが出来ているのです。
なお国宝修理の初期のころは、絵画や工芸品などの修理も美術院が引き受け、それを表具師や漆芸家などに依頼して来た時もあったようですが、間もなく、美術院の国宝修理は仏像など彫刻作品、それに大型工芸品(厨子など)などに特化され、絵画・書跡などは練達した技術を持つ国宝修理装潢師連盟が、また工芸品などは同じく練達した技術を持つ専門技術者(人間国宝など) の工房で行われています。
現在、美術院には、技術者(仏師) が39名在籍し、京都と奈良などの国立博物館内の工房や、現地に造られた工房で、日夜、活動しています。職種は、彫刻の技術を持つ彫工、漆芸の技術を持つ漆工、構築的に大きな木材を組む技術を持つ木工などを中心とし、一部に彩色技術をこなす ことの出来る技術者も含んでいます。
いずれにしても、新しく美術院の技師になろうとする若者たちは、美術大学の大学院修了者であろうと、高校卒であろうと、区別なく、まずはじめに砥石の調製、刃物の研ぎ方や工具の扱い方を一から教えます。それから漆の扱い方、漆ベラの製作なども教えるのです。またこうした工具を取扱うための基本的で安定した姿勢(片膝を立てて坐り、背筋をのばす安定した姿勢)をま もらせ、先輩仏師たちは、一人一人に懇切に指導します。すべては、まず工具を自在にこなせる「手の技」が技術の基本となるからです。
こうした基本をしっかりと身につけると、今度は、修理現場で、斜にかまえても、中腰であっても、又立った姿ででも正確に、しかも自在に道具が扱えるようになるのです。
こうした基本は、美術院だけではありません。伝統技術を中心とする表具師の世界でも、古建 築の修復でも全く同じだと思います。それは科学の力でできることではありません。機械でできるものでもありません。人の手の技が第一です。
そうした技をみがく一方、修理対象となった彫刻作品が持つ制作年代の特色、またその細部の技術の詳細をよく観察し、学び、それを修理の技術として生かして行くのです。
こうした技術者たちの仕事の内容は、実に地味なものです。自分が新制作した彫刻作品を展覧会に出品して多くの人に観賞してもらう美術作家(彫刻家、画家ほか) のあり方と比較してみるならば、自己の技術が表に出てこない、実に地味で堅実な仕事です。美術院の技師たちは、そうした立場に誇りを持ち、日夜、腕を磨いているのです。
最後に、文化財である重要な作品の修復は、どういう方針で行われているのか、その原則を記しておくことといたします。
■ 仏像彫刻(文化財)修理の基本方針
- 現在遺されている造像時の良い姿をこれ以上損傷させないよう保持し、出来るだけ永く後世に伝えること。制作当初の部材や当初の彫刻面、当初の彩色や漆箔は最も尊重され、傷つけないよう配慮する。
- ただし租悪な後世の付加物(後補部、補彩など)は技術的に可能な場合は、修正または除去することがある。
- 欠損、亡失部分は原則として補修しないが、将来、損傷がさらに拡大したり、像の保安上、構造的に不安のある場合は、補修・復原することがある。
- 修理部分の仕上げは出来るだけひかえ日にまとめ、当初仕上げ部を生かす美しい修理を行うべきである。従って無用な補足や像面の塗り直しなどは行わない。 五 仏像は寺院での信仰の対象である。従って寺の要望を尊重し、欠損部などを復原することもある。
- 修理委員会、外部研究者(監督者)の意見を尊重する。
- 修理の詳細な記録、図解などを保存し、将来に備える。修理部分、復原部分その他、詳細に図示する。