■「忍性−救済に捧げた生涯−」概観
吉澤悟
▶はじめに
鎌倉時代の一人の律僧、良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)の生涯を扱った過去最大規模の特別展である。かつて「極楽寺忍性ゆかりの通宝−奈良から鎌倉への軌跡−」(鎌倉国宝館 平成十四年)や「中世の霞ケ浦と律宗−よみがえる仏教文化の聖地−」(土浦市立博物館 平成九年)など、忍性に関わる優れた展覧会の先例はあるものの、奈良に生まれ鎌倉で没するまでの一生を辿り、忍性が発願した仏像や絵巻を含むゆかりの品々を一堂に集める試みは初めてのことである。忍性は一つの宗派を興したわけでもなく目立った著作も残していない。西大寺をはじめとする南都の律宗系の遺宝は師の叡尊(えいそん)にまつわるものが多く、忍性はその陰にかくれがちである。また彼の特徴とも言える救済活動に関しても、その直接遺品と言えるものはほとんど現存せず、僅かな文字記録に頼らざるを得ない。展覧会は知名度によって成立するものではないが、忍性は確かに単独では採り上げにくい人物であった。今回、忍性の生誕800年という記念の年を迎えるにあたり、この幾つかの困難を克服し、忍性の生涯と偉業をもっと多くの方に知ってもらう機会にしょうとの積極的な企画がまとまった。協力・賛同の打診をはかったところ、快諾下さる社寺や機関がたいへん多く、救済の人「忍性さん」の人気の強さをあらためて実感するところとなった。支援と期待の高まる中、展覧会ではいかに忍性の生涯を分かり易く再構成するか、どうすれば見て楽しい展示となるかが課題となった。
本展は忍性の生涯を大きく五つのステージに括(くく)り、顔や姿を含め人物像を紹介するコーナーを最初に一つ加えて、全六章構成としている。それぞれの章の内容は後述するが、南都で活動する一〇代(額安寺時代)と二〇代(西大寺時代)、関東に旅立つ三〇代(筑波時代)、鎌倉で志を実現する四〇〜六〇代(極楽寺時代)、そして社寺復興に奔走する晩年、の五段階で忍性の生涯を描くことにした。一方、そうした時間軸とは別に、忍性が篤く信仰した仏、救済の象徴としての文殊菩薩を、章の枠を越えて幾度も登場させている。獅子に乗り、剣と経巻を手にする童子形の文殊菩薩は、智恵の仏として広く知られているが、忍性はハンセン病患者もんhしゆしりはつねや貧者の救済においてこの文殊菩薩を本尊に供養を行っている。『文殊師利般涅槃経(もんじゅしりはつねはんぎょう)』 によれば、文殊菩薩は困窮した人々に姿を変えて修行者の信心を試すという。忍性が病人や貧者の救済に奔走したのは、まさに文殊菩薩に向き合うためなのであった。忍性の生涯に深い縁がある文殊菩薩像を通覧することで、忍性の心根に少しでも近づけるかもしれない、そんな期待をもって構成を練ってみた。以下、各章を通して忍性の生涯を展望してみたい。
※展示品の中には「非人」や「癩(らい)」という言葉が使われているものがある。 忍性が救おうとした重病患者や貧窮者は「非人」と称されたが、江戸時代の身分差別における「非人」とは異なり、生活手段を持ち得ない困窮者という意味合いをもつ。「癩」はハンセン病を含む重度な皮膚や手足の疾病を指すが、前世の行いが今に祟(たた)った病との誤った認識が長らく差別を生んできた。本展では必要な場合には当時の表記をそのまま使用するが、それらはあくまで歴史用語と認識している。多くは誤解のないよう病人・貧者、ハンセン病患者などの表記を採用した。
▶第一章 忍性−慈悲に過ぎたひと−
人となりは顔に表れるという。忍性はどんな人だったかを知るために、まずその顔の表情や姿を見てほしい。鎌倉の極楽寺に伝わる忍性菩薩坐像は、忍性の肖像彫刻としては唯一の現存品である(下図)。体は室町時代の補作であるというが、頭はより古く、忍性の存命中に写し作られた可能性がある。尖った頭、大きな鼻は忍性のトレードマークともいえる容貌であるが、小さく澄んだ瞳は見る角度によって強い眼力も感じさせる。口角を引き上げた笑顔の似合う表情は若々しく、精気に溢れるようである。一方、絵画作品の忍性菩薩像回は、授戒等の場に掛ける画像であるため、取り澄ました穏やかな表情をしている(下図右)。大きな赤い鼻はやはり印象的で、人好きのする優しい人柄が侭ばれる。静かに思索にふけるよりも、人の間に入って助け合い、喜びを分かち合うことを好む、人相見の素人でもそんな人物評が言えそうである。
書は人を表す、とも言うが、忍性直筆の書状は決して多くない。神奈川の称名寺に伝わる審海(しんかい)宛ての書状6や兵庫の多田神社伝来の書状11等に忍性本人の筆跡を見るが、柔らかな字形に穏やかな性格が読めるかもしれない。唐招提寺に奉納した東征伝絵巻98には、見返に忍性本人の筆かと思われる施人銘がある(下図左)。こちらは謹直な筆使いで、絵巻の施入に際して畏(かしこ)まった忍性の姿が想像される。なお、本図録の表紙やポスター類に使っている「忍性」の筆文字はこの施入銘から採用させて頂いた。
忍性の事績を知る基本史料は 『性公大徳譜(しょうこうだいとくふ)』である。忍性の没後七年で極楽寺僧澄名によって編纂された250句からなる伝記である。二五〇句な のは、奥書にもあるように250戒になぞらえて数を揃えたもので、これを口ずさむことで忍性の偉業を讃え、師に続くよう自らに奮闘を促したのである。鎌倉 の極楽寺に伝わる写本が最も古く(室町時代頃か。下図右参照)、本展では西大寺に伝わる写本を掲げた(以下『性公大徳譜』)。これにより忍性は建保五 年(1217)、大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)に生まれ、一六歳で母を亡くし、額安寺に入って僧侶の道を歩み始めたこと、23歳で叡尊に出会ったことなどの履歴が分かる。屏風里とは聖徳太子にまつわる伝いかるがのみや承がある地で、聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)から橘宮に通う道すがら、休憩される場所に屏風を立てた故事よりこの地名があるという。現在も「太子道」が町内を縦断している。
生誕の地に聖徳太子の伝承があるのも仏門への縁であろうか。『性公大徳譜』にはとものさだゆきえのき忍性の父親は伴貞行(とものさだゆき)、母は榎(えのき)氏と記す。伴貞行はおそらく当地の土豪ないし侍と思われるが、後に西大寺に土地を寄進した人物として「慈生敬法房 良観房親父」と記録されている(『西大寺三宝科田畠目録』48)。なお叡尊の『金剛仏子叡尊感‥しんがくL上うき身学正記』囲(以下『学正記』)によれば、忍性はこの両親の一人息子だったという。
ところで、歩行困難なハンセン病患者を背負い、奈良坂から市中まで何年間も通った逸話は『元亨釈書』の記すところであり、忍性の心優しさを物語る。この話は簡潔ながらも『性公大徳譜』にも認められるので、おそらく実話なのであろう。病を恐れて誰もできなかった究極の救済を忍性はやり通した。その姿に当時の人々は畏敬の念を抱いたに違いない。
▶第二章 文殊菩薩をもとめて−南都・額安寺時代−
忍性は幼い頃より寺や仏に親しんでいたようで、『性公大徳譜』 では11歳の時に「信貴山に学問」したとあり、続けて13歳で「食肉を断つことを誓い、慈氏(弥勤菩薩)を学ぶ」、14歳で「文殊像を摺り並びに戒を行う」とある。今であれば小学五年生から中学二年生くらいまでの年齢になろうが、この頃には将来歩むであろう道に足を踏み入れている。当時の僧侶の中でも仏道を志す年齢は特別早いわけではないが、文殊菩薩の姿を紙に摺って配った行為は、その後も幾度となく行ったであろう文殊供養の先駆けであり、かなり実践派であることがうかがわれる。
さて、忍性は一六歳で母と死別するが、この別れはその後の活動に大きな影響を及ぼすものであった。忍性の師、叡尊の 『学正記』 には母を失った時の忍性の思いが次のように詳しく綴られている。
私(叡尊) が忍性に出家するよう勧めたところ、忍性は涙を流して「私は母への悲哀の気持ちが強いのです。母は亡くなる前に、私の沙門の姿が見たいと望んだので、俄かに剃髪して法衣を着てみせました。母は私の将来の憂苦を悲しみながら亡くなりました。16歳だった私は、これに対してただ本尊の文殊菩薩像の威光を仰ぐのみでした。母の一三回忌を迎えるにあたり、七幅の文殊菩薩像を図絵して大和の七ケ所に安置し供養しようと希望しています。毎月二五日には一日一夜の不断文殊念仏を唱えて両親の功徳のため、亡母の解脱のためにしたいと思います。この宿願を果たすためにのみ出家し仏道を学ばんと望んでいるのです」と語った。
母の願いを聞いて俄(にわ・急に)かに僧侶姿になったという優しさもさることながら、現世的なこだわり(息子の将来への心配)を抱いて死んだ母は解脱・成仏できずにいるので、これを文殊菩薩の供養によって救いたい、一三回忌までは供養に専念したい、と言い切るところにひたむきな愛情を感じる。文殊菩薩への篤い信仰、終生まで続く文殊菩薩との強い嫁が、母の死を通して結ばれたと言えよう。この直後、忍性は額安寺で剃髪して、正式な出家者として僧侶の道を歩き出す。
展示では額安寺伝来の品々を多く示した。額田寺伽藍並条里図画は奈良時代の額安寺の姿を示すものであるが、聖徳太子が建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)の末の寺院として規こくうぞうぽさつぎぞう模の大きな寺院であったことが知られる。そこでまつられていた虚空蔵菩薩坐像や文殊菩薩騎獅像(下図左右)は、駆け出しの忍性が真筆に祈りを捧げる姿を見守っていたことであろう。
なお、虚空蔵菩薩坐像の台座には弘安五年(一二八二) の叡尊による修理銘が残されている。西大寺真言律宗の末寺となつて、後々まで縁は続く。額安寺に入った忍性ではあるが、安倍寺、すなわち安倍文殊院に毎月参詣したと『性公大徳譜』は伝える。近在で最大の丈六の文殊菩薩像に母の菩提を祈っていたのであろう。
文殊供養に関わる行動として注目されるのは、忍性が額安寺の西の宿で文殊菩薩を描いた図像を安置して開眼供養を行い、それを母の供養としたという『学正記』の記録である。大和の七ケ所で行う予定の文殊供養の一つであるが、忍性の描いた文殊菩薩像は残念ながら現存しない。しかし、大和郡山市西町に伝わる文殊菩薩騎獅像は、額安寺の西方の地に伝わった文殊信仰を今に伝えるものとして大変貴重である(下図左右)。
また絵画作品の文殊菩薩騎獅像(下左右)は、忍性が描いた文殊像の姿を想像する上で欠かせない鎌倉時代の作品である。
一九歳になった忍性にあらたな「文殊菩薩」との出会いが訪れる。天平の名僧、行基の遺骨が発見されたのである。行基は東大寺大仏造営にあたり民衆の力を結集したことで有名であるが、橋を架け、井戸を掘り、道をまっすぐに直すなど、人々のために尽くした事積から文殊菩薩の化身とうたわれた。忍性のその後の救済活動の手本となった人物である。この行基の墓所は生駒山竹林寺にあり、文暦二年(一二三五)の夏に行基本人からの託宣(たくせん・神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること)があったとして墓所が発掘され、骨蔵器(行基舎利瓶)が世に出たのである。忍性はその発見の場にいたのかもしれないが、『性公大徳譜』 ではその後六年間、毎月生駒に参詣したと記しており、行基菩薩を侭んで参詣を続けたひたむきさは、忍性らしいと言ってよいかもしれない。
展示では行基の木彫像(下図)や絵画作品、舎利瓶にまつわる品々(下図)を展示した(図6)。忍性が行基を慕う想いが強かったことは、行基の後追いのように民衆救済に励んだことからもうかがえるが、さらに自らの墓所を行基と同じ竹林寺内に造り、行基にならって八角石糎に骨蔵器(舎利瓶)を納めているこだわり方に「その人になりきりたい」という純粋で直情的な性格さえ感じられる(図7・8)。
▶第三章 律僧としてー南都・西大寺時代−
本章は、終生の師と仰ぐ叡尊と出会う二三歳から、東国に旅立つ三六歳までの期間、西大寺律僧としての青年忍性が見聞きした世界を紹介する。延応元年(一二三九)、叡尊は忍性に十重戒、すなわち、殺さない、盗まない、淫らなことをしないなど『梵網経(ぼんもうきょう)』に定める十個の基本的な禁止事項を授け、西大寺に入ることを勧めた。先述のように、忍性は母の供養にこだわって一度は辞退するが、翌年には叡尊のもとに来て西大寺の僧となった。
忍性の師、叡尊とはどのような人物なのか。叡尊は忍性と同じ奈良生まれで、忍性よりも一六歳年上である。建仁元年(一二〇一)、大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土町)に生まれた。父は興福寺の学侶(学僧)で慶玄といい、母は七歳の時に死別している。一七歳で京都の醍醐寺に入り真言密教を学び、東大寺の戒壇院で受戒をしたものの、「仏道は戒なくしてなんぞ到らん」という空海の言葉に悟され、新たな受戒の道を探る。興福寺僧の覚盛らと共に東大寺法華堂の観音菩薩像の前で戒律を守ることを誓う「自誓受戒(じせいじゅかい)」を実現した。西大寺に入った叡尊は様々な活動をはじめるが、仏教の原点となる釈迦への回帰をうたい、その教えである戒律を遵守することを基本軸とした。釈迦の遺骨である舎利を尊び、その供養と密教儀礼の発展を促した。また、戒律復興のために受戒制度を整理して、衆生救済のための戒律を必要とする通受戒の制度を作り、他者救済に対して理論的かつ積極的に動いたことも特徴とされる。西大寺におけるこうした動きは、おそらく叡尊の高潔な性格を反映して、理知的で厳しいものであったに違いない。想像するに、忍性はこれまで自分が学んできたものの甘さを感じるとともに、文殊菩薩への信仰においては強力な同志と後ろ盾を得た想いであったろう。
展示にはまず叡尊の姿を紹介するコーナーを用意した。今回は鎌倉・極楽寺で忍性菩薩坐像と共に安置されている輿正菩薩叡尊坐像を展示した(上図左右)。西大寺所蔵の叡尊像(八〇歳寿像。国宝)を写したものと言われるが、顔の表情はよく似ており、東内部の構造にも共通点が認められるので、南都の仏師が関わった可能性が高い優品である。叡尊の絵画作品(22〜23)は装いを変えて描かれているが、容貌は彫像とも一致する。
ハの字の長い眉毛、理性的な顔立ちに緊迫した空気をまとうが、慈愛のまなざしも感じられる。叡尊のような師を得たことを忍性はどれほど喜んだことか、想像すると羨ましくなる。叡尊の自叙伝である『学正記』46や叡尊の教えを記録した『輿正菩薩御教戒聴聞集(こうしょうぼさつごきょうかいちょうもんしゅう)』47(以下『聴聞集』)には所々に忍性に関する記述がみられ興味深い。『学正記』の仁治二年(一二四一)に次のような作善の話が記されている。
ある日、忍性がやって来て、馬司の住人の乗詮(じょうせん)が「貧窮している地域ごとに文殊菩薩の画像を安置して供養するつもりだが、次はどこに安置したら良いか」と聞いてきた。さらに長島寺の継実(けいじつ)は「それを三輪郷に安置すれば供養に必要なものを送ろう」と言う。そこで開眼の折には是非とも師に参向いただきたいと。そこで開眼・讃嘆に立ち会った。名誉や利害を度外視した清浄な作善とはこのことである。自分も一幅の文殊画像を描かせて亡き母の墓所付近の和爾郷に安置し供養しょうと心に決めた。
叡尊41歳、忍性は25歳の時のことである。叡尊はこうした忍性の申し出に触発され、以後、文殊菩薩の供養を積極的に行うようになつたとの見方がある。貧窮者に向かう姿勢は、屈託なく慈悲に動ける忍性の方が師よりも一歩先に行っていたのかもしれない。また『学正記』には忍性の学力や行動力について触れた部分がある〔寛元元年(一二四三)〕。
忍性は遅鈍な才能の者にして学び出しも遅い。学問で人のためにはなれそうにないので、いっそうのこと大宋国(中国)に渡って律壱丁疏を請来し、あまねく後輩の助けになろうと強く願っている。一方、覚如も忍性の願いに賛同している。そこで、忍性には律を学ぶことを勧め、覚如は宋に渡って律部を請来させることにした。忍性は京都と奈良の二つの都を往復して四分律行事紗を借りてきたので、14人の同志が約束して行事妙による講義を開講した。
なぜ忍性の渡航を差し止めたのか不明であるが、あるいは語学能力の問題かもしれない。学問において凡庸と言うのは忍性の自嘲かもしれないが、むしろ四分律を集めてくる行動力こそ高く評価されたのである。同様のことは 『聴聞集』の中にもあり、忍性は「慈悲が過ぎた」というが、その慈悲心の強さ故に「利生」(人助け) でこれに勝る者はいない、というのである。ハンセン病患者を背負って町まで往復したという逸話が『性公大徳譜』の中に挿入されているのは、忍性二四歳から二七歳までの事績の間である。まさに西大寺の僧侶としての行動であり、その一途な行動力によって西大寺内でも一目置かれる存在になつていたのであろう。———————————12–13—-41——-
展示品についてさらに紹介するならば、西大寺の叡尊像の胎内に納入されていた品々も注目される。八角五輪塔や『授菩薩戒弟子交名』、『自誓受戒記』『西大寺有恩過去帳』(すべて41) などは、叡尊との粁や西大寺律宗の活動を象徴、記念するきわめて重要な品であり、西大寺内の当時の空気まで封じ込められているような思いがする。また、西大寺に伝わる鉄宝塔と舎利容器囲56-2(上図左右)も今回の見どころである。鉄宝塔は叡尊の舎利信仰の集大成的な作品である。造立は弘安七年(一二八四)で叡尊の晩年にあたり、忍性は鎌倉で活躍している頃である。叡尊はこの塔の中に生涯をかけて収集してきた数多くの舎利粒を納めていた。文永八年(一二七一)、5,000粒余りになった舎利のうち、3,000粒を西大寺に奉安し、1,000粒を鎌倉にいる忍性に送り、残りを鉄宝塔中の五瓶舎利容器に収めたと『学正記』に記している。忍性が受け取った1,000粒は、本山からの恩恵であり、師叡尊との心の絆でもあった。関東における布教活動にも力がこもったに違いない。
一方、叡尊は西大寺のみならず、般若寺にも熱い思いを寄せ、民衆救済の実践地にしようと動いていた。忍性が関東に向かって旅だった後のことになるが、叡尊は般若寺に周丈六(坐像で像高約1.8メートル)の巨大な文殊菩薩像の造立を発願する。般若寺の周辺は奈良の町の外れ、大和から京へと向かう街道沿いの坂道にあたり、貧窮者が物乞いをするにも、町の生活から逃れた者が流れ着くにも適した場でもあった。ハンセン病患者の療養所とされる北山十八軒戸(下図)がここに建てられたのも、集結した困窮者の中に発病者が多かったからであろう。
ここに巨大な文殊菩薩像を造り、衆生救済の拠点とする構想は、『輿法利生』の理念を実現する叡尊の挑戦でもあった。建長七年(一二五五)より作り始め、文永四年(一二六七)に開眼供養を行っているので、足かけ十二年もの歳月をかけて巨大な文殊菩薩像は完成した。さぞ壮観であったに違いないが、火災によってこの文殊菩薩像は失われてしまい、残念ながら現存しない。しかし、最勝老人像のものかと思われる巨大な左手首50−1や、優填王(うでんのう)像の太刀50-2、獅子の足が踏んでいたであろう石造蓮華座50-3が般若寺に残されており、そこから往時は巨像が並ぶ五尊形式の文殊菩薩騎獅像であったことが偲ばれる。
▶第四革 暁の地をめざす−常陸・筑波時代−
三六歳になった忍性は、新天地の関東に赴く。その理由を 『性公大徳譜』12-13では単に「律儀を弘む」(律宗の布教のため)と記す。一方、師叡尊が語った 『聴聞集』では「忍性は、学問は自分にその器量がなく、なんとかして他のことで衆生を救いたいと言って関東に下向した」と記している (二六「些丁間 シテ益廣事」)。もっともこれは忍性が二七歳の時の短期下向の際の決意で、この時は伊豆の温泉で二人の僧と仏教用語の問答をして関東のレベルの低さを知り 愕然とした。南都に戻って学問を積んだ後、「無仏世界」(仏のいない場所‥関東のこと)で衆生を教化しようと再び関東に下ったという。同書の別の段では 「忍性に学 問などをさせることもなかったが、関東における衆生利益というのは無愛想なものであるから、忍性の願うところ(「利生」‥人助け)は成就した様子であ る」とやや冷たい言い方をしている(六四「又同法ノ悪ケレハトテ」図11・下図)。
つまり師の評価では、忍性が南都で学問的に大成するのは難しく、それは本人も思っているようなので、むしろ民衆救済の道に励むのがよい だろう、というものであった。忍性自身、かつて宋に渡って律書を持ち帰り、後輩の助けになろうと願ったことがある。学問に自信はないけれど、情熱と行動力 で人のために尽くしてみたい、いつか大きなことを手掛けたい、そんな想いが強かったに違いない。関東行きはまさに天与のチャンスであった。日が昇る暁の大 地で人生の勝負が始まった。
忍性が最初に入ったのは常陸国、今の茨城県である。武家の都、鎌倉にいきなり拠点を定めなかったのは、禅や浄土など諸宗がひしめく中に身寄りなく入るのを避けたからであろう。むしろ地方で確固たる基盤を作ることが優先であった。その基盤とは律宗寺院を興し、戒律護持の活動を広げることであるが、それを支える支援者や経済確保も課題となる。鹿島神宮で清めと成功祈願をした後、忍性が身を寄せたのは筑波山の南麓の三村山極楽寺であった(下図)。
三村山極楽寺は、当地周辺を治めた小田氏の祖、八田知家(はったともいえ)が鎌倉時代の初め頃に建立した寺院であったとみられる(寺の至近に小田城がある)。「極楽」という寺名から、当初は浄土宗系の寺院だったと想像される。『性公大徳譜』 では建長四年 (一二五二)一二月に「三村に至り、院主徳に帰して律院を作る」と記す。
良観房ハ慈悲力過キタト申テ常こハ某ハ申シ侯シカトモ 本性卜性二受テ慈悲力候シ間サレハ多クアル同法ノ中ニモアレニマサル益モ侯ハス是レ偏二慈悲ノ故也 学問ナントハサセル事モ候ハ子トモ関東ノ益ハハシタナウ候 大鉢所願成就シタル鉢こ侯ソカシ
寺に入って忍性が一番に行ったのは、戒律を守る律僧らしい生活環境の整備であった。三村山極楽寺に「不殺生界」、近在の東城寺と般若寺に「大界外相」と刻んだ結界石(58〜60)が現存するが、三つの結界石はほぼ同時期、建長五年(一二五三)七〜九月の紀年銘をもつ。忍性の入寺(にゅうじ)から僅か半年後のことである。「不殺生界」は生き物を殺すことを禁じる結界、「大界外相」は読経と懺悔の儀式を行う僧侶の空間を示す。まずは僧侶に戒律、そして周囲に暮らす人々に慈悲心を、忍性は厳しさをもって要求したのである。ほぼ同時代に書かれた仏教説話集『雑談集』 には、三村寺では厳しく殺生禁断を守っていたため、隣の東条(東城寺)から狐が逃げてきた、という話を載せているのも、忍性の活動の徹底ぶりを反映しているのであろう。
展示ではこの結界石の他、三村山極楽寺と般若寺から出土した瓦類を紹介している(61.62図)。両者とも小規模な発掘調査しか行われていないため、伽藍の規模や堂塔の様子は未だ不明である。しかし、三村山極楽寺跡には正応二年(一二八九)銘の石造地蔵や塔高二・七メートルの五輪塔(図14‥忍性の後に極楽寺長老となつた頼玄(らいげん)の墓という)など宋風ないし南都系の優れた石造物が残っており、裏山の宝篋印(ほうきょういん)山頂には忍性止住期に比定される宝篋印塔も存在する。
般若寺にも均製のとれた南都系五輪塔が建ち、同寺の梵鐘には鎌倉大仏を鋳造した丹治久友の鋳造銘がある(下図左)。こうした優れた工人集団の動員は、一三世紀半ばから後半にかけて活発化しており、忍性が先鞭をつけ、弟子たちがさらにネットワークを拡充させたのであろう。『性公大徳譜』によれば、忍性が三村山極楽寺に止住したのは一〇年間。その間に忍性が弟子に「具足戒を授けて和上」となったとあるので、極楽寺内には戒壇も設けられたらしい。『雑談集』に「常州三村山は坂東律院の根本寺也」と讃えられているが、これは忍性の果敢な行動力が結実した姿なのであろう。
忍性の活躍は筑波山周辺のみならず、霞ケ浦や北浦に発達した水運の要所や至便地に足跡をみることができる。行方市の小幡観音寺は忍性中興の寺伝があり、同寺に伝わる如意輪観音菩薩坐像囲は叡尊の如意輪観音信仰を想起させる像といえよう(図上右)。鉾田市の福泉寺に伝わる釈迦如来立像63は、律宗寺院が本尊とする清涼寺式釈迦如来像の常陸における貴重な作例である。鎌倉入り後の忍性が六浦湾の関銭を困窮者の救済に充てたように、水運の管掌者から援助を得たり、あるいは数多く存在する小港の恩恵を寺院経営や法要に活用する仕組みを作っていたのかもしれない。
▶第五章 大願に生きる -鎌倉・極楽寺時代-
忍性45歳、弘長元年(一二六一)、新たな転機が訪れる。北条時頼の病気平癒の依頼を受けて鎌倉の釈迦堂に入ることなった。翌年には北条実時の願いをきっかけに師の叡尊が鎌倉を訪れる。忍性は、10年間で地歩を固めた関東の地に師を迎えることができてどれほど喜んだことか。叡尊の滞在は僅か半年に満たない期間であったが、忍性はその間に師の代理として菩薩戒を授けたり、布薩儀礼の説戒を務めるなど「頼れる弟子」役を果たした。その時の縁もあってか忍性は多宝寺に移り五年間止任したという。
40代後半の準備期間を経て、いよいよ生涯の最大の重要拠点、鎌倉の極楽寺に移る時が来る。文永四年(一二六七)八月、時に51歳。極楽寺の開基である北条重時の七回忌の追善を行うため、北条長時、業時兄弟に招かれたという(『極楽寺略縁起』〔上図)。筑波の三村山極楽寺と同様、鎌倉の極楽寺も浄土宗系寺院であったとみられ、忍性の止住を機に律宗寺院となり発展を遂げることになる。入寺後、忍性はすぐに本尊の造像に取りかかったようで、翌年の文永五年(一二六八)には釈迦如来像と十大弟子像の少なくとも一部は完成を見ている。下図左右。
今、その墨書銘をみることはできないが、阿難像には「文永五年戊辰年遺草、願主忍性」との墨書銘があったという(関東大震災による被災の修理)。
現在、極楽寺に伝わる釈迦如来坐像(上図右)や文殊菩薩坐像なども優れた作行きであり、寺史に関わる特殊な成立背景が想定され得る点でも興味の尽きない仏像群である。