伊賀七の建築

■伊賀七の建築

▶五角堂

 谷田部市街南西の飯塚家に,伊賀七の代表的な建築である五角堂が現存しています。五角堂は床面が正五角形という全国的にも珍しい建物であり,県史跡に指定,平成元年に解体修理されています。

 五角堂の建築年代は不明ですが,算術家山口吹山の道中日記に記録があることから,彼が常陸を訪れた文化14年(1817)55歳10月から文政元年(1818)56歳10月の間には,すでに五角堂があったと考えられます。五角堂のような奇数辺形の建物には,対角線に梁を渡すことができず,屋根を支える構造が造りにくいという難点があります。この間題に対して,伊賀七は傘の骨のような構造を独自に考案しました。

 また,直角ではない建物の角に菱形の柱を使っていることも特色です。機能的には五角形である必要は無く,伊賀七がこのような建物を造った理由はわかりませんが,彼の創意工夫が存分に発揮された建築といえます。                          と

▶その他の建築

 五角堂以外にも伊賀七は,千葉県柏市東海寺(布施弁財天)の鐘楼を設計したとされています。この鐘楼は文化15年(1818)56歳の建築で,飯塚家には文化7年(1810)48歳の設計図が伝わっています。この鐘楼も,裾の広い八角形の土台,12本の円柱に囲まれた円筒形の塔身とその外周を巡る通路,四角い屋根が組合わされた奇抜な建物であり,宝塔の建築法を応用したものと考えられます。

 また,飯塚家の母屋についても,火事で焼失してしまった後に伊賀七が自ら設計し,「挿籠造(さしこづくり)」という特殊な工法で再建したといわれています。この母屋の詳しい記録はありませんが,戦後に解体された際には,家人でさえも知らない隠し部屋が見つかったというエピソードが伝承されています。


■伊賀七の伝承

 伊賀七が没した後,彼の発明品を扱えるものはおらず,その多くは時間とともに失われてしまったようです。しかしながら,谷田部では伊賀七にまつわる様々なエピソードが語り継がれており,我々を楽しませてくれます。

 その一つは,酒を自動で買いに来るからくり人形の話です。人形が飯塚家の門から出てきて道路を横断し,飯塚家のはす向かいの酒屋まで来るとびたりと止まります。そこで店主が人形の持ってきた酒瓶に酒を満たし,人形を飯塚家の方へ向かせると再び動き出し,家まで戻っていったとのことです。また,この人形は,酒の室をごまかすと動き出さなかったり,途中の道端で止まってしまったともいわれています。現在,近所の家で伝わっていた,この人形用といわれる酒瓶が残っています。

 また,伊賀七が飛行機を製作したという驚きのエピソードも語り継がれています。伝承によれば,伊賀七の製作した飛行機は烏の巽のように何校かの羽を合わせたもので,自転車のペダルのように足で交互に踏み,巽を動かしたといわれています。伊賀七はこの飛行機で屋根から飛び降りるなどの実験を重ねた後,筑波山から谷田部までの滑空計画を立てました。そこで藩主に飛行の許可を求めましたが,「人心を惑わすもの」,「御殿様の頭上を飛ぶとはもってのほか」との理由で許可されず,滑空はかないませんでした。

 田村竹男氏によると,以上の伝承は語り継がれたもののほか,谷田部小学校に伝わっていた明治44年(1911)の『郷土誌』や大正6年(1917)の『谷田部郷土史』などに記載があるとしていますが,出版物ではなかったようであり,これらの書物は現存していません。ただし,酒買い人形や飛行機に関する逸話は大正15年(1926)刊行『筑波郡郷土史』で,すでに掲載されています。

 ほかにも,自作の木製自転車を乗回したという話や,誰も開けられない箱を持っていたという話など,伊賀七は多くのエピソードを残していますが,残念ながらそれらの作品をみることはできず,真偽を確かめることはできません。しかしながら,伊賀七の発明に対する飽くなき探求心が,伊賀七の死後も谷田部の人々に強い印象を残していたことは,間違いありません。

■からくりの歴史

 江戸時代以前の日本では歯車などを使った機械装置のことを「からくり」と呼んでいました。日本にからくりの技術が伝来したのは7世紀ごろと考えられており,『日本書紀』には中国から日本に帰化した学僧が指南車を作ったという記録があります。また,12世紀頃の成立とされる『今昔物語集』には,桓武天皇(在位:781~806)の皇子といわれる高陽親王がからくり人形を製作したという逸話が残っています。

 江戸時代になると,西洋から伝えられたオルゴールや時計の機構に由来する,歯車などの機械的構造を持つからくり人形などが製作されるようになります。当初,からくりは公家や大名,豪商などの高級玩具でしたが,祭礼や見せ物として庶民の目に触れるようになると日本各地に普及しました。寛文2年(1662)に初興行となった竹田出雲が率いる「竹田からくり芝居」は各地で多くの人々を魅了し,その技術が様々な地域で祭礼に用いられる「山車からくり」として受継がれています。竹田からくりや山車からくりは,主に人力で糸などを操作して動かすもので「あやつり」とも呼ばれます。

 一方,茶運び人形などのように内部にバネなどの動力機関を持つからくりは,主に商品や個人の特注品として各地に普及していきました。寛政8年(1796)に細川半蔵頼直が執筆した『機巧図彙は,当時世界でも珍しい機械設計書の一つで,時計や茶運び人形,段返り人形など,様々なからくりの仕組みや製作過程が挿図付きで詳細に説明されています。同書は江戸や大坂,京都といった都市で刊行・再版されたほか,各地で写本が見つかっており,多くの人々に愛読されたことがわかります。からくりの知識や技術は秘伝や独占という形で伝承されることが普通でしたが,『機巧図彙』のような解説書が世に出回ったことで,一般の人々も学べるようになりました。

 優れた知識と技術を持ち合わせた飯塚伊賀七も,こうした時代背景の中で才覚を発揮したと考えらます。

■江戸時代の谷田部

▶谷田部藩の概要

 関ケ原の合戦(1600)の後,徳川幕府による大名の配置替えが行われる中,熊本藩の祖,細川忠興(ただおき)の弟である細川興元(おきもと)は,大阪夏の陣(1615)での功績により谷田部6200石を与えられ,本領である茂木領と併せて1万6000石余りの大名となりました。興元の子,興昌(おきまさ)の代には本拠地を茂木から谷田部に移しました。興昌は現在の谷田部小学校付近に陣屋を構えて街道や城下町の整備を進めました。伊賀七の地図に描かれた街道寺社などを現在の地図と見比べてみると,谷田部の町並みの基礎が江戸時代にはできあがっていたことがわかります。

 残念ながら当時の谷田部藩をしのぶ文化財はわずかです。陣屋は大正時代まで筑波郡役所として使われましたが,その後小学校の敷地となりました。現在,陣屋の玄関のみが小学校南側の倉庫に移設されています。

 江戸への街道に植えられ「谷田部に過ぎたるもの」に数えられた不動並木や,陣屋の時代にもあった千歳松は近年まで残っていましたが,昭和50年代頃から松くい虫の被害で枯れてしまいました。                    ぼく

▶庶民文化の隆盛 

 江戸時代になって幕藩体制が確立すると社会は安定し,商品経済の発達や生産の増大などを受けて,全国的に地方文化が隆盛しました。なかでも文化・文政年間(1804〜1830)には「化政文化」といわれる庶民の文化が開花し,学問や芸術の担い手が公家や上流 ぶけの武家から町人や農民に移り変わりました。

 伊賀七の活躍にも,こうした庶民文化の発達が深く関わっています。     特に,谷田部に暮らしていた伊賀七が,発明の基礎となる和算や蘭学の知識を習得できる環境であったことは重要です

▶和算の広がり

 江戸時代の日本で発達した数学を和算といいます。江戸時代後期には多くの数学善が出版されたことや,数学者たちが地方を歴遊しながら教えたこともあり,和算は全国的に広がりました。伊賀七の遺品には自作の算盤(そろばん)が残されており,測量や建築に必要な計算を和算の知識が支えていたことが分かります。

 伊賀七の算術について,次のようなエピソードもあります。ある村人が打ち込まれた杭を抜こうと四苦八苦していたところに,伊賀七が通りかかりました。事情を聞いた伊賀七は算盤を取り出しじ抜き方を指示しました。

■広瀬父子と蘭学

▶気鋭の蘭学者:広瀬周伯

江戸時代後期になると,谷田部の地にも蘭学を志す先覚者たちが現われます。寛政から文政年間(1789〜1830)にかけて谷田部藩医を務めていた広瀬周伯(しゅうはく)は,若いころから医学を学び,杉田玄白の下で西洋医学を習得,将軍家の医師を務めた桂川甫周(かつらがわほしゅう)とも親交があったといわれています。周伯は職務のかたわら蘭学の研究をすすめ,寛政11年(1799)に天(天文学)・地(地学)・人(医学)の3巻からなる『図会蘭説三才窺管(さんさいきかん)』を執筆しました。周伯はこの著書の中で,地動説や重力,さらには気圧計やエレキテルなどを紹介し,独自の考察も加えています。

谷田部の文化に科学の火を灯した最初の人物ともいえる周伯は,伊賀七にも極めて大きな影響を与えました。『三才窺管』天の巻(天文学)『三才窺管』地の巻(地学)

▶書画の才人:広瀬周度(しゅうたく)

周伯の嫡男である広瀬周度は幼少のころから書画が巧みで,父周伯が執筆していた『三才窺管』の挿絵を描きました。そのため,蘭学にも精通していたことが知られており,父と同じく谷田部藩医を務めながら,自身の研究も進めていたようです。     また,周度は書画の才能を活かし,若くして羽成観音堂の天井画を手掛けたといわれています。この天井画に描かれた天女は,一方は西洋の天使のような羽を持っており,一方の天女の衣は人魚のように見えます。西洋の文化を知る周度ならではの傑作といえます。

蘭学をはじめとする様々な学問に精通していた広瀬父子は,伊賀七のすぐ近所に住んでおり,日常的な往来があったと考えられます。現荏まで残る伊賀七の肖像画は,飯塚家17代目丁卯司の依頼により周度が筆をとったもので,両家の親交の探さを示しています。伊賀七は広瀬父子との関わりの中で最新の蘭学を学び,自らの発明に必要な知識を習得していったのでしょう。

■受け継がれた情熱

 伊賀七の死後130年あまりが過ぎ,昭和45年の閣議決定を受けて筑波学園都市の建設がはじまり、筑波大学や多くの研究機関が移転してきました。昭和60年(1985)に国際科学技術博覧会が開催されノーベル賞受賞者や宇宙飛行士たちも次々と輩出してきたつくば市は,世界有数の科学研究の拠点として知られることとなりました。

 現在のつくば市は「国際戦略総合特区」を設け,大学・研究機関・企業・市民との間で連携を取りながら,科学の様々な分野に関わる先進的な活動を行っています。中でもBNCT(先進的ながん治療の研究)や生活支援ロボットの開発藻類バイオマスを利用した次世代エネルギーの研究ナノテクノロジー研究の拠点形成といった4つの先導的プロジェクトは,世界的にも最先端のものといえます。

 また,日本で初となる「つくばモビリティロボット実験特区」にも認定され,セグウェイの搭乗実験なども行われています。

 伊賀七が使った算盤はコンピューターに,分銅の重さを利用した動力はエンジンやモーターに,木を主体とした材料は金属や新素材にそれぞれ変わり,からくりの技術も自動車やロボットを作る機械工学として日々発展しています。さらに,晩年の伊賀七が力を注いだ災害への科学技術の応用にも,現在,多くの研究者・技術者が携わっています。

 江戸時代の谷田部に伊賀七たちが灯した科学技術への情熱は,形を変えながらも未だ冷めることなく「科学のまちつくば」に受け継がれています。