櫻井氏の歴史

■そのパワーを継承し現代に活かす茨城県地女連会長の櫻井氏

 女性の活躍は、社会の大きなパワーを与えてくれる。茨城県地域女性 団体連絡会会長やつくぼ市商工会会長を努める櫻井よう子氏も、そうした一人であろう。今回は、その原点から原動力の秘密を探ってみた。

▶︎不撓不屈を育んだ土壌

 櫻井よう子氏は、女性の社会参画実現を率先垂範で実行して来た事で知られる。その努力は、茨城県内の女性団体活動に反映されおり、全国トップクラスの実績が評価されている。

 一方、想像の及ばない程の難局に遭遇して来た櫻井氏だが、独自の精神哲学で乗り越えている。そのたくましさが家庭環境により育まれたのではと推測してみた。

 楼井氏の家系は、南北朝時代に活躍した新田義貞の一門に連なる。つくば市赤塚において、新田氏嫡流で高家旗本・由良家代官として鏡地経営に当たっていた。横井家のように一族を密かに街地に存続させたのは、新田の家名を守る武門の知恵でもあった。逆境時にも生存可能なたくましさが新田一統の伝統と断言できる。

▶︎由良妙印尼の活躍

 新田(由良)氏は、清和が源流となる。新田義の六男貞氏が由良家の家祖となり「新田六郎」が当主代々の通称であった。新田六郎を示しているが、足利将軍家への遠慮から新田を隠したと古文書にある。

 戦国時代後期に由良成繁は、群馬県大田市を中心に館林・足利・桐生など30万石を領有する大名となった。そして夫の成繁の没後、妙印尼輝子が奮闘する時代になる。

 その一例が、後北条氏に子供たちが捉えられたときである。天正12年(1584年)71歳の妙印尼は、三千名の将士を率いて太田金山に龍城し、後北条軍と戦い子供を奪還し由良家を存続させた。

 次の活躍は、天正18年(1590年)で、豊臣秀吉の小田原攻めでの対応となる。長男・国繁小田原に籠城したが、77歳の妙印尼は、孫の忠繁を中心に300の兵を集め前田利家の軍へ参降した。こうした困難時に力を発揮する新田氏の伝統は、経済人の櫻井氏にも継承されているようだ。

 ▲由良妙印尼輝子墓地は牛久市城中の得月院にある

▶︎七観音八薬師の女人講が婦人会の原点

 妙印尼の軍功は顕著で、秀吉から「新田御老母」と呼ばれ牛久に5,400百石を与えられ家名は存続した。その彼女が地域に残した最大の功績が、七観音八薬師と呼ばれる寺院となる。戦死した将士を敵と味方の区別なく弔うための建立だが、民心安定に責献した。

朝日に赤く染まる瑞雲山正源寺の山門です。この寺の縁起は、戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592年・秀吉の天下統一の二年後)、当時の牛久城主由良国繁の母君、妙印尼輝子の発案があり「これまでの戦で無くなった、足高、牛久両城を枕に討死した岡見家一族とその家臣、北条家との戦いで金山・桐生両城で打死した由良家家臣、更には秀吉の小田原城攻めに加わって討死した由良家家臣、これら戦没勇士たちの後生善所のために、七観音を建立し、八薬師を建て、修羅の苦患(くげん)を救おうと思い立った、どうであろうか」と国繁に相談したところ、国繁は「尤もなる仰せなり」と、戦没勇士の菩提を弔うことになったといわれています。妙印尼は、各地を巡見の折に、みずから建立寄進の場所を選定したそうです。そして、牛久市域に七観音八薬師が創建されました。その一つの馬頭観世音菩薩は写真の右のお堂にありましたが、現在は刈谷町の正源寺別院に移されています。

由良国繁は太田金山城主(現群馬県)でしたが、小田原北条氏が常陸国の佐竹氏を攻撃するため、金山城と館林城の借用を申し出た際、兄弟(弟の長尾 顕長(あきなが))はこれを承知しましたが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼輝子を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまいます。秀吉の小田原攻めの際、母の妙印尼が前田利家の手先に属して小田原城を攻撃し、武功を収めました。この時の妙印尼輝子77歳で、これが「戦国時代最強の女大夫」といわれています。秀吉の天下統一後、妙印尼の武功が認められ、国繁兄弟は母の功績のお陰で、金山城に代えて牛久領の5400石を秀吉から拝領することになりました。ただし、秀吉からの朱印は国繁宛ではなく、母妙印尼輝子宛てでした。国繁は慶長16年、61歳で逝去。牛久領は息子の貞繁に引き継がれましたが、貞繁も若くして病没。貞繁に子がいなかったため由良氏の牛久藩は僅か二代でお家は断絶となりました。

 七観音では、羽成観音、牛久観音、小通観音、下岩崎観音、足高千手院観音、が現存している。八薬師は、つくば市谷田部の医王寺「谷田部薬師」取手市藤代の「藤代薬師」が残っている。

 

 これらの寺院が女人講に活用された事実に注目したい。女人講の実態は、宗教目的というよりも、立場の弱かった女性たちが集まることを可能にした。その結果、各人の悩みや不満も解消され、地域の安定に責献した。後年の婦人会活動の源流妙印尼が創った寺院と判断でき、横井氏の奮闘する根拠が伝わるようだ。

▶︎ 妙印尼に学ぶ女性の力、活用法

 櫻井氏は、谷田部町会議員・県議会議員などでも活躍していたが、一方女性だからと、不条理な差別や困難にも直面したことが幾度もあったと語る。父母から「家(企業)を守るのは女性の力だ」と何度も教えられたとしみじみ話すがその根底に妙印尼の活躍があると考えたい。

 こうした家訓は、「女性の能力」を素直に評価しようとする由良家が艱難辛苦(かんなんしんく・非常な困難に遭ってしまい苦しみ悩む)の中で学んだ独自の教えなのであろう。女性の社会参画と地位向上を図る櫻井氏だが、妙印尼の知謀と情熱が受け継がれているようだ。今後とも茨城県の女性の社会参画実現と経済人のリーダーとして櫻井氏に頑つて頂きたい。

茨城県地域女性団体連絡会 会長 櫻井よう子氏