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忍性の開いた寺
⬛︎忍性の開いた寺・・・三村寺
糸賀茂男
▶︎三村山麓の廃寺
天明元年(一七八一)に常陸国小田村(つくば市小田)で生まれた農政家
長島尉信(やすのぶ)
は、かねがね小田氏の事蹟(
物事が行われたあと。事件のあと
)に興味をもち、その見聞に積極的であった。文政十三年(一八三〇)二月九日、三村山への樵採の帰途に「
楽寺
」の二字が浮彫られた
瓦片
を拾い、土浦城内所在の銅鐘銘(現土浦市等覚寺歳銅鐘)中の「
極楽寺
」なる文言に結びつけてみた。
長島は、1781年今のつくば市小田に生まれました。こどものときの名前を小泉新五郎といい、1801年、20歳のとき小田家の養子になり、28歳で名主になったそうです。
ざんねんながら、こどもころのようすを書いたものを見つけることができませんでしたので、長島のようすがわかる友人のことばをを紹介します。
長島は、性質がほかの人に比べて大変によく、持っていた書物はぜんぶ経済(けいざい)のためのもので、お金さえあれば本を買っていた。
長島は、親や目上の人の言うことをよく聞き、おだやかで、人づきあいのよい性格で、40歳になってから読書を初めて、法律やこよみ、算数のことを中心に勉強した。
さらに尉信は見聞の中に入った
「三村山」「清冷院」と判読できる瓦片から「三村山清冷院極楽寺」
なる
往古(大昔)寺院
の存在を確認し、いよいよこの寺院跡および小田氏への関心は深まって、「実二小田ノ事蹟ヲ探ル愚志ヲ
小田家ノ霊
、憐ンテ吾二与エシモノカ」と感じっつ
『小田事蹟』(上・下)
なる一書を著した(内閣文庫所蔵)。
この
長島尉信
の所見のごとく、小田東方にそびえる三村山(通称小田山)麓の一帯には、鎌倉時代を前後する頃に
数多の堂舎が建ち並んでいたようである。
現在でも「常願寺」「久保田」「神宮」「尼寺入(にじいり)」「楠(くすのき)」「北斗」などの小字名が残り、
先年まで無数の五輪塔が所在した地域
である。三村山頂(標高四六一m)には一基の
鎌倉期宝筐印塔
が今でも建っており、この山を
宝篋山(宝境山・豊凶山とも通称する)
とも呼ぶ背景となっていることも含めて、山頂より山麓に至る南側の一帯は確かに
一大聖地
の感が深い。
令制下の
常陸国筑波郡三村郷(みむらごう・つくば市・新治村)
に属するこの地域は、平安時代後期常陸
平氏本宗(ほんそう)
の支配下にあり、三村山東麓の古刹
東城寺
(新治村)における
平致幹(むねもと)
による十二世紀初頭の如法経理納の事例(保安三年〔一一二二〕・天治元年〔一一二四〕銘のある
経簡
等が出土、
二口径簡は東京国立博物館保管)が注目される
。あるいはまた前山西側中腹に残る
磨崖不動明王立像
(十二世紀前半)もこの時期の仏教信仰の所産であり、領主平氏一族支配下での所為である。常陸平氏の天台宗
外護(げご・
俗人が権力や財力をもって仏教を保護し、種々の障害を除いて僧尼の修行を助けること
)
は常陸国古代末期の最大特色であるが、その中核的所領の一であった三村郷でも
多気(たけ)氏(平致幹
を含む常陸
平氏本宗家
)によってかかる外護が進行したと考えられる。しかし、現状からその個別証明は難しく、以後の小田氏による三村山の外護を知り得るのみである。
では、小田氏による三村山の外護(げご・聖地化)とはどのようなものであったのであろうか。通説では、常陸国初代守護
八田知家
(
はった ともいえ
・藤原氏流宇都宮氏族)の三村郷(小田)入部をもって八田氏(小田氏)による三村山外護の開始とみている。
しかし、知家曽孫
小田時知
(
ときとも
・
陸奥国小田保(おだほ)住人
)の三村郷入部をこの氏族の当地域での本格的支配の確立とみる(
糸賀茂男「常陸中世武士団の在地基盤
」『
茨城県史研究
』)立場からは、鎌倉初期での八田知家による
望舎建立
はいささか現実とは異なるものといわざるを得ない。建永某年に
筑後入道専念(八田知家)
が領主となって鋳造奉納した「
極楽寺」の銅鐘
は、この問題に不可避の資料なのであるが、建永年間(一二〇六〜一二〇七)に三村山中に「極楽寺」が
所在した明証
はない。三村山の東南四キロの藤沢他の台(新治村)にかつて
藤沢山三教閣極楽寺
なる寺院があり、
尊念
はこの極楽寺に後掲の
銅鐘一口を奉納したとする説
もあり興味深い(『新治村史』)。
そして、極楽寺は
戦国末期
に至はるかずり
小田治算(はるかず・氏冶舎弟
)によって土浦城下に移されやがて寺名も
等覚寺と改め
られたが、土浦藩政下に鐘は寺から城中に運ばれ時の鐘として使用され、
明治十六年(一八八三)
に再び寺にもどされたという。この所伝の限りでは「極楽寺」は三村山の極楽寺ではない。藤沢山極楽寺(等覚寺)の開山は
八田知家の八男為氏(筑波山別当でもある)
と伝えられる点、やはりこの寺が銅鐘献納者知家と無縁の寺ではないとも思われるが、一応
三村山極楽寺とは別系の寺院
とみておく。
長島尉信(やすのぶ)が採取した古瓦片からも想定される
「
三村山清冷院極楽寺
」
、あるいは「
薬師」と判読可能
な古瓦片から想定される「三村山薬師堂(?)」などは、個々の古瓦の製作期から判断してすべて鎌倉期以降のものである。戦後から現在までの間に踏査・試掘によって採集された古瓦片は多いが、その中に「
正嘉二」(型押し)
「極楽寺 正和三年□月□日」(陰刻)の年号を有した二点の文字瓦が知られる。
正嘉二年(一二五八)
正和三年(一三一四)の製作年
次を伝えるこの古瓦片の存在は要である。特に前者が山麓で確認されている瓦窯跡から発見されたことは、この瓦窯での寺用瓦の製作供給の時期を示唆するものであり、一帯の寺城跡より採集された古瓦片の多くがこの瓦窯跡で採集されるものと
同范(おなじいがた)・同系
であるとの指摘(高井悌三郎「常陸・下野の中世瓦瞥見(べっけん・ちらりとみること)」茨城県史研究』43)を得て、「三村山清冷院極楽寺」を中心とする大規模な寺院の整備がこの時期(
正嘉年間頃の十三世紀中葉
)にあったと想定される。
一方、三村山麓の瓦窯跡で採集できる古瓦と
同范(おなじいがた)・同系
の古瓦は
筑波前峰廃寺跡(つくば市上大島
)、小栗寺山遺跡(協和町小栗、小栗氏氏寺か)、川澄くまんどう遺跡(下館市川澄)、
益子地蔵院
(栃木県益子町上大羽、
宇都宮氏氏寺
)、
足利智光寺跡(栃木県足利市山下町、足利氏氏寺)
などでも確認されている。このうち、益子地蔵院では「三村山」と型押しした平瓦が、また足利智光寺跡では「
智光寺文永二年三月日
」と型押しした平瓦が出土している。前者からは三村山瓦窯での製作とともに
三村瓦工の益子への出張・移動が想定
されるものの、
三村産瓦の優位さが知られよう
。そして後者は、先述の
「正嘉」「正和」在銘古瓦
の存在に、より一層
二村系瓦の製作時期を決定付ける証左
となるものである。
三村山瓦窯跡二二村山廃寺出土の古瓦片
と
同范・同系
とみられる常陸・下野の諸遺跡から出土する古瓦片は、軒丸瓦・軒平瓦・平瓦に分類できるが、各所寺院所用の瓦がその型体・製作使用時期についてこれほど共通的特色を有していることは驚きである。はたして、
長島尉信が採集した古瓦片も含めて三村山麓の瓦窯跡および一帯の廃寺跡で採集できる古瓦群の存在は
、聖地三村山に改めて外護の手を伸した在地勢力の存在と
強い仏教的引導力をもつ僧侶集団の所産
とみないわけにはいかない。前掲諸所の遺跡中に非三村系古瓦の存在もみられるが、それは三村山でもそうであって常陸平氏外護下に遡及すべき古瓦片の出土例もある。しかし、聖地三村山の最大の特色は
出土古瓦片の圧倒的多量を示す山麓瓦窯出土瓦と
同范・同系
の古瓦片の一帯における分布
であり、しかも「正嘉」「文永」「正和」の年次在銘に象徴的に示される時期にこれらの瓦が製造されたということである。これだけの状況証拠があることから、外護の主体を小田氏と断定することは容易であり、かつ
小田時知の外護(げご・
俗人が権力や財力をもって仏教を保護し、種々の障害を除いて僧尼の修行を助けること
)
をその
嚆矢
(こうし・物事のはじめ)
とする点、
小田時知
の位置付けと何ら矛盾することはない。
加えて、建長四年(一二五二)末、
大和西大寺の律僧忍性(良観房)
のこの三村山への来住は、小田時知在世時、きわめて計画的に実施された
三村山聖地化
の顕現であった。
時知の『吾妻鏡』
にみえる限りでの
幕府出仕
(
建長四年
十一月十一日条に小田左衛門尉
時知
として初出する)と
忍性の三村入山が奇しくも
建長四年
であるという一致は決して偶然ではない。常陸平氏以来の聖地とも思われる三村山麓は、
忍性の来住で急速に寺構を変貌
させていったのである。そしてそれはまた
新生小田氏の東国武士
としての
本格的在地支配基盤の形成
とも即応していたのである。
▶︎忍性の東下
社会・世相の極りない変転の中で
「末法の世」の到来が指摘
され、現世離脱・
来世往生の風潮が仏教思想
の中心に位置付けられて
浄土教が隆盛をみたのは平安中・末期のことである。
藤原道長・同頼通ら高貴権門の例
をひくまでもなく、
極楽浄土への憧憬
は新興の地方武士および
農民という庶民階層においても共通
にもたれるようになり、転じて浄土界の
主尊阿弥陀如来への一向なる信心が第一義
とされていった。
法然・親鸞二遍などの念仏(阿弥陀如来を心に念ずる意)主導型
の僧がこの信心の絶対的価値を説いて新たな仏教的境地を開拓していったのに対して、
日蓮は妙法蓮華経への絶対的帰依
により、また
栄西・道元は釈迦の悟りの世界への再認識
によって
脱現世の効果
を説こうとした。いずれも独自の教義確立に邁進しっつ、鎌倉幕府という新しい武家権力下での発展を期待したのである。これらの新たな仏教弘布の活動を
鎌倉新仏教と総括
するが、奈良時代の隆盛以来南都に拠点を有してその教義・法灯を伝えできたいわゆる
旧仏教派の命脈
も無視できない動きをみせている。
鎌倉幕府が特に一部新仏教を容認、いな外護したことは自明だが、
北条氏専制が確立期を迎えた十三世紀半ば
には特に
念仏系新仏教の破戒行為
が目立っていた。体制護持・専制強化をはかる北条氏にとって社会的破戒こそ最も怖れることであり、新仏数自体への反省の要を感じたのもこの頃である。一方鎌倉初期、
頼朝による東大寺再建
に次いで
興福寺も摂関家によって再興される
など
南都旧仏教の活動も盛ん
となり、学僧による
「戒律」の再評価
が行なわれるようになった。この時期西大寺も例外なく組織・内容の充実がはかられ、
叡尊(思円房)
を中心とする
住僧等の戒律の普及
が進んでいった(和島芳男『叡尊・忍性』)。
そして
教義の中には囚人の教化、非人の救済、殺生の禁断
などの社会事業が加味されて単なる「念仏」至上主義とは異なる仏教観を呈することとなった。
この西大寺住僧叡尊の鎌倉下向を強く念願したのが前執権
北条時頼
であった。時頼は
弘長元年(一二六一)
から翌年にかけて再三にわたって一門の
北条実時
に指令して
叡尊の下向を促している
。この結果、
弘長二年二月四日
に
叡尊の東下
が実現し、二十七日に鎌倉に着き(『関東往還記』)、以後五カ月ほど滞留して八月十五日に西大寺へ帰っている(『感身学生記』)。
叡尊は自らの東下以前、実は法弟を東下させ東国社会の実状把握と教義の弘布をはかっていた。弘長元年十二月二十八日、関東より西大寺に帰り北条実時の東下要請を叡尊に伝えたのが高足定舜であり、叡尊東下の途次二月六日、近江国鏡宿に到来した書状こそ忍性止住の常陸三村寺僧道簡からのものであった。ここにすでに叡尊の高足二人の東国での活動が知られるのである。
▶︎三村山の律宗
西大寺忍性は師叡尊の東下に先立つこと十年、建長四年(一二五二)八月十四日に鎌倉に入り、九月十五日には常陸鹿島社に詣で三日間の参籠をしている。そして十二月四日に至って三村山に入って以後十年間の止住が開始された(『性公大徳譜』)。時に忍性三十六歳であったといい、三村山の清涼(冷)院に住し、院主は忍性の徳に帰依して院の律院化に協力を惜しまなかったともいう。次に三村山止住時の忍性の事蹟を追ってみる。
関東往還記』(国立公文書館内閣文庫蔵本)
⑴
仙建長五年(二一五三)「大界外相」「不殺生界」の建碑を三村山・東城寺・般若寺(土浦市)などで行なう。
⑵建長六年(一二五四)具足戒を受けて和上となる(『性公大徳譜』)。
⑶建長七年(一二五五)観音寺(北浦村)如意輪観音像を再興する(台座内納入文書)。
⑷康元元年(一二五六)鹿島の神託に霊異を示す(『性公大徳譜』『忍性菩薩遊行略記』)。
⑸正元元年(一二五九)
北条重時の招請で鎌倉に赴き、極菜寺の寺地を相する(『極楽寺縁起』)。
⑹文応元年(一二六〇)鎌倉極楽寺落慶する(『極楽寺縁起』)。
⑺弘長元年(一二六一)鎌倉清涼寺釈迦堂に任す(『性公大徳譜』ヨ九亨釈書』『忍性菩薩遊行略記』『本朝高僧伝』)。
⑻弘長二年(一二六二) 釈迦堂より多宝寺へ移る(『性公大徳譜』)。この年三月十四日、在鎌倉の師叡尊の許へ数輩の同法 者とともに常陸三村寺より参向する(『関東往還 記』)。五月二十九日、三村寺僧衆数輩が叡尊・刃心 性のもとへ参向する(『関東往還記』)。なお、二月十日付で「みむらより」下野薬師寺住僧妙性に 宛てた書状(金沢文庫保管称名寺歳文書)もこの年と考えられる。
年譜・記録から知られる三村山止住期の忍性の事歴は以上であるが、師叡尊の東下に際して三村山
(三村寺)を離れることほ印象深い。忍性にとって師叡尊の鎌倉下向は常陸在住の一つの目的達成であり、叡尊の下命に従っての所為であった。三村山住僧道箇(無住一円その人であるという説もある〔堤禎子「常陸における無住の師について」『茨城史林』9〕)が、弘長二年二月に東下途次の叡尊に書状を出したという記事の他、『関東往還記』には次のように常陸三村寺が散見する。
忍性書状(神奈川県立金沢文庫保管
)
「定舜、聖教を請け奉るため、八十余人の人夫を得て常陸国三村寺に向う」(三月五目条)
「三村寺より人夫八十余人、聖教以下道具を持ちて帰り着く」(三月十二日条) 「晩景に及び、忍性比丘、数輩の同法を率いて三村寺より参る」(三月十四日条)
「文殊講を行う。此間或いは僧、或いは俗、出家入寺之2㈵6望是れ多しと雛も、借住まいの処、事に於いて不便の間許されず、仇って三村寺に於いて素懐を遂げるの輩その数有り」(四月二十五日条)
「又三村寺僧衆数輩参り、長老
(叡尊)
に拝謁をなすと云々」(六月二十九日条)
右の記事のうち、八十余名の人夫が三村寺から鎌倉の叡尊(清涼寺釈迦堂に逗留)の許へ聖教以下道具を運搬したという事実は重要である。これらはすぺて忍性によって準備されていた什具と考えられ、明らかに忍性の三村止住は叡尊の鎌倉入りを前提としている。西大寺流戒律の東国武士社会への弘布は、単なる北条時頼・同実時等幕府首脳個人の要請に応えたわけではなく、組織的画策の中で行われた旧仏教の新興武家社会への布教活動であった。そのための椴廻しを何故小田時知外護下の三村山において行ったのか、何故忍性の三村山止住があったのか大いに問われなくてはならない。この回答を示す前にもう少しこの時期の三村山を眺めてみよう。
「伝法港頂胎意界詮要私記』(神奈川県立金沢文庫保管)
古瓦片の調査から「三村山清涼院極楽寺」の存在が知られ、『関東往還記』や種々の忍性伝記から彼の「常陸三村寺」「常陸(州)清涼院」止住が伝えられ、かつ忍性書状からも「みむら」在住が確認された。これらの事実に立って改めてこの地での忍性の足跡を追う時、「大界外相」の建碑は在来の寺(聖)域の一区を律院化するための施策と理解され、「不殺生界」の建碑は殺生禁断域の設定といえよう。この限りでは忍性は三村山のみならず東城寺(方穂荘域)・般若寺(信太荘域)など周辺域での律院の確保と西大寺流戒律の扶植に余念がなかったといえる。さらに弘安元年(一二七八)、すでに鎌倉極楽寺開山となっていた忍性によって常陸国真壁郡の椎尾山(真壁町)山頂に宝塔一基(未確認)が建てられたとの所伝(『性公大穂譜』『忍佐吉薩遊行略記』『本朝高僧伝』)は、三村山頂に残るみごとな宝箇印塔(鎌倉中期作)の建立主体にも忍性の存在を想起せしめるのである。とすれば、離山後の忍性による「三村寺」経営は持続しているわけで、同法の人々の三村在住は当然であった。金沢文庫蔵『仏眼法密記』が「比丘了禅(法光)」によって正嘉元年(一二五七)八月十七日、「常州三村山極楽寺」に於いて書写されたこと、某年二月十八日・九月四目付明忍御房宛書状の差出者が「みむら(三村)尼寺」に任する「了証」であること、年月日欠明忍宛書状の差出者が「三村寺」住の「沙門良然」であること(以上二通は金沢文庫古文書)、金沢文庫蔵『伝法濯頂胎蔵界詮要私記』が「仏子澄尊」によって正和元年(三一一二)十月十六日に「三村山清冷院」に於いて書写されたことなどはいずれも忍性止住時、およびその後の三村山を知る貴重な徴証である。加えて『関東往還記』の弘長二年三月二十日条には、先きに鎌倉へ出向いた忍性および数人の同法に次いで「定尊・頼玄等」が「三村寺より同法数輩を率いて」鎌倉へ参向していることがわかる。そしてこの頼玄こそ、正応三年(二一九〇)八月二十五目の叡尊遷化に際して密藩を受けた中の一人「三郷蓮栃玄」であり(『興正菩薩行実年譜巻下』)、死の翌日に仏事に関わる懇志を示した「常州清涼寺長老頼玄薫噸房」 である。頼玄こそ忍性によって、清涼寺(院)に止住して三村山律院の後事を託された後継者であった。
以上の検討から、西大寺忍性の三村山来住の経過が判明し、忍性以下律宗系同法の三村山での活動が確認できる。小田時知主導の小田氏所領の一画において展開した西大寺流戒律の弘布は、当時の北条氏専制進行の中でも希求された旧仏教の再評価・導入の姿勢と合敦する。三村山と鎌倉を中心に律宗同法の活躍がみられ、多くの人々が受戒を求めた事実の中にとの戒律弘布の成功が認められる。小田氏はこの時知にょる幕府出仕と引き換>スに、北条氏によって領内への忍性止住による戒律弘布の内容と意義の観察を与えられたのではなかったか。鎌倉における叡尊と忍性等三村寺同法の出会いは、北条氏への小田氏のその結果報告でもあったと思われる。
この忍性止住による三村山の律院化が、聖地三村山全域に及んだのかどうかは不明であるが、三村山を中核にして四周にその教練が伸びたことは結界石・五輪塔・寺用瓦の分布から認められるところである。そして、大和系石工の来住による石造物の製作が、この時期の優品を現在に残したのである。
▶︎三村山の石造物
三村山南麓に残る石造物は多く、〝石造物の世界″ との表現は決して過大ではない。ここでは、特に鎌倉時代の優品について言及する。
湯地蔵石亀(つくば市小田) 五輪塔(つくば市小田)
⑴宝筐印塔一基(小田山頂所在)
小田山(宝笹山)頂、標高四六一メートル地点にあり、浅間神社として小田地区の奉祀にかかっている。材質は花崗岩で あり、塔の総高(最上部相輪上半欠)は 二・五〇メートルと壮大である。銘文は 確認されないが、全体の様式から見て鎌 倉中期の逸品であり、茨城県内最古の遺 品と考えられる(田岡香逸「続早期宝箇 印塔」『史迩と美術』喝川勝政太郎『日本石造美術辞典』)。
⑵五輪塔一基(つくば市小田小字神宮所在)
小田山(宝簡山)南麓にあり、材質は花 崗岩で、総高三・一八メートルの完形遺品である。鎌倉極楽寺の忍性塔(総高小田山(宝筐山)南麓にあり、材質は花崗岩で、総高三・一八メートルの完形遺品である。鎌倉極楽寺の忍性塔(総高三・五七メートル)を相似的にやや縮小したこの塔ほ、様式的にも技法的にも忍性塔に酷似しており、鎌倉後期の製作に相違ない。銘文がないことから、造立の趣旨も不明だが、某年十月二十一日付某書状(金沢文庫古文書)にみえる「……抑尼寺三村塔供養之時は……」との文言は気になる。あるいはこの五輪塔供養のことであろうか。この塔が誰を供養したのか、忍性か否その法嗣頼玄か今は不明である(平成五年〔一九九三〕三月、この塔の解体修理発掘が行われ、塔基底より確かに蔵骨器が確認され、器内いっぱいに火葬骨が残存していた。つくば市教育委員会の報告書刊行がまたれる)。
⑶湯地蔵石亀(つくば市小田小字尼寺入所在)
旧三村寺域への入口、旧坂東街道といわれる古道の西方段上に建つ。石高(側面・背面・屋蓋より成る) の中に浮彫の地蔵菩薩立像が堂々と安置されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿も浮彫のみごとな細工であり、自重こそ欠失しているが、ほぼ完璧な石仏遺品である。像高一・六〇メートル、石高総高二二一〇メートルで屋蓋上には露盤と相輪を乗せている。小田地区ではこれを「湯地蔵」と呼称し、乳の出ない婦人の信仰対象になっている。 さらにこの地蔵立像の浮彫られた背面石の右と左の端には「右為法界衆生平等利益也、檀那左衛門尉請願成遂(以上右側)、正応二年配十一月十日造立勧進仏子阿浄(以上左側)」との刻銘が判読できる。正応二年(一二八九) の文言より、檀那の左衛門尉とは小田時知か小田宗知に比定されるが、仏子阿浄の経歴は不明である。しかし忍性離山後二十七年後の道立であり、阿浄なる僧もあるいは頼玄などとともに三村寺に住した律宗系僧侶の可能性は大きい。小田氏の三村寺外護を知る貴重な遺品である。
⑷石燈龍一基(つくば市小田長久寺境内所在)
長久寺自体は慶長五年(一六〇〇)に常陸国那珂郡より小場氏(佐竹氏一門)の小田入城に伴って移転した。従ってこの石燈籠の製作年代を鎌倉時代末期とみる時、旧所在地はやはり三村山麓と考えられる。長久寺本堂前の燈籠として利用されるに至った経緯は不明だが、総高二・四四メートル(但し竿は後補)、花崗岩製の優姿は他に琉例がない鎌倉期関東形式遺物である。基礎の反花・蓮台式中台(三段)・火袋(六角)・笠および宝珠など各部位にわたって洗練された技法が確認され、全体として堂々とした逸品である。火袋六角の二面に「バン」「アーンク」の二梵字を刻すのみで他に刻銘はない。この燈籠ほど石造物の加工技術の粋をみごとに表現したものはなく、三村山麓において展開した石工たちの特殊な石造物製作の背景がしのばれる(高井悌三郎「常陸小田長久寺の石燈籠」『史迩と美術』257)。
⑸結界右(三基)
いずれも旧所在地は不明だが、三村山麓の聖俗両界の結界の標石として建立されたいわゆる板碑である(三基とも黒雲母片岩)。共通して「三村山 不殺生界」と陰刻されており、不殺生すなわち殺生禁断を告知することを目的に建てられたことは明白である。禁断の地こそ三村山における聖なる地であり、西大寺律宗が特にこの趣旨を重要視したことを考える時、忍性の弘布活動の中にも確かにかかる思想が具現されていた。三基の中の一基には「建長五年突丑九月十一日」と陰刻があり、建長五年一(一二五三)建立であることがわかる。忍性が三村入山したのが前年の十二月であるから、この三村此における不殺生界域の設定が忍性によって指導された可能性は大である。
他に、東城寺(新治村)結界石五基(「大界外相」を共通に陰刻)中の一基(現東城寺境内に移建)には「建長五年実丑九月二十九日」とあり、また般若寺(土浦市)結界石二基(「大界外相」を共通に陰刻)中の一基にも「建長五年突丑七月二十九日」とある。「大界外相」こそこの地(聖界)とかの地(俗界)の境界を意味し、これらの板碑が寺域の標石として建てられた点、「不殺生界」を明示した三村山の板碑と同趣旨のものであることは疑いない。そして、建長五年の七~九月に建立され、かつ陰刻字体の酷似は同一人物の筆跡を決定させるものであり、この人物こそ忍性自身ではなかったかとざでの推測がなされている(高井悌三郎「常陸東城寺・般若寺結界石」『史迩と美術』317)。これら結界石を石造物の優品とするには造形の上からは異質とも言えるが、その記年銘と共通文言等より、三村山での一連の加工石製遺品といわざるを得ないし、何にもまして「建長」 の年号は湯地蔵の「正応」とと22ヰ もに絶対年代を知ることができる貴重な資料となっている。
結界石(新治村東城寺)
以上、五種類の鎌倉時代の秀逸な石造物について紹介した。そしてこれらの石造物が等しく忍性の三村山止住と深く関わることも想定し得た。では忍性の指拝下で活躍した石工たちとはどのような工人であったのだろうか。残念ながらこれらの優れた石造物には工人の名は刻されではいない。建長〜永和に至る約一三〇年間に二六点(記名が明瞭なもの)の作品を残した宋人石工伊派、文応〜元徳の七〇年間に四点(記名が明瞭なもの)の作品を残した石工大蔵派がいずれも多く西大寺系僧侶に随伴してその技術を競ったことは注目に値する(野村隆「伊派遺品の傾向と大歳派宝筐印塔」『史迩と美術』519)。そして、このような研究の結果として宝箇山頂の宝箇印塔が大蔵派系石工の手になる遺品であるとの指摘、しかもこの塔が無銘であるにもかかわらず有銘初例とされる大和額安寺宝筐印塔(文広元年〓二六〇〕 大意安清作)に次ぐ作例であり、また永仁四年(一二九六)の銘をもつ箱根宝筐印塔に先行する関東宝筐印塔の最古作例であるとの知見は重要である。
三村山一帯で作製された石造物の優品が、かかる伊派・大蔵派と称すべき工人集団によるものとの想定は容易だが、三村山では忍性をはじめとする西大寺系律宗僧侶たちとの同道を示す証左が得られない。長久寺に残る石燈籠も他の事例から伊派工人の作とみたいがこれも確証がない。しかし、良質な花白岡岩と黒雲母片岩を産出する筑波山系諸山に漂なる三村山は、忍性の止住と小田氏の外護が提供した好ましい政治的・宗教的条件を具備した聖地であり、限られた時期ではあったが彼等工人に充実した作業を許したことは相違ない。
▶︎三村山の鋳物師
日光二荒山神社の銅燈龍の所在は前述した石造物を考える上からも、また三村山に属した工人集団を考える上からも極めて重要である。この銅燈籠は小田長久寺石燈龍を想起させ、基礎反花座からは石燈籠のみならず三村山宝簡印塔・五輪塔そして鎌倉極禁寺忍性塔を彰万葉させて余りあるものである。しかも竿部分には次のような銘文が確認できる。
「奉冶鋳
新宮御宝前
御燈櫨一基
右志者、為二世悉地成就
円満也、利益普及群賛美
正応五年虻三月一日
願主鹿沼権三郎入道教阿
井清原氏女硝
大工常陸国三村
六郎守季 」
この銅燈籠については左記の如き先行紹介例がある。
⑴『二荒山神社』(大正六年四月十五日発行)
「○唐銅燈籠壱基 俗称化燈籠
国宝、大正三年八月弐拾五日指定
大正五年参月壱日登録、建第参拾参号
春日造、銅鏡抜、総高七尺五寸
銘文の中に見えたる鹿沼権三郎教阿は本名勝綱といひ、佐野親綱の子にして、鹿沼氏、神山氏等の祖なり」惚「日光二荒山神社銅燈」(『史迩と美術』94、昭和十三年九月刊)
⑵「日光東照宮に近い二荒山神社境内に存する銅燈は、正応五年の刻名を有し、大正三年八月国宝に指定された。
銅燈籠(日光二荒山神牡蔵)
六角型で、宝珠は後補だが、各部よく鎌倉時代の特色を出してゐる。中でも、基礎は見事で、側面の格狭間は先端を恰もこの時代の墓股の勝瑞と同じ手法にしてゐるので、頗る優美の感がある。露盤の格狭間にもあるが、上段の格狭間内には阻蓮華の浮彫がついてゐる。これは別に作って打つけたものである。下段格狭間の中央に見える小さい穴は、蓮華金具をとりつけた十八で、元はこゝにも同様のものがあったはづである。基礎上端の達弁は、蓮の花が開き切って、弁が下に垂れたところを現はしたもので、竿を受ける円形の部分には、周りに雄蕊を細かく現はしてゐる。弁の形は申し分のない鎌倉式の見事なもので、見るからに気持がよい。」
⑶『鹿沼市史』(昭和四十三年三月一日刊行、第一編第四章)
「⑵日光山と鹿沼氏」の項で、全景及び刻銘のある竿部分の二葉の写真を掲載しっつ錯文を翻刻紹介し ている。そして寄進主体鹿沼氏の系譜的位置付けを行いながら日光山への信仰に言及している。
⑷『日光市史』上巻(昭和五十四年十二月二十日発行、第二編第二章第二節)
(重文)唐銅大燈炉の全景写真一葉、銘文、佐野系図などを示しっつ、「周辺豪族」の日光山への信仰 の一例としている。
右の諸書は、いずれも「大工常陸国三村六郎守季」への言及はない。鹿沼氏(佐野氏系)による下野国の大社二荒山神社(日光山)への信仰的結集は重要な中世史上の課題であるが、忍性の止任した常陸国三村(寺)に居住した鋳物師による作例の一と判定し得ることはそれ以上に見逃し得ない重要課題である。
製作年次の正広五年(二一九二)は、三村廃寺跡の一区に現存する湯地蔵(前述)製作年(正応二年〔一二八九〕)とほぼ同時期である。総じて前述したような三村廃寺跡に現存する石造物の優品が、伊派・大蔵派と呼ばれる工人集団の作例ではないかとする研究成果が得られつつある中で、三村住鋳物師の存在は確認されていない。忍性を中心に大和西大寺系律宗僧侶たちが鎌倉期の三村山に止住していたことは確実であり、同時に優れた工人集団が随伴していたとする予見はこれでますます的を得たものとなる。瓦工・石工のみならず、鋳物師も当然大寺運営上の必須な職人である。鋳物師六郎守季の系譜についてはわからないが、「大工」としての彼の立場は三村山に所属しっつ一山の造営に関わるかたわら、その技量のゆえに下野国よりも発注を受けるに足る存在であったと考えられる。そしてこのことは、前述した通り(高井悌三郎論文) 三村山出土瓦と同箔・同系の瓦が下野国でも確認できることと一体の技術の広がりと一環をなすものである。
従ってこの鋼燈籠は、鎌倉期の当該技術の粋を保持した三村鋳物師への一層の注目を喚起させるに十分な作例である。類例の確認・発見が望まれること急務である。平成三年(一九九一)春、三村廃寺跡に初めて念願の発掘調査が試みられた (平成五年三月につくば市教育委員会より報告書『三村山極楽寺跡遺跡群』 が刊行された)。限られた区画とはいうものの、地下より、方形配石遺構(ロストル式平窯跡)・石組溝状遺構・焼土帯(土壁塊・瓦片・青磁碗・褐粕壷・美濃焼き平碗・折り縁皿・注水などが検出された)・銅製香炉蓋など、明らかに建物遺構を想定しうる状況が確認され、移しい古瓦片などとともに寺院跡としての遺跡の実像に一歩確実に迫り得た。先学諸氏の三村山研究はますます貴重であり、そして今日、新たな研究の局面を迎えている。三村山(寺)・忍性・律宗・石造物・鋳鋼製品、そして外護者小田氏等々、これらほいずれも研究内容・研究視点の上から中世史を立体的に把握するに十分耐え得る条件を具備している。
諸史料の蒐集と再点検を通して得られる三村山(寺) の構造的把握は、忍性の開いた寺をどこまで再現できるか、今後の研究への期待ほ極めて大きいといえる。
*本文のうち、三村山麓の廃寺〜三村山の石造物の原形は『筑波町史』(上巻一九八九年刊行)の糸賀執筆部分(第二編第三章 第一節・第二節)である。また三村山の鋳物師の原形は「茨城県史料付録28」所収「白光二荒山神社鋼燈籠と三村山」(糸賀執筆、一九九二年)である。
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