金色姫伝説から見えるもの

金色姫(こんじきひめ)伝説から見えるもの

▶︎養蚕の記憶

▶︎ はじめに

 神使像めぐりで神社仏閣を訪ねていると、 境内などで、かつて、養蚕が≪農家の人々の生活そのものだった≫ことを 物語るようなさまざまな痕跡(遺跡)に出合います。 日本の養蚕は、稲作の伝来とともに始まったとされますが、特に江戸末期から昭和初期にかけて盛んでした。国の殖産興業策にそった近代的器械製糸や養蚕技術の開発などに伴い、生糸の輸出が世界一となった最盛時には農家の40%が養蚕を行っていました。しかし、今日では養蚕農家はなくなり、桑畑も無くなってしまいました。 この稿は、「養蚕について語る」という大それたものではなく、神使像めぐりのなかで出合った「養蚕の記憶が残る断片的な痕跡など」を駄菓子屋の店頭のように雑多に並べたものです。

 蚕は「お香様」と呼ばれ、農家にとって特別な存在であった。多くの農家の屋根裏や2階は、蚕の飼育場で今も古民家にその面影が残っている場合がある。そこで再度、金色姫伝説を養蚕業面からの分析に挑んでみたい。

 カイコは完全に家畜化された昆虫で、人手がなければ生存できない。だがカイコの原種とされるクワコは、「中国・台湾・日本・東南アジア」に生息。クワコは飛ぶ事や動く事も可能で、綿糸も造り出していた。日本と中国のクワコは、遺伝子的に数百万年前に分岐している。クワコと別な昆虫ヤママユもまた縞のマユを毒影神社拝殿、同社には金色姫や古谷姫など数々の伝脱が残る形成していたので、石器時代から利用していたと思われる。クワコを家畜化してカイコとしたのは、中国で5000年程前と見られている。

クワコとカイコは共にカイコガ属の一種である。カイコの起源にはいくつかの説がある。クワコの祖先種から分化したという説は両種の分化後、等しい速さで分化していったとする分子時計説に基づいているが、人為選択の影響により現代の分子系統学の手法を用いてもカイコの起源を探求するには困難な点まで進化が加速していることに留意しなくてはならない。

 養蚕を日本の場合で考えると、スタートは4000年前で、その拠点が「蚕影(こかげ)山神社(つくば市)、蚕霊(こだま)神社(神栖市)、蚕養(こがい)神社(日立市)」と考えている。豊浦などの地名一致は、同族や同門の移動による結果と理解したい。日本最古の養蚕遺跡は、福岡県の有田遺跡で2200年程前の平縮が発見され、日本独自の織り方がされていた。この事は日本での技術が既に完成していた見る事ができよう。

 だがこれまでの歴史認識では、西暦195年に百済から蚕種が伝わる。さらに283年に秦氏が養蚕と綿織物の技術を伝える。こうした記録の存在から2〜3世紀に養蚕や綿織物が始まったと教えられた。


■弓月国渡来人に関する伝説

 北宋時代の歴史書『資治通鑑』によると、始皇帝の子孫の一部は今の中央アジアのカザフスタン内に位置する弓月(ゆづき)国に暮らしていた。弓月国は天山山脈の北側にあり、東部は新疆ウイグル自治区と接し、南部はキルギスタンと接し、シルクロードの北方ルートにおける重要都市だった。当時の中国は、ちょうど後漢時代。『後漢書・東夷伝』によると、後漢は勢力拡大にしたがって、多くの周辺の異民族を征服し、苦役として万里の長城の建設に参加させた。弓月国の人々もその中に含まれていた。その後、多くの人々が苦役に耐え切れなくなり、朝鮮半島や日本などに次々と落ち延びた。

 弓月国の人々もこのような背景の下、中国の東北地方から朝鮮半島へと逃げ込んだ。『後漢書』巻85「東夷列伝・三韓」には、「弁韓と辰韓は雑居し、城や服は同じだが、言語や風習は異なる」という記載がある。古代朝鮮の歴史書『三国史記』の記載と合わせると、この「弁韓」はどうやら弓月国の人々だと考えることもできる。朝鮮半島にやって来た彼らの言語や風習は現地の人々ともちろん異なっていた。また、大量に流入した弓月国の人々は、原住民と資源や利益を巡ってさまざまな紛争を引き起こした。加えて、当時は利用可能な土地に限りがあったため、彼らは政治面でも排斥や抑圧を受けることになった。やむを得ず、彼らは引き続き東へ移動することを余儀なくされてしまった

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王とも称され、秦の始皇帝の後裔とされている。

秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。神功皇后、応神天皇の時代秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという。(『古事記』)

 彼らを率いて日本に渡ったのが功満王の息子「弓月君」だ。『新撰姓氏録』では融通王とも称される。『日本書紀』によると、弓月君は283年に、百済(紀元前18年~660年)から127県(1県は約150人)計1万8670人を率いて、日本に移住した。当時はちょうど応神天皇(仲哀天皇の息子)の統治時代だ。シルクロード上の重要都市から来た弓月君とその国民は、父親の功満王が当時献上したカイコの卵だけでなく、他の分野の先進技術や優れた文化をももたらした。応神天皇にとって、彼らを受け入れることは良い事ずくめだった。一方、弓月君にとって、国民が数々の苦難やつらい旅路を経て安住の地を見つけたことは、安らかに暮らし楽しく働くという夢が実現したということだった。

 定住後、弓月君に従って渡来した人々は養蚕や紡織、かんがい、建築などに従事し始めた。『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃・漢・秦忌寸」によると、彼らが織った絹織物は柔らかくて滑らかな「」のようだったため、応神天皇は彼らに「肌」と同じ発音の「波多」という姓を賜った(「波多」の古音はハダ、後にハタに変化)。また、中国から伝わった紡織機が日本語で「はた(機)」ということから、養蚕・紡織に従事する人々の姓も「ハタ」となり、漢字では「秦」「太秦」「羽田」などと書かれた。その後、仁徳天皇の時代には「秦酒公」などの姓を賜り、雄略天皇の時代には「禹都萬佐(うづまさ、太秦)」などの姓を賜った。


文/いい・のみち

 金色姫の実像ワカムスビとなり「ムスビ」は、産みだす事を指している。「ワカ」は優れる、栄える、勢いづく、発生するなどの意味であろう。金色姫とは、貴重で大切にしなければならないと理解させるのに最適の命名で、「お蚕様」やワカムスビに繋がっている。伝説の主流は、姫の生まれを天竺(インド)としているが、仏教普及の都合からである。西方浄土からの来訪が、姫の価値を高め、その力が貴重である事を伝えたかったのであろう。こうした出身国の変更に日高見国や秀真国の実像を隠蔽する意図も隠されている。

 次に姫が4回程殺害されそうになる件だが、それはカイコがマユになるまでの変化する生態を表現している。物語でのはかない姫の一生も、カイコから来ているのであろう。権太夫がカイコと同様に動けない姫を慈しみ育む場面は「お蚕様」の世話をする姿勢に重なるようだ。養蚕農家にとっては金色姫の伝説に業務マニュアルが凝縮していると理解したであろう。権太夫の誠実に「お蚕様」の世話をするのを頑張れば豊かになると終わるのも仏教的で喜ばしい。

 こうした教えを蚕影山神社の別当となる桑林寺などが広めた。神道は縄文人の心が創り出したものであるが、日高見国と距離をあけるに従い大切な宗教哲学を失っていく。ホツマツタエを一部分しか理解できていないが、そこには天文学から宗教行事まで書かれている。

日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。

 代表として忌明けを49日とするのは、日本語の「あわ48音の神」の守り受けたからとしている。どうやら神道は想像以上に根強いようだ。

 大同2年(807)に東日本で起きた宗教改革の嵐は、日高見国といかに縁を絶つかに比重が置かれている。日本に二つの国が存在している事実は、唐書にもありこの解消が急務とされたのであろう。この神々物語では、秀美国や日高見国など必然的に触れざるを得ない。


■茨城のちょっと面白い昔話

▶︎ふるさと風の文庫より

木村 進

 筑波の六所神社に行く時に手前の神郡にある「蚕影山(こかげやま)神社」という神社がある。この神社もかなり古くからある神社で名前の通り養蚕業のシンボル的な神社で、各地にある蚕影神社の中心になっているところです。ここに金色姫伝説が伝わっています。

 この伝説の元となっているのは、兵庫県養父郡の上垣守国という人物が、奥州(福島県)で買い求めた蚕種を研究し、養蚕を但馬、丹波、丹後地方にひろめました。そして彼は、享和2年(1802)に「養蚕秘録」(全3巻)を著し、養蚕法はヨーロッパにも広がりました。この本の中に、金色姫の伝説(蚕の草子)が紹介されています。「昔、雄略天皇の時代(478年頃)に、天竺(インド)に旧仲国という国がありました。帝はリンエ大王といい、金色姫という娘がおりました。しかし姫の母親はなくなってしまい、リンエ大王は後添えをもらいました。後添えの皇后はきれいな金色姫を憎み、大王の留守に、金色姫を獣の多い山(獅子吼山)へ捨てたが、姫は獅子に背おわれ宮中に帰ってきた。また鷲や鷹のいる山(鷹群山)へ捨てたが鷹狩りに来た兵によってまた宮中に帰ってきました。今度は海眼山という草木のない島へ流したりしたのですが、ことごとく失敗してしまいました。そしてとうとう4度目には金色姫を庭に生き埋めにしたのです。ある日、庭から光がさして城を照らしているのに、大王が気づき、庭を掘ると、やつれた金色姫がいました。大王は継母の仕業と知り、姫の行く末を嘆き、泣く泣く桑の木で造ったうつぼ舟に乗せ、海上はるかに、舟を流し、逃がしました。舟は荒波にもまれ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県の豊浦に漂着しました。そこで権太夫という漁師に助けられ、その漁師夫婦により、大切に看護と世話をされていましたが、姫は病を得て亡くなってしまったのです。夫婦は不憫な姫をしのんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。それからしばらくしたある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げたのです。

 驚いた夫婦が唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。ある時、この虫たちは桑を食べず、皆一せいに頭を上げ、ワナワナとしていました。

 権太夫夫妻が心配していると、その夜、また夢に姫が現れ、「心配しないでください。天竺にいるとき、継母に4たび苦しめられたので、いま休んでいるのです。」と告げました。4度目の「庭の休み」のあと、マユを造りました。マユが出来ると、筑波のほんどう仙人が現れ、マユから糸を取ることを教えてくれました。

 ここから、日本で養蚕が始まったといわれています。権太夫は、この養蚕業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に、新しく御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号しました。これが蚕影山神社のはじめと言われています。

 さて、金色姫の話は5世紀後半の時代の話とされていますが、インド(天竺)からいろいろな文化がこの地にもたらされたことを現わしているのでしょうか。

 現在日本最古の文学と言われる竹取物語(かぐや姫)のお話ができたとされるのは9世紀~10世紀などと考えられていますが、こちらの話も中国やインドなどに関係しており、月に住むお姫様と言う設定はこの金色姫の話の上を行っています。でも日本国以外の国のお姫様ということでは共通するものがあります。

 大友狭手彦(おおともの さてひこ)が宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救い、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したとされており、このときには財宝だけでなく、現地より多くの人々がこの国に逃れてきています、その中に女性も多く含まれており、青い目の女性もいたかもしれないです。

大伴 狭手彦(おおとも の さてひこ)は、古墳時代後期の豪族。佐弖彦、佐提比古郎子とも表記される。カバネは連。大伴金村の三男。『新撰姓氏録』によれば道臣命(大伴氏祖)の十世孫とされる。

 そのほか、『肥後国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弁才天のモデルとなったとされる弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられています。当時がどのような時代であったかを少し考えてみるのも良いかもしれません。

 さて、茨城県にはこの他に豊浦と名の付く2か所の神社がともにこの金色姫伝説の地であるとしています。これらは常陸国の三蚕神社と呼ばれています。

(1)蚕影山(こかげさん)神社:つくば市神郡1998(日本一社)

(2)蚕養(こがい)神社:日立市川尻町2377-1(日本最初)

(3)蚕霊(さんれい)神社:神栖市日川720(日本養蚕事始

ふるさと”風”の会