■からくり伊賀(つくばが生んだ奇才のエンジニア)
▶あいさつ
今年は江戸時代の谷田部で活躍した飯塚伊賀七の生誕250周年にたります。伊賀七は奇抜な建築や多様な発明品を次々と生み出し,「からくり伊賀」の異名を持っていました。
また,伊賀七の名は当時,不動並木(つくば工科高校前にかつて存在した松並木),広瀬周度(ひろせしゅうく・蘭学を修めた谷田部藩医で書画の才人)と並び,「谷田部に過ぎたるもの三つ」の一つにも数えられています。
伊賀七の作品のうち,からくりをもつ和時計の部品,測量器具や地図,農業機械,五角堂という建造物などは現在まで伝わっており,製作当時に広まりつつあった蘭学などの科学に裏打ちされた高度な技術をみることができます。機械,測量,建築といった多くの分野にわたる知識を修得し,奇抜で斬新な作品を設計,実際に製作した伊賀七の存在は,奇才のエンジニアと呼ぶことができます。
つくば市では,科学のまちつくばの先達ともいえる伊賀七の生誕250周年を記念し,彼の偉業とその背景にあった当時の庶民文化を紹介する企画展と,からくりや科学技術の歴史をふり返る中で伊賀七の存在を評価する講演会を,開催することとしました。科学のまちとして発展し続けるつくば市の市制25周年にもあたるこの機会にぼる驚くべき発明品の数々をご覧いただき当時のつくばを思いはせてみてください。
■伊賀七の生涯
▶谷田部新町村名主としての顔
飯塚伊賀七は宝暦12年(1762)に常陸国筑波郡谷田部新町村で生を受けました。彼の家は代々名主を務める旧家で,祖先は京都の儒学者,山田衡算(やまだこうざん)であったと伝えられています。16代目にあたる伊賀七も名主の職務を全うしていたようで,かんせい寛政元年(1789)に流行した熱病沈静を祈願して谷田部八坂神社に納めた奉納板に,名主たちの一人として当時27歳であった伊賀七の名が認められます。さらに,彼の覚書には飢饉や大水の記録が残されており,名主として数々の災害と向き合い,村の人々の生活を案じていた姿がうかがえます。
また,飯塚家は名主を務める以外にも明治初期まで寺子屋を開いており,代々学問に明るい家系であったようです。伊賀七の並々ならぬ才覚や好奇心は,こうした環境で否まれたのでしょう。
一方,晩年に伊賀七が製作した木製和時計の一部には,御経や祈願文が数多く記されています。また,谷田部新町の諏訪神社には手洗い石を,筑波山神社には灯籠を,それぞれ寄進しており,彼の神仏に対する深い信仰心を垣間見ることができます。
▶科学技術者としての顔
伊賀七は名主を務める一方,発明に情熱を注ぎました。時には寝るのを忘れ,昼夜を問わず発明に熱中したとも語り継がれています。彼の発明品は測量機器に始まり,和時計や農業機械,奇抜な建築といった現存品にとどまらず,からくり人形や飛行機にまで及んだと語り伝えられています。
当時は徳川幕府による鎖国政策の中にあり,西洋からの新しい文化や技術を知る機会は限られていました。そのような状況で生み出された多分野にわたる作品たちは,伊賀七の尽きることのない好奇心と情熱を体現しているといえるでしょう。
このように名主や発明家としての様々な顔を持つ伊賀七は,天保7年(1836)に当時としては長寿の74歳で生涯を終えました。その霊は生家近くの道林寺に眠っています。
飯塚伊賀七肖像画(広瀬周度画)碗鳶忘ご伊賀七の時代の飯場家想像図(田村竹男画)門の左に時計台,奥に母屋,右に五角堂が描かれています。
■伊賀七の時計
伊賀七の発明品の中でひときわ目を引くのが木製和時計です。文字盤や歯車などの部品が現存していますが,文化10年(1813)51歳から文政5年(1822)60歳の年号が記されたものもあり,このころ数年をかけて製作されたことがわかります。このとき伊賀七は60歳前後です。伊賀七の死後,和時計は解体され,長い間五角堂に収納されていましたが,昭和30年(1955)に国立科学博物館の朝比奈貞一氏や高層気象台技官であった田村竹男氏を中心に調査が始まり,昭和32年(1957)には不足する部品を補って当時の姿が再現されました。昭和60年(1985)には谷田部町が実際に稼働する和時計として復元し,国際科学技術博覧会にも出展しました。
日本に初めて伝来した機械時計は,天文20年(1551),フランシスコ・ザビエルが周防・長門(現山口県)の大名大内義隆に贈ったものといわれ,現在の時計と同じく一定の時間を刻む定時法を採用したものでした。しかし,当時の日本では西洋とは異なる不定時法(日の出30分前と日没30分後を昼夜の基準とし,昼と夜をそれぞれ6等分する方法)を採用しており,人々はこの時間にあわせて生活していました。そのため,日本では不定時法を刻む構造を持った和時計の研究が盛んに行われ,独自の発展をしました。
伊賀七の時計には,定時法による百刻文字盤と不定時法による節板式文字盤が併用され,月日を数えるカレンダー機能も備えています。定時法で1日を百等分する方法は,天文学や暦学などで使用されるもので,伊賀七の知識がこうした分野にも及んでいたことがうかがえます。また当時の日本の生活で採用された不定時法には,昼夜の幅が調整された文字盤13枚を季節により交換することで,対処しています。
さらに,この時計はからくりにより太鼓や筒を鳴らす時打機能も備えています。当時は五角堂と並ぶ時計台に設置され,毎日決まった時刻になると自動的に鐘や太鼓で時を知らせ,朝夕には門扉を自動で開閉したといわれています。現在も残る門のくぐり戸に取り付けられた滑車は,この伝承に関係すると考えられます。
江戸時代の和時計でも,伊賀七の作ったものは大型かつ時打などの機能を持つ点で異彩を放っており,当時の部品が残っていることも貴重です。このような価値から,五角堂とともに県指定文化財となっています。
▶百刻文字盤(定時法)
1日を百刻で表した文字盤で,1日に1回転します。三十四刻から五十四別の間には小さな穴が開けられており,決まった時刻に鐘を鳴らす仕掛けの一部と考えられています
▶暦日装置(日付.月を表示)
●大型文字盤 30日(約1ケ月)で1回転し,目付を示しますも●中型文字盤 20ケ月で1回転しますも数字は伊賀七独自の表現ですも●小型文字盤100ケ月で1回転しま一丸
▶節板式文字盤(不定時法) 季節により昼夜の時間は変わるため,文字盤を取替えることで不定時法に対応していますも番号が付けられた文字盤は,夏至に向かって昼の幅が大きくなり,大きくなるよう調整されています。
■伊賀七の測量
伊賀七の業績の一つに,谷田部領内の測量が挙げられます。彼は十間輪(じゅっけんりん)と呼ばれる測量器具を自作し,いくつかの地図を製作しました。十間輪は持ち手となる棒に取付けられた車輪を地面に転がして距離を測る道具で,同じような器具は現在の測量でも使われています。この車輪は1回転で3尺(約90cm)進むように設計されており,さらに20回転して10間(=60尺:約18m)進むと取付けられた鐘が鳴る仕組みとなっています。
十間輪を用いて製作されたと考えられる「分間谷田部絵図」には天明8年(1788)26歳の年号があります。この記述に従うならば絵図は伊賀七26歳のころに製作されたもので,伊能忠敬の蝦夷地測量よりも12年ほど古いことになります。
また,この絵図を縮尺した谷田部領地囲も現存しており,道路や河川,村落などが詳細に書き込まれ,現在の地図に近い精度を持っていることがわかります。伊賀七が地図を作った理由が,藩などから依頼されたからか,名主としての伊賀七が必要としたからか,定かではありません。しかしながら,地図の緻密さば明確な目的意識があって作られたことを想像させます。
■コラム 測量術
16世紀の終わりどろ,豊臣秀吉の太閤検地に代表されるように,各地で土地が盛んに測量されるようになりました。加えて西洋との交流も盛んになり,測量術は急速に発達しました。しかし,17世紀前半に徳川幕府がとった鎖国政策は,社会的な必要性が増した測量術の発展を制限することになりました。
享保元年(1716)に将軍となった徳川吉宗は,新田開発などの産業発展を奨励するため,技術書などの輸入規制を緩和しました。このことで測量術の研究は進み,『星地指南』をはじめとする多くの測量術が刊行され,写本により各地に広がりました。『量地指南』には盤鍼術(磁石による測量)・星盤術(平板による測量)・揮発術(コンパスによる測量)・算勘術(計算による測量)・機転術(状況に応じる測量)といった,当時の測量技術が記されています。また,技術書の広まりとともに器貝の改良も進み,より精度の高い測量が可能となりました。伊能忠敬が全国を測量した文政年間(1818〜29)ころになると,引き札(今でいう広告チラシ)にも測量器具が掲載され,庶民向けに販売されていたことがわかります。技術書や器具の普及は,庶民であっても志があれば技術を学んで実行できる時代になったことを示しています。
■伊賀七の農業機械
伊賀七の発明品の中でも自動脱穀機は,からくりの技術が実用機械として発展した先駆けとして特筆されます。五角堂に設置されたといわれている実物の詳細はわかりませんが,縮尺を小さくした精巧な模型が残っています。自動脱穀機模型の柱や歯車には伊賀七71歳にあたる「天保四葵巳(みずのとみ)」(1833)と記されており,このころの製作とわかります。
この年は春からの天候不順でたびたび大雨が降り,夏も寒冷な日が続いたことから各地で大凶作となりました。いわゆる「天保の大飢饉」です。谷田部藩領内の村々は年貢の軽減を訴え,中には役人に捕まる人も出てしまう状況でした。伊賀七ら名主たちは捕まった農民の解放や人々の生活を守るために奔走したようです。このような中で自動脱穀機は製作され,ついにからくりが実用の農業機械へと結びつきます。
江戸時代には和時計やからくり人形を製作した人物が広く知られる一方で,伊賀七の脱穀機のような自動的な農業機械を考えた人物はほとんど知られていません。四国高松藩の久米栄左衛門通賢は水揚げ機械を発明したとされ,文政5年(1822)に刊行された大蔵永常(ながつね)の著書『農業便利論』に「激瀧水(げきろうすい)」として紹介されていますが,この機械も家畜を動力としており,自動ではありませんでした。 伊賀七の自動脱穀機は水車と同じ原理を利用した歯車仕掛けの機械ですが,分銅の重りを動力としたと考えられています。歯車の動きによって,2本の杵が上下に動き精米を行うほか,設置された小さな臼を回転させて脱穀や製粉を行う,2つの仕組みが備わっています。
なお,伊賀七は脱穀機にとどまらず,縄より機や糸繰り機なども製作したことが伝えられており,晩年の彼が農具の機械化に情熱を燃やしていたことが分かります。農村の厳しい生活に名主として向き合った伊賀七だからこそ,からくりの技術を応用して人々の暮らしを豊かにするような,新しい農業機械の必要性を強く感じていたのかもしれません。