上高津貝塚調査

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■ 序

 このたび、貝層断面剥離採取にともない、国指定史跡上高津貝塚の学術調査を行ないれたので、その概要を集録し発刊する。上高津貝塚は、既に明治時代から学会に知られた関東地方を代表する縄文時代の大規模貝塚である。貝塚から出土する土器や貝殻そして獣や魚の骨などさまざまな出土品は、太古の昔、霞ケ滴が海だった頃、海の幸・山の幸を生活の糧としていた縄文人の生活を彷彿させます。この貝塚は、昭和52年に国の史跡指定を受け、和61年度には44,048.42㎡の指定地すべての市有化が完了している。

 今回の発掘調査は、昭和63年7月2日に開館した市立博物館内に展示する貝層断面の剥離採取のために行なったもの。展示室にて、現地では観察することのできない貝塚の断面を見学することにより、ひとりでも多くの方々に上高津貝塚への関心をもって頂ければ幸いである。

 最後に、調査及び報告書発刊に際してご指導ご協力いただきました鈴木公雄先生をはじめとする慶応義塾大学民族学・考古学研究室の皆様、そして地元有志をはじめ多くの皆様に心から感謝申し上げます。

土浦市教育委員会教育長 日下部晃

■Ⅰ調査の契機

 土浦市では、1985年度に、次年度公立社会教育施設整備計画書に博物館建設計画が提出され、1988年開館に向けてその準備がはじめられた。この間、博物館における展示内容の検討が行なわれ、原始・古代及び近世を中心とした通史展示という全体的な展示プランがまとめられた。このような内容には、展示可能な資料の量的な問題も含んではいるものの、土浦の歴史的変遷を紹介するうえで、その黎明期と現在の中心市街地の基礎となる城下町が形成された近世の二つの時代が重要な位置を占めるという考えが反映されている。

 このなかで、原始・古代すなわち土浦の黎明期の展示構成については、多くの考古資料のなかでも質的にもまたその内容の多様さにおいても国指定史跡上高津貝塚の資料がその中核となるものと考えられた。そして、展示資料の一つとして貝層の剥離資料があげられた。

 そこで、上高津貝塚の過去の調査経緯から、慶応義塾大学民族学・考古学研究室鈴木公雄教授に調査指導を依頼することにし、1986年12月10日博物館建設担当の岩沢・塩谷が鈴木教授のもとにおもむき調査計画の打ち合せを行なった。その結果、おおよその日程、そして資料採取地点を慶応大学が調査を行なっているA地点の既掘トレソチとすることなどを決定した。その後、国指定史跡における現状変更の届け出を行ない、剥離採取の作業を考古造形研究所森山哲和氏に依頼し、1987年11月16日~11月別日にかけて実施するに至った。

▶遺跡調査会・発振調査団組織  土浦市遺跡調査会

会 長 永山  正  副会長 日下部 兎    理 事 茂木 雅博 

調査日誌11月16日(月)~19日(木)A地点表土除去。A地点表土除去。

発掘調査団    現地指導  鈴木公雄(慶応大学教授)阿部祥人(慶応大学講師)

発掘調査参加者  安藤広道(慶応大学大学院)、滝沢誠、岡林孝作(筑波大学大学院)、武蔵美和(筑波大学)

■Ⅱ貝塚の位置と環境

 上高津貝塚は、茨城県土浦市上高津町字貝塚、柿久保・宍塚町字書久保に所在している。中央を東流して霞ケ浦に注ぎこむ桜川の右岸にあり、いくつかの小支谷によって伝約22mの台地上に立地している。この台地は、周囲にいく筋もの小支谷が放射上にかも一つの独立した台地のごとき環境を有しており、東側の現水田面との比高は離この貝塚は、縄文時代中期末から晩期前半にかけての貝塚で、先の台地の縁辺部にる貝殻の散布が認められ、小・中規模貝塚が台地縁辺を環状にとりまく環状貝塚の典型的形態を呈している。

宍塚マップ

 上高津貝塚は、1906年(明治39年)に大衆小説家江見水陰によって発掘されてから考古学の世界に知られるようになった。その後、戦前の大山史前学研究所の調査を経て、1953年(昭和28年)に清水潤三を代表とする慶応義塾高等学校考古学会によりはじめて正式な学術的調査が行われた。これに続き、1968年〜1971年の四次にわたり慶応義塾大学民族学・考古学研究室及び東京大学総合研究資料館により継続的な調査が行なわれた。この時点で、貝塚は、台地扇側からA〜Eの5地点に分けられ、慶応大学がA地点を東京大学がB地点の一部を調査し、貝塚部分における多くの資料と多大な成果を挙げている。

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 これ以降、上高津貝塚における学術的な調査は行なわれていないが、1977年に国の史跡指定を受け、台地から斜面部にかけての44,048.42㎡が国指定史跡となっている。そして、1981年から市による史跡指定地の買収がはじまり、1986年には指定地すべての市有化が完了している。

 上高津貝塚の周辺には、多くの原始・古代の遺跡が分布している。貝塚北側に隣接した宍塚大池周辺の丘陵上には宍塚古墳群が存在し、五基の前方後円墳と二十基あまりの円墳から構成されていた。この古墳群は、古墳時代後期の古墳群で、1968年には二基の前方後円墳と一基の円墳(5号墳)が、1979年には一基の円墳(18号墳)が発掘調査され、金環や埴輪が検出されている。また、谷をはさんだ西側には、縄文時代中期及び古墳時代前・中期及び古墳時代前・中期を主体とする粟崎遺跡がある。採集される縄文時代の資料は、その大部分が縄文時代中期中葉を中心とするものであり分布範囲が示す遺跡の規模からみても、上高津貝塚に先行する大規模集落の存在が予想され、上高津貝塚の成立過程を考えるうえでも重要かつ注目すべき遺跡と考えられる。

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 土浦市では、今後上高津貝塚を史跡公園として整備していく計画でおり、その先にのべた周辺遺跡との関連性を考慮し、総合的見地に立ち整備をすすめていく必要性が考えられる。

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■参考文献 

「茨城県土浦市上高津貝塚発掘調査報告」「ArcbaeologyJ19 慶応義塾高等学校

「茨城県資料 考古資料編 先土器・縄文時代」茨城県史編さん第一部会1979  

「土浦の遺跡」 土浦市教育委員会1984                   

「常陸宍塚」国学院大学宍塚調査団1971                   

「筑波古代地域史の研究」筑波大学1981


■Ⅲ 調査区と調査方法(第2図参照)

 今回発掘調査を行をった地点は、上高津貝塚A地点にあたり、昭和伯・胡・46年の各年に(2次・3次・5次)慶応義塾大学考古学研究室によって、三回に渡り発掘調査の行をわれた地点である。

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 今回の調査は、貝層断面の剥離採取のみを目的とするものであったため、過去の発掘調査のトレンチを再発掘し、貝層断面を剥離することにした。 慶応義塾大学民族考古学研究室に存する、各次調査の図面、日誌、写真等を検討した結果、2次調査Cトレンチ2区・3区付近に、ヤマトシジミを主体とする良好な純貝層の遺存が予想されたことから、2次調査Cトレンチを第一候補として、再発掘することに決定した(2次調査Cトレンチは、東西方向に設定された、長さ12m、幅2mのトレンチで、西方から2m毎に1〜6区に区分されている)。また、何らかの障害によって、Cトレンチの貝層が剥離採取困難となる場合に備え、カキを主体とする薄い純貝層が存在する、5次調査のトレンチも併せて再発掘することにした。しかし、Cトレンチ内純貝層の遺存状態が極めて良好であることが調査の初期に確認されたため、5次調査のトレンチは一部分再発掘したのみに留った。

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■Ⅳ 調査概要(第3・4図参照)

1.層序について

 2次調査Cトレンチ内の土層は、当時の調査において、混土貝層Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、純貝層、貝層下士層の5層に区分されている。今回の調査は、Cトレソチの東半を再発掘したのみであったが、2次調査の図面、日誌等を検討した結果、これらの層の内、混土貝層Ⅲ、純貝居、貝層下士層の3層に対応すると考えられる層が確認された。しかし、調査期間の関係上、新たに土層断面図を作成することが出来ず、また、各土層の内容に関しても、Cトレンチ両壁の視覚的な観察を行をったのみである。従って以下では、2次調査時の土居区分を元に、今回の調査において確認された知見をまとめていくことにする。

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 旧調査において混土貝層Ⅲとされた層は、厚さ1m以上に達する層である。本層は、今回の調査で、更に数層の混土貝層、混貝土層に区分し得ることが確認された。いずれの貝層も、貝種はヤマトシジミが主体となるが、オキンジミ、ハマグリ等が目立つ層も存在する。土器や骨角器、獣骨、魚骨等の包含量が極めて多く、貝層剥離時においても、土器、獣骨が多数採取された。土器は、一部の安行系土器を除いて、その殆どが加曽利B式土器である。旧調査においても、加曽利B式土器を中心に多量の土器が出土している。

 旧調査で純貝層とされた層は、今回の調査で、薄い混土貝層を挟んだ2枚の緬貝層に細分し得ることが確認された。2枚の純貝層は、共にヤマトシジミを主体とし、オキシジミ、ハマグリを多く含んだ、混土率の低い層である。断面観察の上では、上下の純貝層の貝種組成に大きな違いは認められなかった。旧調査時の出土土器は、ほぼ加曽利B式土器に限られ、木屑の形成時期も加曽利B式期と考えられる。

 貝層下士層は、褐色を呈する粘性の強い土居である。炭化物を含むはか、土器、獣骨の包含量が多い。今回の調査では、土層断面の清掃時に、土器を中心として比較的多くの遺物が出土した。出土した土器の多くは、堀之内式に比定されるものである。また、加曽利E式土器も少量認められた。これらは、旧調査時の所見ともよく一致しているこ

2.出土遣物について

 今回の調査は、貝層断面の剥離採取を目的とした過去のトレンチの再発掘であるため、出土した遺物は概して少ない。その多くは、土層断面清掃時、剥離採取時に出土したものである。

■土器

 前述のように、混土貝層m、純貝層より採取された土器は、若干の安行系土器を除き、ほぼ加曽利B式土器に限られる。特に加曽利BI式土器に比定されるものの比率が高い。ただし、2次調査の出土土器には、加曽利BII式、BⅢ式に比定されるものも少なからず認められ、貝層死時期が加曽利BI式期のみに限定されるわけではないようである。

 貝層下土層からは、断面清掃時に堀之内式土器の大型破片が比較的多く出土した。堀之内Ⅰ式、Ⅱ式ともに認められるが、特にⅠ式新段階〜Ⅱ式古段階のものが目立つようである。

■自然遺物

 貝層を構成する貝類は、混土貝層㈼㈵、純貝層ともに、ヤマトシジミを主体とし、オキシジミハマグリがこれに継ぐようである。また、サルボウ、カガミガイ、カキ、シオフキ、アサリ、バガイ、アカニナ、ウミニナなども少なからず認められた。

 今回の調査では、貝層及び貝層下士層清掃時に、獣骨、魚骨類も比較的多く出土した。獣骨は、シカ、イノシシが目立ち、椎骨、四肢骨片が多い。頭骨、顎骨も何点か認められた。

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■Ⅴ貝層の剥離採取

 今回の上高津貝塚貝層剥離採取にあたっては、実質的な作業は考古造形研究所森山哲和氏に依頼し実施した。この剥離方法は、森山氏の言う接状剥離法であり、薬品による接着の要領を用い、完全に密でマットな物質の表面の粒子と資料を接着させ剥離するものである。使用する薬品その他の器材等は、主剤としてのHON接状剤、貝層を接着固定させるマットとしてのガラス繊維状布及び主剤の薄め液としての希釈剤、また器材としては吹きつけ器、ハケ、ポリバケツ、作業用の防塵メガネ、ゴム手袋、有機マスク等があり、採取後の固定等の表面処理に使用する保護膜としてのOH822がある。接状剥離は、対称物を非常に薄く剥離(5㎜前後)することが可能であり、今回のように展示使用を第一の目的とする場合遺構の損傷を必要最小限に止める利点がある。

 森山氏は、接状剥離そして型取りによる離状剥離等の保存処理を総称して造形保存と呼称しており、その三要素のなかに恒久処理による長期保存および展示の可能性を示している。これまでの保存が保存のための保存、すなわち受け身的な保存であったのに対し、その搬出・搬入の簡便性からみても社会教育的立場に立ったさまざまな利用への可能性を示唆されている。このような理念からすれば、今回の剥離採取は接状剥離の長所を十二分かつ効果的に応用できたものと思われる。剥離資料は、Cトレンチの南北両壁面から二枚づつ採取し、北壁の一面を展示に使用した。大きさは、北壁が高さ1.9mx幅2.7m二枚で、南壁が高さ2・1mx幅1・9mと高さ2・1mx幅3・8mで採取した。以下、展示にいたるまでの作業手順を簡単に紹介する。


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4.アクセサリー処理

  剥離資料の身元保証となる重要なことで、遺跡名・所在地・標高など、できるだけ詳し く記載する。 今回は、展示処理の関係で、標高だけを記載した

5.表面処理(剥離)

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 貝層の上部から巻き込むように下に剥離してゆく。搬出に便利なように、芯に円筒型をⅡON                 剥 離 使う場合もある。 剥離後、現地から展示を行なう博物館へ搬出する。

6.洗浄の作業

 洗浄は、反応を示さない異物、すなわち、接着していないものを全部洗い流し、ブラシなどで充分に落とじてしまう作業である。そして、一週間程日陰で乾燥した。

7.恒久処理

 これは、全体の整形や表面に保護膜としての処理を施す作業で、湿った色感なども再生することができる。以上で、剥離作業の全行程は終了した。(参考文献 森山哲和「保存科学一道形保存の方法と意味-」1982)

Ⅵ 具層断面の展示

 最後に、博物館における貝層断面の展示方法とその位置付けについて簡単に触れてみたい。

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 展示には、Cトレンチ北側壁面から採取したものを使用した。これは、この資料の貝層面に土器、獣骨、魚骨、貝輪、骨格器のヤス等の遺物が豊富に含まれており、採取した4枚のうち情報量としてもっとも豊富であったことが第一の理由にある。

 大きさは、高さ1.9mx幅2.7mで、板材で裏打ちし、展示室壁面に立てかけられるよう安定性を考慮し補強枠に取り付けた。展示方法は、資料をより生の形で表現するため、資料表面には一切解説は施さず、説明は解説パネルと貝層の模式図によって補った。これにより、貝層断面がより臨場感のあるものになったのではないかと考えている。

 展示室における位置付けは、通史展示の原始のコーナーに属し、「貝塚と人々のくらし」というテーマのなかに位置付けられている。展示の意図は、貝層断面の前に貝塚出土の縄文土器や土偶を展示し、土器の年代との対比により貝塚の形成過程を、また貝層内に含まれるさまざまな資料から、上高津貝塚に住んだ縄文時代の人々の生活の様子と貝塚の性格を表現しようというところにある。