ブルーノ・タウトと建築作品

ブルーノ・タウトと建築作品

田中辰明

▶︎タウトの修業時代

 第1次世界大戦後ナチスドイツの迫害をのがれ、亡命のようなかたちで来日した建築家ブルーノ・タウト。富士山を褒め、桂離宮や伊勢神宮など、日本の実に関する著作を通じて日本文化を世界に紹介した。反面、その人生と作品にほ、世間に公表されていない一面も残されている。筆者はドイツのブルーノ・タウトの建築作品をすべて取材し、子孫や関係者を訪ね歩いた。その証言や資料を基に、知られざるタウトの一面に光を当てたい」考えたためである。

 

 ブルーノ・タウトは1880年5月4日ケーニヒスブルグ(当時の東プロイセンの州都、現在はロシア領カリニングラード)で生を享(う)け、当地の建築工芸字校を190121歳に卒業している。その後ハンブルク、ヴィースパーデン、ベルリンの設計事務所で修業を重ね、1904年24歳シュトウットガルト建築家テオドール・フィッシャー(1862~1938)の助手となる。フィッシャーはシュトゥットガルト工科大学の教授で、現在のミュンヘンの都市計画に大きな影響を与えた建築家としても名高い。フィッシャーの下で理論と実務を学んだことば、タウトの建築設計に大きな影響を与えた。

■ドイツ表現主義の旗手 

 助手となってすぐさま、イエーナ大学の設計に従事した。その2年後の1906年26歳には、シュトクツトガルトの郊外、ウンターレキンンゲンで村教会の改修工事を担当している。この教会はカトリックの教会であったが、プロテスクントに改宗したもので、内部にプロテスクント教会にはないはずの装飾が残っている。

 筆者がウンターレキシンデンの教会を訪問した日は、あいにく前夜から垂れこめていた厚い雲が冷たい細雨に変わったところであったが、内部に入ると、他の教会とは異なる強烈な印象を受けた。牧師の説明によると、教会信者席は当時の牧師とタウトが協議して、男女同じ数の椅子を並べたそうである。教会にはパイプオルガンが必需品であるが、タウトはこの音響効果にまで配慮したという。教会の祭壇はカトリック教会の名残で派手に装飾されていたが、その裏に回ってみると、「B.T.1906」と刻印してあった。フィッシャーの助手という立場であったが、実際に仕事をしたのはタウトであり、あえて刻印したのは自信の表れだろう。この時タウトほ26歳。大恋愛の末、ベルリンの北50kmにあるコリーンの鍛冶屋の娘へードヴィック・ヴォルガストと結婚した年である。このような時には仕事にも力が入るものである。教会には貴族が座る席があり、ここにも華やかな絵が描かれていた。

 

 1909年29歳に独立し、翌年、北ドイツの村ニーデンで、やはりプロテスクント教会の改修を行っている。牧師は常駐しておらず、月に一度、巡回に来る教会である。内部はとてもプロテスクント教会とは思えない装飾が施されており、天使が信者席の上に舞い、説教壇も派手である。ここにほタウトのサインばなかったが、天井を見上げると工事関係者の名前が記されており、その中にタウトの名前を見つけることができた。

 1913年、ライプチッヒで開催された国際建築博覧会において「鉄の記念塔」を発表し、一躍有名になる。さらに1914年、ドイツ・ヴェルクブント(工作連盟)が主催したケルンの展覧会で「ガラスの家」を発表し、タウトの名は世界的なものになった。この作品に対しタウトに多大な影響を与えた人物がいた。パウル・シューアバルト(1863~1915)である。タウトより17歳年上の詩人て小説も書いた。タウトーと同じくカントを尊敬していたシューアバルトは「ガラス建築」1914」を著しており、タウトばその影響で強く受けたと述べている。一方、シューアバルトが同書を執筆する際の建築に関する助言は、タウトが行っていた。

 1919年に「都市の冠」、『アルプス建築」を出版し、ドイツ表現主義の旗手として認められるようになったが、タウトほど建築を芸術としてとらえ、そこに哲学を持ち込んだ建築家はいないであろう。「アルプス建築』ではとても実現できないようなような建築の理想を夢み、イタリア湖畔の山頂に立つガラスの建築を描いた。ここには、「欧州には明るさがある。アジアには色彩豊かな夜のなかに、それ以上の明るさがある」と記しており、当時からタウトがアジアに関心を示していたことがわかる。

▶︎集合住宅にみるデザイン

 1913~16年、ベルリンのファルケンベルクに「田園郡市ファルケンべルク」と呼ばれる住宅団地を設計した。ここでば共同生活に関して新しく、住民による農作業や手工業のほか、相互扶助の活動も提案している。また、建物それぞれに異なる色彩を施した。単調・画一的になることを避けたのである。この団地ほ2008年ユネスコの世界文化遺産に発録された。

 ほぼ同じ時期にザクセンアンハルト州の州都マクデブルクでリフォルム(reform)革新という「プロジェクトに基づく集合住宅団地も設計している。作風はベルリンのファルケンべルクと類似しており、黄土色、あずき色に着色されたものがおおい。

 1920年、タウトはマクデブルク市建築課長になると、住宅のみならず、マクデブルク市庁舎なと市の建築物にも多彩な彩色を施した。それは文豪ゲーテ(1749~1852)の『色彩論』を研究した成果でもある。市庁舎ば戦禍を受け、後に復元されたが、彩色は復元されていない。そのほか、この時代にば大スパンの体育館など、一見タウトの作品とは見えないような公共建築も手掛けている。

 公務のかたわら、自らの建築思想の深化を図るため、著作にも励んだ。1920年『都市の解体」を発表、さらに季刊建築雑誌『Frulicht」(曙光の意)を発行し、世界的に信奉者を得た。この建築雑誌に「全ての建築に色彩を!」という色彩宣言を掲げている。

 当時のドイツは第1次世界大戟で敗戦国となり、払いきれない賠償金を突き付けられていた。この支払いのために大都市でほ大工場が稼働し、労働者が集まってきていた。

フリッツの馬蹄形住宅の内側庭園に

 しかし労働者の暮らしは厳しく、その住宅は「監獄」と形容されるほど粗末なものであった。1924年ベルリンに戻り、市の住宅供給公社の主任技師になると、タウトは労働者のための集合住宅を多数建設した。1920年代にタウ卜が建設した集合住宅は1万2000戸に上る。いずれも、労働者の健康を守るため、採光や通風、隣棟との間隔の確保などを配慮した。また彩色には、揮発性有合化合物を含んでいない無機塗料を徹底して使用した。健康に生活できる住宅を労働者に提供することは、タウトの使命であったのである。

 

 フリッツの馬蹄形住宅の内側庭園にはタウトの顧彰碑も設けられた

 これらタウト設計の集合住宅のうち、ブリッツの馬蹄形住宅とシラー公園の集合住宅、カール・レギーンの集合住宅が現在、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。市ファルケンべルクを含めるとブルーノ・タウトが設計した4つの住宅団地がユネスコの世界文化遺産に登録された

 ユネスコの世界文化遺産登録は受けていないが、筆者が好きな住宅団地に「森の住宅団地オンケル・トムズ・ヒュッテ」がある。ベルリンの地下鉄3号線グルメランナ行きに乗り、終点のひとつ手前の駅オンケル・トムズ・ヒュッテで下車すると、目の前に同地が広がっている。地下鉄の駅構内にはいろいろな商店が連なっているが、これば、タウトが団地内に商店を設けさせず、駅構内に集中させたためである。

 まさに駅中商店街のばLりである。地下鉄の線踊を挟み、北側と南側に団地が整然と、緑豊かに、歴史を感じさせるたたずJまいを口試しており、しばし立ち去りがたい思いに囚われる。部会にあっても田園生活を満喫できるようにとのタウトの配寝から、団地内に松や白樺、そして庭には芝生が植えられた。前面のカーブする道に沿ってゆるやかに弧を描ノ1集合住宅もある。こ二の団地で一番早く建てられた集合住宅ほ、緑色に着色されている〔) 1927年建設という住宅を訪㌧ね、Jカるご家庭の一円部を案内していただい八㌧古い橿拘である二とを感じさせJノかいはと、居間ばーまさに現在の住宅展示場のモデルルームのごとく清掃が行、き届き、整然-こしていた。ドイツ婦人の掃除好きは有名であるが、これには脱帽である「一 北側の団地の一部に窓なとを非常に色鮮やかに塗装した地区がろる。二こをオーム地区(ハハガイフィアテいニーこ呼んでいる〔し住人が窓辺を飾り、都会(り中での森の生活を楽Lんでいる様子が伝わってノ\るじこの団地の片隅にタウートの顕彰碑が建っている。そこにばタウトの桂歴と共にタウトが好んで使った「建築とば釣り合いの芸術了カる」という言葉が刻Jまれている。 タウトは「宇宙の森羅万象はすぺて互いに一定の拘り合いを保っているのである。Lかし特に建築について、もっぱら釣り合いという概念が問いられているのほ何故で・弟ろうか。二の概念が諸他の部門にも巧いられるのば、いわば建築家からの借用に他ならない。釣り合いの概念ほ特に建築と不可分の関係にある。我々ほ宇宙を=■世界建築』と称し、また宇宙の『構成一「 国家の『構造』、音楽ヤ文学めるいば造形芸術等の『情成(」一㍗ムとという言葉を使う。これらの表現ば明らかに、釣り合いを指しているのである。ある建築物の美しさをLチ1整った国家秩序に例67シラー公園の集合住宅。オランダ旅行に見聞きしたオランダ建築の影響が見られる。

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半地下雲に、居間と社交室を設けようとLてタウトに設計を依顕した。クウトは、日本的な素材を使い、桂離宮に通じる様式美を実現しょうとしていた。クウト自身の言葉によれば、「全体として明快厳密で、ピンポン重(あるいほ舞踏雲、洋風のモダンな居間、日本座敷及び日本風のヴュラングを、一列に並べた配置ばすぐれた階調を示している」という。依頼に当たってほ、利兵衛ばわざわざ上多賀に民家を借り、タウトと伴侶エリカの居とした。夫妻ば19ララ年9月9日までここを仕事場兼任まいとし、設計業務に専・念した〔−トル コでの作品 しかし大好きであった日本でもユダヤ人説が流されたり、特高に付きJまとわれたりL、やがて憂鬱な日を過ごすLようにJバ甘る。そこにトルコのイスタンブール芸術アカデミーより教授の口がかかり19う6年10月8日、決心亭を発ち、同月日日、関釜連絡船で離日する。トルコでは新生トルコ共和国の指導者アタチュルタ大統領に重用され、トルコ文科省建築研究主任を兼務し、重要なプロジェクトに参加する{−特に首都をイスタンブールからアンカラへ遷すため、アンカラ大学、高等学校、中学校なとの設計を行った。しかしタウトに全面的に仕事を任せ、タウトも信頼していたアクチュルク大統領が、19う8年11月10日に急死、タウトば葬儀場の設計を依萌されたが、過労にLムり脳溢血を起二し、尊敬するアタチュルク大統領を追うかのごとく、同年12月24日、東西文化の分岐占二しあるイスタンブールで生涯を閉じる。享年姻であった。今ばイスクンブールのエディルネ門国葬墓地に静かに眠っている。 世界の三大建築家というと、多くの人がコルビュジェ、ミース・ファン二丁ル・ロー・エ、フランク・ロイド‥フィトを挙げるだろう。四大建築家となるとここにグロピウスが入る。皆、長生、きをしている建築家である。業績というのほ、長生きをしないと残らないものである。西洋文化と東洋文化を併せてよく理解したクウトがもっと長生きしていたならば、さらに素晴らしい建築をトルコに残すことができたのではあるまいか。残念なことであ

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工芸作品に見る創造【偉大な日本の伝統との対話商工省工芸指導所におけるタウトドイツエ作連盟のデザイン理念と手法を伝える わが国伝統の工芸産業に科学のメスを加えて近代化を図り、輸出を振興することを目的に、1928年に仙台に設立された商工省工芸指導所は、第1部木工、第2部金工、第5部図案設計のう部からなる。弱年う月、工芸パンフレット『独乙ヴュルクブントの成立とその精神』を発行し、同じ月に来日したタウトに「商工省工芸指導所研究試作品展覧会」(東京二二撞木店)を案内したところ、9月4日に会場を訪れた。椅子や照明具、衝立、菓子鉢、灰皿、盆、傘の柄なとの展示品を見て、「間に合わせのやっつけ仕事だ。ヨーロッパ ー アメリカのスケッチ的模倣で『輸出趣味』に終始して子晃子庄いる」と酷評している。しかし、「椅子は人体と密接に関わり生活に直接関係があるので、原寸大で加回もの試作と検討を重ねた上で完成させるぺきである」といった、厳しくも傾聴すべき内容に清ちていた。 工芸指導所長・国井喜太郎の求めに応じてタウトがこの批評を明文化したのが、9月ヲ日付の文書「工芸指導所に対する諸提案」(VOrSChl仙骨宇KO慧Tsh誉shO)である。その冒頭には、要約すると「日本の材料、技術、形のすぐれた質と、近代的製作および国際的慣習・生活形式により、日本の国家はこの国の工芸に、最高の質を有する模範的作品を提示しょうとするものである」とあり、それは「ドイツ工作連明皿(Deu一scherWe善uコd、DWB)と同じ目標である」としている。国井はこの文書をもってク

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ウトを工芸指導所に招碑する了解を商工省から取り付けた。タウトは国井に「できうるかぎり、私は経験と知識を提供し、日本の近代製品が、古い偉大な日本の伝統と同格の優良品(クワリテート)にまで到達するよう最大の努力を致したいと思います」と伝えた。諸種の提案書と報告書を提出 クウトは在籍した4カ月間(19∃3年∥月11日~舛キヨ月6日)の仕事を、「仙台の工芸指導所のための私のこれまでの仕事に関する報告、昭和9年う月ヲ日付」(冒喜一ご訂rヨe君bisherigeArbei芸二言e蔓d邑一?Seコdaニとしてまとめ、仙基本計画「プログラム」の提案(書案AM≡)、仏僧々の諸提案、榔国内外の優良品の選択、㈲デザインの考え方の教育、桝デザインの実際の指導、のう項目に整理して報告している。 川は赴任して直ちに書き上げたもので、Ⅰ工業生産のための規範原型の近代的製作を行う、H特許を基礎に独自の領域を持つ、Ⅲ蒐集、宣伝、日本固有の良質品を作るための委貞会を創設する、のう項目を提案するとともに、住居、仕事、食事、休息(睡眠)に関わる近代的な家具、照明具、インク壷、吸取り紙鋏、灰皿なとの根本形式を創出すること、それは自然な単純さを持つ上品な形であり、日本の伝統的優良品と同格の最高の質を有するとしている。仕事の行い方は、まず「調査研究」、「設計」、「工作」と進める。それぞれの中で批判とやり直しの繰り返しが必要、先に進んでも問題があれば前に戻りやり直す。その後、「最後の批判」、「完成」という順を踏んで進められる。 仏ほ、「斎藤、上田および鈴木の3氏と金工(ならびに漆工)工場への訪問、11月18日付」(冒uc≡三er≡etal∃wer訂雲(聖岩≡acr)∋≡eコエerreコSait呈edauコdSuHu喜、「所長の質問に答えて」 (Aコt喜rtau;ieFragedesDぎc一〇rS)、「家具のための研究作業に関する報告、12月∥日付」(冨ht冨rrOrSChuコgSarbei〓苧M蔓川∃)、「金工に関する報告、12月11日付」(Ber喜一≡岩三ieMeta…rbei言g)、「個々の工芸品のための諸提案、12月12日付」(VOrSC≡仙骨一号d訂至コStgeWerb≡eコ【iコ邑gegeコSt恥邑相∴ 「照明具、12月り日付」(「a∋Pen)、なとの文書を指す。 桝は、国内外の優良品生産会社の商品カクログや参考資料の収集、あるいは東京や関西、盛岡に出張した際に収集した伝統工芸の優良品を意味する。 ㈲は、離任を前にしてう月う日に所口月に対して行った講演「質の問題」で語られた「材料の正しい選択と配合と処理および用の充足」についてなとがある。 例のデザインの実際の指導については、次の項目で詳述したい。

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規範原型研究チームを結成「工業生産のための規範原型の近代的製作」を課題としてデザインの実際を学ゝぶために、第う部図案設計に所属する若手所員たちは、第1部木エと第2部金工という工芸指導所の組織に対応する2つの規範原型(優良定型)研究チームを作り、クウトの指導を受けた。一方は木工関係の剣持勇たちのチームで、仕事の行い方の手順を踏みながら、仕事用椅子のデザインに着手した。これらの椅子ば日本人の体型に合わせてデザインしたところに意味がある。すでに工芸指導所では、タウト来所前から仙台市内の人々を計測することによって成人の平均身長を割り出していた。また、タウトの指導を受けて、背もたれや肘、座面の高さ、傾きを変えることのできる実験椅子を開発し、計測を行った。こうして人体に即した量産できる木製椅子の原型を作り出す努力がなされ、クイブA、Bの2種が誕生したが、それはクウトの離任直後であった。木製仕事用頼子タイプB 金工関係の規範原型に関する研究は、クウトの12月12日付の文書「照明具」(「a∃Peコ)に基礎を置く。照明具を卓上、吊り、壁、天井、床上、足元、ネオン、古日本型の8つに分類し、それぞれに単純型から複椎型まであることを説明したもので、そこにほそれぞれの単純型の照明具の図が1図添えÅて一「タ百 朋  ¢   タ0月百E▲pCBムn魔u冨『』奇△⊥⑳一畠㊤2富『篭晋弓冒㊧王0鋼郡が目⑥‘簡鞄冒㊥S百)‘⑥丁攣製仕事用椅子模式図タイプA、タイプB『国際建築』11巻1号、2号(国際建築協会、1935年)照明器具分類表「卓上照明器具の規範原型製作研究-その基礎的寸法に関する一面舶考察」『工芸ニュース』3巷8号(商工省工芸指導所、1934年)

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卓上照明具最初の試作品モデル 「1・A‥1」「卓上照明器具の規範原型製作研究 − その基礎的寸法に関する一面的考察」『エ芸ニュース上3巻8号(商工省工芸指導所、1934年)◎独立行政法人産業技術総合研究所東北センター謝 将てみょう。床上スタンドランプについての原文を見ると、「1・Aのような単純な照明具、竹製も」(A」亘ache wニこA.auchv∃Ba∃bus)とあ=ノ、さらに古日本型照明具については、「それらが近代的な形態の発展のために適切な限りで1提灯、床られている。その文書を所呂ハの安田三見らが「照明器具分類表」として順序を少し変えて図解し、クウトの指導を受けながら、仕事の行い方の手順に従って実験や試作研究を重ね、卓上照明具モデル「1・A−1」を完成させた。その素材は、脚上照明具、壁照明具、移動照明具、ゆらゆら動く照明具なと」(s呈eニSi:亘HU〓コtW蔓uコg∃Ode⊇eこOr∃eコe一gコeコ∵「a一e⊇eコ、S一a仙aヨPeコ.Waコd【当Peコ.」ra旦a∋Peコ.「aC蔓≡.S≠)と記している。クウ再制作した一幸上竹製電気スタント所蔵‥少林山達磨寺描影‥益永研司 \」台は其鎗にクロムメッキ、笠はバーチメントで皮縁である。仙台から高崎へ!照明具に見る竹への関心と古日本型トが仙台時代に竹製の照明具や日本伝統の照明具のデザインを具体的に構想していたと推察される。 クウトは高崎で日本の素材で照明具を デザインするチャンスを得た。井上工房での仕事の記録である日記「井上のための仕事」(gesコ星Heコ‥Arbe芸二≡e二∵入ると、 タウトが「照明具」(「a∃Peコ)に記した竹への言及を見

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タウトのデザインを理解するために16日は床上照明具・反射鏡、17日は床上照明具・移動式、19日は天井照明具(奈良と命名)、29日は卓上・夜間用照明具を、いずれも原寸ないし1/2で精力的に製図している。その延長線で誕生したのが、一本の竹で台と支柱とシェードを作り上げる、新機軸の卓上ランプであった。また、熱海の旧日向別邸のためにデザインした行灯型照明具は、木と漆と和紙を用いでおり、まったく和風でありながら持ち運びしやすいよう工夫を凝らし、また火袋を上げ下げできる(囲炉裡の自在鈎の原理を活用している)ところが機能的、合理的である。「近代的な形態の発展のために適切な限りで」という条件を満たすとともに、全体を優美に纏めているところがタウトらしいといえる。 旧日向別邸の行灯刑工照明具 所蔵=熱海市 国立工芸指導所でクウトの指導を受けで作られた木製仕事椅子や金属製卓上照明具、クウトが自らデザインした金属製ドアハンドルと、井上工房および群馬県工芸所でタウトがデザインした照明具や傘の柄、ボクン、ぺーパーナイフ、バックル、小箱、小皿、吸取り紙鋏、椅子なとの多種多様な生括用工芸品は、生活具のデザインという点では同じ範疇に入るが、一瞥したところでは異なった印象を受ける。仙台でなされたことは、インダストリアルデザインのための手本となる模範的試作品を創造するための指導であったが、高崎では、地場産業のための自らのデザインであり、その実作に対する指導を行いながら販売に供したのであった。したがって使われた素材は、仙台では木材も含めて工業生産のための材料、高崎では地場産業のための自然材が主であった。 さて、実はクウトが国立工芸指導所に対して最初に提言した9月う日付文書の冒頭の文章(要約であるが)「日本の材料、技術、形のすぐれた質と、近代的製作および国際的慣習・生活形式により、日本国家はこの国のエ芸に、最高の質を有する模範的作品を捏示しょうとするものである」は、文中の、「日本の」を「高崎の」ないし「群馬の」に

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置き換えると、「高崎人群馬)の材料、技術、形のすぐれた質と、近代的製作および国際的慣習・生活形式により、井上工房(群馬県工芸所)はこの地域の工芸に、最高の質を有する模範的作品を提示しょうとするものである」となり、それは「井上工房」および「群馬県工芸所」でクウトがやろうとしたことの表明になる。その結果として誕生したのが本書を彩る種々の工芸品である。

 タウトはその土地の材料、技術、感性を生かしてその土地に生きる人々の現代の生活にふさわしいデザインを考案したのであり、それはとの国との地域にあっても成り立つ創造の哲学であり、私たちの時代にも通用するデザインや設計のあり方である。クウトは仙台でも高崎でも一貫していたのだ。 そしてそれらの課題を統合してデザインを纏め上げたのは、クウトの繊細な感性である。そのことば、仙台時代に工芸指導所貞を指導して生み出した木製仕事椅子も卓上照明具も、⊥良いプロポーションを持ち、優美な曲線を生かしながら全体を品よく纏めていることからも分かる。

 井上工房および群馬県工芸所での木工、漆工、竹工なとの諸工芸品も、優美なカーブあるいは手触り感のある可愛らしい曲線を伴った自然な形となっていて、私たちの感性を満足させる。理性と感性の有機的結合がクウトの作品の特性である。

■タウトと私

 私は苦難の道を選んで歩んだタクトとアメリカに渡って老年を過したグロピウスをくらべて、タクトの生き方をほんとうだと思う。ぅこともなかった。訳者として篠田氏が私のために曲筆されたのでほない。私はもともと田舎育ちの田舎者であり、学業を身につけたこともなく、タウトに接することになったのも、たまたまこの辺取の地がこの巨人の流離の仮寓となったとき、群馬県での仕事が私を必要とする性質のものであった、という関トルコに行く前に立ち寄ったハルビンから、水原に送られてきた手洗に添えられていた。

ケーキナイフ、フォークセットのデッサン。1936年10月27日の日付がある。所意‥群馬県立歴史博物館

 タウトと私

 私にとってタウトは特別な人である。私にはこの恩師を客観的に考えることは不可能である。それでも敢て冷静に対するために「タウト」と敬称もなしにこの雑稿を記してみた。まことに書きにくくて困った。『タウトの日記』を見る人は、日記に記されている私の名を記憶するだろうと思う。そして、篠田英雄氏の後記によって、訳者篠田氏と私の関係を考慮されるかも知れない。私が篠田英雄氏を知ったのはタウトの死後であって、少林山でタウトの一周忌を共にしたのが初めてのこと、その折には親しく語り合係に過ぎない。

 私はこの機会にドイツ語を覚えようと初歩の本など勉強して、タウトにドイツ語で話そうとしたものである。ところが、それではドイツ語の欠点ばかりを指摘されて少しも仕事のことが進行しない。タウトは極めて厳正だから、発音から繰返し正される。英語の場合には、通じればよい。日本語の単語が便利ならそれも使う、フランス語でもドイツ語でもかまわない自由に交えて話す、そして次第に一種の特殊な会話で通じるようになった。最も不自由をしたのは中国古典についての会話、その人名であった。特に禅宗の話はどうにも手のつけようがなかった。自分でほ読めない漢文などは、家に帰って父にたザノね、辞書をひいて英訳し、それを持って少林山に行った。

タウトが高崎を去る日、肌で見送る人々。手前左の繋の長い男性は、文中にも豊書する水原徳言の父、水原億円。所克∥少林山達磨

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 私はタウトが日記を書いていることは承知しており、その一部が篠田英雄氏の訳で雑誌にのせられると、裏日本紀行や雪の秋田などタウトから見せられた。また、日記を和本のように仕立てたのも、私が高崎に持ち帰ってそのように作ったものである。けれども、そのドイツ語の日記を読んだことはなく、正直のところ、私についても記されているにちがいないと思ったから、どんなことが書いてあるのか、少し恐ろしい気持はあった。タウ:卜の遠慮のない、時にはどんな親しい人に対しても痛烈な批判の筆を示すやり方をよく知っていた。 自分の承知している事実が必ずしも正しくタウトに理解されていない場合があると、それに対して説明不足だった悔が残る。前提となる日常の慣習がちがう上に、何といっても言葉が不自由なのだから、誤解や地軸覚は避けられない。それを承知で読んでくれる人を期待する他はないが、それにも限界があろう。訳者の篠田氏の話によれば、あまりひどいと思われることは除いたところもあるとのことであり、当事者にできるだけ連絡をとって註の形で記し、曲解のまま終らぬ配慮がされてある。 タウトは日本をなるべく短い間に、誤りなく知り尽そうといふ焼烈な欲求を持ち続けて、周囲の人に機会あるごとに質問した。それが京都や東京、仙台などの場合では、容易にそれぞれ権威ある信頼できる情報知識を得られる人があった。ところが少林山ではそういう者は得られない。 例えば、井上さんが持参した骨董の膨大なヰ元立目録から必要と思われるぺージを切りとり、ローマ字読みに改めさせて読む。タウトは自分の目をそうやって鍛え、たしかめていた。さらに、私が少林山に行った時に疑問の点を問いかけた。しかし、この方法で正しい鑑識を得ようとするのはまことに危険である。欧米ならばこの種のカタログで商品の作者名が危しいまま記載されることはないが、残念ながら日本には美術鑑定の慣習はなかった。それがタウトを誤らしめる。 父が古美術に接していたので、私は少年時代から、+口書画にいかに贋作が多いものかもよく知っていたが、少林山に集った学生たちは、日本の古画など全く興味もなく知識もないから、私が説明しなくてはならなかった。勿論私に真贋がわかったなどというつもりはない。しかしタウトの少林山生活では、私を頼りとし

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1936年10月8日、高特を去るタウトとエリカごJの後、一塁見、京都を#て、下内港から建築の仕事が待っているトルコへと10月15日に旅立った。所麓‖少♯山達磨寺要な者となり、それ故にまた好意を得たのは当然なのである。 浮世絵について私などに特別な鑑識眼がある筈はないのだが、早くから必要があってその模写など試みたこともあり、従って単なる解説をらノのみにするのではなくて、{目分の目で選んだ好みがはっきりしていた。タクトは何よりも概念で目己の判断を含まずに語ることを嫌う、嫌うというよりも憎むといらノベきだろろノか。タウ:トは、ほんとうに自分の目で評価していない通説や、概念での発言を認めなかった。て、あるいはそれが疑わしい場合には私が父に問い質して答える、それがこの僻阪の生活にとって唯一つの道なのであった。それらがタウトにとって最も重要な関心事になってくると、その意味で私がタクトにとって必何時でもタウトの見方と一致したものばかりだったというわけではない。たとえば日記には記されていないが、後期印象派の絵画について、タウトがアンリ・ルソーを極端に高く評価することに対して、セザンヌよりもそれを重く見ることはできないと

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いって頑として反対した覚えがある。そんな場合にタクトは残念そうな面持は示したけれども、それだからといって私に押しっけようとはしなかった。 桂離宮の小堀遠州論が代表的なものであるが、タウトが主張し、書き残していることの中には、その情報をどこから得たかということ、それを伝えた人の責任がまことに重要になる。そのための誤りが明白に指摘される場合は少くない(遠州の桂離宮作者説はそうした真偽の問題とは別で、建築家のあるべき姿についてのタウトの念願を見なくてはなるまい)。 ことばも文字もわからず、しかも日本文化の探究の意欲は極めて盛んであり、その著作は後世まで残されることになる。その情熱源として、唯一の頼りとされて、期待されている。タウトの前に私はそういう立場にあった。 これに応えようと私は古い版の平凡社の世界美術全集などを少林山から帰っては読みあさったものであり、美術に限らず日本のあるべき姿というような大きな課題についても、苦しみ追求しようとした。 次第にタクトの周辺に人が少くなり、しかもタウトの日本研究はむしろ踪合的に高度になって行く。そして誰も相手のないところで、私ひとりを窓口として日本を理解しょうとする質問が投げかけられる。 タウトの大きさがわかり、またその考えが重要な意味を持つことがわかってくれば、その前にひとりで対さねばならぬ自分の耐え難い責任のようなものを自覚せずにはいられない。しかも少しの嘘も許さザノ、少しの飾りも、また借り物の説明も認められないところに追いこまれたらどうなるか。 そうして苦しんだ私の姿が「クウ:卜の日記」に投影されているのだと見ていただきたし洗心事でくつろぐエリカ所兼∵看破書店