古墳時代の武器研究

武器の変遷が物語るもの古墳時代の武器研究

田中晋作 

▶︎武器がもつ宿命

 殺我と破壊の道具でしかない武器は、なんら生産性をもつものではないが、人間の性なのだろうか、いつの時代にも人は「武器=力」に魅了されてしまう。しかし、戦国時代や先の大戦でもそうであったように、必要とあれば計り知れない量の武器が製造されるにもかかわらず、後の世までそれらの武器が姿をとどめることはきわめてまれである。機能更新によって古くなった武器は、地金などとして回収され、姿を変えて再生されていくことが運命づけられているからである。

 ところが、これにあてはまらないのが古墳時代の武器である。古墳時代は、武器をはじめさまざまな器物を古墳に副葬するという特異な習慣があった時代である。幸運というべきか、古墳時代の武器は、ほかの時代にくらべようもないくらい高い比率で現代にまでその姿をとどめている。むろん、このような特異な習慣は、日本列島だけでみられる現象ではない。程度の差こそあれ、その多くは世界各地で古代国家が姿をあらわす段階においてみられることである。

▶︎武器研究の進展

 古墳時代の武器研究は、末永先生や後藤守一先生らによって、戦前にはすでにその基礎が築かれていた。そして皮肉なことに、戦後の急激な開発にともなって調査された古墳の武器が、墳時代の武器研究を大きく進展させることになった。古市古墳群では長持山古墳、唐横山古墳、そして盾塚・鞍塚・珠金塚古墳の三古墳やアリ山古墳など、また百舌鳥古墳群では百舌鳥大塚山古墳や七観古墳などの調査である。

 当時、古市古墳群で多くの古墳の調査に携わった北野耕平氏によって、甲胃の製作技術や生産体制、さらには政治的・軍事的問題にもおよぶ、その後の武器研究の指針ともすべき論考が示されていた。これに野上丈助氏と小林謙一氏の甲胃を中心にした詳細な研究と北野氏がまとめた河内野中古墳の研究』の刊行が加わり、古墳時代の武器研究は、甲胃の研究に牽引された新たな段階への扉が開かれていた。

 武器研究の中心を占めた甲冑は、古市古墳群ではこの三古墳以外に、誉田丸山古墳・野中古墳(図25)・藤の森古墳・長持山古墳・唐横山古墳で出土していた。ところが、このうち報告書が刊行されていたのは野中古墳と藤の森古墳だけで、ほかは長持山古墳などのように写真や簡略な記述によって断片的な情報を知りえたにすぎなかった。

 また、銑鉄や刀剣といった攻撃用武器の詳細を知ることができたのは、アリ山古墳と野中古墳だけで、各古墳から出土した大量の攻撃用武器は、品目と数量、または品目のみの公表にとどまっており、その情報はさらに限られたものであった。つまり、古市古墳群で出土していた武器の大部分は、空白のまま取り残されていたのである。

 古市古墳群と百舌鳥古墳群の勢力を武器の開発、生産の中心主体と想定する北野氏らの研究成果は、両古墳群から出土した武器を直接検討して導き出されたものではなく、断片的な情報と両古墳群以外の資料に立脚したものであった。この空白を埋めることを可能にしたのが、盾塚・鞍塚・珠金塚古墳から出土した武器であった。

■古墳にみる甲冑の発達

▶︎甲冑の変遷から導き出された三古墳の前後関係

 三古墳から出土した甲胃の整理は、藤田和尊(かずたか)氏と高橋工(たくみ)氏を中心にして進められた。当初から予想されていたこととはいえ、大型前方後円墳や特定物品の埋納を主眼とした陪塚(ばいちょう)でもない、とくに一辺わずか25mにすぎない珠金塚古墳から出土した(三点)と短甲(五点)を目の当たりにした時、その数量がいかに大きなものであるかをあらためて実感することになった。

陪塚は、日本の古墳時代に築造された古墳の様式。 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に付随するように築造されたとみなされるものを指す。

 盾塚古墳では、三角板革緩衝角付冑・三角板革綴短甲・長方板革綴短甲が副葬されていたことがわかった。

 このうち長方板革綴短甲は、後年、三重県石山古墳や鳥取県古郡家一号墳とともに、長方板革綴短甲のなかでもっとも古い一群に入ることが明らかになる。

 鞍塚古墳では、三角板鋲留衝角付冑(図26)三角板革綴短甲が出土した。鋲留の冑が存在したことによって、鉄板を綴じ合わせる技法が革綴から鋲留へと移行する段階に鞍塚古墳を位置づけることができるとともに、鋲留技法がまず構造の小さい胃に導入されたことが明らかになった。また、鞍塚古墳珠金塚古墳南槨三角板鋲留衝角付冑が確認できたことで、当時三角板革綴衝角付冑から三角板鋲留街角付冑への移行を疑問視していた考えを修正することにもなった。

 珠金塚古墳南槨では、三角板鋲留街角付冑・小札鋲留街角付冑(二点、図27)と三角板革綴短甲(二点)・三角板鋲留短甲(図28上)革綴短甲が出土し、では、三角板鋲留短甲図28下)が出土した。これらの甲冑の構成から、三角形の鉄板を使用した鋲留衝角付冑以外に、珠金塚古墳南榔の段階で小札鋲留街角付冑という長さ5㎝前後の小さな長方形の鉄板を上下二段に使用した冑が新たに考案されていたこと、さらに短甲にも鋲留技法が導入されたことが判明した

 一方、百舌鳥古墳群の七観古墳では、長さ十数㎝程度の細長い鉄板を鋲で綴じ合わせた竪矧(たてはぎ)細板鋲留街角付冑と、三角板平行四辺形板併用草綴短甲の出土が知られていた。甲胃の変化の時間幅をどの程度にみるかという問題もあるが、珠金塚古墳南の前に七観古墳が築造されたことが予想され、三角板革綴街角付冑→三角板鋲留衝角付冑→竪矧紳板鋲留街角付冑→小札鋲留衝角付冑という、革綴街角付冑から鋲留衝角付冑への流れが整理できた。これらの成果によって、盾塚古墳→鞍塚古墳→珠金塚古墳という築造順序が考えられた。

 また、中期の冑には、既述したように、前頭部が尖頭形のつくりになる衝角付冑以外に、半球状の眉庇付冑という形状の異なる冑が存在する。野中古墳で出土している小さな長方形の鉄板を上下二段に使用した小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)が、古市古墳群ではもっとも時期がさかのぼるものである。事例は限られているが、滋賀県新開(しんがい)一号墳などで出土している長さ十数㎝程度の細長い鉄板を鋲で綴じ合わせた竪矧細板鋲留眉庇付冑(たてはぎほそいたびょうどめまびさしつきかぶと)がその前の段階に位置づけられており、七観古墳や珠金塚古墳南槨と野中古墳の間の時期に出現している可能性が想定された

▶︎小型三角板革操短甲から三角板鋲留短甲への流れ

 整理作業に入ってからのことになるが、古市古墳群のなかで築造時期がもっともさかのぼる大型前方後円墳、津堂城山古墳の副葬品のなかに、三角牧草綴短甲に使用された一辺数㎝の三角形の鉄板の破片が含まれていることが報告された。これらの鉄板は、盾塚古墳の三角板革綴短甲に使用されていた鉄板よりも小さいもので、滋賀県大塚越古墳(大塚古墳)などの出土事例によって、中期の短甲の初源期に位置づけられていたものである。古市古墳群では、盾塚古墳の三角板革綴短甲より前に、津堂城山古墳の小型三角板革綴短甲が存在することが明らかになった。

 このように古市古墳群で、中期の甲冑が出現する津堂城山古墳から鋲留短甲が一般化する野中古填までの甲胃の変遷を具体的な資料をもって示すことができるようになった(図29)。同時に、鉄板を綴じ合わせる技法が革綴から鋲留へ、小さな鉄板を多く使用する短甲から、より大きな鉄板を使用することによって防御性を高めるとともに、使用枚数を減らして製作の省力化を図るという、甲冑製作における基本的な変化の道筋を具体的にたどることもできるようになった。現在の甲冑に関する研究は、整理作業段階からするとはるかに高い水準にあるが、三古墳四施設から出土した甲冑が、それぞれ一定の重複期間をもちながら、よどみなく流れるように描き出す機能向上の軌跡はまさに圧巻であった。

 そして、北野氏が埋葬施設に視点をおいて想定した盾塚古墳→珠金塚古墳→鞍塚古墳という築造順序は、盾塚古墳→鞍塚古墳→珠金塚古墳南槨→北槨になる可能性が高まったのである。

▶︎甲冑の多様な付属具

 これに加え、三古墳の甲冑が多様な付属具を備えていたことが明らかになったことも大きな成果であった。錣(しころ)と頸甲(あかべよろい)や肩甲については、早い段階に出現することが指摘されていた。付属具の存在が不明な津堂城山古墳をのぞくと、これにつづく盾塚古墳では錣と頸甲肩甲、頬当が、さらに鞍塚古墳では脇当が加わる。また、珠金塚古墳南棟では頸甲と肩甲がみられた。このような多様な付属具が、中期の甲冑の出現間もない盾塚古墳の段階でほぼ完備されていたことは注目すべき現象であった。これに加え、甲冑本体だけではなく、付属具それぞれにおいても機能向上の跡が認められた。

 盾塚古墳で出土した胸背部上半部全体を覆う横長長方形の頸甲(あかべよろい)から可動性を重視した鞍塚古墳や珠金塚古墳南で出土した逆台形の頸甲への変図30)、また同様に、盾塚古墳で出土した一枚の幅の広い錣から鞍塚古墳や珠金塚古墳南で出土した幅の狭い複数の鉄板を使用した可動性の高い錣(しころ)への変化などである。このことは、甲胃が実用武器として使用された、または使用することを目的として製作されていたことを示している。

▶︎古市古墳群の勢力が生み出した武器

 攻撃用武器については、前期から中期への移行にともなって、剣から刀へ比重が移るとともに長伸化し、ヤリから鉾へ、さらに小型の鉄鏃から大型の鉄鏃へといった変化が生じることは早くから指摘されていた。しかし、古市古墳群では、攻撃用武器の詳細は、既述したように、アリ山古墳と野中古墳以外では知られていなかった。ここでも、三古墳四施設の攻撃用武器は、とくに銑鏃が、甲冑同様、津堂城山古墳と野中古墳の間に残されていた空白部分を埋める大きな役割を果たすことになつた。

▶︎多数形式少量副葬から少数形式多量副葬へ

 古墳時代における主要な攻撃用武器は、刀や剣、ヤリや鉾(ほこ)、そして弓矢である。これらの武器のうち直接手にもって使用する刀や剣、ヤリや鉾、また弓は、特定個人のために製作されたとみられるものをのぞくと、その大きさや形状、重さは、使用方法や使用者の平均的な体型、腕力などから強い制約を受ける。使用方法の変化、戦術や戦闘方法の転換が生じないかぎり、大きさや形状、重さはおのずと一定の枠内におさまることになる。

 一方、矢は、矢柄には刀剣などと同様の制約がかかるが、装着される鉄鏃本体にかかる制約は、他の攻撃用武器にくらべ緩やかなものである。銑鏃には、その殺傷力や命中率、また飛距離といった基本的な機能の向上を図る余地が、他の攻撃用武器にくらべより多く残されている。つまり、その多様な形状から鉄鏃それぞれに求められた機能を探ることができるのである。

 古墳時代中期に入って、は多数形式少量副葬から少数形式多量副葬へ転換するという大きな流れが指摘されていた。三古墳四施設の鉄鏃が明らかにをるまでは、アリ山古墳で鏃身(ぞくしん)の幅がひろい大型で重厚な平根系鉄鏃が主体を占める少数形式多量副葬へと変化していることが知られていた。

▶︎甲胃の変遷と軌を一にする鉄鉱

 さて、三古墳四施設からは多数の銑鏃が出土した。整理作業で確認できた本数は、盾塚古墳で374本、鞍塚古墳で163本以上、珠金塚古墳で137本、で76本であった。遺存状態の問題もあり、とくに鞍塚古墳では数量自体の確定ができなかった。

 盾塚古墳では他の古墳にくらべ多くの鉄鏃が副葬されていたが、形状はきわめて多様で、大型化の傾向を示しているとはいえ、その構成は多数形式少量副葬であった。ところが、鞍塚古墳では、盾塚古墳でみられたようを形状の多様性が姿を消し、限られた形状の鉄鏃による構成へと変化していることが確認でき、少数形式多量副葬の段階としてみることができた。

 報告書作成時に、古市古墳群と百舌鳥古墳群で出土した銑鉄の変化を時間軸に従って配列し作成したのが(図31)である。盾塚古墳でみられる鉄長十センチ前後の鉄嫉から、鏃長十数㎝の鞍塚古墳や珠金塚古墳でみられる鏃身が大きな重厚な鉄鏃へ、さらに珠金塚古墳北野中古墳でみられる細身で貫通力にすぐれた鉄鏃へという道筋をたどることができる。とくに、鞍塚古墳の鉄鏃のなかに、その後の細身で長伸化する鉄鏃の初源的なものが含まれていることが明らかになり、鞍塚古墳がアリ山古墳の時期を上限にして、これよりも後出である可能性が想定された。

図31●古市・百舌鳥古墳群(古墳時代中期)の鉄鏃の変遷

 さらに、珠金塚古墳南櫛の銑鉄がこれにつぎ、珠金塚古墳北棟・野中古墳で尖根系銑鉄への移行が生じ、とくに珠金塚古墳北でみられるような、長さが一気に倍以上の25㎝にまで長伸化した鉄鏃もあらわれる。この段階を経て、鏃長が15〜16㎝の定型化した尖根系鉄鍍へという、古墳時代中期の鉄鏃全体の変化の流れをつかむことができた。

 これによって、甲冑から想定された古墳の築造順位、盾塚古墳→(アリ山古墳・)鞍塚古墳→珠金塚古墳(→野中古墳)が鉄鏃でも同様に確認することができた。

▶︎甲冑と鉄鏃の相関関係

 以上のように、三古墳四施設から出土した甲冑(防御用武器)と鉄鏃(攻撃用武器)の詳細が明らかになったことで、アリ山古墳の位置づけを含め、古市古墳群の前半期、津堂城山古墳から野中古墳までの武器の変遷を描き出すことができた。この武器の流れは、農工具の流れと齟齬をきたさないことからも、大きな誤りはないと考えられた。

 さらに、百舌鳥古墳群で出土する武器が古市古墳群と補完的な関係をもって推移していることが明らかになったこと、またその出土量が古市古墳群百舌鳥古墳群以外の古墳の出土量を大きく上まわることから、中期の武器の開発、生産が両古墳群の勢力もとで一元的におこなわれていたという想定が、中期後半期をのぞいて具体的な資料をもって裏付けることができた。このことは重要な成果であった。

 しかし、その成果はこれにとどまるものではなかった。百舌鳥古墳群に属する百舌鳥大塚山古墳や七観古墳を含めて、津堂城山古墳から野中古墳までの攻撃用武器である鉄鏃と、対する防御用武器である甲胃との対比によって、鉄鏃と甲冑はそれぞれ独自の発達を遂げるのではなく、つねに表裏一体の関係をもって推移していることが明らかになった。甲冑の出現が鏃身の大型化した重厚な平根系鉄鏃への形状の統一量産化を招き、これが甲冑の生産の拡大と鋲留甲冑への移行を促すことになり、さらにこれを受けてより貫通力にすぐれた尖根系鉄鏃の導入へとつづく、両者の密接な関係を導き出すことができたのである。

▶︎実用武器の開発と生産

 また、鉄鏃の形状がその機能を反映していると考えると、アリ山古墳・鞍塚古墳以降にみられる銑鉄の形状の統一、つまり特定の機能が期待された鉄鏃の普遍化は、同時に攻撃の対象となる防御用武器の統一普遍化が進んでいたことを示していることになる。古墳から出土する甲冑の量から想定される以上に、甲冑での武装一般化していたことがうかがえるのである。

 さらに、近年の東アジア的な視点で進められている武器の研究は、とくに鉄鏃にみられる形状の変化は、朝鮮半島の鉄鏃と軌を一にして起こつていることが指摘されており、三古墳四施設を含む古市古墳群と百舌鳥古墳群の武器の変化が、朝鮮半島情勢と密接な関係をもって推移していることが明らかになってきた。中期に入り、機能向上による変化を繰り返し、あわせて大量の武器が製作された背景に、朝鮮半島情勢への対応という差し迫った政治的・軍事的要因が存在していたことを具体的に検討することができる手がかりを得ることにもなった。

 以上のことは、百舌鳥古墳群の勢力とともに古市古墳群の勢力が生み出した古墳時代中期の武器は、軍事学でいう「造兵」における攻撃用武器と防御用武器の発達は、表裏一体の関係にある」という通則をあてはめることができる段階に達していたことを示している。つまり、古市古墳群と百舌鳥古墳群の勢力が生み出した武器は、既述したように、実用を第一義とした、まさに武器として開発、生産がおこなわれていたことを明らかにすることになったのである。このことは、武器の整理作業から得られたもっとも大きな成果であった。同時に、このことをもって、両古墳群の勢力が同一、ないしはきわめて親緑な関係にあったと考えることもできるようになった。

 よって、以下の記述では、両古墳群の勢力全体にかかわる内容については、古市・百舌鳥古墳群の勢力と表記することにする。