土浦の台地と低地リサーチ

1. 土浦の地形は中央が低地で、その北側と南側が台地である。

 北の新治台地は筑波山の南東部に広がり、筑波山に続く山なみ・桜川・恋瀬川・霞ケ浦に囲まれた、標高二五〜三〇メートルの台地で、土浦市の北部がそのやや西寄りにある。筑波稲敷台地は筑波山の西から霞ケ浦の南へかけて、桜川・小貝川・霞ケ浦に囲まれた、標高二〇〜四〇メートルの台地で、北部と南東部がやや高く、南西部が低い。土浦市の南部がその中央北東寄りにある。

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 これらの台地は地層の特色によって、上位台地と中位段丘の二つに分けることができる。

 上位台地は、一五〜一〇万年前 (下末吉海進期) に堆積した、成田層とよばれる海辺の砂の層を含み、中位段丘はその後(武蔵野期以降)されき成田層を削り、そこに堆積した砂礫の層が作った地形(段丘)で濁る。

 台地の表層は、関東ローム層とよばれる粘性のある火山灰土で、最下層(下末吉層) は淡水によって形成された粘土や、砂の層である常総層と混りあって見分けにくいが、その上の層(武蔵野層)は褐色でねんどやや粘土質、それに箱根・赤城などの火山からの軽石が混っている。最上層 (立川層) は橙褐色(とうかっしょく)で、富士山などからの火山灰である。この表層部分は土壌分類でいえば火山灰土に腐植土の混在する黒ポク土である。

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 桜川低地・湖岸低地は、氷河期の海退時代 (武蔵野期以降) 台地が川によって削られ、そこに泥や砂礫が堆積してできた谷底平野であり、その表層部はいわゆる沖積層にあたる。しかし、ここには薄い関東ローム層(立川層)に覆われた徴高地がみられ、これを下位段丘という。宍塚・矢作・飯田の標高五、六メートル地帯である。 三〜一万年前(立川期) に形成された段丘で、関東ローム層の下には砂礫や泥土が堆積(桜川段丘堆積物)し、この層を七号地層相当層とか下部沖積層とかよんでいる。

 そのほかの沖積低地は、土浦市内では標高一〜四メートルである。この低地には桜川および旧桜川が蛇行する所につくられた自然堤防やこうはいしっち後背湿地、後氷期の海進期から海退期へ移るとき(縄文時代)にできた砂州(さす)や砂觜(さし)、霞ケ浦への流入部にできた三角州などの跡がある。

 沖積層低地の表層部分は、土壌分類でいえば青灰〜緑灰色のグライ土で、蓮田か水田になっているが、虫掛新田付近は黒色の低位泥炭土(でいたんど)なので、この上に作土して水田にしている。

2 土浦の地質

 地下の地質は、台地は関東ローム層の下、低地は沖積層の下は、淡水や海水によって形成された泥、砂、礫などの層(水成層)である。

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 水成層の最上位の常総層は、淡水中で形成され、砂と軽石を含む火山灰質シルト(砂と粘土の中間)きおろし層をなす。その下の木下層は浅海性の砂層で、浜辺の砂も混じっている。その下の上岩橋層は、上部が海の貝化石を挟む浅海性の砂層下部が陸地化して河川が運んだと見られる砂礫の層である。次の上泉層は、上部が海中で堆積した砂層、中部が齢榔まじりの泥も砂、下部が陸化時代に堆積した砂層である。その下の薮層は、上部が貝化石を含む細粒砂層、中・下部が上泉層と同様の構造である。

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 さらにこの下には、地蔵堂層(細かな砂や中ぐらいの砂の層)があしも・フさり、ここまでの地層を下総層(しもうさ)群、その下の地層(やはり砂層)を上総(かずさ)層群とよぶ。木下層以下の地層は南西方向へと傾斜しているが、これは筑波稲敷台地の南西部が低くなっていることと関係がある。

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 これらの地質年代を総称して第四紀といい、その形成時期は常総層が五~一二万年前、木下層が一二~一五万年前、上岩橋層が「五~二〇万年前、上泉層が二〇~二五万年前、薮層が二五~三〇万年前、地蔵堂層が三〇~四〇万年前、上総層群が四〇~二〇〇万年前とみられてる。

3 氷河時代の土浦

 関東平野は現在も大きく変動している。数十キロメートルの波長を持つ変動を活曲動、十キロメートル前後より小さい変動を活褶曲(かつしゅうきよく)といい、あわせて活構造という。

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 上図は関東平野の活構造を示すもので、西部に四か所沈降部があること(造盆運動ともいう)、太平洋岸から内陸部に向かって隆起と沈降が交互に分布することがわかる。なお、新治台地は隆起筑波稲敷台地はつくば市谷田部付近を中心に沈降しているといわれる。

 地盤変動のほかに、寒暖の差による海面の上昇・下降が起こり、過去数十万年の間、水没と陸化を繰り返してきた

 下図は一二、三万年前の下末吉海進期の、海陸の状況を示したものである。いわゆる古東京湾で、その時の海岸線が現在の標高でまちまちなのは、土地の隆起と沈降が一様ではないからである

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 この後は寒冷化に向かい、ウルム氷期を迎えることになる。

 鬼怒川は栃木児の帝釈山地や日光・高原火山群を水源とするが、ウ ルム氷期には、氏家下館台地東側(現在の五行川流域)を南下し、小 貝川・桜川を合わせて霞ケ浦の地を抜け、太平洋へそそいだ。当時の 海面は現在とくらべ、探さにして100メートル以上も低かったとい われている。この結果、台地は新治と筑波稲敷の二台地に分断され、 また、桜川低地が形成された。これを古鬼怒川とよぶ。鬼怒川は、その後もいくたびか流路をかえて現代にいたっている

下の図はその流路の変遷を推定してみたものである。

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4. ウルム氷期の桜川低地

 最終氷期のウルム最盛期(三〜一万年前)に古鬼怒川の運んできた礫の層土浦礫層という。この下には礫層と泥層があり、泥層は標高八メートルの所までしかないので、武蔵野海進期(四万数千年前)のものと考えられ、桜川泥層と呼ぶ。礫層・の方は中流部で協和礫層、下流部で桜川礫層と呼ぶが、古ウルム期の古鬼怒川が運んだものか、水成層である常総層の一部か不明である。土浦礫層はこの層をきり込んで堆積している。

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 古鬼怒川の流れは、二万二、三千年前に下館付近で西に変わり土浦方面へは、今まで支流だった桜川が本流となって、流れるようになった。桜川は水量も少なく、川幅も細くなり、古鬼怒川の砂礫に代わって土砂や泥を堆積させるようになった。この土砂や泥の層は一万年前以前を下部沖積層(下大島層)一万年前以後を沖積層(北条部層・飯田層)と分ける。これを模式図化したのが上図である。

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 また、この頃の地形を示したのが上図である。上図の桜川段丘堆積物及び相当層とは下部沖積層で、その基底の等深線とは約三万年前の地形下図は沖積層の基底なので、約一万年前の地形を示す

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 これをみると、土浦市域の桜川低地はこの段階で北(真鍋台寄り)が高く南(高津台寄り)が低い。また、市街地域の砂州部分がこの頃高めで、砂州を作りやすい状況だったことがわかる。田中方面に低い部分があるが、ここは後に河道になったようである。その河道は現在は埋まっている。

5. 霞ケ浦の湖岸と湖底

 後氷期(一万年前以後)の最大の出来事は、霞ケ浦の成立であろう。約八千年前の気温が現在と同じ暗い、約六千年前には二、三度高くなって、海面も上昇した。これを縄文海進とよぶ。このため、海水が霞ケ浦・桜川を遡って湾となった。これを古鬼怒湾とよぶ。この時湾口は鹿島にもあき、神栖地区は島だったかと思われるが、その後気温が徐々に下がり、海面も低下して、鹿島の部分が陸化し、霞ケ浦は海跡湖となった。歴史時代になり、気温はまた上下するが、その変化は小さく、湖頭から次第に淡水化して、現在にいたっている。

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 上の図は、土浦市域にはさまれた、現在の霞ケ浦の湖岸と湖底の地形図である。この中で、人口掘削地形とは砂利採取によるものである。

 なお、最近湖水の富栄養化が進み、湖底にはヘドロ、湖面にはアオコが広がり、その一方では湖岸の葦やまこもをはじめとする水生植物が、めっきり減ってしまった。水資源の有効利用とそのための水質浄化が、緊急の課題とされている。