東林寺

■東林寺城(牛久市新地町)


東林寺城はその名の通り、東林寺のある低い台地上にあった。東林寺の裏手には現在でも深い空堀が残っている。幅15m、深さ10mほどもある。この空堀はかつては寺院の周囲をぐるりと巡っていたと言われるが、耕地整理のためかなりの部分、埋められてしまったらしい。

 東林寺城と言えば「東国闘戦見聞私記」には、天正年間、下総地方の城を落としまくった岡見氏の重臣栗林義長はこの寺院に葬られたという奥書がある。東林 寺の過去帳にその旨載っているというのである。栗林義長は架空の武将であったのではないかとも言われているが、過去帳に載っているのなら少なくとも実在は していたということになる。また軍記物には「足高城の岡見氏の重臣」とあるだけで、栗林義長がどこの城主であったかも記されていない。ひょっとするとこの 東林寺こそが彼の城であったのであろうか。ということを確認したくて東林寺の住職にたずねてみるために、かつてこの寺院を訪れたのであるが、残念ながら寺 の人が誰もいなくて話を聞くことはできなかった。しかし、寺の墓地に古い五輪塔を発見。これは市の史跡となっているもので、誰のものともしれないが、戦国 末期頃のものであるという。ということは栗林義長の時代とどんぴしゃりである。ひょっとすると義長の墓なのでは・・・・・と思ってしまうのであった。

 栗林義長の実在を確認したくて後日再度、東林寺を訪れたが、この時も寺の人は留守であった。というわけでまたまた確認はできなかったtが、栗林義長の ホームページを運営している人に尋ねて見たところ、東林寺の過去帳には確かに栗林義長の名が残されており、彼の実在は間違いないと言うことであった。戦記 物に載っているような大軍を率いての合戦は創作であるにしても、義長という人物そのものは実在していたと見ても良いらしい。(その後、この寺院は無住と なっているらしいことを知った。これでは住職に会えないはずだ。)

 慶長8年の「野口豊前守戦功覚書」(多賀谷の家臣)には天正16年12月28日、「うしゅく東輪寺という所」の木戸で岡見方の兵と戦ったという記事がある。

 さて、以前五郎さんに、「この城が北条番城の可能性がある」と指摘されて、いつか行こう行こうと思っていたのだが、他のノルマ(?)が大過ぎて、なかな か行けないでいた。しかし、本日は雨が降ったので、近場で済まそうと思い、ちょこっと出かけてきた。ざっと歩いたので鳥瞰図も描けたというわけ。

 鳥瞰図は東南上空から見た所。東南1,5kmには牛久城、南西1,5kmには宿敵多賀谷氏の泊崎城があった。比高12、3mほどで幅が200mほどで南 北に細長い形の台地を連郭式に区画した城である。現在、台地南端は水田造成の採土事業で削られてしまっているが、絵図などで見ると1郭はこのような形で あったらしい。古図では(か)のような南北の区画も見られるが、これは堀というよりは腰曲輪か何かであったかもしれない。あるいはただ塀があっただけであ ろうか。2郭の辺りを現在も「御城(みじょう)」と呼んでいるが、これは、本来主郭を表す言葉なので、もともとは主郭にあった名称のはずである。それとも 1,2郭を含めて御城と呼ばれていたのであろうか。

 2郭と3郭との間の堀(あ)は、現在、中央より西側の部分のみがよく残っている。しかし、薮とゴミでひどい。それでも奥に入ってみると、深さ10m、幅 12mという巨大な堀切であったことが分かる。堀切南側の土塁は高さ2m、上端の幅3mほどあって、かなりきちんとしたものである。また古図によると、こ の堀切の北側には外枡形があったらしい。以前来たときに「堀はかつて、東林寺のぐるりを取り巻いていた」と言われたのはこれのことであったのか。東林寺の あるところは、墓地が大規模に造成されているが、ここら辺りに東側の堀切はあったものと思われる。

 3郭はかなり大きく、歩測して見た所、南北に318mもあった。古図では(お)の位置にも堀らしきものを入れてある。ここにも以前は堀があったのかもし れない。しかし現状では何もない。ここは堀というより、塀であったのかもしれない。また、古図ではこの辺りに「新地」と記している。

 3郭と4郭との間の堀は、深さ8m、幅10mほどある。ここもゴミが捨てられたりしているが、それでもよく残っている。古図では、この堀切の外側と内側 にそれぞれ枡形をしるしている。しかし内側の枡形と言うのは、鳥瞰図にもある櫓台のことなのかもしれない。外枡形も現状では見られないが、この堀切は外側 にも土塁がある。外側に土塁があるというのは珍しいが、実はこれが外枡形の残土の一部なのではないだろうか。農耕車などが入るために枡形そのものは壊され てしまったものと見える。

 ここまでが規模の大きな部分である。この外を4郭としているが、(う)の空堀は規模が小さく、現状では深さ1,5m、幅5mほどしかない。お目家で付けたようなレベルの堀である。城域はここで終了であろう。

東林寺の上の墓地にある、牛久市指定史跡の五輪搭。かつては南端の1郭辺りにあったらしいが、台地が削られたときに、この場所に移された。これは栗林義長の墓なのか・・・・・・。

「東国戦記実録」には栗林義長の死後、岡見氏は彼の死を悼んで東林寺を建てたという。東林寺はこの時に建立されたと言うのである。何しろ「東国戦記実 録」の言う所であるから本当なのかどうか分からない。この「栗林を悼んで東林寺を云々」の記事は「東国闘戦見聞私記」には出てこない。この2書はほとんど 同じ内容なのであるが、これらの関係はいったいどうなっているのか・・・・。

(あ)の西側の空堀。土塁上から堀底を撮ってみたのだが、これではなんだか・・・・・。

しかし、実際目にすると、その規模の大きさに驚くであろう。自然の沢のような感じもするが、この城塁はまさに人工的に削ったものだ。

台地の先端部。この先は削られてしまっている。すぐ目の前には泊崎城のある岬が見える。こんなに近くに多賀谷が城を造ってしまったのである。岡見氏のや るせない気持ちは想像するにあまりある。岡見氏の足高城は、泊崎城のさらに向こう側の台地である。こんな大事な所を取られてしまっては、もうどうにもなら ない。

3郭と4郭の間の(い)の土橋を3郭側か

ら見た所。見ての通り、堀の4郭側にも土塁がある。これが外枡形の名残であったろうか。

4郭北側の空堀。(う)の辺りから西側を見て見た所である。しかし、kれもなんだかよく分からん。この堀は他の堀に比べるとかんり規模は小さい。
堀の東側には廃墟のような神社があったりする。なんだか不気味な雰囲気だ。

4郭は南北に120mほどある。

東林寺下の一段低くなった水田。南北に連なっており、これは水堀の跡であると思う。この他にも城の両側には牛久沼に注ぐ河があり、なかなかの要害だ。もっとも400年前には牛久沼の水位がもっと高く、両脇はすぐ沼であった可能性もある。

東林寺城については埋もれた古城 東林寺城にも詳しく紹介されている。

さて、東林寺城をどのような城としてみるか、ここには大きな問題がある。この城はその構造と規模から戦国末期に北条の手が入った城と思われるので あるが、すぐ1,5km先にはやはり、北条の手が入り外郭分を持った牛久城があるのである。この両者の関係をどう捉えるべきか。それについては地方領主の近くて遠い城で検討している。