土浦の遺跡
1. 遺跡の分布
(1)分布と移り変わり(遺跡の分布)
土浦市内には、現在およそ350か所の原始・古代の遺跡が確認されている。これらの多くは、昭和55〜58年(1980〜83)にかけて土浦市が行なった遺跡の分布調査と、その後の開発に伴う発掘調査によって確認されたものである。その立地をみると、下位段丘あるいは自然堤防などの徴高地上にも遺跡はあるが、その多くは台地上に位置している。これには遺跡の分布調査が台地上の遺跡を中心に行なわれたこともひとつの要因となっている。しかし、堆積土が少なく畑作の盛んな台地上に比べ、氾濫原や徴高地では表面上の観察から遺跡の有無を確認するのが難しく、現在のところ遺跡の確かな分布状況を把捉するには至っていない状況にあると言えよう。
しかし、桜川氾濫原の沖積地をみても、近世以降開発された中心市街地を除けば、現在集落の形成されている範囲はごくわずかである。このように、水田跡などの生産遺跡や特殊遺跡を除いた集落遺跡の分布の中心は、原始・古代においてもやはり台地上にあったものと思われ、その傾向は時代が遡るほど顕著であったものと考えられる。それにしても、現在の宍塚や矢作、飯田集落などのある下位段丘や自然堤防上には、古墳時代以降の遺跡がいくつか確認されており、今後その数が徐々に増加することは充分に予測されるものと思われる。
以上のことを勘案して、次に台地を中心に遺跡の分布状況とその推移をみてみよう。ここで取りあげる遺跡は、いまから10,000年以上前の旧石器時代から古墳時代(4〜7世紀)にかけてのものである。まずは全体的な遺跡の分布状況からみていくことにする。遺跡分布図を見てみると、遺跡の多くは、桜川、霞ケ浦沿岸や、花室川、境川、天の川などの小河川沿いに分布しており、とくに霞ケ浦北岸、花室川、境川支流沿いに密に分布している状況が認められる。これらの遺跡は、その多くが集落遺跡と考えられ、このような分布状況は当時の集落立地が生活に欠かせない水と旧石器・縄文時代ならば狩猟・採集(ここではとくに漁労)、弥生時代以降ならば水田経営といったその時代の生産基盤との両者に深く関わって選択されていたことを示している。
旧石器時代の遺跡は、10か所程の遺跡がまばらに点在しており、その多くがいまから14,000~15,000年前の旧石器時代後期のものである。遺跡は、地表下1メートル程の関東ローム層中にあり、それ以降の遺跡に比べ調査は難しく本来はさらに多くの遺跡が存在するものと思われる。縄文時代の遺跡分布を見ると、前・中期 (5,000〜7,000年前)にかけて遺跡数が増加し、後・晩期(2,000〜4,000年前)に減少する状況が認められ、東日本における一般的傾向と軌を一にしている。弥生時代から古墳時代にかけて特筆すべき点は、古墳時代後期(5〜7世紀)における遺跡数の爆発的な増加である。これは、当然のこととして人口の増加を意味するものと思われるが、その一因として農業生産量の増大が考えられる。後期の遺跡分布を見ると、それ以前に比べ桜川両岸に密に分布する傾向が認められる。これは、宍塚大池周辺や天の川沿いの今泉、粟野周辺にある弥生時代遺跡の立地が示すようなやや奥まった谷水田主体の水田経営から、桜川沖積地の一部にまで水田開発が進んだ結果と考えられ、これにより耕地の拡大と生産量の増大がもたらされたことが推定される。
(2) 出土遺物の移り変わり
▶旧石器時代
この時代は、土器の出現する以前、今から約二カ年以上前の時代である。下の写真は、市内から出土した旧石器時代の石器で、皮剥ぎや槍先に使われたナイフ形石器、木などを削るのに使われた削(さつき)器、石器の素材となる石刃やその原材料の石核などがある。
すべてが石を打ち割ったり、薄くはがすなどして作られた打製石器で、多くが旧石器時代の終り頃 (一万四、五千年前)のものである。
▶縄文時代
この時代は、その名が示すように表面に縄目の文様を施した土器(縄文土器)の出現した時代で、今から約一万年〜二千年前の長期にわたっている。左の写真は、市内上高津貝塚などから出土した縄文土器である。縄文時代後期(三〜四千年前)のもので、煮炊きや貯蔵に使う探鉢形土器で、他にも盛付け用の浅鉢、飲み物を注ぐ注口土器などがある。
この時代を特徴づける事象として、第一に土器の出現が挙げられるが、それ以外にも石を研磨して作られた磨製石器の使用や弓矢の使用などがあり、市内からも磨製石斧や石嗾(せきぞく)などの資料が出土している。
▶弥生時代
この時代は、日本列島に中国や朝鮮半島などから水田稲作農耕が伝わった時代で、紀元前三世紀から三世紀くらいまでをいう。青銅器や鉄器、水田遺跡やそれに伴う木製農耕具、石庖丁などの出土がこの時代を特徴づけているが、まだ市内からの出土例はない。
上の写真は、市内永国・宍塚遺跡から出土した弥生土器で、土器の表面にはまだ伝統的な縄文が施されている。この傾向は当地域の弥生時代全般を通して認められ、狩猟採集から農耕へという生産基盤の変革のなかにあり縄文時代の伝統が根強く残されていたことがわかる。
▶古墳時代
この時代は、前方後円墳を項点とする豪族層の墓(古墳)が造られた時代で、およそ四〜七世紀の間をいう。全国的にみれば、生産基盤や文化の面で基本的に弥生時代の延長線上にある時代といえる。
上の写真は、市内から出土した四世紀頃の土器で、煮炊き用、貯蔵用、祭祀用などがある。この土器は土師器(はじき)と呼ばれ、当地城の弥生土器の流れをくむものではなく、南開東以西の文化的・政治的影響下に出現してくる。伝統的な弥生土器との相違は、初期のもの以外は器面に文様がなく、用途に応じて多様な器種があることなどがあげられる。
▶縄文時代の海岸線
縄文時代の海岸線は、現在より内陸深くに侵入していたと考えられ、縄文海進と呼ばれている。貝塚の貝類組成からみると、海進の最盛期は縄文時代前期 (今から五〜六千年前)頃で、海水面は現在より平均三メートルは高かった。東京湾では約70km、栃木県藤岡町付近まで海が侵入しており、古鬼怒湾にも海が深く入り込んでいた。そして、中期以降海水面は下降し、海岸線は次第に後退していったものと考えられている。
上高津貝塚は、後・晩期主体の貝塚なので海退期にあたっている。汽水(きすい)産のヤマトシジミを主体としているが、ハマグリ・アカニシ・カキなどの海水産の貝類も出土しており、当時貝塚付近は、海水が多少流入する砂泥底の河口域のような環境下にあったものと思われる。
▶貝塚と集落のあり方
上高津貝塚は、遺跡全体の広さが4ヘクタール以上にもおよぶ大規模貝塚であるが、同時に〕の台地上には縄文時代の大規模な集落が営まれていた可能性が高い。それは、このような貝塚が、それ相応の規模を持つ集落の存在なくしては形成され得ないものと思われるからである。残念ながら、これまで遺跡内で住居働の正式な調査が行われた事例はなく、ここで集落の具体的なあり方について示すことはできない。
上図は、上高津貝塚の台地から谷部にかけての地形図に地表面で確認される貝の散布範囲を重ねたものであり、平端部、斜面部、谷地部を色分けして表示している。台地の線に沿って大小五つ打貝塚が円形に並んでおり、その内側が台地平坦部となっているのがわかる。大規模環状貝塚としては典型的な千葉県千葉市にある加曽利(かそり)貝塚では、貝塚直下及び内外線に竪穴式住居跡が確認されている。そこでは、集落が中央の平坦地を囲むように台地縁辺に沿って展開し、そのつど貝殻を廃棄した結果環状の貝塚が形成されたことが明らかにされている。また、貝塚の形成されない内陸においても、中央の広場(平坦地)を囲むように台地縁辺に沿って住居跡が展開 みはらだし、大規模な環状集落を形成する遺跡が群馬県赤城村三原田遺跡などにおいて確認されている。
このような環状集落は、縄文時代中期〜後期にかけて盛んに形成されており、後期を主体とする上高津貝塚の集落も同様に台地縁辺七沿って展開するものと予測される環状に分布する貝塚が当時の集落のあり方を反映しているといえよう。
■上高津貝塚の形成
上図は、上高津貝塚A地点斜面部の貝塚を発掘し、貝層の堆積状況を図化したものであり、廃棄された貝殻が斜面に沿って流れ込むように堆積しているのがわかる。貝層は含まれる貝の量によって三つの層に分けられ、貝だけあるいは貝を主体とする土層と、わずかに貝を含む土層とが交互に堆積している状況が認められる。貝を主体とする層は特定の作業にともなう集中的な大量廃棄として、貝の少ない層は日常生活における通常の廃棄として考えれば、当時の人々が、ある一定の時間をおいて集中的に貝殻を廃棄するような生活をしていたことが想像される。
貝殻の表面に残る成長線の観察から、その貝が一年のうちでいつ頃採取されたものかがわかる。この成長線の研究によると、各地の大規模貝塚から出土する大量の貝は、とくに春から初夏にかけてのものが多くこの時期に集中的に採取されていた可能性が高いと考えられている。このように、上高津貝塚の場合もある特定の時期に大量の採取が行われていた蓋然性は高く、この貝塚を初めて世に紹介した江見水陰の考証にもあるように、貝の採れない内陸地域との交易品として貝のむき身を天日に干し、干し貝として大量に加工していたことが推察される。
なお、貝層内には、貝殻以外にもスズキ・マダイ・タロダイなどの魚の骨、猪・鹿などの獣の骨あるいはそれらの加工品などが各員層全体にまばらに含まれている。これは、特定の季節における貝の大量加工とはべつに、季節に応じた獲物を対象とする狩猟・魚労活動が上高津貝塚の縄文集落の日常的な生業活動として行われていたことを物語っている。
■上高津貝塚の出土遺物
▶日常生活用具
写真は、縄文土器そして石皿と磨石である。土器は、貝塚から最も多く出土する遺物のひとつで、日常生活に欠かせない重要な道具であった。煮炊き、貯蔵、盛り付、容物、運搬などさまざまな用途に用いられ、それぞれの用途に応じた形に作られている。
石皿・磨石は、主に木の実等の植物質食料を磨り潰し粉にするために使われたものであり、食料の調理加工に大きな役割をはたしていた。
▶狩猟・採集用具
人々の生活は、海川での魚労や野山での狩猟・採集によって支えられていた。写真は、出土した狩猟・採集用具の一部である。
石鉄は、石を打ち割り細かく加工して作った矢じりで、主に鹿や猪などの獣を射るのに使われた。魚労用具としては骨角器が多く、写真は鹿骨製のヤスと考えられている。また、打製石斧は球根や根茎類等の植物質食料の採集に用いられた土掘り具と考えられている。
▶身装装身具
この当時の装身具は、すべて自然の物を加工して作っており、もちろん金属のものなどはない。貝製の腕輪、土製耳飾り、ヒスイなどを用いた玉類、猪牙製のペンダント等がある。
写真上段は猪の牙で作られた額飾りと思われるものである。中・下段は、ベンケイ貝製の腕輪で、すべてが半分近くを欠損している。
▶土偶
写真は、顔と右足と腕が欠損している土偶で、足や腕の形から、縄文時代後期に特徴的なハート形の顔を持つものと思われる。土偶は、人間の形に作られた土製品で、写真の土偶からもわかるように乳房や背部の形を誇張した女性像が多い。また、土偶には完全なものが少なく、部分的に壊す目的で作られたと考えられるものもある。
このように、土偶には、出産や繁殖、豊かな実りと結びついた意味や身体の怪我や災害の身代わりとして祈るなど呪術的・宗教的な多様な役割があったものと考えられている。
▶宍塚古墳群
市内宍塚町にある宍塚大池周辺の丘陵上に点在する古墳群で、昭和五十八年時点で前方後円墳三基、円墳一四基が確認されている。小形の箱式石棺を埋葬施設とするものが多く、後期(六世紀)を中心に形成された古墳群と考えられる。
この古墳群は、この付近を領域とする部族の墳墓群で、小形の前方後円墳を盟主墳とし、数世代に亘り続いたものと考えられる。なお、丘陵北側の徴高地上にも、複数の古墳の存在が確認されている。
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