ひたち野うしく小学校

■コミニティスクール建設に向けて

▶はじめに

 平成15年度も終わりに近づいた2月、教育委員会の当時の坪井課長が、建設課に勤務していた私(高野裕行・建設課建築係・建築士)のところに、ひたち野地区に新設する小学校を考えてほしいと相談に来られた。急な話だったが、3月の議会対応のためとのことだったので、区画整理地内の学校用地に施設台帳程度の簡単な図面を作成しお渡しした。このことがひたち野うしく小の設計の第一歩になった。

 学校は地域の表現である。学校が良い学校なら、その街は良し、街、その村は良い村だ。学校は、その地域の大人達(行政・住民・教師・建築家・施工者)が、子ども達にどんな暮らしの場をプレゼントしたいと思っているのかを、正直に物語っている。

 建築家の富田玲子きんが東京都防災・建築まちづくリセンター広報「街並みVol.32」に害せた特別寄稿文の一節で、私が大好きな言葉である。

 学校の設計は、建築設計事務所に業務委託して設計するのが一般的である。発注者側で、学校施設を管理している市町村職員が直接実施設計図を書くことはたいへんまれで、戦後、茨城県内では例がないかもしれない。

 平成22年8月に埼玉県教育委員会で行った講演会の原稿に、工事中のエピソード、開校後の学校施設の活用状況を加筆して、ひたち野うしく小の設計から開校後の学校の様子を記録としてまとめたもの。

 栗山明彦氏(初代校長)

 ひたち野うしく小学校の校舎は、たくさんの木が使われてしいること、段差がないこと、まっすぐ広い廊下と大きな音楽室、校舎の中央につくられた学校図書館、門からの登下校やグラウンドを見渡せる位置にある管理諸室など、つくられた方のこだわりを感じます。オープンスペースの学校は、私自身の経験を振り返れば、一人ひとりの教員が「この環境を使いこなしてやるぞ」という意思を最初から持っていることが大事です。変にこだわることなく「こういうつくりだから」と柔軟に対応すればしい。校舎を身体とすれば、そこに教職員という血液が流れて初めて学校が機能するのです

 たとえば図書館です。私も読書は大事だと思っていますので、この環境を活かして読書に親しむ子ども達を育てたいと考えました。牛久市は、全小中学校に学校司書を配置していますし、蔵書ネットワークも構築しています。読み聞かせは保護者ボランティアの方だけでなく、私も一緒に行いました。この環境を活かした、ふさわしいやり方で、子ども達を図書で育むことが本当の教育ではないかと考えたからです。

 校舎からは、つくられた方がたの強い想いを感じます。日本一の校舎です。それに私が応えるには、「本校が世界一の人づくりをすること。」と、宣言をしました。開校した年の本校のテーマは、「みんなで創ろう!笑顔あふれる、世界一の小学校!」でした。ポイントは笑顔あふれるです。笑顔は、認められて出るものです。私は、その機会を子ども達にたくさんつくりたいと思いました。そして、子ども達がこの学校でよかったと思うことができるようになれば、それが世界一の学校だと思うのです。子ども達の笑顔は教職員だけではなく、地域の皆さんとも一緒につくりたい。そこで、「地域に対しても開かれた学校にしたい」と始業式や入学式をオープンにしました。学校公開のようにし、ろいろな方が校内を見て回つていましたが、それが私の考える学校のイメージです。地域の方が子ども達を見守ることが日常になる学校であってほしいということと、子ども達がこの優れた環境の学校に通うことができることを発信したかったためです。そして、子育てを通してこの地域がひとつになる、その中心に本校がなることを目指しました。

 道元禅師の言葉に「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」とありますが、私はこれが学校、そして教育の姿だと思っています。

善い人のそばにいれば、意識せずとも善い影響を受ける。
悪い人のそばにいれば、自ずと悪い方向へと流れていく。
先が見えないような濃い霧のなかを歩いていると、いつの間にか衣服が湿っているように、身を置く環境によって無意識のうちに受ける影響というものがある。
それが「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」という禅語の意味。たとえば、言葉遣い。
人が覚える言葉は、その人が育った環境で話されている言葉である。
だから、東京で生まれ育った人が流暢(りゅうちょう)な関西弁を話すことはない。
ある朝目覚めたら、子どもが英語を話すようになっていた。そんなこともありえない。

 本校で6年間を過ごせば、“挨拶ができる”“本が好きになる”“掃除ができる’’“時間を守る”“自分から勉強するようになる”など、子ども達に身についてほしいと思っていることが自然と身につくようになる。それが学校であり教育であると。この校舎はそれが実現できる環境だと思い、児童・教職員と一緒になって進んできました。

■新しい学校を考える基本設計から実施設計へ 

 このころ、区画整理地内の学校用地購入が価格の面で折り合いがつかず、教育委員会は隣接した市街化調整区域に用地を確保できないか検討に入っていた。

 中根小の教室数と児童推計から平成22年4月開校は変更できないので、実施設計図の作成に入った。市長からも、構造設計以外は設計しておくよう指示された。

 製図はフリーソフトのJWCADを使用した。基本設計図は簡単な平面図や立面図及び配置図だが、実施設計図は、意匠図、構造図、電気設備図、機械設備図、外構図に分かれ、より詳細な図面になってくる。実施設計図では、意匠図、電気設備図、機械設備図を可能な限り作成した。

 木造の「きほうの広場」を設計したときも同様であったが、設計事務所が書いた図面は審査などでたくさん見ているのに、いざ自分で作図するとなると辛が止まりなかなか書くことができない。開口寸法や、家具の棚の高さなど、使い勝手を考えながら作図していったため、新たな発見や工夫の連続だった。市役所でCADを導入してまだ4年目だったため、図面データがなく、机、瓦、家具などのCADデータも一から集めなければならなかった。

 エレベーター、バスケットゴールなどの体育器具、システム天井、太陽光発電設備、体育館ステージの舞台機構や舞台照明、給食室の厨房機器などの専門工事の図面は設計事務所が設計する場合同様、メーカーに作図協力してもらった。8,000㎡を超える学校なので、図面作成は膨大な作業量であった。

 意匠図だけでなく、電気設備や機械設備の図面を作成したことで建物全体を設計することができた。

 設計事務所が設計する場合、意匠設計以外の構造設計、電気設備設計、機械設備設計を協力事務所に外注するため、施工のときに構造設計と設備設計の打ち合わせ不足を感じることがよくある。

 作成した電気設備や機械設備の図面は、委託した設計事務所にほとんど書き直されてしまったが、勉強になった。また、電気設備と機械設備の工事監理にも図面を作成した経験が役に立った。

■平面詳細図の作成

 平面詳細図は、校舎は中根小の増築図面、体育館は牛久小の改築図面を参考にした。サッシュ周りの納まりや面木寸法等、分からないことは工事で会う現場監督さんや市役所の窓口に来られた設計事務所の方に逆に聞きながら図面を作成した。エレベーターシャフトの寸法はメーカーに直接確認した。

 各部屋の大きさは、普通教室の広さを1として0.5教室分、1.5教室分、2教室分、4教室分のようになっている。また、耐震構造上、上下階のコンクリートの壁が一敦するように教室を配置している。 トイレや家具のCADデータはメーカーのホームページから探した。断熱材を示すハッチの作図は大変だった。

■立面図の作成

 立面図は、建物を外から見た図面である。管理・特別教室棟の立面は学校の正面になることから、各教室の配置と正面デザインのバランスを考え設計した。木造校舎の写真集や住宅展示場の広告を参考に、小学校としての風格と戸建住宅のようなあたたかさをもつデザインになるよう心がけた。

 試行錯誤の結果、比率4対3対4のバランスがよく、中央に平屋建て3スパンの昇降口、左右対称に2階建て4スパンの教室になった。

 屋根勾配は4寸、4寸5分、5寸と検討したが、落雪の危険や、コンクリート躯体の施工を考えて4寸勾配とした。校舎正面を強調するため、丸ガラリ付きの飾り屋根を左右に設けている。ベランダは屋根の軒先とバランスをとるため外壁から1m左右に出した。

 体育館の立面も校舎同様、戸建住宅のようなあたたかさのあるデザインになるよう心掛け、屋根勾配も校舎に合わせ4寸勾配としている。

 外壁やベランダが単調にならないように、モザイクタイルを帯状に貼った。

■断面詳細図の作成

 断面詳細図は、建物内部を縦に切った図面である。大梁の断面寸法はスパン間の1/10を基本に、2階、1階と5cmずつ梁せいを増やして仮断面とした。

 天井の高さは、建築基準法の改正により3mの規制がなくなったため、2m80cmとした。空調機を天井埋込にし、梁は教室内に露出させないことにした。床の厚さは遮音や鉄筋のダブル配筋のことを考えて18cmとし、小梁を中央に配置した。構造は、長年実績のある鉄筋コンクリート造である。

 階高は、天井高、梁せい、階段の段数を検討し何度も図面を直し、最終的には3m95cmにした。 樋は瓦葺きの屋根の落雪防止と耐久性から鉄筋コンクリート造の内樋とした。柱が内樋に出ないことと瓦の割付を考えた。

 音楽室と理科室は柱間が17mと大スパンだったため、休日、知り合いの構造事務所に出かけて、相談にのってもらい鉄骨鉄筋コンクリート造とした。このとき、平面図上の柱のバランスも見てもらい、短スパンになっている柱を削除した。

 木製の階段の詳細は、土浦市立真鍋小の大階段を設計した方にアドバイスをお願いして作成した

■展開図の作成

 展開図は、室内から北側、東側、南側、西側を見たときの図面である。黒板やロッカー、窓などが入り出来上がったイメージがよくわかる。

 展開図は第4回建築検討委員会のテーマが特別教室だったこともあり、理科室から作成を始めた。

 備品の収納や子ども達の作品掲示を考えながら、家具や掲示板を作図していったので時間がかかり、1枚の展開図を仕上げるのに2日かかった。

 校舎の普通教室から給食室の検収室まで、部屋数が多かったため作成した大変な作業であったが、展開図を作成していると、頭の中で1つひとつ教室が完成していくので充実感があった。

■建具図の作成

 建具図は、サッシュや防火戸などの鋼製建具図と、教室のパーテーションやトイレブースなどの木製建具図に分かれる。

 鋼製建具図は展開図から建具部分を抜き出し建具表に入れ込んだ。トイレのジャロジー窓や階段室のオーニング窓、ワークスペースの連窓形状は、メーカーに製作範囲を確認しながら作図していった。

 防火戸、防火シャッターは、メーカーの設計センターに平面図を送って書き入れてもらった。

 木製パーテーションは、可動間仕切りがあることから、メーカー製とし、建具表、建具詳細図を協力してもらった。戸の部分は、古くなってもよさが出るよう無垢材にしている。

 トイレブースも特殊なため、メーカーに建具表、建具詳細図を協力してもらった。


■東日本大震災で、ひたち野うしく小学校が地域に果たした役割

■体育館屋根の落雪状況

 落雪状況 勾配屋根の学校を設計するにあたって心配だったのが落雪による事故である。これは、牛久小の体育館で雪が降るたびに、教頭先生がトラロープを体育館のまわりに張って児童に注意を呼びかけているところを見ていたからである。また、福島県の保育園で屋根から落ちてきた雪に園児が埋まってしまった事故の報道もあった。開校後3年間は雪が降るたび学校に確認に行った

 校舎の屋根の雪止めは昇降口と教室棟のトイレ部分が4段、他は3段取り付けた。これまで降った雪では、雪止めが機能して大型の内樋まで落ちることはなかった。

 体育館の屋根は天然砂を接着させた屋根材のため、摩擦抵抗があり雪止めは1段としている。雪は太陽光発電パネルの部分から落雪が始まっていて、大型の内樋のところでせき止められていた。落雪を受けるためのベランダを設置していたが、ベランダまで落雪することはこれまでのところ起きていない。

■3.11東日本大震災

 地震が発生した時は、屋内プールのステンレス水槽搬入工事に立ち合うため、車でひたち野うしく小に向かっている途中だった。辛がものすごく揺れ、ひっくり返るようだった。始めは車のエンジンが壊れたのかと考えたが、まもなく、周りの住宅から人が出てきて、電線もかなり揺れていたため、地震だと分かった。現場に入ると、職人さん達が外に出ていて不安そうにしていた。すぐ校舎に向かうと、火災報知器のサイレンが鳴り響いていた。防火戸が開いてしまっていたので、元に戻すとサイレンも鳴りやみ静かになった。

 校長先生と昇降口で会い、地震時の校舎内の様子を聞いているとき、2回目の大きな地震が来た。建具がややガタツク音がしたが、学校が壊れるような感じはまったくしなかった。しかし、防火戸がまた開いてしまいサイレンが鳴ってしまった。

 昇降口の杉板天井も特に変わりなく、理科室の備品も床に落ちていなかった。天井下地に耐震クリップを取り付けたことや、家具の扉を耐震ラッチ仕様にしたことが幸いした。

 最新の耐震設計で建てられた学校であったことから、児童は校内待機となり、2回目の地震の後、ランドセルを背負って下校となり、グラウンドで保護者引き渡しになった。

 体育館の天井や校舎の瓦、屋根、外壁を見てまわったが、特に変わりなかったので市役所に戻った。

 電気も停電にならず、水道も使えたことから、19時頃には退庁となったが、帰宅する途中、ガソリンスタンドが車でいっぱいだった。

 当時、ひたち野うしく小は、避難所の指定はされていなかったが、駅周辺のマンションに住む方々が3日間避難し、市内最大の避難所となった。マンションの高層階はかなり揺れたようで、家具が散乱したことや、怖い思いをしたことから学校に避難したようである。

 市役所の職員が配置されるまで、先生方でお茶を配るなど避難所を運営していた。

 エアコンが使えたことから教室に数世帯ずつ分かれて生活した。教室に付けた42型のテレビに災害報道が流れ、家庭科室の調理実習台やオーブンレンジも多いに役立った。

 翌日から、水道本管の漏水修理のため、ひたち野地区も断水になった。近隣の方々が学校の外水道から水を汲みに訪れるようになり、大型の受水槽も底を尽き学校も断水になった。

 新潟中越地震応急危険度判定士として活動した経験から、体育館屋根裏にトイレ専用の高架水槽を設置した。このため、体育館1階のトイレは断水後も使用することができた

 震災時は県南水道の水を供給していたが、現在は屋内プール棟に設置された  井戸水を供給している。娘の通っていた岡田小は平成20年度に耐震補強工事が終わっていたので心配はしていなかったが、家に帰って話を聞くと、棚のものが落ちて、泣き出す子もいて大変だったようである。翌日、災害調査のために岡田小を訪れると、娘のクラスは帰りの会の最中だったらしくランドセルが机の上に置きっぱなしで、机の向きもバラバラになっていた。床には教材が散乱していて3階はかなり揺れた様子だった。校舎全体では、柱の構造的損傷やガラスの割れ、天井の落  下もなく、耐震工事の効果が実証された。当時校舎の耐震補強工事が未施工だった中根小では、地震後保護者からの問い合わせが殺到したとのことだった。

■災害協定

 東日本大震災もあり、停電時の避難所の電源確保の検討が必要になった。体育館に設置した知kWの太陽光発電設備は自立運転機能がなく停電時に発電した電力を使用できない。蓄電池を検討したが、建築蓄電池は16kWのパワーコンディショナー付で価格が80万円もすることから、なかなか設置することができずにいた。

 6月の土曜日、新聞広告に大手自動車会社の電気自動車の記事が第四章掲載されていた。停電時に電気自動車から住宅に電気を逆流させて、電気自動車を停電時の電源に使用しようとするものである。電気自動車のバッテリーは24kWもあり建築蓄電池より大きいものだった。

 市内には電気自動車の販売会社がひたち野うしく小の近くにある。週明けの月曜日、早速、販売特約店に相談し、技術検討をしてもらった。電気自動車のバッテリーは直流電気、一方、建物で使う電気は交流電気のため、電流の種類を変換する装置を設置すれば体育館で電気を使えることが分かった。

 牛久市では電気自動車を所有していなかったことから、災害時に車をお借りできないか聞いたところ、快諾してくれた。EVパワーステーションの設置費80万円ほどで、建築蓄電池の1/10の費用で災害時電源を確保することができた


■小学校が中心となったひたち野地区

▶地域開放

開校初年度の7月から、特別教室の地域開放が始まった。音楽室、図工室、家庭科室、図書館、会議室が対象である。音楽室の利用が最も多く、吹奏楽、オーケストラ、コーラスグループの定期練習場所になっている。

牛久三中の吹奏楽部は毎年吹奏楽コンクールの練習にこの音楽室を利用している。

私も牛久市民吹奏楽団のサックス吹きとして毎月利用している。生涯学習センターの音楽室は仙人の楽団には手狭で、休憩時間、楽器の間をカニ歩きして外に出ている。ひたち野うしく小の音楽室は広く、打楽器も借りることができるので大変助かっている。

合奏前の音だしは残響が長いため少しうるさく感じるが、合奏中は特に不都合を感じたことはない。よく響くのでソロを吹くと普段より3倍上手くなったような感じがする。 利用者の中には、学校という練習場所が新鮮で、練習に来るのを楽しみにしている方もいる。

▶不動産ブーム

開校前、学校があるひたち野西地区は、ひたち野東地区に比べ空き地が目立っていた。リーマンショックで民間の大型建設事業の中止が相次ぐ中、学校建設が区画整理地内に決定されると、ひたち野西地区は急に住宅建設ラッシュになった。学校の建設中は、多くの住宅メーカーや不動産会社のホームページで工事中の様子が掲載されて、完成が待ち遠しい様子であった。

駅前の不動産会社や銀行の方によると、ひたち野うしく小学校区を希望して家を建てる方が多く、土地の値段もやや上がっているとのことだった。

住宅メーカーの建売住宅は5,000万円近いものも多く、どんどん売れていたので驚いた。

学校ができることで児童数もやや増えるだろうと思ったが、少子化で不景気の中、児童数が毎年100人以上増えることは予想できなかった。

■プール棟完成

校舎完成・開校に遅れること15カ月、プール棟が完成した。6月頃~10月頃まで小学校が水泳の授業で使用する時間を除けば、毎日午前9時~午後9時まで、料金を払えば誰でも使うことができる。プールだけでなくトレーニングができるスタジオもあるが、運営は民間に委託されており、オープン中はスイミングやシェイプアップなどの教室も開かれている。

授業期間中は天候に左右されないため、ひたち野うしく小以外の小中学校も利用する。プールも中に入って確認するわけでもないが、毎日数百人の一般の方(婦人や高齢退職者画多い)が車で通っている。ひたち野地区には公共施設がひたち野うしく小しかないことを逆手にこうしたことを通して学校に来ることが自然になっていると感じる。