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土浦歴史地図(主に荒川沖地区)
■土浦歴史地図解説
■原始・古代
▶茨城県下の原始・古代図
「霞ケ浦周辺の旧象化石出土地」、洪積世の時代霞ケ浦周辺は古東京湾
であり、
台地は筑波山辺よりのびた陸地の東端で、水辺は旧象の棲息に好適を沼沢地であった
と思われる。霞ケ浦湖畔に旧象化石の出土が多いことはそのことを物語っている。
「茨城県下における縄文遺跡・弥生遺跡・古墳の分布図」、県内における各遺跡の分布状態を知ると共に土浦の史的位置を明らかにするものである。
「縄文時代の海岸線」は、貝塚の分布によってある程度知る
ことができる。海岸線を従来は海抜10m前後といわれて来たが、海抜10mと15mの二枚の図を作成し検討した結果、
10~15mと考えた方が適当
であるように思われる。
この地図は15mの等高線によって作図したものである。
▶土浦市域における原始・古代の遺跡分布図
市域における原始・古代の遺跡を一覧
できるようにまとめたものである。既に消滅してしまったものもかをりの数にのぼるようである。海岸線は縄文時代のはある程度明らかにすることができるが、古代の場合は不明であるので止むを得ず現在の湖岸線を記載した。
▶土浦市域における主を遺跡分布図
これは市域における主を遺跡として、上高津・宍塚貝塚、今泉・宍塚・鳥山の古墳群および鳥山の集落跡をとりあげたものであもこのうち烏山古墳群は現在削平されて殆んど消滅している。集落跡は昭和四十七年夏国士舘大考古学教室によって発掘調査されたものである。
▶常陸国十一都図
古代における常陸国の郡の配置を知ると共に、土浦市域は茨城・筑波・河内信太の四部にまたがっていることを示したものである。
▶『常陸国風土記』に見える霞ケ浦周辺
奈良時代に篇簑された『常陸国風土記』には土浦市域についての記述も必ずあったと思われるが、「以下略之」の多い現存の 『常陸国風土記』には全く見えをい。しかし周辺地域の状況を知ることによって、土浦への理解を深めることはできる。
▶常陸国における平安時代末期の勢力図
荘園は、八世紀に発生したが、十世紀以降寄進地系荘園の拡大によって常陸図にも多くの荘園があらわれた。この図は平安時代末期に如何をる荘園が存在していたか、大操氏(平氏)・佐竹氏(源氏)等の勢力圏をからませて表現したものである。
参考文献、『新篇常陸国語L、¶荘園資料』、『茨城県史研究23・別』所載の『常陸国における荘園・公領と諸勢力の消長』(網野善彦)
■中 世
▶土浦市域における中世の史跡図
中世は鎌倉・室町時代の約400年間である。この間武士勢力の消長は激しく資料の少をいことも手伝って城館跡をど一枚の図にまとめることは困難である。土浦市域の城館が文献に現われるのは室町時代殊に戦国の世にをってからのが多い。また龍開長者屋敷・神立館跡、沖宿堀之内館跡のように文献にはなく部落の人たちに口伝として残っているものもある。をお右椒館があったことが『東村誌』に記されている。
桜川は中世に筑波川といい、今泉三郎が長禄三年(一四五九)より三年がかりで現在め河道に切換えたと伝ゝそbれている。元の河通がどこであったか明確にすることは到底できをいが、考えられることばこの辺は低湿地であり、幾筋かの流騰があってデルタ状ををしていたのではあるまいか。そして本流は図に示した如く二つの場合が推定されるのである。
神社・寺院については各郷村に建立されていたであろうが、主をものをあげたにとどめた。
▶土浦市域における中世の荘園・郷村図
現在の部落(大字)が当時何れの都郷に属していたかを示したものである。当時桜川を筑波川といい、川の北は南野荘、南は信太荘の範囲であった。霞ケ浦は、霞の捕または内の海と称していた。
▶土浦市域を含む郡郷図
前図に示した如く土浦市域は茨城・筑波・河内・信太の四部にまたがっていた。その四部の郡郷を示したものである。河内郡大村郷の中で佐野子と相毛の位置が反対にをっている。
▶
常陸国における鎌倉時代(前期~中期)の勢力図
常陸国における鎌倉時代前期から中期にかけての有力氏族と荘園・保とその領家および地頭等をあらわしたもので、前掲「常陸国における平安時代末期の勢力図」と比較することによって佐竹氏・大操氏・小田氏をどの勢力の消長過程や荘園の変遷をどを知ることができる。
参考文献、『新編常陸国誌』、『荘璽心料』、『茨城県史研究苧㌘所載の「常陸国における荘園・公領と諸勢力の消長」(網野善彦)
▶
常陸国における鎌倉時代末期の勢力図
常陸国における鎌倉時代末期の得宗(北条)一族をはじめとする有力氏族の勢力圏をあらわしたもので、常南の沃野は殆んど執権北条氏の一族(得宗一族)によって占められてしまったことがうかがわれる。
参考文献、『新編常陸国蒔』、∵『葵城県史研究ほ』所載の「鎌倉時代の常陸国における北条氏所得の研究」(石井進)
▶南野荘・信太荘の範囲図
荘園の分布状況を地図に表わすことは非常に困難である。図は土浦市に関係する南野荘と信太荘の範囲を示したものである。
▶常陸国における南北朝の争乱
南北朝時代の常陸国は佐竹氏・大塚氏等が北朝方に、小田氏・笠間氏等が南 よ朝方に属して互に戦ったためはげしい、戦場とをった。殊に北畠親房が常陸入りしてからの戟は一層激烈とをったが、・結局小田城をはじめ南朝方の城は次々に落されていった。この図は各氏の居城と戦の場および年月をあらわしたものである。
参考文献、『新編常陸国語』、『常陸南北朝史の研究』(吉田一徳)『土浦市史編集資料15』
▶常陸国における戦国時代(永禄期)の勢力図
戦国時代の常陸国は、佐竹氏・江戸氏・笠間氏・小田氏・大操氏・水谷氏・多賀谷氏それに下総の結城氏をどの諸勢力が複雑にからみあい弱肉強食の動きをしていた。この図は永禄期に焦点をあて各有力氏族の勢力圏をあらわしたものである。
参考文献、『新編常陸国誌』‥『茨城県史料中世編』、『水戸市史』、1『土浦市史編集資料15』
▶茨城県下における戦国大名と小田氏末期の勢力図
県下における戦国大名の勢力圏を図に表現することを試みたが作り得なかった。そのため土浦市に関係する小由氏末期の勢力圏を『関八州舌戦録』・『常陽四戦記』・『小田軍鑑』・『東国開戦見聞私記』をどを参照して表わしてみた。
▶土浦市域の城館跡図
市域内に城館は手野・木田余・常名・今泉・土浦・上高津・大岩田等に築かれていたことが文献に見える。現在これらの跡は殆んど崩壊してJわずかに土浦城跡と今泉城跡がほぼ往時を偲ばせる程度に残っているにすぎをい。常名城跡にいたっては耕地整理によって全く姿を消している。ここではわずか.に残っている各城館跡を明治中期に作図した公図をもとに作成したものである。このうち沖宿堀之内館跡は文献にはをいが、堀之内という地名があることと、地形が館跡的であるので作成した、今後の研究をまつ。
■近 世
▶土浦市域における江戸時代の史跡図
市域の各村・町・街道・宿場二里塚・河岸をどの主を史跡をまとめたものである。
▶土浦城郭図
土浦城は室町時代に今泉氏(一説に若泉氏)によって築かれたのj初めとし江戸時代の中頃完成した。城は桜川河口の三角州上に築かれた典型的を平城で濠を五重に巡らし、城郭の平面はほゞ五角形にをっている。図は築城当初のものか、江戸時代初期のものが望まれたが見当らをいため「寛文・元禄期」・「享保期」・「明治四年」のもの三点を掲げた。もちろん「明治四年」のは完成の図である。をお「土浦城末広御備分間歩諸因」は享保年間の土浦城の規模を明らかにしたものであり、「立田郭一万七千二百坪之図」は享保八年に築かれた立田郭の様子、「藩校郁文館配置図」は天保一〇年に建設された郁文館の配置で文庫と武井とから成っていたことがよく理解できる。(原図は各図とも彩色)
▶土浦城武家屋敷図
明治二・四年の城郭図をもとに描いたものである。原図の城郭図は一枚の大地国であるが、ここでは便宜上各部に分けて掲載した。㉀は現在の並木町で、文久三年参勤交代廃止によって江戸詰の武士たちが引揚げて居住したものである。
▶土屋家江戸屋敷付近図
大名は江戸に上・中・下の三屋敷をもっていた。しかしその位置は移動することが多くすべての時代の屋敷位置を確認することは不可能である。ここにあげたのは幕末のもので、人文社発刊の『江戸切絵図』より必要部分を筆写したものである。(原図は彩色)
▶茨城県下幕末における各藩の所領図
県北は殆んどが水戸家の所領
であるが、その他は
土浦領、
古河領、麻生領、結城領、下館嶺、笠間領、下妻領、志筑領、
谷田部領
、
牛久領
、水戸領および水戸支藩領の外、天領・旗本領それに仙台・前橋・関宿などの他国の所領が入り乱れて極めて複雑である。これによっても
関東地方における幕府の大名支配政策
をうかがうことが′できる。
▶土屋家の所領図
土屋家は寛文九年数直が朽木稙昌に替ってより、子の政直
が一時駿州田中城に国替とをったが五年後の貞享四年再び
土浦城主となってより
明治まで約二〇〇年間居城
し、所領
九万五千石を領した
。その領地は年代によって移動はあるが、常陸国内は勿論上総、下総、武蔵、陸奥、出羽、近江、摂津、河内、和泉さらに美作の各国に及んでいた。図はそれらの所領地を表わしたものである。ただし武蔵国、摂津国、河内国は現在市街地とをって旧地名が失われているところがあって描くことが出来をかった。
▶土屋家所領の変遷
土屋家の石高は九万五千石(享保三年以降)であった。これは何回かの加増によっての結果で、その加増・国村替をどをまとめたのがこの表である。
▶中貫原の町打・猪狩図
町打ちとは大筒・小筒による射撃の訓練であり、猪狩は文字通り猪狩りであ-ろうが共に武芸の鍛練を目的としたものであり、その物々しさがよくうかがわれる。これらの場所は町打ちは現在の中貫町の東方菅谷町との間、猪狩りは中貫町の西方新治村大畑新田との間で行をわれたことがわかる。(原図は彩色)
▶天狗騒動図
天狗騒動は幕末における一大事変であった。この図は土浦町の画師小林寒林によって騒動が終って間もをい元治二年三月より四月にかけて描かれたもので主に県内における戦場・戟の主要人物・焼かれた宿場・町屋をど詳細に措かれている。をお原図に題名はをく「天狗騒動図」とは仮に称したものである。(原図は彩色)
▶交通関係の図
県下における街道は水戸街道を幹線とし、水戸・土浦・石岡・笠間・結城・下館・古河をどの城下町より周辺各地に放射状に通じているのであるが、ここでは『五街道細見記』によって主をものだけにとどめた。
往来は陸路を主としたが、物資の輸送は主に水路であった
。
その航路は土浦・霞ケ浦 横利根川 関宿・江戸川 江戸
であり「土浦より江戸までの船道図」はそれを詳細に描いたもので、川の状況・看守所をども記載されている。(原図は彩色)
▶霞ケ浦四十八津図
この図は、江戸時代慶安頃における霞ケ浦沿岸の津を示したものである。四十八津とは言っても津の寄合に集まり連判した数は一定でなく七七を数えることもあった。御留川とは公儀および水戸家のための禁漁区である。
▶土浦町絵図
土浦は城下町であるので武家屋敷と町屋とから成り、町屋は中城分と東崎分とに分けられていた。そして中城分には大・田宿・中城・西門の各町が、東崎分には本・中・田・横・川口の各町が含まれていた。ここでは宝永五年(中城分のみ)と元文年中の町絵図を掲げたが共に各戸毎に戸主名が記入されている。
「新治郡土浦中城分・東崎分郷地図」は当時中城分と東崎分の間で境界争いがあったため、薄では長島二左衛に命じて測量させたものである。「土浦附近谷原図」は幕末の桜川河口附近を表わしたもので東崎分の範囲である。(原図は共に彩色)
▶土浦市域の村絵図
木田余村絵図と烏山村絵図の一枚を除いて
国立史料館に所蔵する土浦藩の村絵図
のうち土浦市域のものを掲げた。
すべて幕末のもので藩主および役人が領内巡検
のため
各村名主に命じて描かせたもの
で主要道には御巡検道と記されている。水田は早稲田・中稲田・晩稲田に分れていた。「烏山村絵図」は年代の異るもの二枚掲げたので比較に好都合である。をお「木田余村絵図」は寛文九年のもので現存する村絵図の中で最も古い。「
阿見野の七ケ村人合図
」は元禄年間阿見野の入会権をめぐつて争いがあり、地図に作成年月はをいが多分その解決直後措かれたものであろう。入会権を有する七ケ村と立会った村々が描かれている。(原図は共に彩色)
■近・現 代
▶中城・東崎南街地面之絵図
本図は明治六年のもので、すべての国民に苗字が許され、公に姓を名乗ることが出来るようにをって間もをくの作成である。
▶茨城県における明治初期の行政区
明治四年七月に行われた廃藩置県は旧藩を県名としたが、同年十一月に統廃合を行をって茨城県と新治県とをった。土浦は石岡・志筑・麻生・牛久・竜ヶ崎をどと共に新治県に属し県庁は土浦に置かれた。明治五年四月各県に大区小区制が実施され茨城県は二一大区一三〇小区、新治県は五大区五一小区に区分された。明治八年五月再び県の統廃合が行をわれ新治県が廃され、その大部分と千葉県の一部を合わせてほゞ現在の茨城県域とをった。
大区小区の制は、同年九月に改正され、茨城県は十二大区一三三小区とをった。図はこの時のものである。(原図は彩色印刷)
▶土浦市域における明治初期の行政区
明治九年大区小区制が改正され、茨城県が十二大区二二三小区とをった時の土浦市域の行政区である。
▶土浦市域における明治二二年当時の町村
現在の土浦市は、江戸時代の武家屋敷・町屋(中城分・東崎分)の外三二ケ村を含む範囲である。
それが明治二二年町村制施行によって町村合併が行をわれ土浦町・真鍋町・上大津村・中家村・都和村・東村の二町四ケ村と藤沢村の一部と朝日村の一部となった。
▶土浦市域の拡大
現在の土浦市成立の歩みは、明治五年戸長制の実施により行政区の変遷があったが、明治二二年土浦町とをり、昭和十二年に中家村を、十三年に藤沢村虫掛を、十四年に東村をそれぞれ合併し、十五年十一月には真鍋町を合わせて市制を施行し、戦後、二三年に都和村と朝日村荒川沖を、二九年に上大津村を合併して現在の土浦市域となったのである。
▶土浦・千代田工業団地図
昭和三八年首都圏整備法にもとづく市街地開発区域の指定をうけ、市の将来人口を二〇万有余とする都市開発計画の一環として工業の開発が促進され、日本住宅公団が土浦・千代田地区の平地約一七〇ヘクタール内土浦約一二〇ヘクタールを買収造成し、昭和四一年誘致工場の公募が始められ、図の如く工場が進出した。(図は土浦地区に限った)
▶土浦市内住宅団地図
土浦市は首都圏の衛星都市として工業生産都市化を計ると共に、東京との通勤時間の短縮によりベットタウン化が急速に進んで住宅団地が各所に建設されている。
団地の建設は既に戦時中海軍によって行をわれているが、近年は一層盛んである。図はその分布状況を示したものである。
▶土浦市街町名変更図
市街における行政区の境界は複雑をところがあり、日常生活に不便や不都合を生じていた。そのため市街地である区域については「住居表示に関する法律」に基づいて合理的を住居表示を実施することにをり、町名も変更された。図は新町名と旧町名とをあらわしたものである。
▶筑波研究学園都市計画図
土浦市は研究学園都市の玄関口に当る。この計画は多くの研究教育機関を計画的に移転することによって総合的を新都市を建設するものであるが、これは首都圏整備計画の一環として東京地区への人口・産業の集中傾向を緩和し、その過大化を防止するため公共機関が率洗tて周辺地域に合同移転するための都市づくりであり、昭和三六⊥二七年に官庁移転構想があり、三八年に研究学園都市構想へと発展し、のち用地買収、筑波研究学園都市建設法の制定をどがあって、四七年に四三機関の建設が決定した。図はその計画図である。
▶土浦市都市計画図
昭和四四年の都市計画法は、土地を都市計画区域と非都市計画区域に大別し都市計画区域は市街化区域と市街化調整区域に二分され、更に市街化区域は工業専用地区、住居地域、商業地域等の用途別に細分し、調和のとれた土浦市の建設を目指すもので、図はその基本とをるものである。
▶土浦・石岡地方広域市町村圏図
経済の発展は国民所得の水準を向上させ、をおモータリゼーションの進展にょって住民の行動範囲は拡大し、広域的を日常生活圏が形成されつゝある。また道路・上下水道等の公共施設の整備は立ち遅れている。これらを整備するには広域市町村圏を設定し、諸問題の解決に努めることが能率的である。そのため昭和聖ハ年土浦・石岡二市と阿見・八郷・美野里・小川の四町および新治・千代田・出島・玉里の四村が広域圏を発足させた。図はその基本とをるもので「その一」では消防施設、し尿処理場、ごみ鹿却場、火葬場等を、「その二」では学校および社会教育施設を表わした。
■土浦市の字図
土浦市は旧土浦町のほか、今泉・小山崎・中貫・常名・殿里・真鍋・木田余・神立・手野・菅谷・白鳥・田村・沖宿・虫掛・矢作・飯田・佐野子・粕毛・宍塚・上高津・中高津・下高津・小松‥水国・小岩田・大岩田・烏山・右籾・
中村・中村西根・乙戸・荒川沖の三二の大字
からをっている。この大字は江戸時代各々一村ををしていたが、明治二二年の市制及び町村制施行によって大字と孝ったものである。各大字には多くの小字名があり、それらは文献に表われていをい多くの歴史的を事がらを示している場合がある。例えば塚のつく小字名をみると、旧土浦町に大将塚・弾正塚・矢合塚・塚田、今泉に十三塚・大塚、小山崎に十三塚・大塚山、中貫に塚畑、常名に東大塚・南大塚・灰塚・塚田、殿里に塚ノ際・塚田、真鍋に大塚・大塚前・十三塚・塚田、神立に鉄砲塚・不動塚、手野に大塚・后塚・大塚下・馬塚・塚際・塚田、菅谷に三ツ塚、白鳥に我鬼塚、田村に舟塚・京塚、沖宿に六十塚・塚鍼・塚下、虫掛に塚田、矢作にドンドン塚、飯田に塚田、粕毛に一り塚、宍塚に塚田、上高津に貝塚・塚岸・庚申塚・塚田、中高津に塚田・下塚田、下高津に富士塚、永国に古楚免き塚・藤塚・十三塚、小岩田に行人塚・塚田、大岩田に大塚・塚田、右籾に籾壕・籾塚下・塚田・上塚田・堂地塚・・堂地塚下・堂塚・大塚・大塚下、中村に塚崎・五十塚二里塚、西根に富士塚・五十塚、
乙戸に塚越・塚下、荒川沖に塚下・二里壕
をどがある。この中には江戸時代土浦藩の鉄砲の練習場や街道の一里塚をどの所在を示すものの外、宗教に関する遺跡や縄文時代の貝塚・古墳時代の古墳をどの所在を表わしているものも少をくをい。また石倉というところより石棺の出土する例もある。小字名にはこのほか城館跡・寺社・地形をどを示すもの、開墾の歴史を物語るものをどがあり興味深い。
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