蘇我氏の発祥

■ 蘇我氏渡来人説

平林章仁   

▶︎「蘇我氏渡来人説」を検証する

 蘇我氏の前史が明瞭でないこともあって、蘇我満智(麻智)宿禰に関わり、蘇我氏は渡来人出身であるという主張がある。この蘇我氏渡来人出自説は、蘇我氏に関する理解への影響も少なくないので、ここで検討しておこう。

 それは、つとに奈良女子大学教授(1977年時は京都府立大学教授。以下、肩書きは発表当時)・門脇禎二(かどわきていじ)氏の説くところであり、次の応神天皇紀25年条などを拠り所とする (門脇1971・1977)。

百済の直支(とき)王みまかりぬ。即ち、子久爾辛(くにん)、立ちて王(こきし)となる。王年幼(としわか)し。木満致(もくまんち)国政(まつりごと)を執(と)る。王の母(いろは)とあいたわけて、多(さわ)に無礼(いやなきわざ)す。天皇、聞(きこ)しめして召す。

 倭国と関係深い「百済の直文王が亡くなり、子の久爾辛王が即位した。しかし、王が幼年であったので木満致が国政を執り、王母と淫(みだ)らな関係になり、多くの無礼をはたらいた。応神天皇が、それを聞いて召された」という。

 さらに、同記事の註に引く『百済記』には、次のようにある。

百済記に云わく、木満致は、是木羅斤資、新羅を討ちし時に、其の国の婦をまきて、生む所なり。其の父(かぞ)の功(いたわり)を以て、任那に専(たくめ)なり。我が国に来入(まいきい)りて、貴国(かしこきくに)に往還(かよ)う。制(のり)を天朝(みかど)に承(うけたまわ)りて、我が国の政を執る。権重(いきおい)、世に当れり。然るを天朝、其の暴(あしき)を聞しめして召すという。

 「木満致は、百済の木羅斤資(もくらこんし)が新羅を討伐した際に新羅の女性を妻として、生まれた。父の功績を理由に、任那(倭国と連携関係にあった)で思うままに権力を振るった。彼がわが百済にやって来て、貴国(倭国)に往還した。天皇の命令を受けているとして、百済の政務を執った。権勢はまさに君主であったが、天朝(倭国王権〉がその横暴寧ア」とを聞かれて、召致された」という。

 門脇禎二氏は、ここにみえる木満致は蘇我満智と名が同じであるから、同一人物である可能性が高い、とする。その上で、1145年に高麗の金富拭が撰述した高句麗・百済・新羅の歴史書、『三国史記百済本紀蓋歯(こうろ)王21(475)年条に、高句麗・長寿王からの攻撃が身近に迫るなか、百済・蓋歯王が子(雄略天皇紀には母弟とある)の文周王(もんす・汶洲王)に語ったという次の記事(口語訳)に着目している。

吾が社稜(くに)のために死ぬのは当然であるが、汝が此に在りて倶に死ぬのは無益であ  る。難を避けて国系(くに)を続いでほしい、といった。それにより、文周王が木満致(もくらまんち)・祖禰解桀取(そみけつしゅ)とともに南へ行った。 

 このことから、百済の文周王満致倭国に行った、と解している。

 さらに、応神天皇紀25年を干支三運(かんし・180年)繰り下げると474年になり、『三国史記』ともほぼ整合するから、応神天皇紀25年条の木満致は、『三国史記』百済本紀蓋歯王21年条木劦(木劦)満致にあてることができると説く。

 要するに、百済で失脚した木満致=劦満致が倭国に来て蘇我満智(まち・蘇我氏の祖となった)になった、と主張している。

 これは一見、説得的にみえる。しかし、『紀』のこのあたりの紀年(紀元からの年数)は、干支二運(120年)古く設定されていると解するのが一般であり、応神天皇紀25年条の百済の直支王・久爾辛王関連の所伝も、中国南朝・宋の歴史書『宋書」武帝紀永初元(420)年7月条の記述などから、従来通り干支二運繰り下げるのが整合的である。干支三遷の繰り下げは恣意的であり、木満致=劦満致=蘇我満智説、すなわち蘇我氏渡来人出自説には無理が大きい(加藤1983、坂元1990、水谷2006)。

 劦)満致=蘇我満智であったなら、劦)氏と蘇我氏は同族となる。そうならば、継体天皇紀10(516)年5月条に、倭国から派遣された物部連物部至至連)らを己汶に迎えたとある百済の使者「前部木劦不麻甲背(せんほうもくらこうはい)」、欽明天皇15(554)年正月丙中条の、筑紫に派遣された百済の使者「中部木劦施徳文次(ちゅうほうもくらせとくもんし)」らのことに、蘇我氏が関わっても不思議でないが、そうした記載がいっさいみえないことも、否定的な材料である。

 このように、蘇我氏渡来人出自説は成立しないのだが、その論拠でもある「満加(麻智)」の名に触れるところがないので、否定説の説得力も十全でない。「満智(麻智)」の名については、祭儀に関わる宗教的区画を意味する「」という古語からの説明も可能であるが、これは第四章で述べる。

▶︎蘇我氏と王権のクラ

 蘇我満智宿禰の名は、珍しいことに『記』『紀』以外の古代史料にもみえる。蘇丑氏の性格を知る上で軽視できないので検討したい。

 古代には、日常世俗の営みである政事(せいじ)は、神や霊の時空と考えられた夜の祭事によって支えられていると観念されていた。世俗的権威は、宗教的聖性によって裏打ちされる必要があると信じられていたのである。それゆえ、政治的支配を貫徹するためぃは、王権自らさまぎまな神祇祭祀(じんぎさいし)を執り行なう必要があった。

 王権が執り行なう祭祀において、幣帛(へいはく・神への供物)や祭料(祭祀用品)の調製、祭場の設営などを担ったのが、祭祀氏族である忌部(いんべ・803年以降は斎部・いんべ)氏である。

 斎部広成(いんべひろなり)が、神祇(じんぎ)関係の所伝を集めて大同(だいどう)2(807)年に撰述した『古語拾遺』に、雄略朝に渡来系の秦氏太泰(うずまさ)賜姓されたことに続けて、次のような記載がある。

更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(みつのくら・斎蔵(いみくら)・内蔵(くら)・大蔵・おおくら)を検校(しら)しめ、秦氏をして其の物を出納(あげおろし)せしめ、東・西の文(ふみ)氏をして、其の簿(しるしぶみ)を勘(かんがえ)え録(しる)さしむ。

三蔵(みつのくら)・・・大化前代の大和(やまと)政権における3種の財庫の総称。神物を納め斎蔵(いみくら)、大王家の財庫内蔵(うちくら)、政府の財庫大蔵(おおくら)の三蔵。『古語拾遺(こごしゅうい)』によれば神武(じんむ)朝に斎蔵を、履中(りちゅう)朝に内蔵を、雄略(ゆうりゃく)朝に大蔵を建てたというが、管理者としての内蔵・大蔵氏(いずれも直(あたい)姓)は実在するが、斎蔵氏は存在せず、したがって斎蔵の存在も証明しがたい。同書にはまた蘇我満智(そがのまち)をして三蔵を検校(けんぎょう)させたこと満智は秦(はた)氏をして財物の出納を、東(やまと)・西文(かわちのふみ)氏をして帳簿の勘録を、秦・漢(あや)二氏をして内蔵・大蔵の鑰(かぎ)を、それぞれつかさどらしめたとあるが、この大化前代の財政機構の骨組みは、律令(りつりょう)制下大蔵省・内蔵寮(くらりょう)の機構にそっくり引き継がれているから、おおよそ信用してよいと思われる。[黛 弘道]

 雄略朝に、蘇我麻智(満智)宿禰に、王権のクラである斎蔵・内蔵・大蔵を統轄させたという。王権の収納機関のクラが内蔵と大蔵に分立するのは、七世紀中頃以降のことであるから(石上1987)、記事そのままの史実があったとは考えられない。しかし、この所伝から、ある時期に王権のクラに参与したという蘇我氏の主張は認められよう。また、斎部氏の氏族誌に、蘇我氏や秦氏らの関連所伝がみえることにも留意する必要がある。

倉皇子【日本書紀】(くらのみこ)宗賀之倉王【古事記】(そがのくらのみこ)性別男性父欽明天皇きんめいてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条, 古事記 下巻 欽明天皇段】母日影皇女ひかげのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】糠子郎女あらこのいらつめ【古事記 下巻 欽明天皇段】

 蘇我氏と王権のクラとの関係を示す事柄としては、欽明天皇記にみえる「宗賀之倉王(そがのくらおう)」(母は春日日爪臣(かすがのひつまのおみ)の娘・糠子邸女・ぬかごのいつらめ)が知られる。宗賀之倉王は、宣化天皇の娘・日影皇女と母が異なるが、欽明天皇紀2年3月条にみえる「倉(くら)皇子」と同一人物であろう。天平5(733)年成立の『出雲国風土記』か意宇(おう)郡舎人(とねり)郷(現・島根県安木市)条には、欽明朝に大舎人として供奉した「倉舎人君(くらとねりきみら)の祖日置臣志毗(ひおきのおみしび)」の名がみえる。倉舎人君氏は、この宗賀之倉王(倉皇子)に仕えていたとみられるから、母の所伝に不確定さは残るが、存在は確かである。

 また、舒明天皇即位前紀には、推古天皇が亡くなったあとの新天皇を推戴(すいたい)する会議に参加した群臣の一人に、蘇我倉麻呂(馬子の子、またの名は雄当・おまさ)がみえる。さらに彼の三人の男子のうち、大化の右大臣が蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)であり、天智(てんじ)朝の右大臣の蘇我連子(むらじ)と左大臣の蘇我赤兄(あかえ)は、「蔵大臣(くらおおおみ)」と称されたと『公卿補任』にある。これらのことから、蘇我氏のなかでも蘇我倉氏を称する系統が、王権のクラ関係の職務に従事していたと考えられている。

 ちなみに、律令制以前の王権のクラは、官僚制や中央常備軍などの国家組織が未熟なため、家経費の収納と支出を扱う財政宮司としての機能よりも、貴重品・威信財の調達、収蔵、加工であった。ゆえに、天皇の正宮付近に集中していたのではなく、大和や河内の交通の要衝に分散して設置され、各種の手工業製品を加工、生産する工房と工人集団が付属していた(平林2002)。

 こうした王権のクラの実態は、大阪府大阪市中央区法円坂(ほうえんざか)にある、前期難波宮の下層から検出された5世紀中頃から後半の、建物規模が桁行(けたゆき)10m×梁行9m前後・平均床面積92㎡という、規格を統一した16棟以上の大型の高床倉庫群(写真2、横山・南1991、大阪市文化財協会1991)や、紀ノ川河口に位置する和歌山県和歌山市善明寺(ぜんみょうじ)の鳴海遺跡から出土した5世紀前半から中頃の、整然と建てられた7棟の高床倉庫群(『和歌山県史考古資料』)などから、垣間みることができる。

▶︎祭祀氏族・忌部氏

 『古語拾遺』に蘇我氏関連の所伝が載録された背景、蘇我氏と忌部(いんべ)氏の関係を考える上で注目されるのが、奈良県橿原市出我町曽我遺跡から検出された玉作遺構群である(奈良県立橿原考古学究所1983・1984)。概要を紹介しよう。

『古語拾遺』(こごしゅうい)は、平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。全1巻

我玉作遺跡は、古墳時代前期の4世紀後半頃に始まり、5世後半から盛期を迎え、大々的なの一貫生産が行なわれて、6世前半まで続く。それ以降は玉生が急減し、六世紀後半には終了る。前半は滑石(かっせき)製模造品の生産中心があり、後半には玉製品を、主とする。滑石製品には勾玉(まがたま)・管玉・小玉・円板・鏡・剣・紡錘車などがあり、玉製品には勾玉・管玉・丸玉・棗玉・小玉などで、原材料は碧玉(へきぎょく)・琥珀(こはく)・緑色凝灰岩・水晶・翡翠(ひすい)・埋木(うもれぎ)・ガラスなどと、多様である。他に、砥石・舞錐(まいきり)・銅製儀鏡・鉱滓(こうさい)・縄蓆文(じょうせきもん)土器・韓式系土器・製塩土器・須恵器・土師器(はじき)なども出土した。玉類の出土点数は数十万点・約2700kg(遺跡全体ではその10倍以上におよぶと推定)と大量であること、玉類の種類が多いこと、原材料もきわめて豊富なことなど、他の玉作遺跡では見られない特徴である。原料石材は、滑石は和歌山県、碧玉は出雲・山陰地方、緑色凝灰岩は北陸地方、翡翠は新潟県、琥珀は岩手県か千葉県と推定され、大量の石材が遠隔地から運ばれている。

 生産の規模・量ともに最大であること、原料が多様で遠隔地から運ばれていることなどは、きわめて意図的で強力な権力が介在していたことを示している。こうした玉類もクラの収蔵品であったが、特に注目されるのは、その地理的位置である。

 曽我玉作遺跡の所在地は、『紀氏家牒』逸文に「蘇我石河宿禰の家は、大倭国高市県(たけちのこおり)蘇我里なり。故に名を蘇我石河宿祢と云う」とあるように、蘇我氏の本貫(ほんがん・中心となる基盤地域)である。その北西には、蘇我氏が奉斎した延喜式内大社である宗我坐宗我都比古そがにいますそがつひこ神社も鎮座する。


 ところが、同遺跡のすぐ南が忌部(いんべ)氏の本貫(ほんがん)であり、その祖神(そしん)を祭る式内名神大社(しきないみょうじんたいしゃ)の太玉命神社(おおたまのみことじんじゃが鎮座する。

本貫(ほんがん、ほんかん)は古代東アジアにおいて戸籍の編成貫籍)が行われた土地をいう。 転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。 日本には律令制下の戸籍制度とともに概念が導入された。

 天太玉命という祭神名は、忌部正の前身が玉作工人集団であったことを物語る。この遺跡の歴史的重要性は、忌部正(前身集団)が蘇我氏の指揮下で、王権が必要とする各種玉類の製作に従事していもことを、示唆していることにある玉作もクラの職務であった。

 さらに、曽我玉作遺跡での玉生産が急減する頃に、王権の神祇(じんぎ)政策を統轄するしくみとして、「祭官制」創設されたとみられている(上田1968、岡田1970、山村英重1999)。これも、継体天皇系王権による新政策(後述)と理解されるが、それにより王権内の卜占(ぼくせん)を掌(つかさど)っていた集団が中臣氏、同じく玉作に従事していた集同が忌部氏となり、王権の祭祀を専掌する祭祀氏族に変貌した。

 こうしたなか、中臣氏が大連物部氏と親密な関係にあったことは、仏教崇廃抗争における共同歩調からも明瞭である。同様に、忌部(いんべ)氏は大臣蘇我氏と親密な関係を結び、両者はそれぞれの職掌(担当の職務)のこともあって、対峙する場合もあった。

 要するに、蘇我氏と忌部氏は本貫が隣接し、かつ王権の職掌(クラ)の上でも近しい関係にあったことから、蘇我氏の職掌に関する所伝(主張)の一部が「古語拾遺』に採録されたのであろう。

▶︎蘇我韓子(からこ)の朝鮮半島出兵

 次いで『紀』に登場する蘇我氏の人物は、満智宿禰の子という蘇我韓子宿禰であり、雄略天皇紀9(465)年3月から5月条にかけての、新羅遠征記事のなかに登場する。

吉備氏は四道将軍として崇神朝に吉備へ派遣され、日本列島の統一と発展に寄与した。主として5世紀の応神朝に繁栄し、吉備を筑紫・出雲・毛野と並ぶ古代の有力地方国家(国造)に発展させることに貢献した。吉備国内の造山古墳(全国第4位)・作山古墳(全国第9位)などの巨大前方後円墳は、その首長の墓として往時の勢力の大きさを今に伝えている。しかし、ヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚媛を母とする星川稚宮皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」によって勢力を削がれた。5世紀後半には、上道氏や下道氏の本拠地である吉備中枢部(岡山県南部平野)に集中的に部が置かれている。6世紀には、蘇我稲目・馬子親子が直接現地に赴き、児嶋(こじま)と白猪(しらい)の2つの屯倉を設置・増補している

 それは、雄略天皇7年以来の吉備氏や高句麗などがからんだ外交問題の顛末(てんまつ・最初から最後までの全事情)でもあり、蘇我氏の前史とその実態を考える上で、看過できない問題を含んでいる。関連記事全文の引用は紙幅を要するので、その概要を記そう。なお、蘇我韓子宿禰がみえる箇所には傍線を付した。

①7年是歳(このとし)条

吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は任那(みまな・倭国と関係深い朝鮮半島南部地域)に派遣されたが、その間隙に妻.稚媛(わかひめ・葛城玉田宿禰の娘・毛姫)が天皇に奪取されたことを恨み、新羅に通じた。天皇は田狭の子・弟君(おときみ)と吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)に新羅を討つように合じた。しかし、弟君も田狭と意を通じ、天皇に叛意(はんい)を示した。弟君の妻・樟媛(くすひめ)が夫を殺し、吉備海部直赤尾とともに手末才技(たなすえのてひと・新漢人・いまきのあやひと)を連れて帰国した。

②8年2月条

身狭村主音(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉国〈くれのくに・中国南朝の宋)に派遣したが、新羅からの朝貢は天皇即位以来行なわれず、好(よしみ)を結んだ高句麗王は兵士100人で新羅を護らせた。帰国する高句麗兵の会話から、真意が新羅を襲うことにあると知った新羅王は、国人(くにびと)に「人、家内(いへのうち)に養う鶏の雄者(おとり)を殺せ」と命じ高句麗兵を皆殺しにした。それを知った高句麗は新羅を逆襲、新羅王は任那王に救援を求めた任那王は、膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)・吉備臣小梨(おなし)・難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)を派遣した。彼らは地道を造り、歩兵と騎兵で挟み撃ちにして高句麗軍を破った。これ以来、新羅と高句魔は不和となった。

③九年三月条天皇自ら新羅出征を意図したが、神の戒めの託宣で思いとどまり、代えて紀弓宿禰・蘇我韓子宿頑大伴談連(大伴室屋大連の子)・小鹿火宿頑に征討第一章 蘇我氏の発祥 命じた。紀小弓宿頑は大伴室屋大連を介して、吉備上道采女大海を賜わり出征 した。しかし、大伴談建と紀岡前来日連は戦死し、大将軍の紀小弓宿禰は病亦 した。

④九年五月条 紀小弓宿頑の子・紀大磐宿禰は新羅に赴き、小鹿火宿禰軍を指揮下に置いた。それを恨んだ小鹿火宿禰は、紀大磐宿頑が「我、当に復韓子宿禰の掌れる官を執るらんこと久にあらじ」と話していると韓子宿禰に虚言を弄したので、両老は不仲になった。事を見抜いた百済王は二人を招き、轡を並べて赴く途中に、大海は帰国し、大伴室屋大連の計らいで夫・紀小弓宿頑の墓を田身輪邑(現大阪府泉南郡岬町)に築いた。別に紀小弓宿禰の喪で帰国した小鹿火宿頑は、八開鏡を大伴大連に奉納し、紀氏と訣を分かち、角国(周防国都濃郡、現・山口県旛 山市周辺)にとどまり、角臣(紀氏同族)の祖となった。

 ③は、早くに「日本側の物語で史実性に乏しく、……そのままでは史実と認めがぁい」という、京都大学助教授であった岸俊男氏の説(岸1966)がある。ただし、紀氏が王権と朝鮮半島地域の交渉に深く関与し、船運巧みな吉備氏と、海外交渉で連携関係にあったことは岸氏も評価している。

紀氏(きうじ)は、「紀」を氏の名とする氏族。大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。

 いっぽう、大阪市立博物館長などを務めた三晶彰英氏は、没後に刊行された著書のなかで、①の「吉備田狭(きびのたさ)関連の記事は、欽明天皇紀元年〜同六年条と大要が一致するから、欽明天皇紀の史実に照応する伝説化された日本側の所伝で」あり、信憑性に疑問があるとする。ところが、①については「朝鮮側の文献を主として利用したらしい節々が多く、史実に近い所伝である」と、異なる評価をしている(三品2002)。

 ①が、伝説化した所伝であったとしても、欽明朝から雄略朝に80年も年次を繰り上げるほど、時代の不確かなものであったとは思われず、一定の事実を読み取ることは可能であるとみる考えもある(山尾1989)。

 上の記事は紀氏や吉備氏系の所伝を中心にして編(あ)まれていると思われ、いずれも説話的記述が多く、事実関係の確定が困難な部分があるが、岸氏や山尾氏の説くとこえが穏当だろう。

吉備氏(きびうじ)は、「吉備」を氏の名とする氏族。古代日本の吉備国(岡山県)の豪族である。

 一連の所伝は、『三国史記』新羅本紀慈悲麻立干(じひまりかん)5(462)年5月条に「倭人が襲ってきて活開城(かつかい・現・韓国東南部か)を破り、虜人(とりこ)1000を連れ去った」とあることや、同6年2月条に「倭が歃良城(そうら・現・同国慶尚南道梁山・キョンサンナムドヤンサン)を侵したが、克(か)てずに去った」とあることにおおむね対応する。これらのことから、蘇我韓子宿禰に関わる半島出兵についても、その概略は認められよう。

▶︎騎馬で戦った蘇我韓子

 右の一連の所伝から、四六〇年代の倭国の外交に関して、おおむね以下の要点を抽出できよう。

Ⓐ吉備上道臣田狭・吉備上道采女大海・吉備臣小梨・吉備海部直赤尾など、吉備の 豪族が多く登場する。次に、紀小弓宿頑・紀大磐宿禰・小鹿火宿捕ら紀氏とその同族、大伴談連の出征と大伴室屋大連の関与なども、あながち疑うべき理由はな い。紀岡前来目連や蘇我韓子宿頑は、前者の人物群に比べて孤立的である。 

Ⓑ呉国(宋)への遣使と対高句麗・新羅政策の関連が語られている。 

Ⓒ新羅は、高句麗の撃肘から離れ独立性を高めようとしていた。 

Ⓓ任那もからんでいるが、任那には膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波苫士赤目子ら倭国 から派遣された集団が駐留し、彼らは任那王の指揮下に置かれていた。 

Ⓔ倭国から派遣された集団は必ずしも一枚岩でまとまっていたのではなく、紀大般 宿礪と小鹿火宿頑は同族でありながら不仲であり、蘇我韓子宿頑と紀大磐宿頑ま 対立していた。さらに、吉備上道臣田狭も天皇を快く思っていなかった。 

Ⓕ歩兵だけでなく、騎兵も用いられている。 

 Ⓐの紀岡前来目連蘇我韓子宿禰が史料上、孤立的であることは、彼らについての所伝は作為性が少ないことを意味する。

 ⒷⒸⒹは、当時の倭国が東アジアの外交に敏感に反応していたことを物語るが、ヤマト王権から任那に派遣された集団任那王の指揮下にあったことは、任那問題を凄える上で注目される。

 Ⓔの倭国派遣集団の内部対立は、ヤマト王権の制度的未熟性と各民族の独自性保持を物語るものであり、当時の王権の実態を考察する上で興味深い。

 要するに、倭国の中国南朝・宋との交渉にも関わり、新羅が高句麗の撃肘から離ふようとする動きに連動して派遣された、吉備(上道)氏・紀氏・大伴民らを核に編虚されたヤマト王権の遠征軍に、蘇我韓子宿禰に代表される集団が含まれていたことけまちがいなかろう。これは、のちの大臣蘇我氏の外交のさきがけとして留意される。

 さらに、蘇我韓子宿禰関連の所伝で注目されるのは、彼が騎馬で戦っていることやぁる。これは蘇我氏が早くから馬を導入していた可能性を示すものであり、馬飼集団との関係も考えなければならない。

 その際に注目されるのが、奈良県橿原市曽我町の南曽我遺跡である。同遺跡から、5世紀後半から末頃の馬を埋葬した遺構馬墓)が検出されているが、蘇我韓子宿禰が騎馬戦で活躍したと伝えられる時期とほぼ重なるのも偶然とは思われない。蘇我氏と馬飼集団の関係は、ほとんど指摘されることがなかった点である。今後、蘇我氏の特徴として重視されるべきである。

▶︎「韓子」は何を意味するか

 「韓子」という語に関わり、継体天皇紀24年9月条の「吉備韓子那多利(なたり)・斯布利(しふり)」に、「大日本の人、蕃(となりぐり)の女を娶(と・めとる)りて生めるを、韓子とす」という分註が付されている。このことから、蘇我氏渡来人出自説とも関わり、蘇我韓子宿禰の母を韓人の女性とみる向きもあるので、記しておこう。

 那多利と斯布利が吉備氏と韓人の女性の間の生まれであり、その出自のゆえに「卓備韓子」と称されたことは確かであろう。ただし、吉備に加えられた韓子は、個人の名ではなく、その母系の出自を示すため氏名(うじな)に添えられた語である。それに対して、蘇我韓子宿禰は、韓子を除くと個人の名がなくなるから、それが出自を示すために添えられたのではなく、個人名であることは明白である。

 つまり、蘇我韓子宿禰の韓子が、母が帝人の女性であつたからか、それとも一族や彼自身が韓の地域に何らかの縁があったからつけられたかは定かでない。韓子の「子」は、後述する馬子や妹子と同じく、個人名の「」に付された称辞と解することも可能であるから、韓子の名をもって蘇我氏渡来人出自説を主張することはできない。

 いずれにしても、前文の③④は、5世紀代の蘇我氏に関する数少ない記事であり、この時期の蘇我氏について考察する上で見逃せない。蘇我氏が、吉備氏や紀民らとともに朝鮮半島に出兵し、騎馬で活躍する軍事的集団であったこともみてとれる。しかし、原史料を考慮しても、いまだ紀氏や吉備氏らより上位の存在とは描かれていない。おそらく、当時の蘇我氏は、5世紀の王権を主導した葛城氏政権を構成する、有力成員の一人にとどまっていたものと思われる。