葛城の王都

■葛城の王都

坂 靖 

▶︎王をささえた手工業生産

 南郷遺群中央部の高所に位置する南郷角田(かどた)遺跡では、さまざまな原材料を用いて大規模生産をおこなった特殊工房が確認されている。

 県道に沿ってあけた幅4mのトレンチの北端部分で、粘土層を掘り込んでつくられている5世紀末頃の竪穴住居や製塩土器、琥珀製の勾玉などが確認された。さらにその粘土層を除去すると、その下層は著しい熱により赤化した砂層であった。その砂層のなかから膨大な量の金属、ガラス、鹿角(ろっかく)製の遺物が混じり合って検出された。これらの遺物は、ほとんどが幅1㎝に満たないごく小さなもので、土をふるいにかけてはじめて確認できた。赤化した砂層を除去すると、その下層からは壁面が赤く焼けた穴が並んだ状態で確認され、出土した土器には韓式系土器や須恵器が多く含まれていた。

 このような状況から、ここで土が焼けるほどの高い熱とさまざまな原材用いて再生産や加工がおこなわれ、なんらかの製品が生産されたことを想像することはたやすい。年代は、5世紀前半代である。しかし、その製品がなんであるか、いまだに判然としていない。

▶︎ 謎の小鉄片

 赤化した砂層から出土した遺物のなかで、もっとも数多く確認されたのが小鉄片である(図30)。総重量は1kgに達する。大きいもので縦・横0.5㎝で、厚さは0.3〜0.9㎜ほどのきわめて薄いもので、簡単に壊れてしまう。その表面に黒錆が発生しているものが多いが、一部赤く錆びているものもある。なかには直径1〜2㎜ほどの小さい孔がうがたれているものも見受けられる。鋲を金槌で叩いて鍛造するときには、熟せられた鉄が飛び散る。これらは鍛造剥片(はくへん)と称され、遺跡から発見されることもあるが、縦・横1〜2㎜ほどのごく小さいものである。ここで確認されたのはその10倍にも達する大きさである。また、孔がうがたれたものが存在するので、これを単純な鍛造剥片として理解することはできない。

 大澤正己氏や佐々木稔氏など、鉄を研究する自然科学者の意見を仰いだが、大澤氏は意図的に鉄を叩いてつくつた鍛造剥片であり、これをさらにこまかく砕き、鉄精(てっしょう)とよばれる研磨材として利用した可能性を指摘した。また佐々木氏は、銅を溶かし、熱量を調整する目的(造滓剤・ぞうさいざい)で、ほかの原材料とともにこれを用いたと考えた。遺跡内では鉄滓(てっさい)や羽口(ふいごはぐち)の出土がないことから、単純に鉄器の鍛造だけをおこなっていたわけではないことが明らかである。鉄滓とは、鉄の精錬、鍛冶、鍛造のさまざまな過程で排出される鉄の残滓をさす。羽口は、ために風を送り込む装置(鞴)にとり付けられた土製品である。南郷遺跡群では、鞴羽口は40点以上、鍛冶に関連する鉄滓が30kgあまり確認されており、盛んに鍛冶をおこなっていたのは間違いないが、南郷角田遺跡ではそれらが出土していないのである。一方、鉄製品の出土量は少ないが、甲冑の一部と思われるもの、鋲留めした鉄製品釘状の鉄製品などもみつかっていて、これらは鉄製武器・武具の部品と考えられる(図31)。

▶︎ 金・銀・鋼

 鉄以外の金属では、金、銀、銅がある。銀の出土量はごくわずかで、総重量は8gである。熱をうけ、球状や滴状になったりした銀滴図32上)で、生産物を加工するときに生じたゴミだろう。古墳時代の銀製品としては、指輪や空玉(うつろだま)・帯金具などがあり、また刀剣に象嵌を施す例もみられるが、生産物のゴミとして銀が出土することは、これが唯一にして最古の事例である。

 銅は弥生時代以来国内生産が盛んにおこなわれており、本遺跡では製品と銅滴(どうてき)・銅滓が出土している(図32下)。製品には円環状のもの、棒状のものがあるだけで、用途はさだかではない。なにかの部品か、それとも再生産のための端切れなのか、はっきりしない。そうしたなか、冶金学を研究する久野雄一郎氏の分析により、注目すべき結果がでた。銅滴・銅滓は全部で180gあるが、銅棒には金が0.12%も含まれていたのである。この数値は、銅の地金に含まれている数値ではなく、金や金銅製品が溶けだしたものだというのだ。

図32●銀滴(上)と鋼滴・銅製品(下)金・銀を用いた生産を示す最古の考古資札

  南郷遺跡群と同時期の古墳には、帯金具胡籙(ころく・馬上で用いる矢をおさめる道具)などの金銅製品が副葬されており、鉄を下地にした金銅製品などの生産が本遺跡でおこなわれた可能性が指摘できる。

▶︎ガラス製品やくだかれた鹿角(ろっかく)

 ガラスも製品と滓が出土している(図33左)。製品は、直径5㎜以上の丸玉が40個、小玉が1,529個、管玉(くだたま)が4個などで、その多くが熱を受け溶着していた(図33右)。ガラス滓は、122gほどで、これも、熱を加えて加工した際のゴミである。

 鹿角は、刀剣や刀子の鞘(さや)や把(つか)を飾る装具として用いられるもので、直弧文とよばれる文様が施される(図34)。本遺跡で出土しているのは、それが砕かれたかのような細片であり、しかも熱を受けて黒ずんでいるものも多く見受けられる。総重量は1,877gに達する。重量としてはこの遺物がもっとも多い。刀剣・刀子など武器生産をおこなったときのゴミという見方が可能だろう。

 さらに、これらの遺物が集中して出土した地点から少し離れた位置で、滑石製小玉が合計687個出土している。原材料やなんらかのゴミというより、生産に際しておこなわれた、まつりの痕跡とみることができる。

▶︎ 特産品の生産

 この遺跡は、南郷遺跡群における大規模工房である。いろいろな原材料をもとにそれらを混合するという複合的な生産工房であり、熱を加え、さまざまな製品を加工したコンビナートのような役割を担っていたと想像できる。武器を中心とした特産品を生産していた南郷遺跡群の特殊工房であつたと考えられる。南郷遺跡群の南7kmに位置する五條猫塚古墳では、都から蒙古鉢形の冑とともに、挂甲(けいこう・)小札(こざね)金銅製の龍文帯金具がくっついた状態で出土している(図35) 。

 桂甲は、小札とよばれる小さい鉄板を何枚も綴じ合わせた新式の鎧で、古墳時代中期以降に出現する五條猫塚古墳の鎧の場合、龍文のついた帯が巻かれていた可能性がある。帯は役人が締めるもので、甲冑は兵士が身につけるものだ。きわめて特殊な使い方といえるが、南郷遺跡群の生産品は、このような特殊ものだつた可能性が高い。

▶︎ 鉄と塩の交易センター

▶︎高台の倉庫

 井戸大田台(おただ)遺跡は遺跡群中央の高所にあり、奈良盆地全体を見渡せる。約9m(約26坪)のきわめて大規模な総柱構造の掘立柱建物が3棟、南北に並んでいた(図36)。周囲の地形から判断すると、それ以上の建物が存在した可能性は少ない。総柱構造とは、床下部分にも柱を立てて、床を支える構造で、重量物を載せてもその重みに耐えられるようになっている。そうしたものを入れる倉庫であろう。

 古墳時代中期における同様の大規模な倉庫群は、奈良県では布留遺跡に例があり、そのほか大阪府の法円坂遺跡、蛍池東遺跡、和歌山県の鳴滝遺跡などでも確認されている。井戸大田台遺跡例がこれらの遺跡と違う点は、塀(柵)が二列あり、1間×9間以上という非常に細長い建物をその間に付属させていることである。

 調査当初、この倉庫群は前述した南郷角田遺跡の特殊工房で生産された金属製品などを収納したと予想した。しかし、この建物は5世紀後葉に建てられたことが出土遺物から判明し、その想定は成り立たなくなった。残念ながら、柱穴の掘方からは滑石製管玉や剣形石製品などが出土したが、倉庫におさめたと考えられる遺物は出土しなかった。そのようななかでも、倉庫におさめられた物を探る手がかりはある。

▶︎ 倉庫におさめられた物資

 倉庫群から約500m東方に位置する南郷九山(くやま)遺跡の西端では、約10kmにおよぶ鉄滓が検出されている。この鉄滓の量は南郷遺跡群でもつとも多く、それに見合う量の鉄器を周辺で製作したことが想定できる。まず、この鉄器が倉庫におさめられたと考えられる。もうひとつ、南郷遺跡群周辺では入手困難な塩がここに収納された可能性がある。倉庫群の南方と西方には、5~6世紀代の竪穴住居群がある。西方の住居群は5世紀前半のもの、南方の住居群は5世紀後葉の倉庫群とほぼ同時に営まれたものである。また、南方では竪穴住居に混じって6世紀代の大壁建物も検出されている。西方では、主柱穴の並び方やつくりつけ竈(かまど)の有無などで違いがみられるものが、隣接して二棟一組になる状況を確認できた。さらに、これらの住居の貯蔵穴および竃内から製塩土器片が出土した。

 製塩土器とは、海水をこしたものを土器内に入れ、煎じ詰めて塩を得るための容器である。その容器は、生産地では塩を液体からゼリー状などの半固形物にして、そのまま消費地へ運ばれ、消費地では再加熱して精製塩を得るという複数の用途を兼ねていたと想定されている。塩は内陸部では得られない重要な物資なので、王がみずからの支配領域を掌握するために、最大限にその富として活用したことは容易に想像できる。

 南郷遺跡群内でも南郷大東遺跡多田桧木本遺跡という、王がかかわったとみられる施設での出土量が他を圧倒していることはそれを象徴していよう。また、製塩土器の形により、生産地もある程度推定できるが、それによると、大阪湾岸産紀ノ川河口部産とがあり、前者が圧倒的に多い。

 井戸大田台遺跡の倉庫は、いわば塩と鉄の交易センターとしての役割を担っていたと考えられる。

■ 親方層の住居と渡来人

▶︎大壁建物

 遺跡群のほぼ中央、南郷角田遺跡のすぐ東側で、南郷角田遺跡と同様、調査の初年度に確認されたのが南郷柳原遺跡である。古墳時代の一般住民は、竪穴住居に住んでいたわけだが、この遺跡で確認されたのは、石垣の基壇をもつ大壁建物である(図37)

 石垣は上端が大きく削られて、高さは70㎝ほどしか残っていないが、すべり落ちた石の状態からすると、本来の高さは1.5m以上におよんだものと考えられる。その平面形はL字形に曲がり、南北は13m以上、東西は3.5m以上である。石垣のコーナーにあたる場所は、6世紀代の竪穴住居がつくられ、大きく破壊されているが、住居の下層では石垣の基底石と考えられる石も残っている。石垣の間からは、5世紀前半代の土器の破片が出土している。

 大壁建物は石垣と方位を揃えて建てられたものである。壁のなかに柱を埋め込んでしまう構造を大壁づくり、それに対し、柱と柱の間に壁をつくり、柱が外観からみえる構造を真壁づくりという。奈良県では明日香村の前(ひのくま)遺跡群や高取町の観覚寺遺跡、滋賀県では穴太遺跡群など渡来人の居住地で溝のなかに柱をたくさん建てた大壁建物が多く確認されており、「渡来人の家」とされている。ただし、類例が少ないため、建物の詳細な構造を把握することはむずかしく、実際それらが大壁づくりであったかどうかもさだかではない。ただ日本列島では根付かず、朝鮮半島からの渡来人が残したものとして意義づけられる点が重要である。

▶︎ 大壁建物は百済が源流か

 南郷柳原遺跡の大壁建物は、北側と東側の上端が大きく削られ、北辺部についてはまったく残っていないので、正確な規模はわからないが、東西7m、南北9.7m以上の長方形の平面プランで、溝内で柱の痕跡を確認したほか、東西の短辺側中央(妻部)に大きな柱の抜き取り痕跡が確認されたことから、棟持柱(むなもちばしら)を独立させた構造であったと考えられる。周辺からは、土器のほか鍛冶関連遺物や大型の鉄塊が確認されており、この住人が鉄器生産に関連した人物であったことを想像させる。

 この大壁建物の遺構・遺物の状況から想定される年代は、ほかの遺跡と同じく、南郷遺跡群の盛期である5世紀前半で、日本国内で検出されているなかでは最古となる。高取町大壁建物の発掘

 一方、朝鮮半島においても、公州(コンジュ)武寧王陵の近くで発見された艇止山遺跡をはじめ、百済が都を熊津(ウムジン・公州)や泗沘(サビ・扶余・ブヨ)においてから後の、6〜7世紀代の事例が多く、南郷遺跡群の事例が突出して古いことが問題となっていた。ところが、最近百済が漢城(ハンソン・ソウル)に都をおいたときの王宮と考えられる風納土城(プンナップトソン)で、その起源と考えられる大型の竪穴住居が確認されたことにより図38)、源流は百済にあるという考えが浮上してきた。住居の壁沿いに幅の広い溝を掘り、柱を建てている点は大壁建物と共通するが、その構造などわからない点も多く、大壁づくりかどうかは、はっきりしない。大壁建物の源流かどうかはまだ断定できないが、その可能性は高い。

■ 人びとの生産活動

▶︎ 王をささえた多彩な手工業生産

 遺跡群の各所では、丘陵の高所を中心に、竪穴住居が集まった集落が散在している。小規模なものとしては、竪穴住居4〜5棟で構成される南郷千部(せんぶ)遺跡や南郷田鶴(たづ)遺跡、大規模なものとしては、竪穴住居10棟以上が集中的に確認されている下茶屋カマ田遺跡佐田柚ノ木(ゆのき)遺跡がある。

 これらは葛城の王のもとにあって、集落の内外で手工業生産を中心とした盛んな生産活動をおこなっていた一般住民の居住地である。南郷遺跡群を葛城氏の工業団地と称する理由がここにある。手工業生産の様相と、それぞれの集落における渡来人のかかわりを中心に、各集落の状況をみていこう。

▶︎ 在来文化と渡来文化の交流−南郷干部遺跡

 遺跡群のほぼ中央にある南郷千部遺跡では、一辺7mの大型の竪穴住居一棟が高所にあり、その下方で一辺3〜4mほどのごく普通の規模の竪穴住居が三棟確認された(図41)。南郷千部遺跡の北側は、親方層の屋敷が確認された井戸井柄遺跡までの約150mの間に遺構がなく、周囲からは孤立した環境にある。三棟の住居からは同時期の須恵器出現期にあたる5世紀前半代土器が出土している。住居は方位を揃え、間隔もほぼ等しいことから、きわめて計画的に配置されたものであることがわかる。大型の竪穴住居からは、たくさんの土器のほか、ミニチュアの鉄斧が出土している(図48)

 それらのなかには、鍛冶をおこなつたときの試作品と考えられるものがあり、朝鮮半島では古墳からの多数の出土例があるほか、鉄器生産にかかわる集落で出土することがある。こうした遺物が日本の古墳時代の集落から出土したときは、渡来系の鍛冶集団に関連する遺物と考えられる。南郷千部遺跡全体で、鞴羽口が一点、鉄滓が244g出土している。これは、遺跡群内の他の遺跡にくらべると少ないが、ミニチュアの鉄斧とあわせて考えると、竪穴住居の住人が鍛冶生産をおこなっていた証拠であるともいえる。この住居のすぐ東側の竪穴住居では象徴的な土器が出土している(図42)。

 一つは、蒸し器として使う甑(こしき・米を蒸すための調理道具として使われていた)に転用したと考えられる土器で、布留式甕とよばれる在来の煮炊用の土器の底に直径一センチほどの蒸気孔をいくつもあけてあった。甑形の土器は朝鮮半島では早くに出現するが、日本では須恵器生産が伝えられた古墳時代の中頃に伝わり、渡来人がもたらした韓式系土器の代表格といえる。韓式系土器の甑は、南郷遺跡群の各地で多数出土しているが、南郷千部遺跡では韓式系土器はきわめて少なく、そのかわりに在来の土器に孔をあけてその代用品としているのである。渡来文化と在来文化の折衷である。

 今一つ、特徴的な土器がある。土師器独特の器形である小型丸底壷とそれをそっくり写した須恵器、須恵器の器形である(はぞうまたははそう・上写真右下・土器)とそれをそのまま写した土師器が、セットで出土している。土師器と須恵器の製作者が交流していたことのあらわれである。南郷遺跡群内では、時折こうした土器が認められるが、住居内でセットとして出土しているのはめずらしい。

はそう・・・腹部に小孔をあけた壺形の須恵器。土師器 (はじき) にもこの形をまねたものがある。小孔に竹などを差込み,液体をつぎ出すものと推定されている。古くは飲酒の道具であるとか,管楽器であるとする説もあったが,確かではない。

 南郷遺跡群内で須恵器窯はまだみつかっていないが、地形からみて、それが存在した可能性はきわめて高い。須恵器生産の技術も朝鮮半島からの渡来文化でぁり、転用甑の存在とあわせて考えると、この住居の住人が、さまざま土師器つくるなかで渡来技術を導入し、遺跡群内で須恵器生産を開始したとみることができる

▶︎ 南端部の小集落・・・南郷田鶴遺跡

 南郷田鶴(だづ)遺跡は、南郷遺跡群の南端部の小集落の一つである。奈良盆地の眺望はあまりきかない。急な斜面の狭い平坦面を利用して、数基の竪穴住居を営んだようである。調査では二基を確認した。いずれもつくりつけのをもち、土器が出土している。土器のなかでは、とくに異形の高杯が注目される(図43)。

 杯部全体に縦長の長方形透かしを二段に交互に配した特異な形状をしている。国内では大阪府の太秦古墳群、三重県の八重田古墳群などに近い形のものがあるが、いずれも一段の透かしである。また、朝鮮半島では南東部の新羅・伽耶地域に近いものがあるが、現状では同じ形のものはみられない。

 南郷田鶴遺跡や前述の南郷千部(せんぶ)遺跡では、渡来人の痕跡はほとんど認められない。この高杯なども渡来人の存在を直接裏づけるものではない。韓式系土器はわずかに存在するが、朝鮮半島から直接輸入されたと考えられるものはない。南郷遺跡群全体でも、そうしたものはごく少数しか認められない。南郷遺跡群の一般住民は倭人がほとんどで、ひとにぎりの渡来人が手工業生産の技術指導をしていたのだろう。

 韓式系土器は、日本列島に積極的に受容され、在来の土師器の形に大きな影響を与えた。が導入され、食生活など生活様式も大きく変わった。5世紀前半頃には、土師器と韓式系土器の中間的な土器がたくさん出現する。土師器をベースに、試行錯誤をくり返しながら、それぞれ独自の形態を編み出したようである。その受容の速度は、地域によって違っていたと考えられる。南郷遺跡群では5世紀後半に韓式系土器がほぼ姿を消すので、その時期に渡来文化の受容が完了したと考えられる。

▶︎ 渡来人とオンドル・・・林遺跡

 南郷遺跡群の最南端にあるのが、林遺跡である。林遺跡の西側や南側では古墳時代の居住地はとだえ、横穴式石室を埋葬主体とする古墳群になつている。ここでは、五世紀前半頃の一辺5mほどの竪穴住居が、重なることなく9棟検出された。大壁建物や掘立柱建物はなく、竪穴住居だけが建ち並ぶ集落景観が復元される。一般的な竪穴住居の竃は、煙を直線的に屋外に排出するような構造になっている。南郷遺跡群でこれまで検出された竪穴住居は、ほとんどがこうした竃(かま)をつくりつけていた。林遺跡でも五棟で竃が確認されたが、そのうち四棟はこうした普通の竈で、一棟が煙を壁際に滞留させる構造をもっていた(図49)

 竃の焚き口からのびる煙道が1字形に曲がっており、「L字形竃」と称される

 近年、明日香村の槍隈寺の隣接地で、人世紀代の竪穴住居につくりつけられた石組みのL字形竃が検出された。檜隈寺(ひのくまでら)は、渡来人が再編成され、蘇我氏の統括下におかれた東漢氏の氏寺である。古墳時代の事例では、林遺跡の事例が奈良県内唯一となる。他府県では石川県額見町遺跡などに例があり、朝鮮半島系の渡来人と関連づけることができる。

 竃の煙を熱源とする床暖房をオンドル(温突)という。現代の朝鮮半島では、ガスを熱源とする温水床暖房施設をオンドルと称しているが、かつては竃を熱源としていた。朝鮮時代の建物では、現存する事例と発掘調査での検出例がある。一方、同様に竃を熱源とし、住居の壁のなかやベッドに管を通して煙を滞留させ、暖房のほか、さまざまな用途に供する坑という施設が、中国東北地方に認められる。L字形竃の構造は、オンドルというより坑に近い。

 最近、朝鮮半島やロシア沿海州では各時代の竪穴住居が数多く確認され、竃や炉にともをつ排煙装置の事例が増加してきた。その構造にはさまざまなものがあり、系統をめぐる諸説がある。林遺跡のL字形竃の場合、朝鮮半島の百済地域で確認されている坑に構造的に近いとみることが可能だろう。もつとも、この住居をはじめとして林遺跡では、韓式土器の出土はほとんどなく、の L字形竃にのみ渡来人の影響をうかがわせる。