中国古代鉄器の起源と初期の発展

■中国古代鉄器の起源と初期の発展

白雲翔(中国社会科学院考古研究所)

▶︎はじめに

 、それは人類史上出現した革命的で最も重要な金属です。古代社会にお.てはその他のどんな金属あるいは非金属の歴史的作用とも比較にはなりません。鉄器の出現は、人類史において1つのまったく新しい時代・・・鉄器時代を創始したのです。このことから、鉄器の起源と古代鉄器文化を探求することは、古代社会の歴史や文化の研究において重要な分野となったのです。

 古代東アジア世界において、鉄器は中国で最初に出現しました。その後、徐々に東北アジアや東南アジアなどの地域に伝播し、東アジアの鉄器文化が出現し、発展したのです。このことから、中国古代の鉄器の起源と初期の発展を研究することは東アジア全体の鉄器文化の起源と発展を研究するカギとなるといえます。中国古代鉄器の起源と発展について述べると、考古学的発見と研究にもとづき、新疆(しんきょう)地域と広義の中原地区(黄河中下流域と長江中下流域を中心とする地域)に分けることができます。つまり、新疆地域の初期鉄器を代表とする「西北系統」と中原地域の初期鉄器を代表とする「中原系統」です(白雲翔2004a)。中原系統はまさに古代中国における独特の鋼鉄技術の体系と鉄器文化の伝統を代表しています。それだけでなく、東アジアその他の地域の鉄器の起源は、中原系統の直接の影響の下で発生したのです。

 ここでは考古学の発見をもとに、冶金学の成果を加えて、中原系統の鉄器を中心とする中国古代鉄器の起源と初期発展について論述します。東アジアの古代鉄器起源と発展研究の一助となれば幸いです。

▶︎殷代から西周時代の鉄器と製鉄技術の起源

 中国において、考古発見の古代鉄器で最も早いのは、段代と西周にまで遡り、製鉄技術の起源を検討できる実物の資料が多く出土しています(図1)。

▶︎(1)考古学上の殷代鉄器の発見

 殷代(紀元前16〜前11世紀)の鉄製品は、これまでに3地点から計4点が発見されています(図2)(白雲翔2005)すべて鋼体鉄刃器で、銅体鉄刃銭と銅内鉄援弐とがあります。

 銅体鉄刃鉞は、計3点あります。銭の体部は銅製で、刃部は鉄製です。1点は、1972年河北藁城県台西村殷代墓から出土しています(図2-1)内に1つの円形の孔があり、欄の外側、両面に均しく2つの乳釘文が装飾されています。残長11.1cm、欄部幅8.5cm、鉄刃は隕鉄を用い加熱鍛打後、体部に象嵌が見られます。年代は殷代中期です。1977年北京平谷県劉家河段代墓から出土した1点は、内に1つの円形の孔があります(図2−2)。残長8.4cm、欄部幅5cm。鉄刃は隕鉄(主成分が鉄とニッケルから成る隕石(いんせき)を鍛打して製作しています。年代は代中期です。伝河南渡県辛村出土の1点は、内が上部に偏り、末端に龍文を装飾しています(2−4)。内の中ほどに1つの円形の孔があり、欄部は上下に突出しないが、外側に細長い孔が2つあります。残長17.1cm、幅7cmで、鉄刃は隕鉄を用いて鍛造加工し、体部(まさかりの刃の部分)象嵌をしています。年代は殷末です。

金属の製錬技術を持たなかった時代あるいは地域の人々は、隕鉄を貴重な金属として、道具に使っていた。天からもたらされた物質であることが知られると、宗教的な意味づけが加わり、珍重されることもあった。現代では、もっぱら隕石としての博物学的な価値があるのみである。古代の西アジアや中国では、鉄使用の初期の頃、隕鉄を利用したが、量が限られたため、青銅に代わって、鉄器が主流となることはなかった

 銅内鉄援戈は、わずか1点しか発見されていません。伝渡県辛村出土とされる資料で、残存長18.3cm。鉄製援部は隕鉄を用いて鍛造加工を行なっています(図2−3)。年代は殷代末です。

 これまで発見された殷代の鉄製品は、明らかに共通する特徴を備えています。それは、戈類の兵器に限られるということです。その器体は鋼製でわずかに刃部は鉄製です。鉄刃部は隕鉄を鍛打した後、銅製の器体の上に象嵌しています。その年代は殷代中期から後期で、発見地は今の華北地域に集中しています。すなわち、それは殷王朝の北部地域です。このことから見ると、中国において人工製錬の発明以前に、遅くとも紀元前1300年前後には人々は鉄金属の性質に対する知識を持って、自然隕鉄の加工と利用を始めていたことになります。

▶︎(2)考古学上の西周鉄器の発見

 西周時代(紀元前1046〜前771年)の鉄製品は、これまで2ケ所であわせて7点が発見されています(白雲翔2005)。銅内鉄援戈、王柄鉄短剣、鋼骹鉄葉矛、銅銎鉄刃錛、銅柄鉄削刀などがあります(図3)。そのをかで、挟西韓城県梁帯村周墓から発見されている1点の銅柄鉄削刀(挟西省考古研究所2006)以外のすべては、三門峡市(かく)国墓地から出土しました。年代は西周晩期で、紀元前800年前後です。

 銅内鉄援戈は2点あります。三門峡M2009:703(図3−5)は、残長19cm、銅製援の根部と内の正面と背面にはトルコ石によって象文をど錡(き・のこぎり)の文様が象嵌されています。銅内と鉄援は鍛接されており、鉄援部分は隕鉄製品と鑑定されています。三門峡M2001:526(図3−4、口絵1)は、残長17.4cm、銅製援の板部と内の正面、背面には均しくトルコ石片象嵌されています。鉄援と銅内は鍛接されており、鉄刃は人工の塊錬鉄製品と鑑定されています。玉柄鉄短剣は1点あります。三門峡M2001:393(図3−1)で長さ34.2cm、鉄剣の身長22cm、銅芯と玉柄は象象嵌と組み合わせてつながれており、鉄剣身は塊錬滲炭鋼製と鑑定されています。

 銅骹鉄葉矛は1点あります。三門峡M2009:730(図3−2)で銅骹と鉄葉によって嵌接しており、破損していますが、鉄援は残長12.7cm、幅2.9cmで、鉄葉は塊錬湊炭鋼製品と鑑定されています。

 銅銎鉄刃は1点あります。三門峡M2009:720(図3−3)で残長11.3cm、刃部幅2.6cmで、銅製竪巷と鉄製刃部は鍛接されています。銎身(きょうしん)の正面と背面には龍文が鋳出され、竪銎内には木柄が残留しています。鉄刃は隕鉄製品と鑑定されています。

 銅柄鉄削刀は2点あります。韓城県梁帯村M27出土例と三門峡市故国墓地M2009:732で、銅製の刀柄に鉄製の刀身で、両者は鍛接されています。三門峡M2009‥732は長さ11・2cmで、鉄製刀身は隕鉄製品と鑑定されています。

 これまで見てきた西周の鉄器は、すべて銅(玉)複合製品の鉄刃の部分です。鉄刃と銅製器体は鍛接あるいは軟接されています0年代は西周晩期です。発見地は河南省西部と関中東部の黄河沿岸に集中しています。段代鉄器に比べ、2つの点で明らかに変化が見られます。1つは、人工製鉄製品が出現したことです0塊錬鉄と塊錬湊炭鋼です0もう1つは、器種の増加です。鉄製武器のなかで短剣と矛が新しく出現しただけでなく、錬と削刀などの加工具も新しく出現しました0このことから、紀元前800年前後の西周後期に人工製鉄が発明され、鉄器の製作は武器から生産具にまで拡大したことがわかります。

▶︎(3)段代から西周時代にかけての鉄器から見た製鉄技術の起源

 考古学上発見された股代と西周時代の鉄器資料には限りがあります。しかし中国古代鉄器の起源およびその特徴については、すでに次のようなことが明らかになっています。

①紀元前13世紀の段代中期に隕鉄製品が出現しました。人間が鉄金属の 性能に対してすでに初歩的な認識を持っており、隕鉄の加工と利用を始 めていたことがわかりました0自然隕鉄の加工と利用により、鉄金属の 知識が積み重ねられ、人工製鉄を発明する基礎がつくられました。

②紀元削00年前後の西周晩期に人工鉄製品が出現しました。人工製鉄 がついに発明されたことになります。製鉄業発生の初め、採用されたの は塊錬鉄技術です0世界の他の製鉄起源地の最初の製鉄技術と同じです。 しかし、塊錬鉄製鉄技術発生と同時かあるいはまもなく塊錬渉炭鋼技術 が発明されました0こうして、人工製鉄の実際の活用のための技術的基 礎が固まったのです。

③これまでのところ最初の人工製鉄製品は、すべて河南西部と関中東部 の黄河沿岸の一帯で発見されています0このことから、中国古代人工製れます。この一帯はまさに周文化の中核地域です。 

④ 最初の人工製鉄製品は、自然隕鉄製品の製作技術と伝統を継承していました0鍋兵器の刃部の製作に鉄を用いたのです。まさに人工製鉄発生前後、鉄金属の活用が加工具の製作にも拡がり始めたことになります。 

⑤ 自然隕鉄製副子しても最初の人工製鉄製品にしても、当時はすべて貴 重でまれなものでした。このことから、その使用は高級貴族などの社会の上層部に限られていました。 

▶︎2 春秋時代の鉄器と鋼鉄技術体系の始まり

 春秋時代(紀元前770〜前476年)の約300年間、鉄器の種類は増え、鉄器の利用は初期の発展を遂げ、中国特有の鋼鉄技術体系が形成されました。

▶︎(1)春秋時代鉄器の種類とその特徴

 春秋時代の鉄器は、生産工具、武器と日用器具など大きく3類に分けることができます(図4)

◉生産工具

 春秋時代の鉄製生産工具には、主に伐採や木材加工に用いる斧や鋳、土木や農耕に用いる簸、鐘、鉢、加工作業に用いる欽刀、鈷、削刀などがあります0斧は空首斧、両面刃のものです。湖北林帰県柳林渓H18:1(図4−16)は長さ9・5cm、年代は春秋晩期です。鉾の構造は空首斧に類似しており、体部は比較的細長く、刃は片刃です。湖北荊門市響鈴崗T15③‥51(図4−17)は長さ8・4cm、年代は春秋晩期です0簸は竪丑顕を持ち、竪豊の背面は凹字形を呈しています。梯帰県柳林渓H18‥2(図4−18)は残長11.3cmで、年代は春秋晩期です0鐘は長方形あるいは梯形の竪豊を持ち、体は比較的広く作っています0湖北宜昌県県上磨哨Tll⑤=6(図4−11)は、長さ8.8cmで、年代は春秋中期です0鈷は2種類あります01つは、凹口銭で、形状は凹字形を呈しています。林帰県柳林渓T3③‥3(図4−15)は、長さ9.1。mで、年代は春秋晩期です。もう1つは、横長方形を呈し、断面はⅤ字形です。険西風翔県馬家荘K132:1(囲4−13)は幅13・2cm、年代は春秋晩期の紀元前6世紀末菓です0枚刀はわずか1点の出土です○柳林渓BT1817③=1(図4−7)は、刀身は比較的広く、残長11・8cmです0鐘は長条形を呈し、断面はⅤ字形あるいは弧形を呈しています。湖南長沙市楊家山M65‥6(図4−9)は長さ17.5mで、年代は春秋末期です。削刀は数量が比較的多く出土していますが、形態はだいだい同じです。その構造から2つに分類できます。1つは全鉄製のものです。荊門市響鈴崗T9③A:49(図4−6)は残長21cmで、年代は春秋晩期です。もう1つは刀身が鉄製のもので、環首は銅製あるいは金製です。山西長子県牛家吸M7:56(国4−5)は環首が銅製で、長さ11.2cmです。年代は春秋晩期です。宝鶏市益門村M2:4(囲4−4)は環首が金製で、年代は春秋晩期の紀元前6世紀末葉です。

◉武 器

 春秋時代の鉄製武器には、主に銅内鉄援曳、銅柄(あるいは金柄、玉柄)鉄短剣、鉄中長剣、鉄吏鋼鉄などがあります。銅内鉄援曳はわずかに1点(山東長清県仙人台M6GS‥12)が発見されています。援は広く、胡は短く孔が3つあり、内に孔が1つあります。長さ27.5cm。年代は春秋前期後半で、だいたい紀元前8世紀末葉です。短剣は均しく銅柄(あるいは玉柄、金柄)でそのなかには銅柄鉄剣が比較的多く発見されています。

 例えば、霊台県景家荘

 Ml:14(図4−3、口絵2)は、残長17cmで、年代は春秋前期の紀元前約8世紀末菓です。金柄鉄短剣は、宝鶏市益門村2号墓で発見されています。宝鶏市益門村M2:1(図4−1)は長さ22cm、年代は春秋晩期で、紀元前6世紀初頭です。鉄中長剣はわずか1点が発見されています。長沙市楊家山M65:5(図4−2)は、全鉄製で、残長38.4cmです。炭素量0.5%前後の塊錬彦炭鋼を用い鍛造加工し、退火処理しています。年代は春秋末期です。鉄吏鋼鉄は比較的多く発見されています。三稜放で、年代は春秋晩期です。

◉日用器具

 鼎形器が1点発見されています。長沙市楊家山M65:1(図4−8)は3つの壊足、双耳を残し、残高6.9cmです。年代は春秋末期で、共晶白口鋳鉄製品と鑑定されています。 考古学上発見された春秋時代鉄器を給じて見てみると、生産工具は種類が増加するだけでなく、削刀以外はすべて鉄製品になっています。武器は西周時代の鉄器の伝統を多く継承しており、多くは銅(金、玉)との複合製品です。鉄鍵鋼鉄も含まれています。また、春秋晩期には全鉄製の銅剣が出現しています。特に注目されるのは、日用器具としての鼎形器です。器形は比較的小さいけれど、日用器具にも鉄器の製作が開始されたことを示しています。

▶︎(2) 春秋時代の鋼鉄技術

 春秋時代の鉄器の考古学と冶金学の研究は、当時の鋼鉄技術を明らかにし始めています。

 製鉄技術について見てみると、1つには、製鉄技術発生の時の塊錬鉄および塊錬湊炭鋼技術を継承し発展をさせていることがわかります。天馬一曲村遺跡出土の春秋時代中期の鉄条(86QJ7T44③=3)は、塊錬鉄製品と鑑定されています。宝鶏市益門村2号墓出土の鉄短剣の残片は、塊錬鉄を用いて鍛打しています。年代は紀元前約6世紀初頭です。江蘇六合県程橋出土の春秋晩期の鉄条は、その基部が鉄素材で炭素量は0.04%以下で、塊錬鉄を用いた鍛造品です。春秋末期の長沙市楊家山出土鉄剣M65:5(図4−2)の素材は、球状炭化物を含む炭鋼です。炭素量0.5%前後を含む塊錬彦炭鋼を用いて鍛造加工し退火処理しているようです。もう1つには、銑鉄製錬技術から鋳鉄脱炭技術の発明がなされ、利用されたことです。例えば、天馬一曲村遺跡発見の春秋晩期後半の鉄器残片(糾QJY12④:12)は、共晶自口鉄と鑑定されており、紀元前700年前後に銑鉄製錬技術が発明されたことがわかります0同遺跡発見の春秋 中期前半の鉄器残片(和T14③:3)も共晶自口鉄製品で、年代は航前7世 糾葉です0長沙市楊家山出土の春秋末期の鼎形器は、共晶自口鉄製品です。 河南新鄭市唐戸村南削号墓出土の春秋晩期の板状鉄器新も、共晶白口鉄で 脱炭退火処理しています0現状では最も古い鋳鉄脱炭製品で、航前5世紀初 め軋鋳紬炭技術が発明され使用されたことを表わしています。

 鉄器の製作技術について見てみると、鉄金属の製錬技術に適応したものがあります01つは、塊錬鉄および椒湊炭鋼の冶錬技術の背景の下、鉄器製造の一酌技術としての鍛造が広く利用されました。もう1つは、銑鉄鋳造技術の発明と利用が高まるにつれて、鋳造は鉄器製造の重要媚術になり初歩的な発展を遂げました0注意したいのは、春秋晩期、鋳鉄脱炭技術の発明が、鍛造技術を液体銑鉄柵の加工のために、また鍛造と鋳造技術を組み合わせて使用するときに用いるために、その技術的な発展を切り開いたことです。 総じて、人工製鉄技術は紀元前800年前後に発明された後、春秋時代の300年問の発展を経て、航前5世紀中葉に至ると塊錬鉄技術と銑鉄製錬技術が並存し細ら発展し、鍛造加工は鋳造加工技術と相互に結合した中国獅の轍技術体系を形成したのです。

▶︎ (3) 春秋時代鉄器の利用

 春秋時代、製鉄技術が進歩するにつれて、鉄器の利用も発展を遂げました。

 鉄器を利用した分野を見ると、軍事と木材加工の領域での利用が継郎れ、さらなる発展を遂げると同時に、航前6世雛鉄鐘、鉄錨などが出射るようになり、鉄器の利用が土木や農耕生産の領域にまで広がったことがわかります0長沙市楊家山の春秋時代末期の鋳鉄鼎形器の発見は、おそくとも紀元前5世加薬に、日用器具の製作、とりわけ容器の製作において鉄の利用が馳されたことを表わし、鉄器の利用領域が拡大したことを反映しています。鉄器の使用者について見てみると、鉄器の利用領域が拡大するに伴い、使用者に重要な変化が生じました。つまり西周晩期には人工製鉄発明の初期の鉄器が凱く稀有なものであり、貴族社会の使用に限られていたのに対し、鐘や鏡などの土木と農耕用鉄工具が出凱たり、飽などの普通の加工具が出現したりするにつれて、鉄器の使用者は社会上層から兵士、土木従事者、農耕民などの労働者へ広まりました。もちろん鉄は新たな金属の一種として、依然として統治者が好み、使用するものではありました(白雲翔2004b)。

 鉄器の利用地域について見てみると、製鉄技術発生の初めの西周晩期と春秋初期は、現在の線西、晋南、関中地方東部一帯の狭い範囲内に限られていました。しかし、紀元前5世紀初め頃の春秋末期に至ると、鉄器の利用地域は東へは山東半島中部、西へは閑中地方西部および臨山地域、南へは現在の湖南長沙一帯にまで広がりました。

▶︎ 3  戦国時代鉄器と初歩的な鉄器工業の形成

 戦国時代(紀元前475〜前221年)は、中国古代鉄器が大きく発展した時期です。鉄器の種類は大幅に増加し、鋼鉄技術も継続的に進歩しました。古代鉄器工業が初歩的に形成され、鉄器の利用は急速に拡大しました。

図5 戦国時代の鉄器(生産用具1)

▶︎(1)戦国時代鉄器の類型とその特徴

 戦国時代の鉄器は、おおよそ生産用具、武器、車馬具と機具、日用器具、雑用器具など大きく5つに分けることができます。

◉生産用具

 戦国時代の鉄生産工具は社会生産の各領域にまで行き渡りました0その中で、木材伐採、木工作業、金属加工、石材採掘と加工および各種切断加工作業には、主にいろいろな形の鉄器が使用され、空首斧、板状斧、錬、整、扁鐘、鐘刀、鋸、錘、臥鈷頭、衝牙、裁具、室、鐘、多様な形の削刀、枚刀、装柄錐、環首錐、T字形器、鶴塀斧などがありました(図5)

 各種土、木工程、農業耕作などの土木耕作具には、竪豊軌横豊艶各種多刃軌直口銭、多形態の凹硝、鐘、六角鋤、半円臥鋤板、人字鋤、鐸冠、鋒刃鎌刀、歯刃鎌刀、釦、秀錘などがあります(図6)。鉱山採掘、製鋼と製鉄、鋳鉄や鉄器製造などの鉱石製錬には、専門的にあるいは主に用いる道具として、多種類の鋳箔、柑軋斧耀、長柄敵鋏具などがあります。

◉武器

 主に、剣、矛、戟、杖などの格闘武器、努機廓、鍍などの遠射撃武器、甲、曽などの防護装備、そして鐸、鋏などの武器の付属部品があります(図7)。鉄剣の類型は多く、また長短の区別も比較的明確で、総長70cm以上から120cmの長剣、長さ40〜70cmの中剣、長さ30cm前後の短剣に分けられます。

 矛の形態も多く、短いものは30cm以下で、長いものは66cmにもなります。戟には、卜字形と三叉形のものの2種類があります。鉄には三稜鉄、三翼鉄、双刃鉄と円錐形鉄などがあります。甲と胃は燕下都遺跡から多く発見されています。年代は戦国時代中晩期です。

◉車馬具と機具

 馬車の鉄製部品、馬の装飾品、および古典的機具の部品などを含め、主には車鉦、車鋼、車蟻、馬錬、馬衝、旋首、歯輪そして鉄籍などがあります。

◉日用器具

 家用器具、装身具と縫製具などの3種類があります。家用器具は形態捌こそれぞれ異なり、鼎、双耳釜、無耳釜、婁、勺、豆形灯、帯柄行灯、火盆などがあります(図8)。 装身具は帯鈎が最もよく見られます。このほかに、帯締、帯飾、束髪器、替、そして美容用の鐘子などがあります。縫製具には、紡錘車や針などが発見されています。

◉雑用器具

 建築物と器具の装飾部品、刑具、用途多様の生産生活用臭および、各種規格化された鉄材などがあります。鈎、長柄鈎、環、鞘釘環、舗首、頸甜、脚繚などです。 戦国時代鉄器について、総合的な考察をしますと、鉄器の種類は非常に多いことがわかります。

図8 戦国時代の鉄器(日用器具)

 たとえば、用途は同じであっても、多種の異なる形態、あるいは異なるサイズのものもあります0生産用具は40種類以上に達し、そのうちの斧、錘、鐘、臥嵐鋤などはすべて、多種の異なる形態のものを含んでいます。

 鋼鉄の複合製品は依然存在しますが、種類と数量は劇的に減少し、そして全体的に鉄製の製品が大量に増加しました0構造と形態上、青銅器的な鉄器から尭離したのです。たとえば、横蟄軌多刃軌六角鋤などがあります。建築物と器具の鉄製部品が出現し、次第に普及しました。各種車器、鉄鼠舗首などがあります0また、戦国時代鉄器の地域性が出現し始めたこともわかります0直口臥鐘、横茎軌多刃軌鐸冠、半月形姪などは主に北方地区で普及しました0豆形灯と帯柄行灯は、秦の地域でわずかに見られました。凹口銭は長江流域および以南の南方地区に特有のもので、歯刃鎌刀と鐘などは明らかに南方の特色を持っています。

▶︎ (2)  戦国時代の鋼鉄技術と鉄器工業

 戦国時代の鋼鉄技術の進歩は、考古学的な発見と冶金学的な研究の成果にもとづき、以下の2つの側面に主に集約することが出来ます。鉄金属の製錬と熱処理技術の側面において、塊錬鉄と銑鉄製錬技術は併存しながら発展し、塊錬湊炭化鋼鉄技術と鋳鉄脱炭技術はさらに高度化し、利用されました。洛陽セメント工場出土の戦国初期の鉄鐘は勧性製品と鑑定されています。

図9 戦国時代の鉄器鋳箔

 これは、紀元前5世紀後半に勒性鋳鉄が出現したことを表わしています〇登封市陽城発見の戦国前期の竪垂簾と板材のなかでは、3点の鋳鉄脱炭鋼襲品を鑑定しました0当時すでに簡易で経済的な鋳鉄脱炭鋼製の製作技術が出浸していたことになります。また板材の生産も始まっていました。易県燕下都胡号墓出土銅剣(M44二12、M44二100)と戟(M胡∴9)および侯馬市喬村出土斬り刀(M7193:1)に、焼き入れしたマルテンサイトなどの金属組織が確認されました0紀元前4世紀後半の戦国中期に焼き入れ技術が出現し、したがって舗鉄製品の機械的な性能が大いに高まったと言えます。

 鉄器の製作においては、鍛造技術と鋳造技術は並行して継続した発展を遂げています0鉄器の鋳造は、土箔鋳造と石箔鋳造とが用いられています。河北省興隆県寿王墳などの鉄箔の発見は、紀元前3世紀前半の戦国晩期に鉄箔鋳造技術が発明されたことを証明しています。戦国時代、鉄器鋳造技術が大きく進歩したのです(図9)

 土箔の鋳造は、単脛鋳箔だけでなく、二腔鋳箔と多腔鋳箔とが比較的多く使用されています。登封市陽城遺跡出土の帯鈎鋳箔は、20の型腔に達します0鉄器鋳造の生産効率が非常に向上したのです。同時に供箔工芸は戦国晩期から鉄器の鋳造を始めました0鉄器の鍛造技術の進歩は、ある側面では、塊錬湊炭鋼技術の更なる進歩がありました。易県燕下都軸号墓塊錬湊炭鋼製剣の発見は、塊錬彦炭鋼技術が高度に発展したことを反映しています。別の側面では、鋳鉄脱炭工芸を代表とする鋳鉄可鍛化熱処理技術の急速を発展に従い、鍛造技術が鋳鉄素材の加工に広範に用いられました。それに伴って、鍛造技術の一大刷新としての「鍛豊技法」が遅くとも戦国晩期に出現し、急速に広まりました0さらに広範な地域の鉄器製作と使用を推し進めることになったのです(白雲翔1993)。

 戦国時代の鉄器生産は、鉄鉱の採掘、鉄金属の製錬から鉄器の製作と加工処理に到るまで、比較的完成した体系をすでに形成していました。当時の鉄鉱石は、文献には「出鉄之山、三千六百九山」(階子・地数』)や「出鉄之山三十四処」(『山海経・五蔵山劉)などの記載があり、目下確認できるのは22カ所あります0戦国時代の製鉄遺跡はすでに20カ所以上発見されています(白雲翔2005)0分布は、今の河北、山東、山西、河南、挟西などの地域です。ある所は鉄鉱山の付近であったり、あるいは当時の郊外か城内で、規模は同じではありません。製鉄遺跡のなかには、錬鉄炉、溶銑炉、鋳鉄脱炭炉、供箔窯など冶鋳遺構が発見されています0当時の製鉄遺跡の生産の性格や管理組織について、考古学的な発見と文献の記載から、すでに私営の生産があり、また官営の生産もあったことがわかっています0登封市陽城鉄工場跡の面積は約2.3万止また新鄭市倉城村鉄工場跡の面積は約4万dあり、当時の鉄器生産遺跡の規模の大きさを反映しています0明らかに、鉄器生産が古代の重要な産業として、戦国晩期にまず第一歩を踏み出したのです。

▶︎ (3)  戦画時代鉄器の利用

 鋼鉄技術の進歩と鉄器の生産の発展につれて、戦国時代鉄器の利用は急速に普及し拡大しました。

 戦国時代の鉄器利用の普及は、社会生産領域において、まず利用領域の拡大と利用程度の向上に現われました01つの側面では、春秋時代の木材伐採、木材加工、土木や耕作から徐々に鉱山採掘、石材採掘と加工、金属製錬、金属器の加工と製作などの生産活動において、斧形墓、長柄乱鋳箔、柑軋鋏具、錘、砧、室、蔵具などの鉱治と金属加工具が出現しました。別の側面では、鉄器の応用程度の向上と工具の専門化が現われました。例えば木材加工生産において、宝、扁平鐘、鋸、鈷頭、T形器などの専用工具が出現しました。農業生産において、土地を調整するのに用いる鐸冠、横丑軌多刃敵中耕除草に用いる鋤、穀物収穫に用いる各種鎌、穂摘具と鍾刀などが出現しました。土木作業においては、専門的な版築道具である秀錘が出現しました。このことは、鉄器の利用は社会生産の主要領域にまで拡大しただけでなく、これらの生産領域の各種の労働作業にまで浸透したことを表わしています。軍事活動領域では、鉄剣の種類と数量が増加しています。鉄矛、鉄戟、鉄杖などの格闘武器の出現、奪機廓と全鉄製鉄などの遠射撃武器の利用、甲胃などの防護装備の出現、そして鉄鋒、鉄緻などの武器装飾部品の製作は、攻撃から防護までの各種軍事活動において鉄製品が急速に青銅器に取って代わっていることを説明しています。車馬具は新しく出現した鉄器類型で、青銅製車馬具の部品に鉄器を用ゝ鳩めていることを表わしています0日常生活の領域では、飲食の調理、衣服咤製、日常照明はもちろん、衣服や身体の装飾などにも鉄製品の使用が始ま一重∵た。当然、鉄器の普及に相侯って、鉄器の使用者は社会の各階層にまで広がりました。

 戦国・・・その利用地域の発展の上に出現したもので考古学的発見とその研究から、紀元前3世紀前半の戦国晩期までの、鉄器同地域には次のような地域があります。西北地区では、すでに河西回廊ので、多くの戦国時代の鉄器が発見されています:東北地方では、遼寧撫順市蓮花壁、旅順後牧城繹、寛旬黎明村と書林樺旬県西荒山屯、梨樹県二龍湖古城などで発見された鉄器(図10)は、中原系統のl墨がすでに遼東半島から吉林省西南部にまで遠く及んでいたことを表わしてもAます。広東始輿白石坪山と楽昌対面山で発見された鉄器は、楚国勢力の南下に伴う、楚文化の南進につれて、嶺南の北部にも鉄器の使用が開始されたことを表わしています。西南地域では、貴州赫章可楽墓地と雲南江川李家山などでの鉄器の発見は、「秦滅巴萄」の歴史的背景のもとに、鉄器の製作と使用が開始されたことを表わしています。

▶︎ 中国古代鉄器の初期発展過程

 中国の古代鉄器は、鉄器の出現と人工製鉄の発明から、戦国時代晩期には鉄器の最初の普及と鉄器工業の第一段階が形成され、鉄の発生から発展へと初期の発展のプロセスを経てきました0その発展の道筋とその特徴は、以下のように、まとめることができます。

①鋼鉄技術は、自然隕鉄の加工利用から人工製鉄の発明と鋼鉄技術の継 続的な進歩の過程を経て、独自の鋼鉄技術体系を形成しました。以下の 段階を経たことになります。

殷代中期〜西周晩期(航前13世紀〜紀元前800年前後)‥隕鉄の加工と利用。

西周晩期(紀元前800年前後)‥塊錬鉄および塊錬湊炭鋼技術の発明。

春秋前期(紀元前700年前後)‥液体銑鉄製錬技術の発明。

春秋晩期(紀元前5世紀前半)‥鋳鉄脱炭技術の発明。

戦国前期(航前5世紀後半)‥動性鋳鉄の出現0鋳鉄脱炭鋼製鋼技術の発明。

戦国中期(紀元前4世勧‥焼き入れ技術の発生。戦国晩期(航前3世紺半)‥土箔の供箔技術、鉄箔の鋳造技術、紐技法の利用開始。

②鉄器の種類では、鋼鉄複合製品からすべて鉄の製品になり、種類ほ増加し、新しい鉄器が連続して出現しました。以下のようにまとめることが出来ます。

西周晩期(紀元前800年前後)‥鋼(玉)鉄複合製丸短剣、矛(人工冶鉄)、鋼鉄複合製錬、削刀(自然隕鉄)。

春秋早期(紀元前700年前後)‥銑鉄製品の出現。

春秋中期(紀元前7世紀後半〜前6世紀初葉)‥鉄鐘、凹口銭、削刀などの出現。

春秋晩期(紀元前6世紀後半〜前5世紀初菓)二鉄条形空首斧、枚刀、銘、直口 銭、竪丑軌中長剣、鼎形器などの出現。

戦国早期(紀元前5世紀中葉〜末葉)‥鉄錬、長剣、短剣、車鉦、鼎、釜、帯鈎などの出現。

戦国中期(紀元前4世紀)ニ鉄扇形空首斧、鐘、刀、錘、裁具、六角鋤、半円鋤、鋤板、人字鋤、鐸冠、鋒刃鎌刀、歯刃鎌刀、単孔蛭刀、錐、針、秀垂、珂桐、斧形整、矛、杖、籍、戟、錬、鉄、専横廊、車鋼、車蟻、馬主、車鉦、火盆、束髪器などの出現。

戦国晩期(紀元前3世紀初葉〜中葉):鉄双肩空首斧、靴形空首斧、板状斧、妄蕪、鋸、砧、衝牙、宴、鶴曙斧、環首錐、横聖顔、多刃錬、双孔鐙刀、 負鈎、紡錘車、鋳箔、鋏具、長柄兜、甲胃、歯輪、宴、勺、豆形灯、行 灯、瑛、帯釦、帯飾、鎮子などの出現。

③ 鉄器の種類は増加し、鉄器の利用は領域が拡大し、利用頻度も高まっていきました。その過程は、以下の通りです。

西周晩期(紀元前800年前後):人工製鉄製品は武器に限られていました。隕鉄製品は木材加工に用いられていました。

春秋中期(紀元前7世紀後半〜前6世紀初案):鉄器が、土木や農耕に用いられ始めました。

春秋晩期(紀元前6世紀後半〜前5世紀初案):鉄器は、軍事活動の実戦と日常生活に用いられ始めました。

戦国早期(紀元前5世紀中葉〜末葉)‥鉄器の利用は、馬車の部品の製造や装身具まで広がりました。

戦国中期(紀元前4世紀):鉄器の利用は、鉱治生産、金属加工、農耕生産の 中耕や穀物収穫および馬具に広がりました。生産と軍事などの領域における利用頻度は大幅に高まりました。

戦国晩期(紀元前3世紀初葉〜中葉):鉄器の利用は防護準備まで広がりました。生産、生活と軍事活動における利用はさらに高まり、初歩的な普及段階に到達しました。

④ 鉄器利用が継続して拡大するにつれて、鉄器の使用者は、貴族などの社会上層からだんだんと士族や民衆まで拡大していきました。

⑤ 鋼鉄技術と鉄器生産が継続して発展するにつれて、当時の社会の政治変革、貿易往来、人の移動や文化交流の背景のもと、鉄器利用の地域は、務西、晋南、関中東部地区から、広義の中原地区へ拡大し、そして周辺地区へも拡大する過程をたどりました(図11)。

▶︎ 今後の課題

 半世紀以上にわたって、考古学者と冶金学者の共同による努力の下、中国先秦時代の鉄器と鋼鉄技術の研究は喜ばしい成果を挙げてきました。これによって、我々は中国古代鉄器の起源と初期の発展過程を大まかに描き出すことができ争ようになりました。しかし、同時に、多くの問題もあり、あるいは異なる意見もあります。それについては、今後の新たな資料の発見と研究を待ちたいのですが、以下にまとめてみようと思います。

 ① 鉄器起源の問題については、我々は製鉄技術の発明以前に、自然隕鉄の加工と利用によって冶金技術に関する知識を蓄積したことが、冶金技術を発明するきっかけになったと考えました。しかし、これに対しては異なる考え方があり、隕鉄の加工利用と人工製鉄の発明の関係については、さらに検討する必要があります

 およそ中国流に言えば、我々は考古学的な発見にもとづき、そして比較研究を通して、中国古代の人工製鉄を晋南一諌西一関中東部と新蛮地嘩の両地域に区別し、中国古代鉄器の「中原系統」と「西北系統」とに分かれて形成されたことを明らかにしました。しかし、中原地区製鉄の 起源は新産地域の製鉄の影響の下で出現したと考える学者もいます。中原地域の製鉄起源と新彊地域から西アジア地域の関係を真に解決するために、新彊地域の初期鉄器の年代学的研究と冶金学研究を強化し、さらに中原地域の初期鉄器との比較研究をすることが、今後の重要な課題の1つです。

② 製鉄技術の発明は、つまるところ一種の科学技術の発明です。しかし、鉄器の生産と利用は、鉄鉱の採掘から、鉱石の運搬、鉄金属の製錬、鉄器の製作・分配・流通・使用まで、複雑な分野があります。鉄器の生産は 当時においては重要な「新高度技術」産業です。鉄器生産の研究は、採鉱、製錬と鉄器の製造はもちろんのこと、生産設備、生産工具、生産技 術、生産方式などの方面の研究とも切り離すことはできません。このため、「産業考古学」(Industrial Produce on Archaeology)的な視野の下、研究を行なっていくべきです。

 これまでのところ、鉄器そのものの研究は、考古学だけでなく冶金学的な研究においても継続的な進展を見せていま す。しかしながら、鉄器生産と直接的に関係する鉄工場跡の調査研究は 行なっていますが、相対的には立ち遅れています。例えば、戦国時代の 鉄工場跡の発掘と研究は、主に河南のいくつかの地点に限られています。

 春秋時期の鉄工場跡および鋳造遺跡は、これまでのところ調査や発見はありません。このことは、東周時代の鉄器生産研究を停滞させています。このため、東周時代の鉄器、鉄産地の鉄工場跡、とりわけ春秋時代の鉄工場跡の調査と研究を強化することは、我々が直面しているもう1つの重要な課題です。

③ 考古学的な発見とその研究から、鉄器の利用が地域的に拡大するにつれ、戦国時代の鉄器は東北地方へさらに韓半島や日本列島にまで伝播し、そして当地で人工的な鉄器の生産を引き起こしたことがわかってきました。平安北道潤源郡龍淵洞、寧辺郡細竹里などで「韓国系鉄器」が発見されています(李南珪1993)。日本の北九州市長行遺跡、福岡県曲田遺跡、下稗田遺跡、上原遺跡、熊本県斉藤山遺跡などの九州の遺跡では、すべて中国中原地域の鉄器に由来した鉄器が発見されています。その年代には、縄文時代晩期と弥生時代前期とがあります(川越1993)。これらの地域と戦国鉄器の内在的な関係が明らかになったのです。これに対して、研究者は長い間関心を寄せ、多くの研究者が研究を行なっています。しかし、戦国時代鉄器の韓半島や日本列島への伝播経路に関しては、痕跡はたどることはできますが、はっきりとしていません。

 このため、戦国時代鉄器と韓半島と日本の九州地域の初期「舶載鉄器」の比較研究を強化し、とりわけ河北燕文化地域、遼東半島、山東半島などの地域の戦国時代の鉄器工房跡の調査研究を進めることは、戦国時代鉄器の東伝、韓半島と日本列島での人工的な鉄器の出現の解明に対して必要なことです。

 同時に、日本の弥生時代の開始とその年代について科学的に認識し判断することにとっても、積極的な意義を備えています。