谷田部のお薬師棟は弘法大師ゆかりの名刹 

■谷田部のお薬師棟は弘法大師ゆかりの名刹 

何気なく街角にたたずむ寺院だが、その背景に日本の歩みが見えてくる。そうし寺院が、つくば市谷田部にひっそりと停んでいる。地域 では谷田部薬師として親しまれ4月8日の縁日では、学校が休みに  なったと伝わる小渡山照明院医王寺(住職・鈴木亮寛氏)である。


▶︎ 谷田部薄細川家から保護

 江戸時代の谷田部地域は、細川氏が領主であった。当時の東谷田川は水量も多く、小波山の付近に沼が広がり、陣屋のある対岸へ渡し船を使った。下流の渡し場を大渡と呼び、不動院の付近であった。橋が架けられていなかったのは、まず船による物流の支障が要因となろう。次の理由としては軍事的必要性であろう。寺院や神社はしばしばとしての機能が求められていた。

 同寺が細川氏に重要視された理由として、陣屋の鬼門(北北東)の位置に当たるとされているが、愛宕神社を加え砦の用件を満たしていたからとしたい。なお細川家家臣の菩提寺でもあった。

▶︎ 細川家の驚異的足跡

 細川家で注目すべきは、文武に秀でた家系であるだけでなく、時代の潮流を見る先見性であろう。細川興元が初代の谷田部藩主を努めるが、文人武将の細川藤孝が父で、兄が熊本藩主の細川忠興だ。藤孝は、当山例足利13代将軍義輝に仕え、反乱で将軍が討たれたが明智光秀と協力し義輝の弟・義昭を15代将軍にした。将軍実現は織田信長の力もあり、やがてその家臣になった。本能寺の変においては、光秀と縁戚(忠興内室が光秀の娘)であったが光秀軍に参加せず、秀吉軍に協力し重用された。

小渡山照明院医王寺の薬師堂は、由良妙印尼の建立した七観音八薬師。なお同寺は大同年間創建と伝わる

 藤孝の価値を最も高めたのが、関ケ原の合戦である。彼は徳川家康に仕える事を選択したが、そのため石田方の大軍に居城の田辺城(京都府舞鶴市)が攻められた。藤孝は、歌道秘伝・古今伝授を受け継ぐ唯一の文化人であったので、天皇勅命での停戦になった。こうした父を持つ興元もその戦歴は輝かしい。いずれにせよこの一族を抜きに戦国大河ドラマは成立しない。

▶︎ 医王寺の誕生

 同寺の創建は、神仏習合期であり仏教史の重要な一翼を担っている。朝廷は日高見国(ひたかみのくに・東北地方)が由来の神道が呪術や占星術面で充実していたのを理解し、密教の持つ効能に期待した。鎮護国家を真言宗が唱えるのも白村江の敗戦唐の支配下になった日本の状況打開が求められたのだ。

 それが坂上田村麻呂の東征であり、真言密教を中心に仏門は全面協力をした。弘法大師伝説は、伊奈の不動院つくば市羽成の実城寺などに残されている。概ね大同2年で、静岡や山梨県から東の日本には、坂上田村麻呂や弘法大師と共に寺社建設の伝説が無数にある。

 田村麻呂を武力方面にのみ目を向けては、真相から離れるので文化革命の実行者として総合的な分析が必要であろう。谷田部が寺院建設地となったのは、水運の要地で古くから「八部郷の名称が存在し、摂津(大阪府)や備中(岡山県)そして若狭(福井県)の同名地に当地から移住をしたと考えている。時代的には3〜4千年前であろうが。こうした背景が弘法大師の判断に影響を与えたと推測するのも許されると考える。なお、当初の寺院名は「正明院」と伝わる。

▶︎ 薬師堂がつくられ天台宗に

 次に薬師堂建設の経緯だが、戦国時代末期に新田義貞の嫡流・由良国繋が、群馬県桐生から国替えで牛久城主になった。その経緯は、豊臣秀吉の小田原攻めで国繁は、後北条氏の小田原城にろう城した。だが母の妙印尼は、北条方の敗北は必至と見て秀吉軍に参陣し家名を守り、妙印尼名で牛久5千4百石の領主になった。

 その折に前領主であった岡見氏の戦没者供養目的で、額内に七観音八薬師を建立した。谷田部の薬師堂はその一つとなる。現存しているのは、八薬師では当院と取手市藤代の高蔵寺

 山七観音は、牛久市牛久の正源寺龍ヶ崎市小通幸谷の観音寺つくばみらい市東栗山の千手院つくば市下岩崎の観音堂つくば市羽成の観音堂の5ケ所になる。こうして見ると薬師堂で現存するのが僅かであり医王寺薬師堂が歴史的にも重要な立場になる。

由良国繁 徳川秀忠

 由良家が薬師堂を建設した動機には、新田義貞が鎌倉攻めで焼失した武蔵国分寺の薬師堂を建武2年に再建し広く知られていた。こうした故事を義貞の嫡流である由良家は大切にしたのであろう。なお由良家は高家旗本としてつくば市などに領地があった。その由良家の一族で代官を努めたのがつくば市赤塚の横井家である。

 谷田部の歴史(昭和50年・谷田部教育委員会)を始め郷土史関係で、高家旗本の由良氏に関しては不正確といえる。ただ45年も前なので情報収集にしても困難な時代で、やむを得ないと理解したい。

由良家清和源氏新田流とする。新田氏の子孫を称したが、上野国新田荘横瀬郷を本拠とした小野姓横瀬氏とされる。由良貞長が旗本となったが、貞房が高家(こうけ)となる。1000石。維新後に新田姓に改め、新田氏嫡流を巡って交代寄合の岩松家と争ったが、岩松家が嫡流と認められて男爵となった。

天文19年(1550年) 、由良成繁の嫡男として誕生した。天正6年(1578年)成繁が死去する前後に家督を継ぎ、横瀬家(由良家)9代当主となった。同年、越後国での御館の乱で天正7年(1580年)に北条氏政と武田勝頼の同盟が崩壊すると、甲斐武田氏は佐竹氏、里見氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており(里見義頼及び太田康資宛て梶原政景書状)、北条氏政が北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている。しかし、天正8年(1580年)に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重が長尾顕長の館林城を攻撃しており、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉(富岡秀高)、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、膳城を落としている

▶︎健康を守る薬師様

 インドや西域からの教典を漢訳した人々を三蔵法師とよんだ。玄奘三蔵が最も有名だが、興福寺出身の霊仙も三蔵法師であった。こうした僧侶たちの漢訳により仏教は普及し、薬師如来信仰も生まれてきた。今もお薬師様は、お稲荷様やお地蔵様と並んで人々の平穏な生活を支えている。

 薬師如来の特徴として注目したいのが、現世の苦しみを取り除き安らぎを司る仏様で、来世の平穏を司る阿弥陀如来とは役割が異なっているようだ。天台宗本山・延暦寺の本尊は、薬師如来であり、真言宗では金剛峰寺の本尊も同様であった。そして薬師如来信仰に関しては天台宗が終始熱心であったようだ。

 薬師信仰を確認できる最古の寺院は、ユネスコ世界遺産で奈良市西ノ京町にある薬師寺になる天武天皇680年に皇后(後の持統天皇)の病気平穏を願い開基するが完成は文武天皇の代になった。数々の国宝や重要文化財がお参りした人を厳かに包んでくれる。

 やがて全国に国分寺建設がされ、医師や薬師など医療に問わる人や多くの人に浸透した。毎月8日がお薬師様の縁日なっており、健康や五穀豊穣を祈願したようだ。

▶︎ 講の果たした役割

 江戸時代に、不特定多数の集会は非常に危険視されていた。しかし民衆の立場で考えると、コミュニケーションやストレス発散の場として、人とのふれあいは重要であった。そこで考え出されたのが、仏様への信仰を拠り所にした「」と呼ばれる集会になる。極めて数多く講が生まれ地域の人々の心を救ったようで寺社の一角にはそうした石碑が無数にある。

 医王寺の場合も、天台宗に宗派の変更があったが数多くの弘法様石像が、人々の安寧な生活を見守ってくれているようだ。安産や子供の健康を薬師様にお願いした女人講の様子も伝わってくる。

境内の弘法様石像が、空海との関係を静かに語っている

 明治44年、地域に愛されてきた医王寺に市民の手による公園が整備された。谷田部台町で薬種商を営んでいた今川勇美氏は、深く薬師如来に帰依しており、率先してこの事業を遂行した。やはりこうした市民の力による成果は、正しく理解し発展させる事が、私たちの責務と考えたい。