飛鳥時代の仏師

■飛鳥時代の仏師

根立研介  

■止利(鳥)をめぐって

▶︎鞍作止利(烏)の登場

 さて、日本では6世紀半ばを過ぎても仏像製作を専業とする工人の存在は確認できなかったが、6世紀第44半期に入って朝鮮半島から造仏工たちが日本に渡ってくることで、わが国における仏像製作もしだいに活発化してくるようになったとみられる。こうした状況はしばらく続いたとみられるが、7世紀に入ると状況が少し変化し、わが国に土着した仏像製作を専門としたとみられる工人が登場してくるようである。そして、こうした飛鳥時代の仏像製作の工人としてまず焦点が当てられるのが、止利(鳥)である。

 かれの事績を改めて見ると、法輿寺(飛鳥寺)本尊の造仏に関わる推古13年(605)4月辛卯朔条および同14年4月乙酉朔壬辰条、5月甲寅朔戊午条など、『書紀』には鞍作鳥の名で登場してくることがわかる。

 ところが、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘では、「司馬鞍(しばくらつくりの)首止利仏師(おびととりぶっし)」とその名が記されている。現在のところ、鳥と止利は、同一人であると解釈するのが一般的である。ただし、止利とは、個人の名を表したものではなく鞍作部(くらつくりべ)という部民集団の頭領を意味する名詞とする見解もある(浅井、1997年)。しかしながら、このことについても一般的には止利は個人の名と見なされており、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の検証など課題とすべき問題は残されているが、かれは法輿寺本尊像と法隆寺金堂釈迦三尊像の作者に帰されているのである。

▶︎止利(烏)の出自

 ところで、鳥に大仁(だいにん)という高い位を授けたことを記す『書紀』推古14年5月甲寅朔戊午条には、鳥の祖父を司馬達等(しばたつと)、父を多須奈(たすな)、叔母をわが国最初の尼僧とされるしま)「元輿寺伽藍縁起井流記資財帳」に、善信尼の名で記される人物か)とする記載がある。

 多須奈司馬達等の子であることは、『書紀』 用明2年(587) 4月条にも記載があるが、同条には多須奈が天皇のために出家し、丈六仏道像を行うことを申し出たことも記されている。なお、『扶桑略記』 第3では、この『書紀』の記事に関わるものとみられる記述がある。

 そこには、丈六仏像並びに坂田寺造顕(神や悪魔の様な本来観念的で形が無い存在を、彫刻の様な具体的なイメージ像として造形する事)について、「百済仏工鞍部多須奈」が天皇のために行ったと記されるとともに、多須奈の祖父に当たるとされる司馬達等については、この人物を継体16年(522?)に来朝した「大飛鳥時代の仏師唐漢人案部村主司馬達止」とする記載が認められる。

鞍作部(くらつくりべ)・・・鞍部とも。大和朝廷のもとで馬具,とくに鞍の製作に従事した品部(しなべ)。鞍の製作には木工・漆工・金工の高い技術を要したことが「延喜式」左右馬寮式からもわかる。「日本書紀」雄略7年条の伝承に,百済(くだら)の貢した今来才伎(いまきのてひと)の鞍部堅貴(くらつくりのけんき)がみえ,彼らは東漢(やまとのあや)氏の管轄下に飛鳥各地に居住したという。百済系鞍作部の伝統は律令制下にも続いたらしく,鞍具製作の管理にあたる内蔵(くら)寮・大蔵省の双方に百済手部(てひとべ)・百済戸が所属している。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

 したがって、『書紀』などの記事を信ずれば、止利という人物は、渡来系氏族に端を発する鞍作部の出身者とみなされ、また仏像製作の技術なども父から受け継いだとも考えられる。なお、『新撰姓氏録』や『元亨釈書』などの記載から、かれの祖先を中国大陸からの渡来した人物とみなす解釈が一般化していた感があった(小林、1978年)。

 しかしながら、こうした史料は鞍作部の出自を特定できるほど信頼に足る情報を提示しているわけではない鞍作姓の工人に関しては、『書紀』雄略7年是年条には百済の献じた諸職の工人を表すと思われる手末才伎(たなすえのてひと)の中に「鞍部堅貴(くらつくりのりけんくい・「日本書紀」にみえる百済(くだら)(朝鮮)の工匠。雄略天皇7年樟媛(くすひめ),吉備海部赤尾(きびのあまの-あかお)にひきいられて渡来した470・雄略天皇14年)」の名が見られることや、飛鳥時代初期における造仏界に百済系工人の果たした役割が大きいと考えられること、また達等や書信尼と百済との関わりの深さなどから、百済系の氏族の出身者と見なす見解が現在のところ有力である(大西、2002年)。

雄略天皇7年・・・百済の人材を求める雄略天皇に応じて手末才伎たなすえのてひととして渡来した。天皇はやまと国の吾礪あと広津ひろきつ邑に置いた。しかし病死する者が多かった。そこで天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直掬に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原かみつももはら下桃原しもつももはら真神原まかみのはらの三ヶ所に移住させた。【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】

 ところで、鞍作部は、その名からすれば馬具製作の技術を代々継承した氏族の可能性がある。また、「元輿寺伽藍縁起井流記資財帳」の「塔露盤銘(とうろばんめい)」には鋳造を担当する工人に「鞍部首名加羅爾」という人物が認められることなども考えると、鞍作部は少なくとも金工技術に携わる工人を輩出した氏族とみてよかろう。

鑪盤博士・・・・原形を鋳物土で作り,これに合わせて外型を作り,この型を一度取り除き,原形を鋳物の厚みだけ削りとって中型とし,外型と合わせて鋳造する方法。《日本書紀》の崇峻天皇元年(588)条に,元興寺起工にあたり百済より将徳白味淳という鑪盤(ろばん)博士が来朝した記事がある。この鑪盤博士は塔の露盤や相輪などを作る,削り中型の技術を身につけた工人と推定される。

 さらにいえば、鋳造技術は、まさしく金銅仏の製作技術に通じる。仏像製作における止利の立場を、鞍作部という部民制約な止利(鳥)をめぐって集団から離脱した人物と見なし、さらに7世紀前半の仏像製作がかなり発達した宮司制約な機構において行われていたとする見解もあるが(浅香、1971年)、7世紀前半における造仏の宮司制的な機構の想定は困難なように思える。

  たしかに画工については、推古12年(604)に画師の制が定められたことが『書紀』に記されており、絵画製作の技術黄書画師山背画師など特定の画師姓集団に世襲されていることが判明するものの、仏師についてはこうした制の制定が記録の上では知ることができないのである。

きぶみ‐の‐えし黄文画師・黄書画師・・・6〜7世紀頃の専門画人たちの姓。朝鮮半島から渡来した絵画技術者たちの子孫で、世襲的に画技を伝えていた集団。

山背画師(やましろのえかき)・・・太子時代の対外関係は,百済より新羅へと大転換したが,そのかげにあって飛鳥美術に実質的な影響を与えている高句麗の存在も看過しえない。憲法十七条制定の604年,黄文画師(きふみのえかき)や山背画師など,画師の区分が定められたが,はじめに高句麗出身の黄文画師をかかげるところに,その存在の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば610年高句麗王は,彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた点が注目される。

 むしろ、仏像製作に関わる情報の蓄積がなされていなかった時期の造仏に際しては、鋳鋼技術を保有する氏族集団が活用される方が自然ではなかろうか。特に鞍作部の氏族は早くから仏教を受容していたとみられ、かれらが当時の仏像製作において中心的な役割を果たすことになった原因もそのあたりにあるのではあるまいか。

▶︎仏師としての止利(鳥)

 ただ、ここまで述べてきたように止利の事績を検討し、その自を推測してきても、史料上の制約もあって、かれの仏師とてのあり方の問題については不明なところが多い。しかしながら、かれの仏師としての活動の詳細をある程度窺うことができる唯一の事例といってよい法輿寺本尊像の製作について改めて見ると、かれの仏師としてのあり方を理解する上で多少の手掛かりが見いだせるように思われる。それは、この造仏に関連する『書紀』の記載に、かれは仏像だけでなく繍仏(しゅうぶつ・刺繡で仏像や仏教的な主題等を表現したもの。)の製作も命ぜられ、また仏像製作の下図と見られる「仏本」を献じていることが辞されている点である。こういったことや、いわゆる止利派の作とみられる金銅仏に頭部まで中型を設け、比較的銅厚を薄手に鋳造するといった技法的な特色が共通して確認できることなどから、止利を仏像製作のデザイナー兼ディレクター、要は造仏の知識を有し、その企画を行い、技術者集団を率いて造仏事業を監督するような人物と見なす見解も提唱されている(田中、1983年)のである。

 私自身も、止利の仏師としてのあり方をこのように捉えることには基本的には異論はない。というのも、先ほど記した法輿寺本尊像に関わる『書紀』の記述などをみれば、造化の知識を有し、その企画を行い、鋳造技術者を中心とする工人たちの集団を率いて造仏事業を監督するような人物と見なすのが最も相応しいように思われるからである。法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に飛鳥時代に使用例が他に見いだせない。「仏師」の呼称が用いられわのは、こうしたかれの職分を反映していた可能性があるかもしれない。

 また、かれが当時の最大氏族である蘇我氏や天皇家と関わりの深い法輿寺の本尊、あゑいは上宮家と関わる法隆寺の本尊仏を製作するなど、当時の王権ならびにそれを中核ケする支配層に直接結びつく造仏を行っている点も注目される。このことに関しては、鞍作部と蘇我本宗家との問には密接な関係があり、いわゆる止利様式の流通なども7世紀半ばの蘇我本宗家の滅亡と運命をともにするといった見解も提唱されていること(町田、1977年)なども留意すべきであり、止利は支配層と密接な関係を有する特権化した工人と見なすことができるように思われる。かれが、法輿寺本尊像の造仏事業の完了に伴い、大仁という工人としては異例というべき高位を授けられたことも、仏師としての技量のみみらず、こうしたかれの社会的な環境と無関係でないように思われる。

 なお、止利の造仏関与が想定されている安居院如来坐像(法輿寺本尊像か。飛鳥大仏)や法隆寺金堂釈迦三尊像と、法隆寺献納宝物中のいわゆる四十人体仏の一部の像(法隆寺宝物館整理番号149、155号等)などの間には、確かに鋳造技法に共通したところがありーまた作風も近似しているので、こうした技法や作風を継承していた工房集団が想定でき、これを止利が主宰した止利工房と呼ぶことが可能であろう。

 ただ、問題は、法隆寺の救世観音とよばれる菩薩像をはじめとする木彫像や、従来漠然と止利派の作といわれてきた金銅仏までを止利工房の作と認めることができるかどうかで、こうした仏像の製作工房の比定については、製作年代の比定の問題ともども再検討する必要もある。しかしながら、7世紀前半頃の造仏界においては止利工房が主要な造仏工房であったことはまず誤りはなくそこで創出された工房様式が時代様式となり、木彫製作者をはじめとする他の造仏製作者たちに影響を与えたことを想定するのも可能であるように思える。

■飛鳥時代後期の仏師

▶︎止利派の衰退

 飛鳥時代も7世紀も中頃を過ぎると、前代の主流であった止利派の様式は、その残滓(ざんし・残りかすや何かが取り除かれた後に残るもの)ともいうべきものを多少見いだせるものの、衰退していく。そのいっぼう、童顔童子形の仏像など従来見ることのできなかった仏像も登場してくる。特に彫刻史のその後の展開を考える上で重要なのが、隋から初唐の仏像様式を要する仏像の出現である。

 このようにしてみると、7世紀後半から8世紀初頭の、いわゆる飛鳶代後期には、仏像に多様な作風が見いだせ、飛鳥時代前期の伝統色濃く保持する工房が存在するいっぽうで、大陸から伝えられた最新の造形をかなり忠実に反映する作風を打ち出す仏師たちも出現するようになつてきたことが推測される。

■古代の鋳造技術参考例


ところで、7世紀後半のこうした多様な仏像様式の併存は、当時の複雑孝国際情勢も反映しているように思われる。すなわち、7世紀第3~4半期に相次いで遣唐使が派遣されるいっぽう、663年に白村江の戦い日本が新羅、唐の連合軍に破れ百済が滅亡するとかなりの数の百済系工人が帰化したとみられること、さらに668年に新羅が朝鮮半島を統一すると、遣唐使の派遣が三十年ほど途絶え、大陸との交渉はふたたび朝鮮半島を通して行われるようになるのである。

 こうした国際情勢のもと、飛鳥時代後半においては、隋や唐の最新の彫刻様式や技術が直接日本に伝えられるとともに、中国南北朝末期から隋、初唐期にかけての彫刻様式が、従来どおり朝鮮半島経由でも伝えられたことになる。

▶︎山口大口費

 ところで、7世紀半ば頃に活躍した仏師の中で最も著名な人物は、『書紀』白雉元年(650)条に「千仏像」を刻むことを命ぜられたことが記され飛鳥時代後期の仏師ている山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)であろう。

 かれは、法隆寺金堂四天王像の広目天像光背銘に登場する山口大口費と同一人物とみられる。『書紀』の記事は、ほぼ同じ時期の『書紀』白雉4年(653)六月条にみられる僧旻の菩提を弔うために、画工狛堅部子麻呂(こまのたてべのこまろ)魚戸直(ふなとのあたい)に命じて多くの仏菩薩を造らせて川原寺(かわらでら・あるいは山田寺か)に安置したとする記事と類似しており、仏師画師姓集団の画工と同様に、しだいに官に関わる造営事業に携わる工人として明瞭な位置づけが行われてくることがわかる。

 なお、法隆寺金堂四天王像には、他にも多聞天像光背銘に登場する薬師徳保(やくしとくほ)などの人名が散見するが、人名に続いて「作也」と刻まれた銘記を率直に解せば、この種の銘記に名を記された人物はこの四天王像の各像の製作を直接担当とした工人となろう。

 ただ、注意−する必要があるのは、この法隆寺金堂四天王像は、その作風からすると止利派の影響を遺す古様な木彫像である点である。山口直大口は、先にふれたように官に関わる造仏を行った旨を『書紀』に記されている。そうすると、このことば、こうしたいわば保守的な仏像様式を保持する仏工ないしそれに準ずるような工人も、7世紀半ば頃、律令体制の成立とともに官の体制に組み入れられはじめたことを示唆しているように思われる。

▶︎造寺司の登場

 仏像製作者が律令体制の成立とともに官の体制に組み入れられはじめた飛鳥時代後期の動向を端的に示すのが、造寺司(ぞうじし・奈良時代に官寺あるいはこれに准じた寺院を造営するために設置された令外官のこと)の登場であろう。造寺司は、官寺の伽藍造営やその中に安置される仏像の製作のために設置される令外の宮司であるが、その初見は天武2年(673)12月の大安寺(大官大寺・だいかんだいじ)の前身となる高市大寺(たけちだいじ)の造営のために設置された造高市大寺司の任命である(『書紀」)。大宝元年(701)6月には、造薬師寺司任命の記事が『続日本紀』(以下『続紀』と表記)に認められ、翌7月には造大安寺司造薬師寺司を寮に准(なぞら)え、造塔および造丈六の二宮を司に准える太政官処分がなされている(『校紀』)。ただ、こうした官営工房で製作されたことが想定される古代の仏像のうち、飛鳥時代に遡ることが明確に把握できる遺品ははなはだ心許ない。しかしながら、天武7年(678)に鋳造が開始された山田寺講堂如来像(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうせいとくほうおうとていせつ)」裏書)の頭部であるとする説もある興福寺国宝館所在の仏頭は、飛鳥時代の造寺司といった官営工房に所属していた仏師たちが製作に問わったとする見解が提唱されており(松山、1990年)、この時期の官営工房の手になった可能性がある有力遺品である。

 また、薬師寺金堂薬師三尊像はその製作時期が平城遷都後とする説も有力ながらも、飛鳥時代の造寺司で製作された仏像がいかなるものであったかを知る手がかりにはなるものとみられる。

 このように、この種の宮司に所属する仏師の動向などを史料から把握することは残念ながら困難な状況にある。ただ、造寺司は先にふれた山口直大口のような保守的な仏像様式あるいは造像技法を保持する仏師をも編入していった可能性はあるものの、中核となる仏師は大陸からの新たな情報に基づいてこうした大型金銅仏の製作した仏師たちであることは間違いなかろう。さらにこれに関連して付け加えれば、7世紀後半頃から仏像製作技法に従来から行われていた銅造、木造の他に乾漆造、塑造という新たに中国からもたらされた技法が加わり、この新規の造像技法が銅造とともに奈良時代に至るまで官営寺院やそれに準ずるような大寺院の仏像製作の主要技法として採用されたことも、こうした新情報に対応できる仏師が仏像製作の主流となっていった要因として挙げられよう。このように仏師が官営造営組織への編入される傾向は、奈良時代に入るとより明瞭に把握されるようになっていく。

■乾漆像・塑像制作技術

 なお、大宝令に遡るかあるいは養老令に遡るかは不明であるが、『令 集解(りょうのしゅうげ)』巻四によれば、飛鳥時代も最末期になると画工の一部については、職員令によって「画師」、「画部」の官称を与えられて画工司という令内宮司に編入されていたことがわかる(平田・1994年)。画師は、奈良時代では造寺司といった令外宮司においても活動を窺うことができるが、こうした工人を令内宮司にも編入する動向は、木工、あるいは金属工についても認められる。しかしながら、仏師については令内宮司の機構の中に編入された事実はないようで、官の関わる造営におけるかれらの活躍の場は令外官司の組織に限られるのである。こうした状況が発生した理由については、日本の官制の母胎となる唐の律令の制には仏師の職掌を含むものがなく、基本的には唐の制を踏襲したわが国の律令にも仏師に当たる職掌が存在しなかったという回答(田中、1983年)が説得力を有していると思われる。あるいは、仏事のみにかかわる人々を、令内宮司に編入することは困難なことであったという要因もあったかもしれない。

 ただし、仏師に該当するような職掌は、すでにふれたように7世紀初頭には画師の制といったものによって官の体制に早い時期から組み込まれていった画師などの工人と、性質が少し異なっていたのも事実である。そのためか、律令制が変質していく平安時代初期以降も令内宮司に編入されることはなかったのである。いずれにしても、こうした律令期の仏師のあり方は、その後の仏師の社会的な身分の位置づけを考える上でも留意すべき点である。