広 智上 人のまなざし

■広 智上 人のまなざし

糸賀茂男

▶︎新春 博物館長が語る東城寺の春

 さて、今や土浦の奥座敷ともいうべき旧山ノ荘地域にも春光が注ぎ、その牧歌的景観を十分に見て取れることと存じます。私自身、幼いころから縁のあるこの地を忘れることはありません。とくに、北方山中にある東城寺には幾度も参詣し、鐘楼脇の庫裡(くり・寺の台所)で、夏休みには受験勉強をいたしました。眼下には日枝(ひえ)山王社の長い馬場の森、はるかに見れば土浦の市街、そしてその彼方には霞ヶ浦が一望できました。

 日頃は無住の山寺ですが、長い寺歴のなかに興味をひかれる多くの事跡があります。先年本堂は火災に遭い、寺の結構(建物などの配置)こそ復元困難ですが、仁王門・参道・本堂・鐘楼・院坊舎(名称のみ残る)などの所在は明確です。焼けてしまった本堂の本尊木造薬師如来坐像平安時代の作)、前立(まえだち)薬師如来坐像(南北朝時代の作)、同脇侍(日光・月光菩薩像)十二神将像など、私の記憶のなかには焼失前のお姿が鮮明に残っています。

 唯一火災を免れ、785年目の新春を迎えられた木像こそ「広智上人坐像」です。この木像は、東城寺にとってかけがえのない什宝(じゅうほう・家宝として秘蔵する器物のこと)です。なぜなら、東城寺がかつて天台系の寺院であったことを物語る「生き証人」だからです。

 日本の寺院は、例外もありますが、多くは諸宗兼学であったり、僧侶の交替で、他の宗派へ転向したりするのは普通です。宗派の名称を顕示するようになるのは、江戸時代以降のことなのです。ともかく、平安時代初期に、最澄(伝教大師)を始祖とし、平安京の北方にある比 叡山を拠点とした日本天台学の教義弘布(ぐぶ・仏法を世間に広めること)と修養の道場が筑波山系南端の山中に設けられたことになります。これは、当時の日本の国教ともいうべき天台学の仏教的仕掛けなのです。この事業の推進者として最澄の門下の一人である広智上人(こうちじょうにん)がかかわった可能性が高く、後年、嘉禎3(かてい・1237)年正月に某氏(八田氏か)によって、上人の功労を讃えつつ、あわせて現在から未来にかけての世の平穏を願うべく、等身大の木像が寄進されました。作者は不詳ですが、寄進の経緯が木像の膝下にある墨書銘に書かれています。

 平安時代以来の天台系寺院東城寺法灯(ほうとう・仏法がこの世の闇 (やみ) を照らすことを灯火にたとえていう語)は鎌倉時代もしっかりと護持され、加えて広智上人の行跡(ぎょうせき・人の行いのあと)と業績は消え去ることはなかったのではないかと推測しています。

 ちなみに広智上人は奈良時代に生まれ(生没年・生地不詳)、平安時代に入って、最澄を支えつつ大慈寺(栃木市)を拠点に、円仁(えんにん)・安恵(あんね)などの後学をも最澄の門下に入らしめています

 広智上人が東城寺の住僧になったという確証はありませんが、少なからず、のちに東城寺と命名される道場の建立に深く関与したことは疑いないと思われます。

 広智上人をこのように理解するとき、私はこの眼光鋭い木像のリアルな造像技法に魅入ってしまいます。同時に、奈良東大寺に坐す鎌倉時代東大寺再建の功労者「俊乗坊重源坐像(しゅんじょうぼうちょうげん木造・国宝)」を思い出します。皆さまはいかがでしょうか。

 新たに建てられた東城寺本堂前の小堂(祖師堂)のなか、広智上人像も確かに春の光を満喫されつつ、そして、世の不安を払うべく、ひたすら念じておられると思います。今春3月からの博物館特別展では、「東城寺と山ノ荘」に焦点を当てますので、皆さまご期待ください。では、私の年頭の発句です。

若わかみず水を 御ごぼ う 坊に手向く 稚児ゆかし

糸賀茂男さん 土浦市博物館・上高津貝塚ふるさと歴史の広場館長/常磐大学名誉教授/茨城県文化財保護審議会会長


 幼いころから史学の道に進んだ糸賀さん。専門は日本の中世(鎌倉・室町時代)。地元茨城の歴史にも精通しています。
 今回は自身が館長を務める土浦市博物館、上高津貝塚ふるさと歴史の広場の見どころをはじめ、歴史を紐解く楽しさ、意義についてもお話しいただきました。キーワードは「地域発日本(世界)行き」です。