日本の民家(西日本)

000■吉田家・京都府京都市中京区六角町・町家

▶格子構えの表屋造りも坪庭も 民家の原点となる京都のかたち

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 白生地友禅卸商の吉田家が、「菱友」の商標で現在の地に移ってきたのは明治四三年(一九一〇)頃のことである。

 新町通りに面した屋敷地は、幅約十メートル、奥に約三二メートル、俗にうなぎの寝床と呼ばれる京都独特の奥に長いものである。主屋は、ベンガラ塗りの格子構えで京都ならではの「表屋造り」。家屋構成を見ると、大きく三つの部分に分かれ、表から商いの場所の店舗棟、中間は家族の住まうための住居棟、裏は物を貯える二棟の蔵からなり、各棟の間には京独特の坪庭が二つある。店舗棟は、間口が敷地いっぱいの約十メートル(京間取りで五間半)あり、奥行き約三.六メートルの切妻造り、桟瓦葺きで、二階建て。

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 一階南側の「トウリニワ」と呼ばれる土間は、約一・九五メートル幅で表から裏まで続き、奥に向けてぽっかりと口を開けている。「トウリニワ」のうち家族の生活のための部分は、「ハシリ」と呼ばれる炊事場である。そこには井戸、流し、茶碗 置き、戸棚、押入れが並び、ちょっと広めなシステムキッチンを想像させてくれる。

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 店の奥、家族のための住居棟は、間口約七・八メートル、奥行き約八・八メートルの二階建てで、二列二室の田の字型である。「トウリニワ」に近い側の部屋は六畳の「カミグイドコロ」と家事や食事をする「シモダイドコロ」、遠い側は奥から床の間と棚のある十畳の「奥の間」と八畳の「中の間」からなっている。二階は主人家族だけの居間となっていて、一階に比べると坪庭からの採光を十分にとった明るい二部屋の座敷となっている。

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 屋敷の一番奥に、元治元年(一八六四)の「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の際にも無事であった商品蔵と、明治四二年(一九〇九)に新造した道具蔵がある。いずれも二階建てで、この二つの蔵は敷地いっぱいに隣家と壁を接して建てられているが、これは火災の際に隣家からの延焼を防ぐためのものである。中世以来、長い時間かけて出来上がった「京都型町家」は、日本の民家の原点であり、なかでも吉田家は京の町家の典型として貴重な存在である。

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■西村家別邸・京都府京都市北区上賀茂中大路町・社家

▶上賀茂神社に仕える神官の邸には瀬音を耳に小橋を渡って訪う

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 賀茂川に架かる御薗橋を渡ると、もうそこは上賀茂神社境内。その昔、上賀茂神社は賀茂氏によって祀られたといわれ、祭神は賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)である。江戸時代、上賀茂神社の社領は二五〇〇石余という強大なものであった。五月に行なわれる上賀茂神社の葵祭は、時代祭、祀園祭とともに京都三大祭として有名である。

 境内を流れる樽の川は、境内を出ると明神川と名をかえる。一の鳥居を出て明神川に沿って藤の木通りを東に進むと、両側に社家(しゃけ)と呼ばれる上賀茂神社に仕える神官の家々がある。このあたりは、かつては三〇〇軒近くの社家と農家によって形成されていた門前町であった。重厚な土塀とともに建ち並ぶ社家群の景観は、現代ではまことにめずらしいものとなってしまった。

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一五〇〇年の歴史を今に伝える社家の主屋は、切妻造り、桟瓦葺き、平屋建て、特徴は「豕扠首(いのこさす)」と呼ばれる上賀茂独特の妻飾りをもつことである。また、社家の屋敷は、必ず前面に清々しい雰囲気を醸し出す庭園を配している。西村家は、そんな社家のなかの一軒で、家の前を流れる明神川に架けた石の小橋を渡って入る。現在では西村家の別邸となっているが、もともと錦部(にしきごり)家の旧宅であったもので、現存する四〇軒ほどの社家のなかで、最も古い面影をとどめた庭園が残っている。

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 この庭は、菱和元年 (一一八一)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤木重保が作庭したものと推測され、庭園に取り入れられた明神川の水は、「曲水の宴」のための曲水川を通って前庭の他の水となり、清いまま元の川へ流し返される仕組みになっている。また神事の前に身を清めるために水を採ったといわれるゆかりの井戸、さらに上賀茂神社の御神体山である神山(こうやま)の隆臨石を形取った石組みが残っている。なお、清楚な妻飾りの棟の低い主屋は、西村家人代目清三郎によって明治の中期から後期にかけて建てられたものである。

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 十一月に入り比叡おろしが吹きぬけるころになると、このあたりの農家では、上賀茂特産のすぐき菜の漬け込みが始まる。毎年のことながら、社家も農家も正月を迎えるための慌ただしい日々が大晦日まで続く。

■新垣家・沖縄県那正沖縄県那覇市壷屋・町家

▶守護の役割を担うシーサーが載る琉球陶業の中心、壷屋の窯元宅

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 那覇は沖縄の王城首里の外港として生まれた町である。那覇の中心、国際通りから那覇市民の胃袋ともいえる「公設市場」を抜けて、さらに東へ進むと焼物で有名な壷屋に至る。

 壷屋は十七世紀末、美里知花、首りたからぐちわくた里宝口、那覇湧田の三ケ所にあった陶窯を琉球王府の命令でこの地に集めたことによって誕生し、以来、琉球陶業の中心地として繁栄してきた。壷屋は南方系の焼物や中国の陶器の影響を受けながら、素朴な手触りや温もり、気取りのない作りで沖縄独特の焼物を生み出してきたが、近年、このあたりの都市化が進み、登り窯の煙が「公害」として嫌われるようになると、多くの窯元が読谷(よみたん)に移ってしまった。今では曲がりくねった小道に沿ってわずかに残る赤瓦の家や古い石垣が、昔の焼物の町の雰囲気を伝えている。

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 新垣家は、この壷屋地区の東端部に建っている。石灰岩の石垣に囲まれた敷地の中には、主屋を中心に作業場、離れ、登り窯、井戸、陶土生成用の沈殿池、「フール (豚小屋兼便所)」など窯元時代の施設のほぼ全容が残されているが、家が建てられた正確な年代は不明で、江戸時代末期といわれている。「チブル(頭)シーサー」が備えつけられた二層瓦屋根の家といえば、観光ポスターや案内書にもたびたび登場するので気がつく人もいることであろう。

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 沖縄の屋根の特徴のひとつとし シて、忘れてはならないのが、ゝ〕の屋−サー根獅子である。瓦屋根の一角にすえられた獅子を沖縄方言で「シーサー」という。火伏せ、魔除けを役目とするこの屋根獅子は、普通、屋根の傾斜面、赤瓦の上にすえるものが多いが、棟にも置くし、一頭だけでは足りず、二頭の獅子が睨みをきかせている家もある。姿勢はすわったり、這ったりと一定していない。その表こまいぬ情も豊かで、狛犬、虎、猫に似たものから、怒ったようなもの、笑ったようなもの、考え事をしているようなもの、まじめな顔つきのものなど千差万別である。雨の日も、風の日も身動きひとつしないで屋根の上にがんばり、目に見えぬ魔物から家を守るシーサーは、まさに沖縄の象徴である。

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■宮良家・沖縄県石垣市大川・町家

▶赤い琉球瓦と白い漆喰が鮮烈な印象の八重山諸島を司る地頭の殿内

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 沖縄最南端に位置する八重山諸島には、十九ほどの島々が点在する。この群島の中心地石垣島は、那覇から飛行機で約一時間。碧く透きとおった海に囲まれたこの美しい島は、幸いなことに、太平洋戦争の被害を受けることなく、昔ながらの民家のたたずまいが、そのまま残されている。

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 宮良(みやら)家は、地頭と呼ばれる八重山の直接支配者であった。この宮良家の住宅七して、文政二年(一人一九)みやらどんちに建てられた宮良殿内は、沖縄の士族屋敷の構造を残す唯一の建物であ  うどんる。殿内とは貴族階級の住む御殿に次ぐ格式のある屋敷のことで、この官良殿内も、四方を総延長一一〇メートルの石垣で囲まれた屋敷地の中に、主屋、前庭、中門、巨石を主体とした庭園などが配置され、往時の権勢をしのばせる豪壮な造りとなっている。「ウフヤ」と呼ばれる主屋は、間口約十五メートル、奥行き約十三・九メートルの寄棟造り、赤瓦葺き。しかし頭職とはいえ、宮良家は離島の頭職には身分に過ぎたる住宅であったらしく、再三取り壊しを命ぜられ、明治時代の廃藩直前に、瓦葺き屋根を草葺きに改めさせられたという。現在の瓦葺き屋根は廃藩後、置県されてから再び復元したものである。

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 沖縄の代表的な風物のひとつとなっている琉球赤瓦が普及したのも、明治時代に入ってからである。この屋根は平べったい雌瓦の上に、円筒を縦に割った形の雄瓦を被せ、台風が来ても瓦が飛ばされないように、雌瓦と雄瓦の継ぎ目を、粘り気の強 しっくいい漆喰で丹念に固めたものである。漆喰は、海岸から拾ってきたサンゴ石灰岩を細かく砕き塩分を取り除いてから焼いたものに、水にひたしてわら小さく切った藁と少々の砂をまぜ、きね石臼に入れて杵でついてつくる。最初のうちは黄色味をおびている漆喰も、しばらくして乾燥するとやがて真っ白になつて、強度が増し、二〇年から三〇年の耐久力をもつといわれている。瓦は素焼きのままで、本土と違って上薬をかけたり、いぶしたりしないため、琉球瓦独特の鮮やかなレンガ色になる。

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 琉球瓦の赤と漆喰の自のコントラストが実に美しいこの屋根は、台風時の強風、雨水の逆流、雨漏りを防ぐだけではなく、暑さにも強い。細かく編んだ竹のうえ全面に、隙間なく土を敷きつめ、その上に瓦をのせるので、断熱効果も抜群というわけである。

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隙間なく積み上げられた石垣

縁側から約1mほど外に立てた柱が広く伸ばした軒を支える。「雨端(あまはじ)」と呼ばれる軒は沖縄の強い直射日光や激しい雨のはね返りを防ぐ

床と床脇を備えた一番座には近世初期のtE造りの形が色濃く残る

重文〒907−0022沖縄県石垣市大川178石垣空港から幸で5分有9:00〜17:00火曜 官長家  交通 見学料開館時間 休館日