祭りと相撲

■祭りと相撲

山田知子

 社寺の祭りに相撲をするところは各地に多く見られる。それは何故であろうか。

 茨城県内でも、祭りの行事として相撲を奉納しているところがいまも二十個所ばかり残っている。そのほとんどは祭りの余興として行われる相撲大会で、境内や付近の広場に土俵を設けて氏子や近在の人々が力技を競い合うというものであるが、なかには形ばかりで競技をしないままに終わってしまうものもある。

 従来の民俗学では、祭りと相撲のような競技との関係はすべて神意を占う方法として用いられてきたところに意味があると考えられてきた。たしかに勝ち負けが決まる競技にはそうした意味もあろうが、競技をしない相撲がいまなお大切に残されているのは、神意を占うこととは別の重要な意味があったからにちがいない。

 ここでは、そのような相撲の例として牛久市東端穴にある八幡神社(牛久市史民俗調査報告書Ⅲ 「下根相田・東端穴の民俗」)の祭礼に行われている相撲を手がかりに祭りと相撲の関わりを考えてみようと思う。

一「しこ」の意味

 牛久市東端穴(ひがしまみあな・現在UR機構によって開発されたにあたる)の八幡神社は、元和九年(1623)に牛久村より現在地に遷座(せんざ・神仏の座を他の場所に移すこと)されたと伝えられる(『茨城の地名』)。その翌年より始まったとされる祭礼は旧暦八月十五日に行われ、その主たる行事は流鏑馬(やぶさめいまは歩射)と相撲である。おそらくは放生会(ほうじょうえ・捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である)の行事として行われてきたものであろう。

 相撲は、寺世話(神社の世話役。祭礼が、別当寺(専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと)法印(仏教を外道から区別し、仏教が真実であることを示す標識)によって執行されていた時代の世話役の呼び名)の一人が呼び出しも兼ねた行司となり、「東○○」「西△△」ヒ相撲人を呼び出す。

 相撲をするものも寺世話で上半身裸になり、まわしを締めた姿で大きく足踏みをして、両手を地面につけて仕切りをし、息を合わせて立ち上がったところで終わりになる。これを当地では「ショッキリ」と称している。ショッキリは、「初切り」の字を当てるように一番はじめに行う相撲のことである。

 青年会が組織されていたころは、この一番が終わると青年らが相撲をとった。隣村の力自慢の若者らが飛び入りで参加して、終日賑わったそうである。青年会の解散とともに相撲をとるものがいなくなってしまったが、それでも止めないのは、八幡様は相撲の好きな神様で、かつて相撲の奉納を素人演芸会に変えたら悪い病気が流行ったと言い伝えられているからだという。

 古代の相撲がこの「ショッキリ」のように足を高く挙げて足踏みを繰り返す相撲であったことは、『日本書記』垂仁記野見宿祢当麻踏速が相撲をとったという話に見ることができる。この話は、我が国の相撲の起源を語ったものといわれているが、その形態は、「二人相対(あいむか)ひて立つ。各足を挙げて相踏む。」とあり、この足踏みによって当麻踏速は、「勇みこわき士(ひと)(恐ろしく荒々しい人)」であったが、野見宿祢に「脇骨を踏み折(さ)く。亦其の腰を踏み折きて」殺されてしまったとあり、非常に力強い足踏みをするものであったことがわかる。

 相撲では、このような足踏みを「しこ」とよんでいるが、しこ(醜)は「強い」という意味である。

 この「しこ」が、襲いかかって来る勇みこわきものを威嚇して追い払おうとする動作として行われている例を、天照大神が天地を鳴動させて天に昇ってくる素戔嗚尊(すさのをのみこと)に対抗し、追い返そうとして行った勇ましい行動にみることができる。『日本書紀』(神代上第六)に記される天照大神は、多くの大きな玉を頭や腕に巻き、背中には数多くの矢を負い、臂(ひじ)には高い音の出る神聖な鞆(とも)を着け、弓を振りたて剣の柄を握りしめて、「竪庭(かたには)を踏みて股(むかもも)に陥(ふみぬ)き、沫雪の若くに蹴散(くえはららか)し、稜威(いつ)の雄(おた)けび奮(ふる)はし」と記されている。素戔嗚尊は、根の国、すなわち死者の世界の支配者であり、青山を枯山にし、河川を干上らせ、さまざまな災禍を起こす荒ぶる神である。この素戔嗚尊に象徴されるような死者の世界からすさび出て、人々に災禍をもたらす悪霊を、天照大神は、玉や弓矢といった呪具で身を固め、「しこ」を踏んで追い返そうとしたのであるすなわち「しこ」は悪霊を鎮め、攘却する呪的動作であったのである。

 このような呪的動作は、 天の磐戸の前で行った天宇受貴命(アマノウズメ)の「汗気伏せて踏みとどろこし」(『古事記』天の磐戸)や隼人舞(はやとまい・九州大隅,薩摩地方に居住した隼人族の古代風俗 (ふぞく) 歌舞)の起源を語ったとされる火酢芹命(はすせりのみこと・海幸彦)の盛んに足踏みを繰り返す舞(『日本書紀』下十段一書)にも見られる。従来は、この隼人の舞が神の従者であることを表す「ぎおぎ・役者」とされてきたのに対し、五来重博士は、神態を演じる宗教者の舞であり、祖霊が祭りの場に出現して、荒れすさび子孫の生活を脅かす悪霊を鎮め抑えて共同体の境外に追い払う呪術であり、その基本的な型は敵を威嚇する足踏みにあることを指摘され、この足踏みは 「我が国の祭儀と芸能においてはもっとも神聖な動作ヒしてながく伝承され、ダダ(子供が駄々をこねるのがダダ)・反閇(へんばい。だだをこねること)・足拍子・六方などと名付けて秘伝視された呪的足踏みである。」(雑誌『まつり』第二号−祭りと芸能−)といわれている。

 相撲では 「しこ」と名付けられた足踏みが、悪霊鎮魂の呪術として行われている間は、神態を演じる宗教者によって行われるものであった。しかし悪霊を払う呪力と体力が同一視され、体力が強ければ呪力も強いと信じられるようになったことで宗教的な意味が忘れられてしまった。とはいえ、今の大相撲でも力士の 「揃い踏み( 相撲で、中入り後に幕内の全力士が土俵上に並んで正面に向かい、四股 (しこ) を踏むこと)」や横綱の「土俵入り」などは種の宗教行事で、天下国家の悪魔を祓うものである。

 祭礼において相撲がいまなお盛んであるのは、もちろん奉納とか余興という意味もあるだろうが、足踏みを繰り返すことによって悪霊を鎮め祓い、土俵に象徴される村全体、町全体を清らかにするというところにこそ本末の意味がある。それは、できるだけ多くの人が参加し、数多く相撲をとり、しかも激しく競い合えば観い合うほど神様がお喜びになるといわれていることにも通じるものであろう。

二 勝負はおあずけ

 東端穴の 「ショッキリ」 と同じょうにいまは相撲をする人がなく、「しこ」を踏み、立ち上がって組むだけで勝負なしの一番だけになっているのは、恒例の「上境明神の相撲」として知られた(『茨城の地名』)、つくば市上境の体見(すがたみ)神社で行われている宮相撲である。

 明野町村田の三所神社や八千代町久下田の久下田神社の祭りに行われる相撲では、最初に「神相撲」といい、幼児が豊年と万作に分れて組むが勝負なしの相撲である。一方、八千代町栗山の観音堂や土浦市粟野の八幡神社、同じく真鍋の鹿島神社の祭りに行われる相撲では最後のl番を「結び」というが、組み合ったところで行司が「待った」をかけて勝負しないで終わる。「勝ち相撲」で知られる潮来町延方の鹿嶋吉田神社の宮相撲では、ショッキリと結びに鹿島山と吉田山が相撲をとりl勝l敗ずつで引き分けることになっていて、とくに結びでは 「勝負は行司あずかりとする」と告げる。このように神相撲やこれで終わりの一番を勝負なしとするのは何故であろうか。

 いまも祭りの行司として相撲をするところでは、その理由に 「祭神が相撲を好まれる」を第一にあげる。

 祭神の好まれるものを少しだけ見せて、祭りの本義である祈願成就を神に約束させるという例は、山の神祭りにみることができる。

 一般に山の神は、醜い姿なので、自分より醜い姿の「オコゼ」という魚を好まれるという話は有名である。山の神の祭りにはオコゼを(しんせん神に供える酒食(しゅし)とするところが多いそうであるが、三重県尾鷲市三木里の山の神まつりには、真夜中に村人代表の老人が、オコゼの干物を入れ蓋を釘付けにした小箱をもって山の神の祠(ほこら)に参り、「南無…山の神様」と唱えて拝み、「オタカラモノをお見せしましょうか」 というと、祠の後に隠れていた祭りの頭人(かしら)が山の神となって「見たい」と応える。そこで老人が小箱の蓋を少し開ける真似をすると「もちっともちっと」という。老人は 「いやいやもうなりませぬ」といって実際は少しも見せないという。愛媛県玉皮村竜岡木地では、冬のシシ猟のとき海のオコゼを紙に包んで見えぬようにして持っていき、山に入ったらちらっとオコゼを見せて「山の神さん獲物をお願いします。獲物があれば全部お見せします。」といったという。山の神はオコゼが見たいばっかりに、獲物を与えてくださるのだという。(堀田士口雄著『山の神信仰の研究』)

 このように山の神に祈願成就を固く約束させる方法の一つとして、山の神のもっとも好まれるオコゼをちらつかせるのと同じように祭神が好むとされる相撲の形ばかりを見せて肝心の勝負は祈頼成就までおあずけにするというのが、結びの相撲は勝負をしないことの宗教的な意味だったのではないかと考えられる。

三 梨の呪力

 東端穴の祭礼では、神事の直会(なおえ)に梨を食べる梨は土俵にも埋め、相撲が終わってから掘り出して食べる「梨」のなしと「無し」のなしという言葉をかけて、「悪霊退散」を願って神前に供え、土俵にも埋めておいて食べるのだそうである。おそらくこれも直会の意味であろう。土浦市粟野では梨と栗を埋めるという。

 八千代町栗山の観音堂の祭礼相撲では、土俵の中央に「病気なし」「怪我なし」を祈願して梨を箱のまま埋め、相撲がすめば、見物人も含めて参加者一同に配られる。ここでは子供に食べさせると丈夫に育つからと米も同時に埋められる。

 土俵にものを埋めることはいまの大相撲でも場所ごとの初日の前日の「土俵祭り」でみることができるが、その埋めものは(しんせん神に供える酒食(しゅし)として供えられていた「ほしがき、かちぐり、するめ、こんぶ」などで、梨はない。しかし茨城県内には祭礼行事として相撲が行われる際、梨を用いるというところが、あちこちにあり、いずこが発祥の地かはわからないが、このあたりの祭礼相撲における特徴のようである。

 茨城県下最大の梨の産地として知られる関城町では、かつては町内の各神社において梨の豊作を祈願する奉納相撲が行われ、勝者には褒美として梨が与えられたので 「梨相撲」と呼ばれていたそうである。それに因んで現在では町内行事の三貝として子供の相撲大会「どすこいペア」が行われている。関城町と並んで梨作りの盛んな千代川村でも大国木の愛宕神社で梨相撲がある。また明野町村田の三所神社でも梨相撲の名がある。小学生の相撲で、勝者にはニケ、負けた者にも一ケの梨が与えられる。梨の産地に近いところであるにもかかわらず、当地では昔は梨が贅沢な果実で、褒美に貰うのが楽しみだったそうである。

 梨を「なし」と発音する理由はわからないが、日本原産の山梨を育成し、『延喜式(えんぎしき)』に甲斐国から宮廷に貢進されたことが記されている。しかし、一般には珍しい果実だったようで、厄除けの呪力があると信じられていた。病気の親に食べさせようと梨採りにに出かけた兄弟の話(なら梨とり)梨の木に昇って難を逃れた話(天道さん金の網)など、山中にある災難をよける木として梨の登場する伝説や昔話の分布は東日本に多いといわれている。梨を神様へのお供え物をしたのは、梨に災いを無しにするという呪力があると信じられていたからで、単に「なし」という言葉にこだわっただけではなかったと思われる。

四、十九夜は御霊会

 東端穴の八幡神社の祭りは八月十五日である。祭りの時期はところどころによってさまぎまであるが、相撲が行われる祭りはほとんどが秋の収穫期に集中しているようである。一口にに秋の収穫期といっても具体的な月や日はそれぞれに異なっているが、いずれも八日十五日、八朔祭、山の神祭、亥の子祭、新嘗祭など古くから民間の年中行事とされてきた日にちなんで行われているようである。それでは、東端穴の相撲は何故八月十五日に行われるのであろうか。このことについては、相撲がもともとどのようなときに行われていたかということと関わりがあろう。

 相撲の起源を語ったとされる『日本書紀』垂仁紀に登場する野見宿祢は後に葬儀に際して従来の習慣であった殉死を止めて埴輪に変えた功績によって土部の姓を賜ったものである。また一方の当麻蹄速も土部も土部と同じような職にあった当麻氏に関わりあるものとされている(田中比佐夫著「二上山」。このような葬儀に関わる二人によって相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇の皇后であった狭穂姫が兄の謀叛に巻き込まれて、兄が討たれたとき自らの命を絶ったという悲劇のあとである。

 我が国では、人の肉体は滅びてもその霊魂はは滅びることはなく、しかも死んだ直後の霊魂はその生前の罪や汚れのために荒れすさび、祟りや災禍をもたらしやすい荒魂であると信じられてきた。今日の相撲場・土俵は、年毎に霊を祀り供養するための祭場として作られたのかもしれない。

 古来、日照りや洪水や暴風のような異変や疫病が流行する原因は、いまだ浄化されない死霊や祀られることなく忘れられてしまった悪霊の仕業と信じられてきた。放生会や御霊会に相撲が行われてきたのも、こうした死霊や悪霊を鎮め摸即するためであろう。

 放生会の発祥とされる宇佐八幡宮は、元正天皇が、養老四年(七二〇)に宇佐八幡に祈って隼人を討伐した。隼人の霊は蜷(にな・田にすみつく巻貝)となって農作物に被害を与えたので八幡神は隼人の霊を慰撫するために毎年人月十五日に放生会を行うように託宣されたといわれている。

 このように八幡神は怨霊を鎮める情け深い神であるが、裏を返せば祀らなければたちまち崇りをもたらす汎心ろしい神でもある。つまり八幡神そのものが怨霊であり、放生会(ほうじょうえ)はその崇りを鎮めるために行われたもので、御霊会(ごりょうえ)と同じ性格を持つ祭りだったのである。

 崇りによって懲罰を表すが、よく祀れば恩寵をもたらす神といえば、祖先の霊もおなじであろう。一般に民間で秋の祭といわれている八月十五夜祭 (里芋や栗のような木の実の収穫成心謝祭)、八朔祭(稔りつつある稲の無事を析頼する祭)山の神祭(耕作の守護を成心謝する祭)、新嘗祭(収穫成心謝祭)などはいずれも祖先の霊に成心謝と祈りを捧げる日であり、この意味では御霊会的な性格を持っていると言えるかもしれない。先祖祭ということでは、本来なら新年や春期の祭にも相撲が行われてもよさそうであるが、これが秋期にのみ集中しているのは、やはり収穫という農耕生活にとってはもっとも大切な時期の祭りということと関係があろう。

 したがって東端穴の八幡神社の祭りの相撲は放生会の行事を踏襲したものであろうが、形ばかりで勝負をしない相撲になってもなお境内に立派な土俵を構えて行われているのは、八幡神社の祭神が、東端穴の村氏神となってもなお相撲を要求するほどの恐ろしい神−御霊だったからにちがいない。

 祭礼に相撲をする意味は、御霊を鎮めて生活共同体の安全と幸福を約束させるところにあったのである。

(大谷大学名誉教授)