常陸国の相撲興行
■常陸国の相撲興行と力士の人馬賃銭について
▶︎はじめに
寛政~文化年間(1789~1818)に活躍した大関雷電為右衛門は、「諸国相撲扣帳」(以下、「扣帳・ひかえちょう」)という史料を遺している。この史料は雷電が、寛政元年(一七八九)から文化12年(一八一五)までの地方興行の日程や興行および日数、興行の様子を記録したものである。江戸時代の地方興行は、部屋ごと、あるいはお抱えの力士が抱え主である藩主の国許(くにもと)に戻る途中で興行する等、様々な集団で各方面に分かれて行われていた。従って「扣帳」は、雷電一行の地方興行記録ということになる。本稿では、まず「和帳」を素材として常陸国で行われた相撲興行を紹介する。次に天保元年(1830)の人馬願一件を検討し、力士が地方興行のために旅行する際の人馬賃銭について述べる。
一 常陸国の相撲興行
江戸時代後期の地方興行は、三都の相撲と密接に関わっている。三都の相撲興行は、基本的に江戸(二〜三月)→大坂(七月)→京都(人月)→江戸十〜十一月)というサイクルで行われており、地方興行は、この合間に各相撲集団により催された。各々の集団で興行した力士は、三部で一同に会した。「扣帳」によると常陸国でも享和元年(1801)、文化二年(1805)、文化三年(1806)、文化六年(1809)、文化十年(1813)に相撲興行が催されている。以下「扣帳」の記述から常陸国における相撲興行について述べることにする。なお地名については史料のままで表記し、必要に応じて括弧を付して補足した。
①享和元年
二月に江戸を出立し、下総国臼井宿を経由して、江戸崎、水戸在の杉崎新田で興行している。興行日数は両地とも五日間で、杉崎新田では繁盛したようである。この後三月下旬には江戸に戻り、江戸相撲に出場した後、名古屋、桑名、大坂、京都で興行し、九月に松江に到着している。その後10月〜11月にかけては米子等で興行し、松江で年を越した。雷電は松江藩のお抱えであったため、藩主の国許に戻ることもしばしばあった。
雷電為右衛門という名をご存じだろうか。この人、江戸時代の名力士で大関なのだが、身長六尺五寸(197センチ)・体重四十五貫(168.7キロ)という巨躯の持ち主だったという。外国人力士が多数在籍する現在の角界にあっては珍しくもない体格だが、日本人男子の平均身長が150センチ台の江戸期にあっては怪物だった。雷電為右衛門は寛政2年(1790年)11月に江戸本場所で初土俵を踏み、以来21年間の現役生活で34場所の土俵に立ち、254勝10敗、引分・預り・無勝負等21、勝率でいうと約9割6分というとんでもない強さを誇った。横綱になれなかったのは何故なのだろうと思ってしまうが、当時は大関が番付の最高位で、横綱は名誉称号に過ぎなかったかららしい。名を捨てて実を取るといったところか。雷電為右衛門は巡業の際、臼井上宿にあった甘酒茶屋”天狗”に立ち寄り、ここの看板娘だった”おはん(後に八重へ改名)”を見初めて妻に迎えた。晩年はこの地で余生を過ごし没したという。
②文化二年
この年は、4月に江戸を出立し、大坂、京都を経て七月〜九月にかけて信州、上州方面を廻り、10月に江戸に到着している。常陸国では、江戸に入る前に府中(石岡)で、九月下旬から10月にかけて興行している。興行期間は五日間で繁盛したとある。この相撲は三五両で地元の勧進元に売られている。なお雷電一行は、江戸に向かう途中、府中から四里程離れた一の川(市川)に泊まっているが、そこで六オの男の子が雷電に門弟入りを願い出ている。この時雷電は一ノ川市五郎と名乗るこの男の子を門弟としているが、その後のことは不明である。しかし地方興行中の入門願の事例として興味深い出来事である。
③文化三年
この年は、江戸相撲後の四月五目に江戸を出立し、四月八日から十五日まで真壁で五日間興行している。この興行は35両で売られ、繁盛した。続いて15日から3日まで、結城で手相撲を興行している。手相撲ヒは、興行を勧進元に売らずに自らが勧進元となって相撲を開催することである。結城では地代二両二分のはか諸入用を支払い、37貫文が残っている。このように地方興行の形態には、真壁の例のように勧進元に売る場合もあれば、興行集団が自ら行う手相撲もあった。この後土浦へ行き、興行日数は不明であるが、4月23日から5月3日の間、ここでも手相撲を興行している。土浦では40貫文が残っている。以後、磐城国の小名浜、湯本、神谷と廻った雷電は、6月2日から11日まで平方で興行している。平方の中心部から一里程外に場所を設け、角屋重右衛門と目明し仁兵衛が世話をした。地代は三両で、八両残っている。最終日となる11日には平方の寺で土俵入りを行い、一番ずつ相撲を取っており、見物していた女郎衆から花が五両も出されている。花とは芸人などに出す祝儀のことであるが、このように力士が興行中に花を受け取ることもしばしばあった。
この年雷電は、大坂、京都の相撲には参加せず、六月から八月にかけては、郡山、米沢、福島など城下町を中心に興行を続け、九、一〇月は下野、下総方面を廻り、一〇月下旬に江戸に戻り、江戸相撲に出場した。
④文化六年
江戸相撲を終えた雷電は、4月17日に江戸を出立し、相模国の二宮、浦賀、下総国の十日市場などを廻った後、七月中旬に藤代で三日興行し、一二両取っている。続いて麻生村で興行し、九両一分二朱取り、柏崎新田では三日興行し、六両二分取っている。この後安流(安食カ)で興行、l O両取ってから、笠間でlニ日間興行したが、大嵐となり見物人も少なかった。笠間では一両lニ分が残った。この後日光、宇都宮などで興行してから一〇月に江戸に戻っている。「和帳」こょしゴしゴ「残」、「取」という表現が見られる。「残」は、文字通り地代やその他の諸入用を支払った後に残った金銭のことど思われる。「取」は、興行全体の収益を指すのか、あるいは雷電一人の賃金を指すのかはっきりしないが、いずれにしても興行による収入を意味するものであろう。
あくまで参考となる例として、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では「当時と今の米の値段を比較すると、1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=12~13万円」という試算を紹介しています。
⑤文化一〇年
雷電は文化8年に引退し、同年の閏二月一四日に松江薄の相撲頭取となっている。よってこの年の地方興行は、相撲頭取としての記録である。六月一七日に江戸を出立し、検見川、東金宿などを経て、8月から九月にかけて水戸城下、祝(岩)井町、太田宿、杉崎で興行している。水戸では8月19日から9月6日までの間に8日興行し、53両を取っている。続いて祝(岩)井町では、9月9日から17日までに七日興行し、三二両を取っている。太田宿では一九日が初日であったが、少々の雨にも拘わらず、見物人が束来ていたので、予定より早く八ツ過 (午後二時過) から木戸を開けている。翌20日も大入りとなった。21日も大入りであったが、役人が来たため木戸を取り片付づけ、土俵入りと一番相撲を三番ばかり取ってから銭を持って宿に帰っている。太田宿では興行を途中でうち切ってはいるものの、大繁盛であったようである。しかし次の杉崎では三日興行したが、見物人があまり入らなかった。この後下野方面を廻り、11月30日に江戸に戻っている。
このように常陸国では享和・文化年間にたびたび相撲興行が催された。水戸や土浦といった城下町のみでな〈、杉崎新田など、左方においても行われた。
二 天保元年の人馬願一件
ここでは天保元年の人馬願一件を検討L、カ士が地方興行のために旅行する際の人馬賃銭について述べる。
文政八年(一八二五)三月に幕府から、道中を先触により通行できるのは武家のものだけで、浪人、在町のものが先触を使用することを禁じる旨の触が出され、力士の場合も、諸家お抱えのものが主人の用向きのため往来するとき以外は、先触による通行が禁じられた。この触により力士が旅行する際は、相対で人馬を雇わなければならなくなった。これに対して天保元年に相撲年寄惣代(以下、惣代)の雷権太夫・浦風林右衛門は、町奉行へ願書を提出している。
(前略) 元相勤候卸屋敷之駄賃帳、亦者五條殿、右脚家之儀者野見宿祢尊 御由緒之儀二付御帳面被下、宿々問屋二而前々名人馬借り来候儀二御座候、 此度相撲之者共主用之外家業体ll而旅行致候二付、人馬之儀相対雇二可敦段宿々、エ御触御座候由、右御触前遠国江罷出候者共、帰り候途中占人馬相対=二雇可申旨宿々二而中之候間、無致オ駄賃銭余分二差出し相雇罷帰り候、右体相対雇与申候儀者多分之賃銭差出し不申候而者取敢不申、左候而以束旅行仕候儀者難相成、在方之儀者農業之間之績之日数被相雇、柳之代銭ヲ取多分之駄賃銭相払雇歩行候而者甚以難渋仕候、勿論重立候相撲之者共儀ハ大兵ゆへ目方も有之候杯与中、中々多分之駄賃銭差出L不申候而者旅行難相成、江戸相撲間二在有井二遠国江罷出不中候而者御当地春冬之相撲計二而ハ取続兼難儀至極仕候、勿論遠国、エ相撲ヲ為取大兵成著者門弟二致刀口達参り候儀二而、旅行不仕候而者自然与大兵力董成者も絶、只今迄永続仕候相撲衰微仕候棟成行候得ハ、相撲職業占外二家業者不存候二付、身命ヲ送り兼困窮至極仕候二付、不顧恐奉額上候、何卒以御慈悲ロハ今迄之通り旅行仕候節者、宿々問屋共有二而世話致人馬賃呉候様被 仰付被下置候様偏二奉願上候
従来力士は、「相勤候御屋敷」すなわち抱え主、あるいは野見宿祢(のみのすくね)の由緒があり相撲の家とされている五條家から駄賃帳を受け、宿々から人馬を借りて旅行していた。しかしこの度、家業すなわち地方興行のために旅行するときは人馬を相対雇にする旨が宿々に触れられたため、力士が難渋している様子が分かる。そしてちょうど触が出る前に遠国へ赴いていた力士は、仕方なく余分の賃銭を差し出したとある。このままでは旅行も難しくなり、その上主な力士は大兵で目方があり、人馬を雇うのに余計に多くの駄賃が必要であるにもかかわらず、わずかの日数、代銭のために左方へ赴いては難渋するとしている。また重立ったものを召し連れて旅行するのは、興行以外にも遠国で力量があり大兵(からだが大きいこと)なものと相撲を取らせ、門弟にするという理由があった。相対雇 (あいたいやと・当事者相互の談合によって雇傭が成立すること)なっては旅行も困難になり、大兵で力量のあるものを探すことが出来ず、しいてはこれまで続いてきた相撲そのものが衰微してしまうだろうとしている。惣代は以上のように述べ、もとの御定賃銭に戻して欲しい旨を願い出ている。そして願書は以下のように続く。
尤近年在方。而相撲取井。行司。粉敷者所々。而人馬借受候儀粗承驚奉汎心 入候儀二御座候、依之年寄共申合印鑑相揖宿々問屋共オ、ユ掛ケ合印鑑 相渡置、右印鑑無之者者相撲取。者無之候問、人馬決而借L不申棟談し 置候、猶此上厳敷取締可仕候、前書車中上候通り夏季占秋迄者旅行仕 候得共、春冬之内奇相撲之者一統御当地。罷在候問、万一出火等御座 候節、御差回次第御用相勤申度l同い心頼l√奉存候。付、不顧恐奉願上 候、全ク大勢之者扶助仕候得者、相撲職業絶不中身命ヲ送候儀、乍汎心 卿奉行所様以 御憐懲、永久渡世相続仕候儀与冥加至極難有仕合奉存 候、
近年在方(ざいかた・いなか)には、力士や行司を装って不正に人馬を借り受けるものが存在するという状況を述べている。文政八年の触(しょく・おふれ)は、このような在方の状況に対応して出されたものと想起される。惣代は、在方で不正に人馬を借りているものと力士を区別するために印鑑を作成することを提案し、更に春と冬の間は力士は江戸にいるので、出火等の節は指図があり次第、御用(用・用事などの敬った言い方)を勤めると述べている。
この願書は、四月晦日に江戸町奉行榊原主計頭忠之に差し出されたが沙汰が無かったため、惣代(地域集団の代表者)は六月一〇日に追訴し、道中奉行曽我豊後守助弼が取り扱うこととなった。この訴えは曽我に受け入れられ、七月九日に、相撲の場合は歌舞伎や操人形芝居 (あやつりにんぎょうしばい)とは訳が違い、他国在々へ旅行しないと難儀(苦労)するので、どれくらいの人馬が必要かを調べるよう惣代は命ぜられた。そして調査の結果、八月三日に次の四点が仰せ渡された。
① 冬・春の旅行の際は、往返四度(往復4回)に限り、東海道(人足六人、馬二五疋・ひき・匹) 中仙道(人足二二人、馬一三疋)、日光道中・奥州道中(人足六人、馬二二疋)という範囲内においては御定賃銭(おさだめちんせん・江戸時代における街道の人馬賃銭の一種)により人馬を使用してよい。
② 常州下総筋は脇街道であり道中奉行(五街道を管理し,宿場や飛脚など交通通信に関する行政にあたった)の支配ではないので、その場所の 宿役人を申談して取り計らうように。
③ 先の願通り力士は、冬・春のうち奉行所近辺で出火があった際は早速駆 け付け、指図を受け次第適中方の御用物(宮中や官庁の用に供する品物)などを持ち出すように。
④ 従来五條家の家来の名前で先触を出していたが、今後は相撲年寄(親方)の名前・印鑑を用いること。
惣代による先の願書は概ね受け入れられたといえよう。こうして人馬頼l件は、カ士は設定された範囲内においては従来のように御定賃銭で人馬を使用できることに決まり、解決を見た。
▶︎おわりに
人馬願一件の願書中に 「江戸相撲間。在有井。遠国江罷出不中候而者御当地春冬之相撲計。而ハ取続兼難儀至極仕候」とあることからも分かるように、地方興行は力士にとって渡世存続のため必要不可欠なものであった。また力士の旅行は、地方で興行を催すだけでな〈、新しい門弟を探すというためのものでもあった。大兵(からだが大きいこと)で力量のあるものを探し出すことは、当事者の渡世存続にのみならず、将来の相撲自体の存続、繁栄のためにも必要であった。「和帳」の文化二年の項にも、六才の男の子の入門願について記されているが、時には地方興行中の入門願もあったものと思われる。そして力士は旅行の際、相対雇より低廉な御定賃銭で人馬を借りることができるという一種の特権を有していたのである。
本稿を通して享和・文化年間の常陸国における地方興行と力士の人馬賃銭について知ることが出来た。興行集団の構成や木戸銭(きどせん・興行見物のために入り口で払う料金)など、地方興行の実態についてはまだまだ不明な点が多いが、これらに関しては今後の課題とする。