原発規制と推進

■原発規制と推進

■制御不能の原発をいかに鎮めるか。

 国内の原発をいかに動かし続けるか。原発事故のまっただ中、この難題に同じ役所が取り組んでいた。

 原発を動かすための「緊急安全対策」を、経済産業省は傘下の原子力安全・保安院の黒木慎一審議官(当時)に任せた。

 黒木氏は取材に対し、対策づくりの経緯を明かした。寺坂倍昭・保安院長から2011年3月16日に指示を受け、政府と東京電力でつくる統合対策本部で事故収束の任務にあたり、18日に保安院に戻って本格的に対策を練り始めた

 「福島の事故は、歴史的に認識できていた津波で起きた安全規制の敗北だ」。大学で原子力を専攻し、長年、原発行政に携わってきた黒木氏にとつて、つらい作業だった。「本格的な対策を施すまでにどう原発の安全性を高めるか」。そのうえで「電力会社が今できること」を模索した。

 保安院があった経産省別館は、原発を推進する資源エネルギー庁も同居する。いずれも経産相、事務次官の指揮下にあった。

 連日の電力不足対応で、エネ庁も、産業政策全般を担う本省も、日に日にいら立ちを募らせていると、黒木氏は感じた。対策づくりの期限は指示されなかったが、「3月中」というムードになったという。

 3月30日、・緊急安全対策が発表される。津波による電源喪失や冷却不離を防ぐため、電力会社に1カ月で取り組ませる短期対策として「電源車や消防車、消火ホースの配備」を盛り込んだ。

 だが、放射性物質を拡散させない「フィルター付きベント」や、緊急用の対策施設の設置など、本格的な対策は「その他必要な設備」と扱われた。

 「緊急安全対策は『次善の策だった」。当時の経産相、海江田万里氏はいま本音を語る。「電気が足りない問題に直面していたが、我々は夏の電力ピークを乗り切れるかという時間軸で見ていた。対策は梅雨明けまでに必要だった」

 対策の発表から約1カ日後。電力各社が緊急対策を施したことを、保安院が現地確認した。それを受け本省は、立地自治体に再稼働を迫る説得材料」にしようと、5月13日付で文書を公表した。「緊急安全対策の確認結果を踏まえ、原発の運転継続と定期検査後の再開は安全上支障がない

 3回目の爆発から60日足らず。急いでつくった「次善の策」は、「安全宣言」にすり替わった。

■再稼働急いだ地元合意

▶︎目指すべき安全性がゆがんだ。

 「急場しのぎ」の安全対策を、原発のある地元自治体はうのみにしなかった再稼働に、同意せず、12年5月に北海道電力泊原発が3号機が定検に入ると、日本中の原発が止まった。42年ぶりの「原発ゼロ」だった。

 黒木氏は関西地方のある知事に呼ばれ、進言されたことがある。「保安院なのだから、動いている原発をすべて止めて点検すべき立場ではないのか」

 知事に対策を否定されたと、経産大臣室で報告した。すると、「もう一回、説明に行ってこいよ。海江田氏の隣にいた経産幹部に叱責された

 「安全を守る側が、なぜ推進の手伝いをしなければいけないのか」。黒木氏は苦々しい思いだった。規制が推進の「先兵」になったケースは、このとき始まったわけではない。

 04年8月。関西電力美浜原発3号機の蒸気噴出で作業員11人が死傷した。福井県の西川一誠知事は、関電に全原発の停止と点検を求め、閑電は応じた

 原発11基が止まる電力危機に当時の経産相、中川昭一氏が動。事故の翌日、保安院長だった松永和夫氏を連れ、福井県美浜町を訪れた。以降、保安院の「福井詣で」が続く。福井県で安全対策を講じる引き換えに再稼働を促した。

 保安院の調査で、事故原因は関電や三菱重工業どの連絡不足が招いた「点検漏れ」だった。しかし福井県の要求は、古くなった原発の老朽化対策や、地元のエネルギー拠点づくりに及んだ。経産側はすべて受け入れ、点検箇所を見落とさないソフト対策に取り組むところが、原発のハード対策に傾いた。

 「再稼働を急ぎ、めざすベき安全性がゆがんだ」。当時取保安院の課長は取材にそう答えた。事故が起きるたび、地元振興も含めた対策工事が優先されためったに起きない地震や津波への対策は後回しとなった。

■組織見ブレーキ役課題

 昭和の時代、大きな原発事故は米スリーマイル島や、旧ソ連のチェルノブイリなど海外が主だった。平成に入って日本でも深刻な事故が起き、対岸の火事ではなくなった政府は事故やトラブルのたびに、規制組織を見直した

 99年に茨城県で起きた燃料加工会社JCOの臨界事故。旧科学技術庁にあった燃料加工や再処理の規制部門は、01年1月の省庁再編で新設された経産省の原子力安全・保安院に統合された。

 保安院は02年の東京電力のトラブル隠しを見抜けなかった反省から、翌年に原発の検査を担う独立行政法人を設立した。保安院の体制も発足時の200人から10年余で倍増した。

 ただ、規制当局が完全に独立するには「3・11」を待たなければならない

 松永氏の前任の事務次官で、保安院の初代次長も務めた望月晴文氏は、11年9月の日本記者クラブでの講演で述懐した。

 「保安院とエネ庁が同じ大臣のもとにあるのは、ややこしいことです。エネ庁は安全について全く避け、保安院に説明に行けと言って終わってしまう。世界的に例を見ない体制です」

 共存するアクセル(推進)とブレーキ(規制)。「経産省の中で保安院は原発推進の『道具』に過ぎなかった」。かつて保安院に在籍し、現在、原子力規制委員会に移った中堅幹部はそう説明する。

 ブレーキは本来の役割を果たせず、アクセルが踏まれ続けた。待っていたのは、7年たっても5万人が避難を続ける甚大な原発事故だった

 12年に発足した規制委は、新規制基準をつくり、本格的な安全対策を電力会社に求めた。1基1千億円かかるとされる巨額な安全対策の費用を考え、廃炉を決めた原発は福島第一を除いて8基にのぼる。

 一方、再稼働は九州電力の川内原発(15年8月)以降今月14日の関電大飯原発で計6基。規制委は新基準をクリアした原発も「絶対安全とは申し上げない」(田中俊一・前委員長)と繰り返す。

 これに対し、安倍晋三首相は「原発の再稼働は、世界で最も厳しい(規制委の)基準のもとで判断する」と強調する。原発の安全にだれが責任をもつのか。事故から7年たっても、あいまいなままだ。」

(朝日新聞   「  (平成経済)第3部・原発支配の底流:原発規制と推進、矛盾噴出     」編集委員・大月規義氏  記述     2018年3月18日