岡本太郎の“対極主義”の成立をめぐって

■岡本太郎の“対極主義”の成立をめぐって

1. はじめに

 岡本太郎の提唱した理念に“対極主義”というものがある。一般的な知名度としては、
「芸術は爆発だ」という科白には及ばないかもしれない。しかし“爆発”よりもむしろ“対極”
という言葉のほうが、岡本の本質をより明瞭に表しているように思われる。既成概念に挑
みかかるような彼の激しい言動の数々を思い出してみよう。そこではいつも、常識の“対
極”となるような主張がなされてはいなかったか。あるいは《太陽の塔》。1970年の大阪
万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったが、岡本が作り上げたモニュメントはまさにそ
のテーマとは“対極”の、原初的で呪術的なパワーを発し、周囲の近未来的なパヴィリオン
を圧していた。

 “対極”という考え方は、おそらく岡本の生涯を貫く理念だったといってよいだろう。そ
れは造形上の理念にとどまらず、生き方の指針とでもいうべきものであった。彼の膨大な
著作の中でも、さまざまな局面において変奏されながら、その理念は顔を出す。しかし、
彼の著作の中で最初にこの理念が語られたとき、“対極”はきわめて限定的な意味あいで
用いられていた。すなわち、合理主義的な芸術である抽象絵画と非合理主義的な芸術で
あるシュルレアリスムとの“対極”である。

 岡本の“対極主義”がはじめて活字として発表されたのは、『岡本太郎画文集アヴァン
ギャルド』(月曜書房、1948年11月)においてであり、同書に収録された「対極主義」とい
う章の文末には1948年9月執筆と記されている。この文章の冒頭で、岡本は20世紀前半
の美術を次のように捉えている。

 二十世紀に捲起つた革命的なアヴァンギャルド芸術運動には、強度に相反発する
二つの流れをみる。合理的に機械化された抽象画の無機的要素の再構成である美
学と、今一つはこれの猛烈なアンチテーゼとして起つたダダイスム、スュールレアリス
ムの如き極端な非合理主義である。二十世紀の運命を最も果敢に担つた、この矛盾
する二つの流れは、相互に否定し合つて発展した。しかし各々がその陣営に自足す
る時、合理主義者は観念的な美学に安住し、スュールレアリストは夢と狂気のファン
テージーに遁走する傾向が顕著になる。矛盾を極めた今日の現実に当面して、美や

 夢に逸脱するのは安易な仕業である。そこに当然空虚が起る。したがつてこれを埋
めなければならない精神が要請されるのである。
岡本はこのように、20世紀の美術の流れを合理主義的な芸術である抽象絵画と非合
理主義的な芸術であるシュルレアリスムとの二つに大別し、両者を矛盾・対立したものと
位置づける。そして、この対立した二つの流れに対してどのような態度をとりながら、新し
い芸術を生み出していくべきか、次のように主張するのである。

 上述の二つの極性を見究め、これを主体的にとらへることによつて、相互を妥協折
衷することなく、逆に矛盾の深淵を絶望的に深め、その緊張の中に前進するのであ
る。今日峻厳な魂は合理主義、非合理主義のいづれかに偏向し、安心立命すべきで
はない。又それらを融合して微温的なカクテールをつくるべきものでもない。その
精神の在り方は、強烈に吸引し反撥する緊張によつて両極間に発する火花の熾烈な
光景であり、引裂かれた傷口のやうに、生々しい酸鼻を極めたものである(1)。

 すなわち岡本は、合理主義としての抽象絵画と、非合理主義としてのシュルレアリスムの
いずれか一方をとるのでも、両者を折衷させるのでもなく、「抽象的要素と超現実的要素の
矛盾のままの対置」を主張する。そして「無機・有機、抽象・具象、吸引・反撥、愛憎、美醜、
すべてこれらの引裂かれたからみあひは、結果として猛烈な不協和音を発する」として、そ
こにこそ「精神の昂揚を感じるに違ひない」という。これが岡本のいう“対極主義”である。
岡本はこの主張を「単に論理的な観念の結果として浮び出たのではなく、絵画製作上
体験的に帰結した問題である」といい、具体例として《夜明け》(1948年、当館蔵、図1)を
挙げている。第33回二科展(9月1日-16日)に出品された《夜明け》は、まさに「対極主義」
の文章が執筆される直前に描かれていたことになる。具体的に作品を観察してみても、男
図1:岡本太郎《夜明け》1948年 東京国立近代美術館蔵

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と女、人と獣、夜と朝、再現描写の方向と抽象化の方向、鋭い明暗、激しい補色関係など、
そこにはさまざまな“対極”が認められるだろう。
このようなきわめてユニークな“対極主義”であるが、いまだ十分に考察されていないい
くつかの課題がある。第一は、“対極主義”の位置づけである。抽象絵画とシュルレアリ
スムとの対立を乗り超えようとする姿勢は、岡本固有の課題だったのか。当時の他の画家
たちに、その問題は共有されていなかったのか。共有されていたとしたら、それと比較し
て岡本の“対極主義”はいかなる点でユニークであったのか、ということが検討されなけ
ればならない。

 第二は、“対極主義”の成立過程のより詳しい分析である。というのも、『岡本太郎画
文集アヴァンギャルド』の記述をもとに“対極主義”の提唱を1948年9月とする立場が示さ
れたのはごく最近のことで、管見の限り2007年開催の『世田谷時代1946-1954の岡本太
郎』展(世田谷美術館)および『青山時代の岡本太郎1954-1970』展(川崎市岡本太郎美
術館)が最初なのである。それ以前に刊行された多くの画集や展覧会カタログの年譜では、
“対極主義”の提唱は1947年とされてきた。実際のところ、岡本が戦後に旺盛に執筆した
啓蒙的な文章を読んでいくと、たしかに1947年からすでに抽象絵画とシュルレアリスムと
を対比的に捉えようとする論旨が、たびたび認められるのである。さらにいえば、この問
題意識は戦前の岡本のパリでの活動の時期にまで遡って考えることすら可能である。「単
に論理的な観念の結果として浮び出たのではなく、絵画製作上体験的に帰結した問題で
ある」と岡本が述べる通り、抽象絵画とシュルレアリスムの対立を乗り越えて新しい絵画を
生み出すことは、彼の長年のテーマであったとさえいえるだろう。そうした長年の探求の
末に提唱された“対極主義”ではあるが、それでも、1948年9月に明文化された上述の文
章には、それまでの岡本の思考から一段階進んだ考え方が示されている。その思考の深
化を促した要因は何かというのが、第三の課題である。

 本稿では以下、まず戦前のパリ時代の岡本にとっての抽象絵画とシュルレアリスムとの
関係を、制作と文章から導き出し、“対極主義”の下地となるものを確認する。続いて戦後
の岡本の文章を順に検討し、論旨の変化の過程を吟味する。さらに、変化のきっかけを与
えたものについて考察を加えたい。これらの作業を通して、“対極主義”が決して突拍子
もない主張ではなく、むしろ時代に広く共有された課題に対する、ひとつの真摯な回答で
あったことが明らかになるだろう。

2. パリでの体験

 岡本太郎は1929年暮れに、父・一平、母・かの子とともに日本を発ち、1930年1月にパ
リに到着した。以後、彼は両親とは別行動をとり、1940年6月パリ陥落直前に引き揚げる
までの10年間をパリで過ごすが、この間の活動については、長らく岡本自身の後年の回想
文に基づいて語られることが多く、一次資料の調査をふまえた実証的な研究は、ほとんど
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 なされてこなかった。彼がパリから持ち帰った作品はすべて戦災で失われ、現存する数点
はいずれも戦後の再制作であることや、パリでの発表活動について、展覧会目録や批評掲
載記事など現地で刊行された文献の調査が進まなかったのが要因である。ようやく近年
になって川崎市岡本太郎美術館を中心に調査が進み、『世田谷時代1946-1954の岡本
太郎』展カタログに所収の楠本亜紀「抽象から現実へ ―― パリ時代の岡本太郎」および
佐藤玲子「“失われた”岡本太郎の絵画」によって、岡本のパリ時代の概要をある程度客観
的に捉えることが可能となった。これらの研究をふまえながら、パリ時代の岡本の主要な
美術活動をまとめると以下のようになる。

▲1930年1月 パリ到着

 1932年夏 ポール・ローザンベール画廊でピカソの作品《水差しと果物鉢》と出会い触
発され、抽象絵画を描きはじめる。
1932年10月 サロン・デ・シュランデパンダン展に抽象絵画を初出品。以後数回出品。
1933年頃 アプストラクシオン・クレアシオンに参加。
1935年頃 クルト・セリグマンとともに「ネオ・コンクレティスム」を提唱。
1936年10月 サロン・デ・シュランデパンダン展に《傷ましき腕》を出品。その後まもなく
アプストラクシオン・クレアシオンを脱退。
1937年6月 初の画集『OKAMOTO』(G.L.M.)刊行。
1938年1月 国際シュルレアリスム展(パリ、ボザール画廊)に《傷ましき腕》を出品。
1940年6月 マルセイユを発って日本へ引き揚げる。
この年譜を見ると、パリ時代の岡本は、抽象から次第にシュルレアリスムへと関心を移
行させていったかのように察せられる。また作品を見ても、1933年のサロン・デ・シュ
ランデパンダン展出品作(図2)から1936年の《傷ましき腕》(図3)、そして1937年の画集
図2:岡本太郎《(題名不詳)》1933年 『美術』(1934年2月)
掲載
図3:岡本太郎《傷ましき腕》1936年 『OKAMOTO』(1937年)
掲載
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 『OKAMOTO』に収録された《夏の夜》(図4)への流れをたどると、次第に具象的要素が
強まっていくのが認められる。

 以下に紹介する資料は、こうした岡本の模索の様子を克明に示している。岡本が、名古
屋在住の画家、下郷羊雄にあてた手紙である。これは「アプストラクシオンとスユールレ
アリズム」の題で『名古屋新聞』1936年2月28日7面に掲載された。この文献については瀬
木慎一がかつて言及し(2)、また山田諭が下郷羊雄研究の過程で紹介しているが(3)、近年の岡本太郎研究においてはあまり取り上げられる機会がなかったので、以下に全文を再録したい。

 パリーにおいてもアプストラクシオンとスユールレアリストの問題は相当ふく雑して
をります。パンチユール・アプストレートといふものはピユールなプラステイツクを目的とする
もので、スユールレアリズムはトラデイシオネルな概念を打ちやぶつたモラルおよびイ
ンモラルを超越した真実の追求であるのです。

 パンチユール・アプストレートの目的は純正絵画で文学的エレマンを許るさないも
のなのです。ところがスユールレアリズムは特に文学革命の影響を得たりした故、文
学的とでもいひ得るくらゐ多大なエレマン・リテレールがあるのです。しかし多くの
パンチユール・アプストレートの中でエルバン、モンドリアン、ヴアントンゲルロー、エ
リオン、テオヴアンドースベルグなどのものは純すいなものといへますが、セリグマン
や僕の仕事などはほとんどスユールレアリズムに近いのです。アルプは形だけ見ると
ピユーリストの様に見えますが内容的に僕が考へる時スユールレアリストだといへる
のです。

 だからアブストラクシオンでもピユーリストは絶対にスユールレアリストと相容れな
いのです。
図4:岡本太郎《夏の夜》1937年 『OKAMOTO』(1937年)掲載

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 僕の考へではこれがほんとのスユールレアリストであると特に感じるのはダリとマ
ツクスエルンストです。ミロはつまらないと思ひます。
しかしこれ等の運動に参加してをりますが最若い僕や小数の又若い連中は先輩と
大分違つた目的に仕事を進めつつありますから、われわれをもつてアプストレートと
は勿論呼び得ないしスユールレアリストとも呼び得ない状態にあるのです。
いづれ運動が表面化して来たら通信致します。

 以上である。この手紙が『名古屋新聞』に紹介されるに至った経緯については、若干の
説明が必要となろう。手紙を紹介した下郷羊雄は津田青楓に学び、名古屋を拠点に制作
したが、1935年頃から前衛絵画に関心を持ち、1936年に銀座紀伊國屋ギャラリーで個
展を開催、有機的形態をもつ抽象絵画を発表して注目を浴び、新造型美術協会の会員に
迎えられた。この新造型美術協会とは、もともと独立美術協会に出品していた若手画家
たちが、1934年に脱退して、シュルレアリスムを標榜して結成した団体であり、詩人・美
術評論家の瀧口修造と山中散生を理論的指導者に迎えることで活動を先鋭化させてい
た。下郷が会員として加入した頃、新造型美術協会では日本に紹介されたばかりのサル
バドール・ダリの影響を強く受けた作品が支配的で、抽象的な作品を描いていたのは今
井滋と下郷の二人だけであった。下郷は次のようにいう。「私達抽象派の作家の困難と
苦悩とは大きかつた。何故なら、文学的エレマンを豊富にもち、しかも現実世界にやうや
く執拗な眼を向けるやうになつた超現実主義に対して、すべてを排除して絵画的にのみ濃
厚たらんとする抽象派は、正に二律背反的に相容れないだらうからであつた。しかも画壇
の前衛的分子として我々はどうあつても結合前進しなければならない。困難と矛盾はここ
にあつた」(4)。この悩みを解決するために、下郷はパリ在住の岡本太郎に手紙で質問し、
岡本からもたらされた返答が、上記引用の手紙であった。下郷はこれをふまえて『みづゑ』
375号(1936年5月)に「抽象派の展開 シユールレヤリスムとの交流について」を執筆し
ているが、シュルレアリスムと抽象絵画とを対比的に捉え、両者をいかに止揚するかという
問題が、パリと日本とで同時代的に共有されていたことを示す点で、この資料はきわめて
興味深い。

 この手紙の中で岡本は、新しい運動を示唆しているが、それが1935年頃にクルト・セ
リグマンと提唱した“ネオ・コンクレティスム(新具象主義)”であった。セリグマン自身、
1936年に来日して個展(銀座三越、3月26日-31日)を開催し、上記下郷の「抽象派の展開」とあわせて、雑誌『みづゑ』に談話「前衛派の諸君に」を寄せるほか、いくつかの新聞・雑
誌にその主張を発表している。それは例えば次のようなものであった。

 私共の新具象主義は、これらの人々[引用者注:ピュリストおよびシュルレアリスト]
と違つた手段によつて異つた幻影を作らうとする。ピユーリストは主観を斥け、シユー
ル派は之を幽霊化したが、私共はこの主観が重要なポジシヨンを占める具象的な世
界を現はさねばならぬ。頭脳に浮んで来る凡ての幻影を結晶せしめ、自然主義絵画
に見られぬ一つの新しい具象的な世界を形づくらうとする」(5)。

 こうした言葉は、前述の『名古屋新聞』に掲載された岡本の手紙における、「われわれを
もつてアプストレートとは勿論呼び得ないしスユールレアリストとも呼び得ない」という言
い方にも通じるだろう。しかも、岡本のこのような否定形の言辞には、「合理主義、非合
理主義のいづれかに偏向し、安心立命すべきではない」とする、1948年の「対極主義」に
記された態度の萌芽も認められる。とはいえ、この時点ではセリグマンの文章からも、岡
本の手紙からも、彼らが抽象絵画やシュルレアリスムを否定した上で進もうとしたその先
は、いまだ明確に読み取ることができない。岡本はこの手紙の後、代表作となる《傷まし
き腕》を描き、これが1938年のシュルレアリスム国際展にも招待されるが、岡本はブルトン
らの運動にも加わらないまま、1940年のパリ陥落直前に帰国する。翌1941年には二科
展に出品して二科賞を受賞、さらに銀座三越で個展も開催するものの、すでに前衛美術は
抑圧を受ける時代となっていた。彼自身、1942年1月に応召し、本格的な活動は戦後に
持ち越されることになる。

3.“対極主義”の成立まで

 前章で見たように、岡本太郎の“対極主義”の素地となる抽象絵画とシュルレアリスムと
の間の葛藤は、すでに戦前のパリ時代から意識されており、しかもそれは岡本ひとりの課
題ではなかった。前章ではそうした葛藤の例として、アプストラクシオン・クレアシオン内
部における岡本やセリグマンらの“ネオ・コンクレティスム”提唱の動きや、日本における下
郷羊雄ら一部の画家たちの動きを挙げたが、抽象絵画とシュルレアリスムとを対比的に捉
えようとする見方を一般に広めたのが、1936年にアルフレッド・バー Jr.によって作成され
た、近代絵画の展開を示すチャートである。これはニューヨーク近代美術館の「キュビス
ムと抽象絵画」展のカタログに掲載されたもので、日本でも早速、1937年6月の雑誌『アト
リヱ』前衛絵画特集号に寺田竹雄によって訳出紹介され(6)、多くの論者がこのパラダイム
に立脚して前衛絵画を論じた(7)。戦後もこのチャートは大きな影響を及ぼし、モダンアー
トを啓蒙する図書や展覧会でたびたび紹介された。1947年に結成された日本アヴァンギャ
ルド美術家クラブが翌1948年に開催したモダンアート展の目録(8)や、また本稿のはじめ
に挙げた『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』にも、このチャートは掲載されている。1952
年に開館した国立近代美術館が翌年に開催した「抽象と幻想」展(9)も、その展覧会タイト
ルが示すようにこのチャートに立脚していた。
こうして繰り返し、このチャートが紹介されていくうちに、その内容に微妙な変化が加えられ
ているのにも注意したい。もともとバーJr.のチャートは1935年までのもので、その最新の二つ

図5:
アルフレッド・バー Jr.「印象派よりモダンアートへ」
(上:寺田竹雄訳『アトリヱ』14巻6号、1937年6月、
p.38
下:『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』p.62)
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の動向として記載されていたのは、キュビスム系統の「GEOMETRICAL ABSTRACT ART
(幾何学的抽象美術)」とシュルレアリスム系統の「NON-GEOMETRICAL ABSTRACT
ART(非幾何学的抽象美術)」であった。ところが戦後にこのチャートが紹介される際には
1940年までに延長された上で、それぞれ「アプストラクト・アート」「シュルレアリスム」と書
き改められているのである(図5)。もともと近代絵画の展開を単に系統樹として示すもの
だったはずのバー Jr.のチャートが、次第に抽象絵画とシュルレアリスムの対立を説明する
機能を果たすようになっていったことがうかがえる。
では、その対立はどのように解決されようとしたのか。前述の下郷羊雄は次のような考
えを示した。

 いわゆる画面要素のみにて作画せんとする抽象派にとどまるならばもはや存在力な
きこと。いまはシユールレヤリスムの線に沿うて、即ち現実世界と精神的内面とを十
分に問題にしつつ、抽象派の形式が採用されるべきであること。即ち、現実対象が
完全に頭脳的溶解を経て抽象形にまでメタモルホーゼされる方法、そこに超現実主
義的方法が用ひらるべきこと。(中略)これこそ二者矛盾の一解決であり、抽象派の
自己揚棄であると信じて疑はない次第である(10)。
また、下郷の属した新造型美術協会を理論的に支えた瀧口修造は、次のように述べて
いる。

 シュルレアリスムは幾何的形態を絶対に排撃し、抽象芸術は象形芸術をあくまで否
定しなければならないものであらうか。この交互浸透は決して不可能なことではな
い。しかしそれは単純に機会主義的に折衷せしめることでは達せられないであらう。
その解決はあくまで吾々の生きてゐる時代の現実の動きに根ざしてゐるものであつ
て、現代の造型芸術がこのことを意識し発展せしめることは、現代の芸術をより深い
ものにする所以だといふことを、私は言つて置きたい(11)。

 いずれも弁証法的な正・反・合のかたちで両者が融合しうることが希望的に語られてい
るといってよいだろう。それに対して岡本の主張が独自であったのは、両者を折衷させる
ことなく「矛盾のまま対置」させ、その矛盾自体をエネルギーとした点にある。
とはいえ、岡本の理論も一朝一夕に出来上がったものではない。椹木野衣は、岡本の“対
極”の概念は、パリ時代にアレクサンドル・コジェーヴやジョルジュ・バタイユを通したヘー
ゲル理解に基づいて形成されたと推察している(12)。たしかに岡本自身、コジェーヴの講
義について次のような回想文を残している。

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 ソルボンヌでの交友。たとえば有名なヘーゲル学者、コジェフ教授の「精神現象学」
の講義には、ジョルジュ・バタイユ、ジャン・ヴァル、ジュリアン・バンダ、ドニ・ド・ルー
ジュモン、レーモン・ダロン等、教授クラスの知的エリートばかり、七八人が集って、小
さな部屋で膝つきあわせて行われる。私も強烈な情熱で参加した。私はそこで、い
わゆる哲学を勉強したのではない。また正・反・合の、いわゆる弁証法を論理として
学んだのでもなかった。この世界、存在自体の矛盾に身をもって対決する、悲劇的な
生き方、論理というよりむしろロマンチックな、ヘーゲルの情熱をこれらの人々と共に
わかちあい、確かめあう、スリルに満ちた体験だった(13)。

 また岡本がバタイユの社会学研究会や秘密結社「アセファル」に参加し、密接な交流を
していたことが、岡本自身の回想や近年の研究から明らかになっている(14)。こうした事実
関係から類推すれば椹木の説は妥当であるようにみえるかもしれない。しかし戦後の岡
本の文章を時代順に読んでいくと、抽象絵画(合理主義)とシュルレアリスム(非合理主義)
との関係についての論調は、少しずつニュアンスを変えて“対極主義”に至っていくことが
わかるのである。まずはその変化を追ってみよう(以下の引用文の多くは『岡本太郎画文
集アヴァンギャルド』に再録されているが、再録にあたり若干の改稿がなされている。表記
は初出に従った)。

■「前衛美術展の意味」『岐阜タイムス』1947年10月2日
この合理主義と反合理主義、立体派と超現実派は一見相容れないかに見えて実は芸術
の楯の両面であることは、ピカソはじめ現代の巨匠たちをみても肯けるものである、今次大
戦前まではこの二つの画派が世界画壇に併立して存在したが今日ではその境界も漠然と
して来ている。

■「芸術思潮と前衛精神」初出『女性線』1947年12月、『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』
(月曜書房、1948年11月)に「アヴァンギャルド芸術の源泉」として改稿再録
この前衛精神を分析してみると、実に多岐多様な要素を見出す。それはいかにも世紀を
象徴してゐる様に、混乱してゐるのである。しかしそこには互に矛盾した二つの主流を、見
わけることが出来る。一つは立体派からはじまる抽象画の流れである合理主義的一面で、
一つはダダイスムから始り、超現実派を通してながれる非合理主義の一面である。そして
この二つの流れは互に強力に影響しあつて、二十世紀的な芸術の形体をとる。
(中略)

 フランス革命以来、今日の前衛芸術に及ぶ二つの主流、一つはフランス的な均衡を保つた
合理主義の流れ、もう一つはドイツ・ロマン主義的な非合理主義の流れである。
第一次大戦後、この二つの流れは一つの前衛精神の中で、相当緊密に結合されたが、し
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かしまだかなりこの二つのものの距離は明確であつた。(事実抽象画派とスュールレアリ
ストの陣営は、対抗してゐた)。では第二次大戦の結果、いかなる事態が生れたであらうか。
この間のルポルタージュは、豊富ではないが、前述の二つの流れが、強力な新しいヒューマ
ニスムのイデアルによつて、矛盾そのままに包含せられ、より混沌とした充実をもつて、新
しい表現を獲得したと思ふ。

■「二十世紀絵画の芸術精神」初出『アトリヱ』253号、1948年1月、『岡本太郎画文集ア
ヴァンギャルド』(月曜書房、1948年11月)に「二十世紀の絵画」として再録

 前衛美術運動、即ち二十世紀的に特色づけられるものは、十九世紀のそれに比べて、革
命的である意味において一層ラヂカルである。そしてこの運動は、明らかに二本の相対立
した逞しい流れとなって、今日に及んでいる。一つは合理性、科学性を其土台に持つ、キュ
ビスム、ピューリスム、抽象画、他の一つは、アナーキスト的な反合理性を強調するダダ、
スュールレアリスムを通って流れ、実存主義に通っている。一方が美学的なら、他方は肉
体的であるといえる。
しかしこの二つの流れは、実は一つの豊かな文化の両面である。

■「アヴァンギャルド美術について(下)」『新大阪』1948年3月25日、日本アヴァンギャルド
美術家クラブ主催「モダンアート展」大阪会場目録(1948年6月4日)、名古屋会場目録
(1948年10月22日)に再録
この合理主義と反合理主義立体派と超現実派は、一見全く相容れないかのように見え
るが、実は一つの前衛芸術の両面なのである。
しかし今次大戦前までは抽象画派とシュールレアリストの陣営は一応水と油の関係で
対抗して存在していた。勿論一つの前衛精神の中で相当緊密に結合され、その境界がし
だいに漠然として来たとはいいながら、まだかなりの距離を持つていた。
しかし今次大戦とともにこの新しい時代意識は、極めて明確な必然性の中に溶け込む。

■「アヴァンギャルドの精神」『綜合文化』2巻4号、1948年4月(座談会、他の出席者は中
野秀人、永井潔、野間宏、佐々木基一、上野省策、花田清輝)
キユビイスム的な、合理主義的なものの見方と、それのアンチテーゼであるシユウルレア
リスム的な見方、ともに一方的であるという意味において不完全であるかもしれない。だ
がそれらの仕事が本当に意識的になされたという意味において二十世紀的だと思うんで
すよ。意識的に仕事されるということがアヴァンギャルド的精神だと思うんですがね。感
覚だけにたよらぬ、知的な科学的な追求の仕方ですね、だが二つの矛盾は相闘つていた
んですね。この戦争前までは両方とも共に認めなかつた。シユウルレアリストはキユビイ
ストを認めないし、キユビイストはシユウルレアリスムを認めなかつた。しかし今度の戦争
岡本太郎の“対極主義”の成立をめぐって
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後はもつと次元の高い論理的な立場から高度のヒユウマニズムのイデアルの中にその二つ
のものが矛盾のまま包括されて、より激しいダイナミツクな力をもつて促進されるのである、
という自信をもつておるんですがね。

■「アヴァンギャルド芸術の精神」初出『世界評論』1948年7月、『岡本太郎画文集アヴァ
ンギャルド』(月曜書房、1948年11月)に再録
私は思う、それは合理主義的な面であつた美学的前衛派キュビスム、抽象画の流れと、
非合理的な流れを進んだダダイスム、スュールレアリスムの傾向とを、その矛盾対立のまま
に包括し、より広範囲な可能性に突進することであると。いい換えるならば、芸術の本質
の中にある遠心的なものと求心的なものを、その最も新鮮な姿において把握し、その絶望
的な矛盾の兼ねあいを、強力な意志により操作し表現するのである。が、実はこの絶望的
な矛盾こそ、表現と同時に発生するものであつて、前衛芸術家のいとなみがこの矛盾の深
淵をますます絶望的に深める。激しい火花がその結果であり、技術は一段と複雑を極め
る逞しい生甲斐をそこに感じるのである。(中略)合理主義への偏向(唯物論)も安易であ
るし、非合理主義への偏向も極めて堕しやすい道である。私は二つの矛盾の両立に緊張
を感じるのである。

■「美の革命 アヴァンギャルド芸術」初出『読書』9号、1948年10月(執筆は8月24日と
文末に表記)、『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』(月曜書房、1948年11月)に「審美
感の断層」として再録
今日、この矛盾を極めた世界の現実に誠実な魂こそたしかに強烈に引き裂かれてゐるの
である。アヴァンギャルド芸術は其の引き裂かれた魂の生々しい傷口である。
以上見てきたように、抽象絵画(合理主義)とシュルレアリスム(非合理主義)との関係
をめぐる岡本の論調は、最初から“対極”的なものではなく、少しずつ形成されていったの
である。もし“対極主義”が、パリ時代にコジェーヴやバタイユから学んだヘーゲルの弁証
法に影響を受けて生み出されたのだとするならば、以上に確認したような段階的変化はな
く、戦後まもない時点から、いきなり“対極”が強調されていてもよさそうなものである。コ
ジェーヴやバタイユから得たものは、たしかに“対極主義”成立のための重要な下地を形成
するものであったにちがいないが、しかし岡本が“対極主義”を提唱するに至った直接の
引き金は、別にあったと考えるべきだろう。それは何か。花田清輝である、と私は考えたい。

4. 岡本太郎と花田清輝

 岡本と花田のきわめて緊密な関係については、これまで多くの論者によって指摘されてき
ている。しかし、花田の思想が具体的にどのように岡本に影響を及ぼしていったのかについ
30
て、実証的に跡づけていくような研究は、案外なされていない。そこで本稿では、さきに岡本
について時代順に言説を追ったように、花田についても“対極”をめぐる言説がその著作にど
のように現れているかを、時代順に追ってみることにしたい(表記は初出文献に従った)。
■「楕円幻想」初出『文化組織』4巻6号、1943年10月、『復興期の精神』(我観社、1946
年10月)に再録

 我々の周囲には、二点の間を彷徨し、味気ない顔つきをし、無為に毎日をすごしてゐる連
中か、二点のうち、一点だけはみてみないふりをし、相ひ変らず円ばかりを描いてゐる、あ
つかましい連中かがみあたるにすぎない。転形期における錯乱の痛烈な表現を、まだ誰
ひとりあたへてはゐないのだ。(中略)ティコ・ブラーヘは、はじめて天界において楕円を
みいだしたが、下界における楕円の最初の発見者は、フランソア・ヴィヨンであり、このフ
ランスの詩人の二つの焦点をもつ作品「遺言詩集」は、白と黒、天使と悪魔、犬と猫、――そ
の他、地上においてみとめられる、さまざまな対立物を、見事、一つの構図のなかに纏めあ
げてをり、転形期における分裂した魂の哀歓を、かつてないほどの力づよさで、なまなまし
く表現してゐるやうに思はれる。(中略)最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利を
もち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得
ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかつたのだ。

■「芸術家の宿命について ―― 太宰治論」初出『新小説』2巻3号、1947年6月、『錯乱の
論理』(真善美社、1947年9月)に再録

(太宰は)必然性と因果律によつて骨格を形づくられてゐる近代小説に不信の眼を投
げ、それにたいして、目的論と自由意志によつて筋金をいれられてゐるフオークロアを対立
させ、両者の対立を対立のまま統一することによつて新しい表現をみいだし、二十世紀の
小説家として、少くとも日本においては前人未踏の境地を開拓した(中略)かれは、両者の
いづれをも肯定せず、その縺れあひにのみ最も興味をもち、さうして、そこから、小説でも
なければ、フオークロアでもない、まつたく新しい、名づけやうのない作品を、なんとかし
て創作しようとするにちがひないのだ。したがつて、かれの芸術にとつては、統一の見込
みすらない対立物の闘争が不可欠であり、対立物のいづれか一方を取り去ることはもちろ
ん、いくらかでも一方が優勢になり、他方の勢が衰へ、闘争が下火になるといふことは、ま
つたく致命的なことにちがひなかつた。(中略)問題は、あれか、これか、にあるのではなく、
いづれをも否定して、いまだかつてない、素晴らしいインターナシヨナルな芸術を、我々の
手によつてつくりだすといふことにあるのだ。

■「ゲーテと廿世紀」初出『文化タイムズ』1947年6月30日
二十世紀の芸術は、合理的=実証的であることの不可能性を痛感し、そのいづれかに
岡本太郎の“対極主義”の成立をめぐって
31

徹底することによってうまれたといへる。すなわち、合理的方法を果まで押し進めたもの
にアブストラクト・アートがあるとすれば、実証的方法に極度に忠実であらうとしたものに
シュルレアリズムがある。

■「沙漠について」初出『思索』7号、1947年9月、『二つの世界』(月曜書房、1949年3月)
に再録

危機にのぞみ、複雑困難な問題に直面して、いささかもためらふことなく、即座に決定
し、命令をくだし、まるで快刀乱麻を断つやうな水際だつた手腕を示す政治家は、決して
カイロスにだけ身をまかせてゐるわけでもなければ、ロゴスと絶縁してゐるわけでもなく、
単に沙漠的「状態」をはげしく生きてゐるにすぎないのだ。ゲーテならば、かういふ「状態」
を「対極性(ポラーリテート)」と呼ぶであらう。この対極性の概念こそ、かれのみのりゆ
たかな業績のすべてをつらぬく、赤いアリアドネの糸であつた。

 以上のように、花田はすでに戦前から、楕円の二つの焦点という表現によって、“対極主
義”と通底する概念を構想していた。戦後の太宰治論の中にみられる「両者の対立を対
立のまま統一することによって新しい表現をみいだし」という表現も、“対極主義”の考え方
そのものといってよいだろう。これらの文章のいずれかが、岡本に影響を与えたのだろう
か。岡本は、花田の著作との出会いについて次のように回想している。
ある日、偶然のきっかけだった。知人の家で、本棚を眺めたとき、ふと惹かれた。『錯
乱の論理』……面白い題名だ。手に取って、頁をめくってみた。嬉しくなった。
おや、こんな日本人がいたのか。
パラパラッと拾い読みしているうちに、すっかり気に入ってしまって、私はその本を
借りて来た。
一気に読んだ。ユニークな弁証法的論理。日本ではじめて語りあえる相手を見つ
けたという思いがした。これらの文章が戦争中に書かれたものだと知って、さらに感
心した。こんな、ひろい視野をもって、強力な論理を貫く文章が、軍国日本の偏狭な、
どうにもならない重みのもとでよくも展開されたものだ。
彼は確かに矛盾律を見事に操り、そのなかで己を貫いている。平気で、しかも鮮
やかに。

 清輝という存在すら知らなかった私が、「凄いやつがいるものだ。」と、心ひそかに
敬愛の情を抱いた(15)。

 これによって、岡本が最初に読んだ花田清輝の著作は『錯乱の論理』であったことを知
ることができる。だとするならば、『錯乱の論理』に再録掲載された花田の太宰治論が、“対
極主義”成立のための大きなヒントになった可能性も考えられよう(16)。しかし、ことはそ
う単純ではない。岡本が花田の著作と出会った時期と、岡本の“対極主義”の成立時期と
の間の関係を吟味する必要がある。

 岡本が『錯乱の論理』を読んだ感想を知人の編集者に伝えるとまもなく、その話を伝え
聞いた花田が岡本宅を訪ね、二人は意気投合して1948年1月19日に「夜の会」を結成する
ことになる。従って岡本が『錯乱の論理』を読んだのは1947年の10月から12月頃にかけ
ての時期だったと推察できる。先に引用した岡本の一連の文章を読んでいくと、1947年
12月の文章の中に「矛盾そのままに包含」という言葉がみられ、ここに花田の『錯乱の論理』
からの影響を認めることも可能かもしれない。しかし翌年1月と3月の文章では「二つの流
れは、実は一つの豊な文化の両面である」という表現にとどまり、この時点ではまだ岡本の
頭の中で“対極”の理念が明瞭化されていないように見受けられる。より“対極”性が強
調されるのは、1948年4月の『綜合文化』における座談会「アヴァンギャルドの精神」にお
ける「二つのものが矛盾のまま包括されて、より激しいダイナミツクな力をもつて促進され
る」という発言あたりからで、この座談会では別の箇所で「その統一が、折衷主義的な意
味じゃないんですよ。ぼくはあくまでも二つの矛盾として対立させておいて包括するという
意味ですよ。それの火花を散らすところがアヴァンギャルドで」という発言も見られる(17)。
同様の論旨が7月の文章にも認められ、そして1948年9月に“対極主義”がついに“主義”
として明文化されるのである。そうすると、1948年前半の両者の交流に、“対極主義”成
立の鍵がありそうである。

 上述の通り、花田と岡本は1948年1月19日に、若手文学者たちを集めて「夜の会」を結
成する。彼らは、「内輪で何度か集ってから、公開討論会をひらこうということになった。
東中野のモナミの主人とは心安かったので、特別な条件で場所を借り、月に二回ずつ、順
番に誰かがレクチュアーし、あとフリーディスカッションするという形で、定期的に、かなり
続けた」(18)という。その一部を『新しい芸術の探求』(月曜書房、1949年5月)によって
知ることができる。ここに収録されている公開討論会は次の通りである(同書への収録
順ではなく開催順に並べ替えた)。

 1948年6月7日 リアリズム序説(報告:花田清輝、討論:花田清輝、岡本太郎、野間宏、
片山修三、佐々木基一)
1948年6月21日 社会主義リアリズムについて(報告:関根弘、討論:関根弘、花田清輝、
岡本太郎、野間宏、佐々木基一、安部公房)
1948年7月5日 フィクションについて(報告:佐々木基一、討議:佐々木基一、花田清輝、
岡本太郎、関根弘、安部公房)
1948年7月19日 実験小説論(報告:野間宏、討論:野間宏、花田清輝、佐々木基一、関根弘)
1948年8月16日 人間の条件について(報告:椎名麟三、討論:椎名麟三、花田清輝、岡
岡本太郎の“対極主義”の成立をめぐって
33
本太郎、安部公房、野間宏)
1948年9月6日 反時代的精神(報告:埴谷雄高、討論:埴谷雄高、岡本太郎、花田清輝、
椎名麟三、関根弘、安部公房)
1948年9月20日 創造のモメント(報告:安部公房、討論:安部公房、岡本太郎、花田清輝)
1949年2月21日 対極主義(報告:岡本太郎、討論:岡本太郎、花田清輝、埴谷雄高、佐々
木基一)

これらはあくまで公開討論会の一部であり、この他にも多くの会合が持たれていたとさ
れ、本書のみで「夜の会」の活動について結論を急ぐのは危険である。そもそも1月の結
成にもかかわらず、ここに収録された討論会は6月7日以降に限られている。岡本自身、後
に「今になると、その本だけしか残ってないもんだから、『夜の会』のことを書こうとする人
はみんなあれだけに頼るんだよね。あれはごく一部だよ。(中略)あのころの雰囲気は『綜
合文化』の方によく出てるんじゃないかな」(19)と回想しており、事実、『綜合文化』では上
述の1948年4月号における「アヴァンギャルドの精神」の他にも、3月号で「悲劇について」
(岡本太郎、花田清輝、加藤周一、野間宏、佐々木基一)という「夜の会」メンバーを中心と
した座談会が掲載されている。他にもこの時期、活字化されなかった討議が複数あった
ことは容易に想像できる。「夜の会」における花田らとのこうした議論の積み重ねが、パリ
時代に経験した制作上の模索、そしてコジェーヴやバタイユから学んだ思想の上に加わる
ことで、“対極主義”ははじめて形を成したのだと考えられよう。

5.おわりに/“対極主義”のその後

 本稿では、岡本太郎の“対極主義”が、戦前戦後にかけて美術界で広く共有された抽象
絵画とシュルレアリスムの対立をいかに克服するかという課題に対し、「矛盾のままの対
置」という独自の解答を示したものであることを確認し、次いでその成立過程を詳細に検
討した上で、その要因として花田清輝との関係を指摘した。“対極主義”に通じる岡本の
問題意識は戦前のパリ時代にまで遡ることができるが、それを明確に言語化するにあたっ
ては、1947年末の花田との出会い、そして1948年1月から始まる「夜の会」での議論が重
要な役割を果したに違いない、というのが本稿の結論である。改めて1948年における、
抽象絵画とシュルレアリスムとの関係をめぐる岡本の主張の変遷を整理するなら、次のよ
うになるだろう。1月の「二つの流れは、実は一つの豊な文化の両面である」という記述か
ら、3月の「一つの前衛精神の中で相当緊密に結合され、その境界がしだいに漠然として
来たとはいいながら、まだかなりの距離を持つていた」という記述を経て、4月の「その統
一が、折衷主義的な意味じゃないんですよ。ぼくはあくまでも二つの矛盾として対立させ
ておいて包括するという意味ですよ。それの火花を散らすところがアヴァンギャルドで」と
いう発言へと発展する。そして9月に「相互を妥協折衷することなく、逆に矛盾の深淵を絶
望的に深め、その緊張の中に前進するのである」という激烈な表現へと至り、明確に“主義”
として語られるのである。

 さらに注目すべきは、岡本が9月に“対極主義”を確立した後も、討議は重ねられ、理論
は鍛えられていったということである。『新しい芸術の探求』に掲載された1949年2月21日
の討論会「対極主義」(報告:岡本太郎、討論:岡本太郎、花田清輝、埴谷雄高、佐々木基
一)がまさにそれである。この討論会の前半における岡本の基調講演は、ほぼ『岡本太郎
画文集アヴァンギャルド』に掲載されていた1948年9月の主張に沿っている。しかし後半
部分の討論で、花田から投げかけられた次のような批判は、岡本の制作に新たな局面を拓
かせたように思われる。

 花田:科学的認識と、芸術的認識とを対極主義的に把握しているかどうか、政治と
芸術を果して対極主義的に把握しているかどうか、その結果引き裂かれているかどう
かが問題であつて、太郎さん自身がまだ芸術というものの領域の中で引き裂かれて
いるということは事実だけれども、それからはみ出しているかどうか、その点非常に
疑問が起つてくるわけだ(20)。

ここで花田は、岡本の理論が芸術内部の問題に終始していることに不満を表明し、政
治と芸術との間の問題にまで“対極主義”を拡大していくことを挑発的に促している。こ
の発言に対して岡本は「僕も、だから今後の発展にそれを求めなければいけない」と返し
ている。その具体的な成果が、この年の第34回二科展に発表した《重工業》(図6)と考え
られよう。実際に川崎の工場に取材して描かれたこの作品では、巨大な歯車に翻弄され
る人間が対比的に描かれ、またそれらとは明らかに異質なネギが唐突に挿入されるなど、
さまざまな“対極”を内包しつつ、社会意識が色濃く表されているようにみえる。さらに翌
1950年の第35回二科展に発表した《森の掟》(図7)は、画面中央を斜めに横切るチャック
付きの赤い猛獣が森の動物たちを襲う様子を描いたものだが、「夜の会」の仲間だった野
図6:岡本太郎《重工業》1949年 川崎市岡本太郎美術館蔵 図7:岡本太郎《森の掟》1950年 川崎市岡本太郎美術館蔵

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間宏はこの赤い猛獣を「新しいファシズム」であると読み取り、それに対する批判と諷刺が
「笑い」のエネルギーによって表されていると解釈した(21)。
岡本はこうした一連の評価に対して、次のような興味深い発言をしている。
去年、「重工業」を発表した時、大抵の人が飛びつくように社会意識を指摘した。
私はその頃「BBBB」の座談会で、そういう概念的な形式主義者をがっかりさせるた
めに、こんどは全然意味の認められない無邪気な仕事をするだろう、と公言した。結
果が「森の掟」である。ところが、これが明らかに社会諷刺になっているようだ。(中
略)野間君が分析した通り、ここには明らかに社会的なアレゴリーが見られる。しか
し決してそのつもりだった訳ではない。といって全然意識せずに描いたのでもない。
(中略)象徴的に芸術にイデオロギーを否定する右翼作家も、不消化でなま4 4
の侭の概念を画面にして安心している左翼も、何れも時代からも又人間的にも浮いた存在である。無意味こそ却って尖鋭な社会意識であることを知らねばならない(22)。
ここで岡本は、政治的主題を直接的に表すことを否定することで、花田清輝とは異なる
立ち位置を明らかにした。だが「無意味こそ却って尖鋭な社会意識である」とは、どういう
ことだろうか。その真意を知るために、同時期の彼の発言をさらに見渡してみよう。1950
年3月に雑誌『BBBB』に掲載された、「流派」について尋ねられたアンケートの回答に、よ
り具体的な彼の主張が認められる。

 これからの日本の絵画の途は、フランス美学に追随したり、政治に隷属したりせず
何ものにも譲歩することなく、孤立無援の場で大胆不敵に押し進められなければな
らないと思います(それによつてのみ作品は却つて真に社会性をおびてくるのです)。
そのために、私は新しい芸術至上主義を提唱するのです(23)。
美術の枠内にとどまるのでもなく、政治的主張の図式化に堕すのでもなく、徹底的に
“個/孤”であることを貫き、社会に対峙することが、ここで表明されている。その意味にお
いて「無意味こそ却って尖鋭な社会意識である」という発言も理解することができるだろう。
あらゆるものに有用な意味づけを行い、既成の枠組みの中に押し込めて安心していく社会
一般の惰性的思考に対して、岡本は無意味に徹することで、社会の中の一つの異物であり
続けようとした。ここで“対極主義”は、抽象絵画とシュルレアリスムという前衛美術の枠
内を逸脱し、個人と社会という関係へと踏み出されているのである。本稿冒頭でも触れた、
あの《太陽の塔》を改めて思い出してみよう。「人類の進歩と調和」をめざしたパヴィリオン
群の中で、徹底的に異物として存在していたあの塔は、周囲のパヴィリオンがすべて取り
壊された今でも、不可思議なエネルギーを発し続けているではないか。

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(1)岡本太郎『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』月曜書房、1948年11月、pp.123–124
(2)瀬木慎一「現代美術のパイオニア12 岡本太郎」『古沢岩美美術館月報』14号、1976年7月、p.4
(3)山田諭「ある前衛芸術家の生活と創作―『下郷羊雄日記』より」『名古屋市美術館研究紀要』1巻、1992年3月、
pp.26–27
(4)下郷羊雄「抽象派の展開 シユールレヤリスムとの交流について」『みづゑ』375号、1936年5月、p.424
(5)クルト・セリグマン「前衛派の諸君に」『みづゑ』375号、1936年5月、p.411
(6)寺田竹雄訳「印象派より抽象絵画へ」『アトリヱ』14巻6号、1937年6月、pp.38–58
(7)例えば福沢一郎「抽象絵画」(『みづゑ』385号、1937年3月)は文末に「大体アルフレツド・エツチ・バー・ジュニアー
の『キュビズムと抽象芸術』に拠つた」と明記してある。なお、このチャートの日本への影響については、五十殿利治
「一九三〇年代日本におけるキュビスム論――ニューヨーク近代美術館主催『キュビスムと抽象美術』展の余波」(『海
外新興芸術論叢書 新聞・雑誌篇 第10巻』ゆまに書房、2005年1月、pp.159–172)および五十殿利治「1930年代
日本におけるキュビスム評価――モダニズム、アカデミズム、アメリカ」(『国際シンポジウム2005「アジアのキュビスム
―境界なき対話」報告書』国際交流基金、2006年2月、pp.40–44)を参照のこと。
(8)日本アヴァンギャルド美術家クラブの第1回モダンアート展は東京(東京都美術館、1948年2月25日-3月15日)、大阪(阿
倍野百貨店、1948年6月4日-27日)、名古屋(丸栄百貨店、1948年10月22日-31日)の3会場で開催され、会場ごとに
異なる内容の目録が作成された。バー Jr.によるモダンアートのチャートは大阪会場の目録にのみ掲載されている。
(9)「抽象と幻想」国立近代美術館、1953年12月1日-1954年1月20日。展覧会をもとに刊行された今泉篤男・本間正義
編『抽象と幻想』(東都文化出版、1955年6月)にはバーのチャートを敷衍して「抽象美術の展開」「幻想美術の展開」
それぞれのチャートが記された。また国立近代美術館では「抽象絵画の展開」展(1958年6月7日-7月13日)におい
てもバー Jr.のチャートをカタログに記載している。
(10)下郷羊雄、前掲「抽象派の展開 シユールレヤリスムとの交流について」p.424
(11)瀧口修造「象形と非象形の問題」『近代芸術』三笠書房、1938年9月、pp.117–118
(12)椹木野衣『黒い太陽と赤いカニ』中央公論新社、2003年12月、pp.62–79
(13)岡本太郎「清輝と私」、花田清輝『アヴァンギャルド芸術』筑摩書房、1975年11月、p.279
(14)岡本太郎「ジョルジュ・バタイユの思い出」(ジョルジュ・バタイユ著、若林真訳『蠱惑の夜』講談社、1957年10月、
pp.5–10)他。また酒井健「夜の遺言 岡本太郎とジョルジュ・バタイユ」(『ユリイカ』31巻11号、1999年10月、
pp.152–153)は、1938年7月から岡本が「アセファル」に参加したことを示す資料を紹介している。
(15)岡本、前掲「清輝と私」、p.276
(16)花田の太宰論における“対極主義”に通じる概念については、明治学院大学の小金沢智氏から教唆を受けた。小金
沢智「パリ時代の岡本太郎 1929-1940(修士論文) 」 明治学院大学、2008年3月、p.27
(17)前掲の座談会「アヴァンギャルドの精神」(『綜合文化』2巻4号、1948年4月)における岡本の発言、p.17。なおこの
発言に続けて岡本は、1947年9月の第32回二科展に発表した《夜》について「ぼくの絵を見て、モダーニストが絵画
理論を振かざして、古臭い短刀と現実的な女を描き同じ画面に抽象的な木を描いて理論的に矛盾して居ると攻撃し
たりするのです。抽象的な合理的精神と非合理的な精神の二様の形式が同一画面に混沌としておるんですよ。そ
の意味で、ぼくは矛盾のままで二つを包括しておるつもりなんですよ」と述べており、ここだけを読むと岡本が1947年
の時点ですでに“対極主義”を自覚しながら制作していたかのように受け取ることも可能である。しかし、これはあ
くまで1948年4月の段階(実際の座談会はその1カ月ほど前か)での岡本が、半年前を振り返って自己の制作姿勢を
整理し直した上での発言と捉えるべきであろう。すでに岡本の文章をクロノロジカルに確認した通り、“対極主義”
的思考が明確に意識化されるのは、この1948年4月掲載の座談会以降と見るべきである。
(18)岡本、前掲「清輝と私」、p.281
(19)岡本太郎、関根弘「対談 アヴァンギャルド芸術」『詩と思想』20号、1983年2月
(20)夜の会編『新しい芸術の探求』月曜書房、1949年5月、p.23
(21)野間宏「岡本太郎の芸術」『アトリヱ』286号、1950年11月、p.9
(22)岡本太郎「対極 無意味・笑い」『アトリヱ』286号、1950年11月、p.14
(23)岡本太郎「影響 流派 展望」『BBBB』4号、1950年3月、p.37
謝辞 本稿執筆にあたり次の方々からご教示、資料提供を受けました。ここに記して厚く御礼申し上げます。

川崎市岡本太郎美術館、杉田真珠氏、山田諭氏、小金沢智氏。