線虫でがん検査

■線虫でがん検査を変える

▶︎「人類のがんに対する考えも変わりうると」

広津崇亮さん(HIROTSUバイオサイエンス社長)

 拡大投影したのは、緑色の蛍光たんぱく質で光らせた線虫の画像。学名「C・エレガンス」は、その動きがエレガントなことに由来する=東京都中央区

 動物の五感のうち、嗅覚(きゅうかく)ほど未解明のフロンティアが広がっている分野はないのだという。においの記憶は、ふとした拍子に蘇(よみがえ)る。サケも故郷の川に戻るのに、最後はにおいを頼りにするというから、なるほどうなずける。

 嗅覚のメカニズムを解析するため、古くから実験生物として使われてきた「ログイン前の続き線虫」の研究を続けて20年以上。その線虫が、がん患者の尿にある特有のにおいを好むことを突き止めた

 成果は、これまでの常識を覆すがん検査技術、という形で実を結びつつある。早期のがんでも、高精度に安価に気軽に診断できるというのだ。

 「線虫好きの変わった研究者と思われている」と笑う。線虫の仲間には、寄生虫の回虫やぎょう虫、アニサキスもいて一般には近寄りたくない存在。

 この人が使う、体長1ミリほどで土壌に生息する学名「C・エレガンス」は、いくつものノーベル賞の立役者となってきた。「社会で役立つことに使えないか」と意識しだしたのは、勤めていた国立大学の独立法人化と無縁でなかった。自分で研究資金を獲得しなければならない事情が生じたからだ。

 ヒントは、においでがんを見分ける研究で先行していた「がん探知犬」。犬の嗅覚は人間の100万倍とも。それに匹敵する線虫にも、きっとできるはず。2013年、研究を始めた。

▲尿に対する線虫C・エレガンスの走性。開始から30分後のシャーレの写真。

◉がん患者の尿(写真Aの+印)には寄って行き、健常者の尿(写真Bの+印)から逃げて行く。(写真提供:廣津氏)
◉尿に対する線虫C・エレガンスの走性。開始から30分後のシャーレの写真。がん患者の尿(写真Aの+印)には寄って行き、健常者の尿(写真Bの+印)からは逃げて行く。(写真提供:廣津氏)

 

 基礎研究の土台も生きた。線虫は好きなにおいに寄って行き、嫌いなにおいからは逃げる。だが、シャーレの中の線虫は、がん細胞の培養液に寄って行くことが認められたものの、がん患者の尿には近寄らない

 普通の研究者なら、尿を濃くしてみようと考えるところだが、昔から、教科書に書いてないことを見つけようと思ってきた。「香水もつけすぎれば嫌なにおいになるように、同じにおいでも濃度が変わると、線虫の嗜好(しこう)性も変わることを発見していたので、薄めることに思い至った」。みごとに反応した。

 16年には、大学での研究生活にピリオドを打ち、ベンチャー企業を設立。医学界のしきたりに染まっていないこの人ならではの発想で、お金をかけずに、血液のがんや希少がんなど様々な症例を提供してくれる協力病院網を広げた「生物診断」という新しいコンセプトの検査を臨床につなげるため、医師らの協力を得て、検査結果など情報の伝え方にもこだわる。

 「ワクワク感」が最大の動機付けという。大学院時代、初めての論文がネイチャー誌に掲載され、「研究者としてやっていける」と自信を深めたとき以来のその感覚が、いまあるという。2013年に研究を始め、2年後に「線虫による尿を使ったがん診断」という論文を発表しました。技術的なハードルはほぼクリアしたと考え、信頼度を高めるために、症例数を増やしています。一方で、いまは尿に寄って行く線虫を人間が目で見て数えていますが、これ…

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 がんは1981年以降35年もの間日本人の死因第1位を占める。年間30万人ががんで命を落とし、3人に1人ががんで亡くなっている。また、生涯のうちにがんにかかる可能性は、男性の2人に1人、女性の3人に1人と推測されている。

 医療費も膨らむ。厚生労働省の発表によると2013年には3兆8850億円が、がん医療に充てられた。この膨大な死亡者数と医療費を削減するには、何といっても早期発見・早期治療が第一だ。

 ところが今のがん検診は、受診者にとって面倒なわりに費用対効果に課題がある。胃がん、大腸がん、肺がん、子宮がん、乳がんなどと部位別に診断を受けねばならず、時間はかかるし費用もかさむ。また、とくに早期がんは見つかりにくいという難点もある。そうした状況もあって、日本のがん検診の受診率は、全体でも3割ほどにとどまり、それがまた手遅れにつながるという悪循環だ。

 今、そうした課題を一挙に解決するようながん検診の大変革が日本発で生まれようとしている。検査するものは尿。使うのは「線虫」という体長1ミリほどの生き物。端的にいうと、1滴垂らした尿の匂いに線虫が好んで寄って来れば「がんの疑いあり」、嫌って遠ざかって行けば「がんの心配なし」となる。装置を使った大がかりな診断と違い、線虫を使ったこの方法は簡単かつ数百円と安価。さらに精度も95.8%と驚きの高さだ。しかも、ステージ0〜4まであるがんの進行度のうち、ステージ0や1といった早期がんも発見できるという。

 今のところどんな部位のがんかは診断できていないが、線虫は「がんの有無」を発見してくれ、すい臓がんのように発見が困難ながんをも見逃さないという。したがって、「がん有り」となった人だけが従来の部位別検診を受ければいい。

 この新たな検診法で、誰もが気軽にがん診断を受けるようになれば、がんの早期発見・早期治療につながり、がん診療のあり方を根本的に変えることになる。この画期的な研究を主導してきたのは、九州大学大学院理学研究院助教の廣津崇亮氏だ。

▶︎線虫「C・エレガンス」との出会い

 廣津氏は東京大学の4年生のときに線虫に出会った。線虫は線形動物門に属する動物の総称で、細長い糸のような形をしている。土壌や水中で生きるものもいれば、私たちの身体に寄生しているものもいる。生物学者にとって線虫は馴染みある生き物だ。中でも「C・エレガンス」という線虫は、室温で飼育でき、遺伝子の数が約1万9000と少なく、わずか4日で次世代をつくるなど実験につごうの良いことづくめのため、以前から「モデル動物」として研究に使われてきた。

 

 廣津氏は、大学院修士課程を修了後、研究室の恩師・飯野雄一氏に薦められて、C・エレガンスの嗅覚についての研究を始めた。がん遺伝子として有名なRasというタンパク質が、C・エレガンスの嗅覚と関わっているかもしれないという。

 廣津氏はこの関係性を確かめる実験を重ね、その成果を論文にしたところ、科学誌『ネイチャー』に載った。「うれしかったですね。その気になり、嗅覚の研究を本格的に始めました」。95.8%という驚愕の高感度。その後九州大学に赴任した廣津氏が、引き続きC・エレガンスの嗅覚についての研究を進めていると、2013年になって佐賀県の伊万里有田共立病院で外科部長をしている園田英人氏から相談を受けた。

 「がん患者は特有の匂いを発することが分かっています。園田先生はそのことに着目し、がん探知犬の研究をされていたのですが、犬は何人もの検体を続けて嗅ぎ分けるとなると集中力を切らしてしまいます。そこで、他の生物でもがんの探知ができるのではと考えて、線虫の嗅覚の研究をしていた私にどう思うかと尋ねてくださったのです」

 「じつは園田先生は、胃痛で来院した患者の胃にアニキサスという線虫が食いついていたため摘出手術をされたところ、そのアニサキスの食い付いている部分に早期胃がんが見つかったのです。そこからインスピレーションを受け、私にお話を持ちかけてくださったのでした」

 このころ廣津氏は、C・エレガンスの「匂いへの走性」の研究を進めていた。線虫は1ミリほどの生き物ながら、犬の1.5倍の1200もの嗅覚受容体(匂いを受け取る分子)を持つ。好きな匂いに寄っていき、嫌いな匂いから逃げるという走性行動があり、反応を容易に調べられる。また、線虫の嗅覚神経数は10個(犬は数億個)と非常にシンプルなため、解析が容易だ。しかも犬のように集中力を切らすこともない。

 実際に実験をして、結論が出るまでには1カ月ほどかかった。がんの匂いは、血液、尿、呼気などさまざまな物に含まれているが、廣津氏は、最も採取が簡便な尿を使用した。その過程は実にワクワクするものだったそうだ。がん患者から採取した尿にC・エレガンスは寄って行き、健常者の尿には逆に逃げて行く。

 「242個(がん患者:24、健常者:218)の検体を、1日20〜30個ずつ調べて行きましたが、何度やってもはっきり分かれていく様子を見て興奮しました。その確率は95.8%だったのです。顕微鏡を覗きながら何度もガッツポーズをしましたね(笑)。

 本当に匂いに反応しているのかを確かめるために、嗅覚神経を破壊したC・エレガンスで実験してみると、こういった行動はしないのです。また、嗅覚神経を調べると、がん患者の尿に有意に強く反応していることも確認できました」がんの匂いへの走性については、餌の匂いと勘違いしているのではないかと廣津氏は見ている。

 実験結果を園田氏に報告すると、園田氏は95.8%という数字に驚愕した。がん患者を「がんである」と診断できる確率を「感度」というが、従来の腫瘍マーカーという手法を使った場合の感度は10~20%台だ。ところが、線虫による感度は95.8%。あまりの感度の良さに驚いたというわけだ。「その数値がどれほどの意味を持つか私はよく知らなかったのですが、医者の園田先生から教えられて、私も『すごいことなんだ!』とあらためて驚きました」

 2015年3月、研究成果が米国オンライン科学誌『PLOS ONE』に掲載され世に公表されると、大きな反響があった。大学が発表した日の昼ごろから全国ニュースの取材依頼が増えていき、その晩の全国版テレビの人気報道番組ではスタジオに線虫の大きな写真パネルが置かれ、トップニュースで報じられた。

 11月、九州大学で開かれた国際シンポジウム(「日本味と匂学会」主催)での発表では、研究者たちから質問やコメントが続出した。会場には、東京大学時代の恩師・飯野雄一氏もいた。「発表後に駆け寄って、『お前、すごいじゃないか!』と興奮し喜んでくださったのが忘れられません」と廣津氏は嬉しそうに振り返る。

 まずは、「がんの有無」をスクリーニング 廣津氏と九州大学は、この線虫を使ったがん診断システムを「n-nose」と呼んでいる。この診断法の画期的な点をあらためて簡潔に列挙すると次のようになる。

早期がん(ステージ0や1)まで発見できる
すべてのがんを1度に検出可能(早期発見が難しいすい臓がんを含む)
95.8%という高感度
必要なものは尿1滴
診断結果が出るまで1時間半という迅速さ
数百円という安さ
これらの利点に加えて、廣津氏は「がんの有無を、とにかくまず見分けられること」を強調する。

 「この診断で、がんがあると診断された人だけが、さらに詳細な検査を受ければよいことになります。診察する医師も、今後は『がんが有る』と診断された人に絞ってどこの部位にがんがあるかを探すわけですから意識も高くなり、見つけやすくなると思います」

 がん有無の“振るい分け”としてこの診断法を用いれば、健常者は高価な検査をいくつも受診する必要がなくなるので、時間も診断にかかる費用も削減できる。さらに、早期がんは進行したがんより治療費を抑えられるので、負担は大幅に削減される。国全体で考えれば膨大な医療費削減につながるわけだ。世界で活用されれば、人類全体への貢献は計り知れない。何より、がんで苦しみ亡くなる人もこの早期発見で激減するはずだ。

 「がんと診断されても、早期であれば今ほど深刻に思わず、手術を受ければ大丈夫という前向きな考え方になるかもしれません。がんには“不治の病”というイメージがありますが、早期で見つかれば治る病気なのです」

 ただ、この新しい診断法にも課題はある。体の部位別に、どこにがんがあるかを特定できるようにすることだ。実現すれば「がんの有無」だけでなく「どの部位にがんがあるか」まで、C・エレガンスを使った検診で分かることになる。その点、C・エレガンスはモデル動物であることから、遺伝子操作などの技術も実績も蓄積されている。

 「この点については、既に特定のがんにだけ反応することができない線虫株を作製することに成功しており、今後研究を進めていくことで実現可能だと考えています」と廣津氏は語る。

 線虫はすごい生き物だと思います。大がかりな装置を導入するでもなく、仕組みも単純なので、がんの有無をスクリーニングするシステムを実用化するのには、技術的な壁はそう高くはなさそうだ。廣津氏は「3年後の実用化を目指しています」と話す。

 実際の診断の仕組みとして、廣津氏は、受診者の尿を解析センターのような施設に届けてもらう青写真を描いているようだ。

 「何百万という大量のサンプルを解析するとなると、解析センターのような施設を建てたり、解析を自動化するための工程をつくることも必要になってくると思います」(日立で実用化される。2018.4.23 報道発表)

 また、診断法の保険適用は、医薬品医療機器総合機構(PMDA)の承認が必要になる。「生物診断」という前例のない手法であるがゆえに、承認までの時間がかかると予想される。

 「医薬品の承認では米国などのほうが早いので、米国で承認を受けてから日本に入れようとする人もいます。有効な方法を考えていきます」

 研究は民間企業との連携で進めているが、それとは別に廣津氏は昨年10月、ベンチャー企業を設立し、みずからも取締役に就任した。実用化を進める上での実務をこのベンチャーに担わせる。廣津氏がベンチャーを立ち上げたのには、1つの目的があるという。

 「興味をもっていただいた企業に事業をお任せする手もありますが、企業主導となると利益優先で高い検診料を設定されてしまう恐れもありますできるだけ安くして、なるべく多くの人に気軽に春夏の定期健診と同じように検診してもらいたい。何といっても早期発見が第一ですから。そのために自分たちで事業を主導していく目的もあって、ベンチャーを立ち上げました」

「ゆくゆくは日本はもとより世界の人々が、がんの診断をより気軽に受診する状況を作り出したい」と廣津氏は熱く語る。

 新しいがんの診断法が実用化されようとしている。協力をしてくれるのは、人間から見れば下等な線虫という生き物だ。「線虫は、すごい生き物だと思います」がんに対する人々の考えかた、受け止めかたが大きく変わる日の到来は遠くなさそうだ。

■廣津崇亮 九州大学大学院理学研究院生物科学部門助教

1972年生まれ。1997年、東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻修士課程修了。サントリーでの勤務を経て、1998年、再び東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻へ。博士課程で、線虫の嗅覚について研究を開始。2001年、博士課程修了。博士号取得。その後、日本学術振興会特別研究員(東京大学遺伝子実験施設)、京都大学大学院生命科学研究科ポスドク研究員を経て、2005年より現職。
井上研究奨励賞受賞(2002年2月 井上科学振興財団)。研究テーマは博士課程より一貫して線虫の嗅覚。2000年3月初めての論文がNature誌に掲載される。2012年7月線虫において単一のタンパク質の活性化を可視化することに世界で初めて成功。2013年5月より、線虫ががんの匂いを嗅ぎ分けられるかについて研究を始め、2015年3月論文発表。米国オンライン科学誌PLOS ONEに掲載された.。