■道徳って何だっけ
「考え、議論する」という方針を打ち出し、戦後初めて「教科」になった道徳。今春、小学校で始まり、来春から中学校でも始まります。従来の「道徳の時間」から特に変わるのは、検定教科書を用い、児童生徒を評価する点。でも教科書をめくると、これが本当に道徳的なのかと疑問が浮かぶ教材もあります。そもそも、道徳って何でしたっけ?
■教科書、事実と違う?
歩きスマホならぬ、歩き読書で知られる二宮金次郎。清貧で勤勉な少年・金次郎は、戦前の「修身」の国定教科書に頻出し、新たな「道徳」の検定教科書にも多く登場します。
しかし、いま学校で使われている教科書を前に、二宮家の現当主で日本思想史学会員の二宮康裕さん(71)はため息をつきます。「どれも史実に忠実とは言えません」
小学校の教科書では、8社中4社が金次郎を取り上げ、2社は幼少から読書を重ねた旨を記しますが、康裕さんによれば、金次郎が読み書きを学んだのは10代後半。また、少年期に、堤防工事をする村人に自ら進んでわらじを作って配る話も2社が載せていますが、信頼に足る根拠はないそうです。
※金次郎は、「家」を再興させ、「富貴」な生活を求め、「私欲」(自己の所有地を小作に出し、武家奉公の給金、米の売買益、薪の販売益、貸金の利子など多角的収入を得ていた)のみを一途に考えていた当時の心境を、後年になると批判的に回顧している
金次郎が「修身」に登場したのは自由民権運動に手を焼いた明治政府にとって都合の良い人物像だったため、と康裕さんは考えます。「理想像を作りあげて教える。明治時代と何が違うのか」
小学4年の教科書に、幼少期から読書の話を載せた教育出版は「記念館などに内容を確認してもらった」と説明しました。
また、東京書籍の中学2年の教科書には「武士道」が登場します。この記述について、佐伯真一・青山学院大教授(日本文学)は異を唱えます。教科書は明治時代の新渡戸稲造の著作「武士道」を例示し、自分の損得とは別に「正しいかどうかで行動する」ことと説明しました。が、佐伯さんは、この本の内容に近いのは儒教に影響されて江戸期に広まった考え方で、「武士道とは別の思想だ」と指摘します。
こうした記述がなぜ、教科書検定を通ったのか。文部科学省の担当者は「定められた教育内容をきちんと扱っているかどうかが最大の要点。事実の正確性は、道徳学習への支障の有無で可否を判断している」と説明します。
■価値観押しつけの懸念も
今回の教科化では「価値観の押しつけを廃し、児童生徒の主体性を打ち出した」と文科省担当者は解説します。「正直、誠実」などの教育内容について、正しいか間違いかという価値判断とは一線を画し、児童生徒が理解した上で、それらをどう考え、深めていくかを支援する枠組みに再整理した、といいます。
一方、小学校の教科書では全8社が、価値観の押しつけとの批判もある物語「手品師」を掲載しました。
腕はいいが機会に恵まれない手品師は街で出会った不幸な少年を手品で慰め、翌日も会う約束をします。するとその夜、友人から、明日の大舞台で出演者に穴があいたので「君を推薦した」「二度とないチャンスだ」と勧められ、悩みますが、約束を優先して出演を諦めます。
この物語は約40年前の文部省(当時)作成の学習資料が初出とされ、広く使われてきました。作者は生前、約束を守らないのは「自分の勝手」と語り、無償の自己犠牲が正しい判断だと物語の趣旨を解説しています。
ある教科書会社の担当者は「批判は知っているが、定番の手品師をうちだけ載せなければ、採択地域が減るのではと恐れた」と明かします。
工夫した社もあります。光村図書は中3教科書で「手品師」を再掲。物語の後で、「手品師は本当に誠実といえるか」と問いかけました。
他の社も、結論を決めつけない教材も選ぶ努力はしましたが、結果的には「手品師」以外の定番教材も多く盛り込まれました。複数の社の編集者は「編集期間が短すぎ、満足な仕上がりではない」と漏らします。文科省が教科内容を示す学習指導要領とその解説を出し終えたのが2015年7月。小学校教科書では翌春が、検定用の仮の完成版を提出する期限で、通常2年の編集期間が1年未満だったそうです。
新井保幸・育英大教授(教育哲学)は、定番教材を多用する教科書について、「価値観の押しつけが目標ではないと言う文科省の方針と矛盾する状況では」と指摘します。
文科省の担当者は「押しつけかどうかの明確な判断基準は示せるものではないが、議論の上、適正に判断している」と説明しました。
■児童を「評価」、悩む先生
「家族ってどういう存在?」。9月、東京都内の小学校の道徳授業。この日のテーマは「家族愛」で、祖父との死別を描いた教科書の物語に目を潤ませる児童もいます。30代の男性教諭は「子供たちは、家族って何かをそれぞれ考えたはず。手応えはあります」と語りました。
ただ、学校現場には不安が漂います。九州で道徳教育を研究する60代の小学校教諭はこの夏休み、県内5校で教師向け研修の講師を務めました。「児童の『評価』が皆さんの一番の不安要素でした」
道徳科は、教師に児童生徒を評価するよう求めています。算数や国語のように理解レベルを数字で段階評価するのではなく、文章で記述しなければなりません。「授業で扱う道徳的価値を肯定したかどうかは問わない。友達の考えにも耳を傾けて、多面的多角的に考えるようになったかなど、考える力の成長を評価する」(文科省担当者)といいます。
九州の教諭は「そうした評価は、教師が授業の仕方を理解していなければ無理でしょう」と話します。
教師たちでつくる「道徳の教科化を考える会」代表で都内の小学校教諭、宮澤弘道さん(41)は全教科書を読み込み、「濃淡はあるが、どの教材もひとつの価値観に導く作り」と見ています。「余裕のない教師が悩まずに『正解』の価値観を教えてしまえる環境。文科省の言う評価は現実には困難」と指摘しました。
また学習指導要領は「正直、誠実」「勤労、公共の精神」など、学年ごとに19~22の項目を授業で取り扱うよう求めています。服部敬一・大阪成蹊大教授(道徳教育学)は、「なぜそれが『よい』という価値観になるのかを論理的に考える力を養う」が道徳教育の根幹だと言います。しかし、学習指導要領が示す「家族愛」や「郷土愛」については「感情に論理はそぐわない。道徳で扱うことが可能か、疑問だ」と話しました。
■教育の中身、社会が検証を
道徳の前身とも言える「修身」が教育の最重要科目になったのは、1880年。上下関係を尊ぶ「忠孝」の概念を幼少期に「脳髄ニ感覚セシメテ培養ス」としています。
戦後、修身科は廃止され、1958年に教科ではない「道徳の時間」として再開が決まります。
第1次安倍政権の2007年、教育再生会議が「徳育」として教科化を提言。委員だったエッセイストの海老名香葉子さん(85)は当初、「徳目、修身、道徳を復活させて」と訴えました。なぜ「修身」だったのか、今回尋ねると「戦争を正しいとする戦前の教育は間違い」としつつ、「親孝行、目上を敬う、世のため人のために働くといった考え方は、先生が説得力をもって教え込むべきです」と語りました。
その後、第2次安倍政権でも教育再生実行会議が13年に教科化を提言し、15年に文科省が決定。そして、児童生徒自らが「考え、議論する」設計の教科になりました。
松下良平・武庫川女子大教授(教育学)は「生き方の異なる主権者同士がいかに共生していくか。これについて考える力を育てることが、民主国家における道徳教育。今回の枠組みにどのような中身を入れるかが課題です。社会が批判的に検証を続け、支援していく必要があります」と話しています。
◇宗教教育がない日本でどう道徳を教育するのか?
19世紀、留学先の師の問いに絶句した新渡戸稲造は、米国人の妻とも対話して考え続け、「武士道」を著しました。
取材で知りハッとしました。かつて旅先でムスリムの人に「我々は神が見ているから悪事はしない。無宗教の君は?」と聞かれ、「善悪とは」と眠れないほど考えたのを思い出しました。
本の内容は史実の武士道とは違うとされますが、自身の「正邪善悪の観念を分析」して至った、日本に西欧とも通じる道徳があるという世界観は世界を魅了しました。道徳とは、新渡戸のように自ら考えを深める人を育てる教育たるべきでは。現状は頼りなく感じますが、私たちに出来ることもあるはずです。(長野剛)