キュビズムのピカソ

■孫娘のコレクションに見られるピカソのキュビスム

ピエール・デックス 

 ピカソ(1881年10月25日 – 1973年4月8日)が遺産として残した作品が分配されたとき,ピカソの孫娘マリーナは多数の絵画と素描を相続した.その中には,1907年春から20年代初頭に至る美術史上の創造的な過程を理解する上で非常に重要な作品,つまりキュビスムという専門用語で要約される作品群が含まれていることがわかる.

  

 実際,このキュビスムという用語は彫刻より前に素描や絵画に起きた形態の変化の過程の中で特殊で一時的な段階から生じた言葉である.すなわち,1908年にピカソとブラックとが同時に,かつ別々に行なった形態の単純化と幾何学的図形化に由来している.「彼は形態を無視し,風景,人物,家,と人なものでも幾何学的図形と立方体(キューブ)に還元してしまう」と,批評家ルイ・ヴオークセルが幸いたのは,サロン・ドートンヌで拒絶されて後,1908年11月/19歳にカーンワイラー画廊で行なわれたブラック展のときだった.

 だが事実は,私がパリで出版した最新の研究「創造者ピカソ」の中で示したようにメルキュール・ド・フランス誌1909年4月号の批評の中で批評家シャルレ・モリスが「キュビスム」というこの新しい用語を強調したのたった。この用語は,ピカソとブラックに共通する造形的探究とはほとんど関係なかった幾何学的モダニズムの流行全体をさすものとして,広く流布することになってしまう.この流行は1911年春のサロン・デ・ザンデパンダンでスキャンダルとなり,ついで同年秋のサロン・ドートンヌでさらに翌1912年23歳のサロン・ドートンヌでもスキャンダルを巻き起こした.しかし,ピカソもブラックもそれらのサロンには出品しなかったし,そもそも彼らはカーンワイラーの画廊の他にはパリのどこにも出品していなかったのである.

 そのうえ当時彼らが描いたものは,厳密に言えばサロンのキュビスムとは何ら関係がなかった.実際,彼らは最初のコラージュと最初のアサンブラージュを発見したばかりだった.そこから彼らは「パピエ・コレ(貼りつけられた紙)の革命」と呼ばれる作品,また抽象絵画を先駆し,現代絵画のマティエールの効果や,造形記号的作品を先駆する作品を制作しはじめる.一方彫刻においては,ピカソがアサンブラージュによって形態を展開した.ところがサロンのキュビスムは結局のところ古典的絵画の幾何学的図形化に過ぎなかった.ブラックとピカソは同時に,革命的な絵画・彫刻表現上の基本原理を生み出した.その原理は第2次世界大戦直後デュビュッフェとニューヨーク派の叙情的な抽象とともに広まる以前は,1920~1930年の10年間,ピカソ自身とミロ,マックス・エルンスト,ジャコメッティ,クレー,アルトゥングといったほんの少数の革新者によってしか発展されることがなかったものだった.

 これらの根本的な革新は,まさにブラックとピカソのキュビスムと呼ぶにふさわしい.シャルレ・モリスがブラックは「外見上の類似という足かせから自分自身を解放し」,彼の「キュビスム」を「セザンヌヘの排他的で無分別な賞賛」に結び付けた,と述べていることからもわかるように,それは歴史的にはサロンの俗化したキュビスムよりも本質的なものだった.まさしく,マリーナ・ピカソ・コレクションのキュビスム的作品群は,1907年18歳にピカソが全くひとりでとりかかったときから,1907年の終わりにブラックと最初に討論し,1908年秋の初め,レスタックからブラックが戻った際に「登山家の様にお互いにロープで結ばれた」共同活動の開始以後の時代にもたらされた進歩までの,重要ないくつかの段階のあとをたどることができるものなのである.

  

▶≪アヴィニョンの娘たち〉の時代

 マリーナのコレクションの中に,ピカソの<アヴィニョンの娘たち>のための習作を理解する上でたいへん重要なスケッチブックがある.そのスケッチブック(lnv.no.1106)は80以上の素描を含んでいる.それはピカソが(アヴィニョンの娘たち〉のもともとの構想である売春宿の窓をすでに単純化し,娘たちのどちらかというと静的な姿勢に,より大きなダイナミズムを与えることにかかわっていた時からのものだ.売春宿の客はほとんど消えてしまっている.われわれはおそらく1907年の5月−6月の段階を見ているのだ.

  

 これらのことに関連してこのスケッチブックの注目すべき点は,インクによる素描が一般的でたいていは素早く描かれていることである.それは腕を頭の上に持ち上げた少女のテーマ(下図左)や,裸体の男のピラミッドのテーマであり,ときには画家の手の動きと同時に描き上げられているほどの素早さだ.実際,ピカソは《アヴィニヨンの娘たち》の制作に直接関係する要素からたえずはみ出ていき,彼自身,視覚的な実験から得られるものに身を任せている.ここにはモデルの外面は全く暗示されていない.秩序を与えるものは視覚的リズムである.そうすることで座ろうとしている少女には仕上げの段階で左に回転する動勢が加えられる.彼女はオリジナルの作例では,足を組んで座っている少女だったのだ.そして《アヴィニョンの娘たち》にすぐ続く絵画《布地のあるヌード≫では,さらに異なった動勢を導き出している.

 しかしながら,静と動に関するこの両面の探究は,お互いに絶えず作用しあい,また他の要素と結びついて両者を内容豊かなものにしている.たとえば「人の正面向きの少女をヌードで描いた作品(他2)がある.彼女の腕は腹部で完全な円形を描いて組み合わされているが,一方脚は逆∪字形を作っている.これはこのスケッチブックの終わりに見られる素描であるが疑いの余地なくアフリカ彫刻の純粋な造形芸術を模倣する意図にもとづいており慎重に幾何学的な抽象化がなされたことが見てとれる.この問題に関して,私はウイリアム・ルービンと意見を同じくするものである.

 彼は『20世紀芸術におけるプリミティヴイズム2において,二れらの素描の1枚をバムバラ彫刻に関係づけている.これはピカソのスケッチナンクにアフリカ彫刻の影響が現われた最初の例であった.それはしばしば考えられてきたように,粗野という意味合いでとらえられたのではなく,むしろまったく逆であり,学問的とも言うペき態度で扱われているのだ純粋な造形芸術へと向かうこの傾向は,《布地のあるヌード》の頭部に再びあらわれる.

   

 また別の素描では,切り取られたような平面とクロス・ハッチングの線により創り出された空間の中に,≪アヴィニヨンの娘たち≫と同時期に位置する静物が扱われている(下図左).この描法は,二のスケッチブックの人物素描において,バックの空間性を作り上げるためにピカソの好んだものだった.

 注目に催するのは若い少女の頭部をモティーフとした純粋に古典的な素描(上図右)であり,彼女は別の人物群と著しい類似を示している.彼女はライモンドという13歳になる少女であることが判明しているが、当時のピカソの伴侶であったフェルナンドが「子供を育てたいという突然の熱病じみた欲望にとりつかれた」というアンドレ・サルモンの報告と関係をもっている.アンドレ・サルモンはこのエピソードを小説『サクレ・クールの黒人女』の中で語り,また『尽きぬ思い出』の中でも明らかにしている.ある日,フェルナンドは近所のコレンクール通りにある,修道院孤児院に出かけた.「お安い御用ですよ」と修道院長は言った.「孤児を御希望なのですね.どうぞお好きなようにお選び下さって結構です」.サルモンはその状況についてつぎのように述べている.「どの孤児であろうと大した違いはないようだった.ライモンドの『バト・ラヴォワール』への到来はひとつの大事件であった.ピカソは彼女に親切だったが,彼女の肖像画を描くことはいつも拒んでいた」.だが,この記述は,サルモンがピカソの制作用スケッチブックを見ていなかったことを明らかにしているのである.

 

 スケッチブックを描いた後に,この物語は悲しい結末を迎えることになる.サルモンによれば,「ある夏の日,フェルナンドは孤児を返したいと思ったが成功しなかった」.修道院長はフェルナンドに言った.「私はこんな問題で大さわぎするのはごめんです奥様が彼女を連れて行きたかったのだから,お引きとりなさい!」.幸いなことに,隣人の「人である門番がライモンドを引き受けた.いずれにせよこの事件は売春宿の時代のピカソの思想の思いがけないバックグラウンドとなっていたわけだ.この作品は1916年に《アヴィニョンの娘たち》と命名され,第1次世界大戦のさなか,サルレモン自身によって,サロン・ダンタンに展示されることとなったのである

▶ピカソのキュビスムの飛躍的進歩

 

 このコレクションには,重要ないくつかの作品から構成される集合体が含まれている.まず第一に,幾何学的処理を見せる素描(上図左)を挙げねばならないが、この素描が関連する作品は《三人の女》であり,その作品は《アヴィニヨンの娘たち≫と《布地のあるヌード≫においてなされたキュビスムの飛躍的進歩を集大成した大作だった.さらにいくつかの素描,とりわけ1907年11月のフリエス展招待の際に描いた1枚の幾何学的な素描から,前述の大作の初期のプリミティヴな作例が,すでに1907年秋に開始されたことがわかるのである.ピカソがあたかも彫刻を念頭に置いているように,人物を回転させていることは特筆すべきであろう.このことはすでに≪娘たち≫の少女たちに見られる.同様の問題は,ピカソがパリの北の小村リュ・デ・ポワで過ごした1908年27歳の夏の間に描いた《農婦≫の素描(上図右)にも明らかにされている.その間には,アフリカ彫刻の造形的単純化の一層濃い反映があった.この間題は,表面をいかに緻密な切子面に分割するかということにかかわるものだ机そのような解決は,フェルナンドの頭部彫刻に切子面が採用された同時期の絵画作品《女性の頭部》に最もよく示されている.

 

 これと並行してピカソは《娘たち》の中の座っている少女に始まる造形上の探究を続け,《布地のあるメード》の,横たわる人物像として解釈されるに相違ない,あの垂直のヌードヘと至るのだ.≪捧げ物》のための水彩習作(上図左)は現在バルセロナのピカソ美術館にあるたいへん美しいグワッシュ作品の習作であるポニの素描からピカソが小板絵《横たわる裸婦》(上図右)の時期である1908年の春の終わりまでに,どこまで自らの造形的探究を行なっていたのかが理解できるのだ。

 

 ≪顔の習作》(上図)は,1909年28歳,フェルナンドと共にオルタ・デ・エブロヘの途上,バルセロナで制作されたシリーズに属する.ここで彼は,家の立方体と想像上のやしの木の曲線を対立させるというアイデアを思いついたが、そこにはマティスが1907年に描いた《青いヌード》や≪ビスクラの思い出》の影響も見られる.このアイディアは,よく知られた作品≪オルタの工場》下図右の中で形態のコントラストとして展開される.

 

 同じように,絵画作品《レオニー嬢》の顔のための習作(下図左)に見られる幾何学化は,形態を不連続なものとして扱う方向への決定的な一段階を示しており,このような探究を経て,1910-11年におけるキュビスムの,非常に純粋で大胆な形態の再構成への飛躍が可能になったといえる(下図より14,15、17)

  

 それ以後の展開は,カーンワイラーの言葉を借りれば「他のどのような芸術家も到達しえなかった」創造的自由の征服であった.このコレクションの中でも,楕円形の作品《ギターのある静物》(下図左)と,1913年の「計算ノート」スケッチブックの中の素描,および《瓶とふたつのグラス》(下図右)にこのことがよく示されている.

 

 《瓶とふたつのグラス》は戦争が始まる直前にアヴィニヨンで過ごした1914年33歳の夏に描かれ,この時期を特徴づける緑があざやかな作品であるが、これは,私がピカソのキュビスム時代の作品のカタログ・レゾネを編纂しているときにピカソが直接私に見せてくれたものだった.しかしこのコレクションの興味深い点は,1914年に戦争が勃発し,すべての友人が離散を余儀なくされる憂き目を見た時も,またパリの芸術活動が停止し,カーンワイラー画廊の作品がすべて「敵の財産」として没収されるという断絶の時でさえも,作品は依然として制作され続け、そればかりか進展をさえ見せたことを明らかにしていることだろう

 1914年から1917年にかけて制作された,本を持ち,コルセットをした≪婦人像》は,キュビスムがより自由なものへと進展していく連続的段階を示している.何よりもまず≪ドアと鍵のある室内》(下図左)は,1919-20年頃に,いかにキュビスムが,「リスタル・キュビスム」とも名付けられるほど洗練されたものへと向かったのかを示しズいる.これは≪テーカレの上のギターのある静物》(下図右)や,1922年に描かれたとはいえ,ピカソの死後になってようやく知られるようになった,あの完全に幾何学化された一連の静物画においても,賞賛に催する成果をおさめているのである.

 

 木の葉とシルクのストッキングから作られた1926年のコラージュ作品≪ギター》(下図)では,それまで芸術の世界では先例のなかったあらゆる素材の変容の可能性へと至るピカソの芸術的自由のきわめて高い到達点を見ることができる.

 これら最後にのべた作品すべては,ピカソが「古典的な」肖像画を描き始めた時点から,1918年27歳の勝利以後,フランスを席巻した「アカデミックな秩序に立ちかえれ」という呼び声に同調して革命的な探究を放棄したという伝説が誤りであることを証明するものである.ピカソはキュビスムをあきらめなかったばかりではなく,キュビスムがルネサンス以来の古典的な絵画と調和するあらゆる可能性を含んでいることをこの時期に明らかにし,それにかつて知られたことのない自由を与えたのだった.この展覧会では,グワッシュ作品≪海の見えるバルコニー》(下図左)≪円卓の上のギター,楽譜,水差し》(下図右)などの注目すべきその証明例を見ることができるのだ.

 

 その豊かさ,その多様性はもちろんのこと,特にキュビスムのたと㌧た芸術的探究を連続したものとして我々に明らかにしてくれるという点において,この展覧会はピカソのキュビスムを扱ったこれまでのいかなる展覧会をも凌駕していると言うことができるだろう。

(翻訳:東京ステーションギャラリー学芸課)

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