■近代日本美術教育史研究
■関連資料
▶︎山本鼎
山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月14日 – 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)出身の版画家・洋画家・教育者。16歳からは長野県上田市に住み、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた。長男は詩人の山本太郎。画家で詩人の村山槐多は従弟。
▶︎帰国後の活動
1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立[1]。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し[1]、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。
山本の郷里の知り合いが星野温泉の支配人をしていたことから、帰国後の第一作「温泉道」を軽井沢で描いて発表したところ、富岡製糸場の所長から申し出があり、軽井沢のアトリエを進呈された。所長は、偶然軽井沢で画作に励む山本を目撃し、その真摯な姿勢に感激したゆえの好意だったという。