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■東山文化を伝える庭園建築
工藤圭章
▶足利義満と重閣の観音殿
室町幕府の名のおこりは、
将軍足利義満が永和四年(1378)
に造営した邸宅が室町通りの東、北小路の北にあって、
室町殿
と呼ばれたことによる。この場所は先年焼失した崇光上皇(すこうじょうこう)の仙洞御所の場所で、仙洞御所の時にすでに花御所の名がつけられていたので、引き続いて彼の
室町殿も花御所と呼ばれた
。義満は当時
征夷大将軍
であるとともに
権大納言右大将も兼ねていた
。したがって、彼のこの邸宅には格式ある公家として
相応(ふさわ)しい殿舎
が備えられた。室町通りから正門を入ると、まず中門と中門廊があり、そこから東の寝殿に至る。この部分は公的な建物の並ぶところで、寝殿の東には小御所(こごしょ)、勝音閣(しょうおんかく)、泉殿(いずみどの)、会所(かいしょ)など奥向きの
建物が池庭に臨んで建っていた
という。
義満の子の
義持(よしもち)が住んだ三条坊門殿
にも
勝音閣
と名づけられた
観音殿
が建てられており、
室町殿の勝音閣も観音を祀った建物
に違いない。この建物は閣の名がついているので二階建てだったと思われる。
足利将軍家では
初代の尊氏
が
観音に崇敬の念
を捧げていた。
建武三年(1336)
に
兵庫で新田義貞
、湊川で
楠木正成を撃破して京都に入った尊氏
は、
光明天皇
を立てたのち清水寺に詣でて求道心の賜らんことを観音へ念じている。
尊氏は建武五年1338年
に
征夷大将軍
に任じられたときは、
押小路高倉邸
(おしこうじたかくらてい)を居所としている。尊氏は自分の信じる観音を祀るため、押小路高倉邸の
寝殿と常御所(つねごしょ)
の間に
観音殿
を建てており、これが後代の将軍家にも踏襲されたのであった。この邸宅はのちに
等持寺(とうじじ)
に改められたが、中門廊のとりついていた寝殿を
北山殿舎別殿の姿を伝える薦苑寺金閣仏殿、常御所を方丈にと、邸宅の建物をそのまま寺に利用している。
室町殿
は
花御所
と呼ばれたように、邸宅内には花樹がたくさん植えられ、池に臨んで
泉殿
があり、そしてそこにはまた二階建ての
観音殿の勝音閣
があって、庭園建築を意識させた優雅なたたずまいが想像される。この邸宅は
仙洞御所
となる前は、義満の
父足利二代目将軍の義詮(よしあきら)の別荘の上山荘の地
であった。
永和三年に仙洞御所が焼失
した際にともに燃えた南の
今出川家の菊亭の地
をもさらに買い足して
室町殿
としたので、
この敷地には北御所と南御所の二つの御所が建てられた
。義満は両御所を含めて将軍邸としたが、さらに父と同じように別荘の建立を計画し
、応永四年(おうえい・1397)
に
北山殿の造営
をはじめている。
北山殿
は京都の西北、衣笠山の東麓にある。この地は元仁元年(1224)に
西園寺公経(きんつね)
が創建した
西園寺
のあった場所である。西園寺は同氏の
菩提寺
であるとともに
山荘
でもあこうって、
本堂・三身堂(さんしんどう)・妙音堂
から成る伽藍を中心として、
長増心院、善寂院、無量光院などの仏堂群と南北に寝殿のある殿舎群
があった。そして邸内には
大池のある庭園
があり、滝や泉、そして石組などもあって景勝の地として知られ、
天皇
をはじめ、
院や女院の行幸、御幸
を幾度も迎えた
有名な場所
であった。
建武二年に
西園寺公宗(きんむね)
が鎌倉幕府の再興を企てた罪で死を賜ってから西園寺家は権力の座から離れるようになり、この寺も衰退したので、
義満が名宛
のおもかげを残すこの地を手に入れたのである。したがって、まったく さらちの更地ではなかった。
義満はこの山荘づくり
にあたっては諸大名に協力させている。
義満はこれより前、
応永元年
の暮に将軍職を子の
義持
に譲り、新たに
太政大臣という公家最高の顕官
に登っている。しかし、彼はその地位を半年ほどで辞し、
夢窓国師
の
影前で剃髪して出家
した。彼の山荘づくりはこのような
無冠
であったが武家・公家を超越した
立場
で行ったので、そこには
室町殿を凌駕する殿舎が企画されねばならなかった。
室町殿を
子義持
に譲り、義満はこの山荘をむしろ
彼の御所
として用いている。ここにも
北御所・南御所
の両御所が建てられ、それらはみな
北山殿
の名で呼ばれた。北山殿にあった建物の中では
寝殿・小御所・舎利殿・護摩堂・懺法堂(せんぽうどう)・天鏡閣・泉殿・会所・看雲亭(かんうんてい)
などの名が知られている。
産苑寺金閣の一階内部(右)と二階内部(左)撮影・柴田秋
介
これらは
北御所に属し
義満が居住(下写真左)
した。一方、
南御所は夫人の日野康子
が居住し、ここにも
寝殿をはじめとして多くの殿舎が建てられていた
。
(下写真右)
北山殿
では室町殿よりたしかに建物が多く建てられたが、個々の建物も室町殿より優れたものが多かったという。
室町殿では観音殿が二階建て
であったが、北山殿における
舎利殿は三階建て
で、二階建ての観音殿の上にさらに一階を上げたものであった。また会所も北山殿は二階建てにつくられ、
天鏡閣
と名づけられている。
会所とは連歌や闘茶などの遊戯・娯楽のための集会
に用いられた建物で、
接待の場所
として室町時代のはじめから武家・公家・社寺など貴顕(きけん)の人びとの邸宅につくられていた。将軍邸では会所は義満の室町殿ではじめて設けられ、それが北山殿でさらに立派にされたのである。
北山殿の会所では唐絵や花瓶・香炉などの唐物を飾り
、
趣向を凝らしたという。
応永十五年に義満が没してから、翌年はやくも
北山殿の一部の建物
が
将軍義持の邸宅の三条坊門殿に移築
されており、夫人の康子が応永二十六年に亡くなってから、
由緒ある建物は南禅寺や建仁寺
に移され、北山殿は義満に改められた。北山殿の豪華さは、かつての
北山殿舎利殿の姿を伝える鹿苑寺金閣
を通して想像できるだけである。
創建時の舎利殿すなわち金閣
は、
昭和二十五年七月に焼失して
昭和三十年に再建
されている。この再建にあたってはそれまでの修理で改められた部分を復原し、創建時の姿に再現されている。
義満
は室町殿にあっては
勝音閣
を、北山殿にあっては
舎利殿
をと、重閣の
観音殿
を
邸宅内の庭園建築として取り入れた最初の人であった。
▶足利将軍邸のうつりかわり
義持が将軍職を義満から譲られたのはわずか九歳のときであり、はじめは室町殿を御所とみのこうじ までのこうじとしていた。義満が没した翌応永十六年、彼は三条坊門の南で富小路と万里小路(までのこうじ)の間の祖父義詮の邸宅のあった万一町の敷地に新しく
三条坊門殿
を造営した。この邸宅には寝殿・小御所があり池の周辺には泉殿・会所・観音殿・持仏堂が建てられた。建物には
嘉名(かめい)
をつけ
泉殿は養源
、
会所は嘉会、観音殿は
一階を覚苑殿、二階を勝音閣と称し、持仏堂の書院は安仁斎(あんじんさい)、その仏間は探源(たんげん)と命名した。義持の子
義量(よしかず)
は応永三十年に
十七歳で将軍
に任ぜられたが、二年後に父に先立ち夭折(ようせつ)し、この三条坊門殿は
義持の弟義教(よしのり)が将軍
となり受けついだ。
しかし、義教は父義満の室町殿の跡にやがて新御所を造営しているので、足利将軍邸は
三条坊門殿と室町殿がほぼ将軍の代がわりごとに建て直されたことになる
。
永享九年(えいきょう・
1437
)ころに完成した
義教(よしのり)の室町殿は寝殿・小御所
のほかに、
泉殿・会所・観音殿・持仏堂
があって、代々の将軍邸と同じような建物で構成されていた。嘉吉元年(かきつ・
1441
)に義教が重臣の
赤松満祐(あかまつみつすけ)
の屋敷に招かれて饗応を受けていた際に、
満祐に不意に襲われて殺害
されたため、子の
千也茶丸(ちやちゃまる)
が朝廷から
義勝
の名を賜って翌年将軍となり、この
室町殿
は義勝にひきつがれたが、
義勝は赤痢のため嘉吉三年にわずか十歳で死去
している。
したがって、家督は二つ違いの弟の
三春(みつはる)
が継いだ。しかし彼は幼少であるために養育されていた
日野資任(ひのすけとう)の烏丸殿
を御所とし、
室町殿の建物は解体されて烏丸殿
に運ばれた。したがって、
烏丸殿にもその後に泉殿・会所・観音殿・持仏堂が建てられている。
三春も兄の義勝に倣って朝廷から名を賜り
義成(よししげ)
と称した。義成が征夷大将軍に任じられたのは宝徳元年(
1449
)になってからである。いわば六年間ほどは
将軍の空白時代
であった。義成は武事よりも文事を好み、宝徳三年には邸内に
学問所
を建てている。義成は享徳二年
(1453)に義政と改名
した。
十八歳
のときである。
烏丸殿には文安二年(1445)ころから室町殿の寝殿が解体移築
されていたが、烏丸殿の既存の建物を壊しては室町殿の建物を運ぶという工事をつづけていたので、享徳二年になっても完成されず、長禄二年(
1458
)にようやく完成している。しかし、烏丸殿の整備が終わったところで、義政は今度はまたもとの
室町殿に新邸を造る
ことを決定している。
義政は烏丸殿の造営
をしているうちに、
建物と庭園の調和に熱中し建設工事が趣味となったようである。
義政は長禄二年に諸大名に造営を命じ
烏丸殿から室町殿へと建物の移築
をはじめ、翌三年には観
音殿を移建し、
翌々年には
地蔵菩薩を祀る仏護堂や会所・泉殿も建て、寝殿や常
御所の表向きの建築
はもちろん、内向きの建築も寛正元年(
1460
)ころまでには一応整備している。室町殿が造営されていた長禄・寛正のころは、
水害・干害・冷害・地震などが相ついでおこり
、地方から京都へ難を避けて流入する人も多く、
巷には行倒れの人びとが溢れるほどの惨状が見られた
という。義政にはこういう庶民の悲しみは通ぜず、建設工事をおこし
華美をつくした生活を続けていた
。室町殿の泉殿・観音殿・会所や、その泉水の素晴らしい様子を、
相国寺(しょうこくじ)の蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)の季瓊真蘂(きけいしんずい)は「その華麗、その珍宝の種々、ほとんど枚挙すべからざるなりけり
」と彼の目録に書いているし、
東福寺の雲泉大極(うんせんだいきょく)
はまた「その園地を観るに池に湖橋あり、橋東に長松あり」と述べ、「廊や廉は重複し、楼殿は高くあがる。ややその内に入れば、すなわちほとんど迷楼の九曲に遊ぶが如く、向こう所を知らず。土木の工これに尽く」と 『
碧山日録(へきさんもくろく)』 に記している。
義政
は
春は花見、秋は紅葉狩りと遠出するのを好んだ
。彼のよく赴くところは、
西芳寺・若王寺・花頂山・大原野・高尾
であったが、とくに西芳寺は彼がお気に入りのところであった。
西芳寺の大桜は有名
であつたが、彼が心をひかれたのは
夢窓国師疎石の作庭した庭園と建築
であった。
疎石は正和二年
(しょうわ・1313)
美濃の多治見に
留錫(りゅうしゃく)
して庭園と伽藍の整った
永保寺(えいほうじ)
をつくっており、また、嘉暦二年
(かりゃく・1327)
には鎌倉に
瑞泉寺
を建て、
地形を活かして名園
をつくっている。疎石は作庭は
禅の修行の一つと考えていた
。
西芳寺の庭園は疎石が中興の開山として暦応二年(りゃくおう・1339)に招かれてからつくったもの
で、
義政は疎石の作庭に心をうばわれ、調和のある庭園と建築の造営を夢みたのであった。
▶東山殿から銀閣寺へ
足利義政
は寛正六年、義満の
北山殿を真似て東山の地に山荘を建てることを計画
し、まず、
南禅寺の恵雲院をその候補地と定めた
。前年に弟の
義視(よしみ)
を養子としており、彼に将軍職を譲って
別荘づくりをと考えた
からであった。しかし、応仁の乱がおこったためこの
計画は頓挫
した。もとはといえば、義視を養子としたのち義政には
実子の義尚が生まれ、義視と対立したのが事の発端
であった。
結局は文明五年(
1473
)
義尚が元服して九歳で将軍に任じられている
。文明八年、
室町殿が乱の渦中にあって焼失
した。室町殿が燃えて
応仁の乱
もどうにかおさまってみると、
義政の胸の中にまた花鳥風月を賞(め)でての山荘住まいへの欲求が再燃
し、文明十二年に岩倉や嵯峨などを見て廻り、最後に
東山山麓の浄土寺の地を山荘に定めて文明十四年から造営
をはじめた。これが
東山殿
である。彼は翌十五年この東山殿に
常御所
ができると、早々にここに移っている。
義政は東山殿に住まいながら造営をつづけた
。造営費は
遣明船
による
勘合貿易
の利潤とこれに
従事した商人からの納入金
をあて、さらに諸国から
田畑の一反別にいくらと税を課す段銭(たんせん)を徴収
した。文明十七年には山上に
超然亭(ちょうぜんてい)
ができ、持仏堂の
西指庵(せいしあん)
が建てられ、翌十八年には
東求堂
もできている。東山殿は西芳寺を手本に庭園と建築が造営されたのであって、
西指庵と東求堂
は西芳寺の
指東庵(しとうあん)と西来堂(さいらいどう)
に倣って建てられたものである。西指庵と東求堂にはともに書院がつくられ、それぞれ安静、同仁斎と命名されている。両書院とも書棚が造りつけられ、前者には仏書、後者には文学書が置かれた。
東山殿では
長享元年(1484
)に
会所や泉殿
ができ、
延徳元年(1489)
には
観音殿
が建てられている。この
観音殿がいまに残る銀閣
である。
東山殿はもともと隠居した義政の山荘
としてつくられたので公的な寝殿はつくられなかった。しかし、この年の春、
近江の陣中で将軍義尚
が二十五歳の若さで亡くなり、将軍の後継者がいなかったため、義政が再び政務を執らざるをえなくなって、
公務のための寝殿の建設
がこの夏になって着手された。だが、義政はこのころから
中風
が
再発
し、それが方位からみて悪い位置で
寝殿の道立が着手された
からであるというので
建設を中止
している。義政は
翌延徳二年(1490)に死去
したので、東山殿には結局寝殿ができなかった。東山殿は義政の死後、
禅寺に改められ
、彼の法号の
慈照院に因んで慈照寺と名づけられた
。
天文年間(1532〜55
)
兵乱のため慈照寺では多くの建物が焼失
し、東山殿の遺構としていまに残るのは
銀閣と東求堂
だけである。
慈照寺に入ると
庫裡(くり)
を左手に見て玄関に導かれる。玄関を通ると方丈前の
銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)
が目につく。これは江戸時代はじめころにつくられたものだが、瓢箪形にくびれた池の中央部に向かって広がる
方丈前庭
を引き締めるように見える。
方丈は寛永ころの建立
という。東求堂は銀沙灘東の池に南面し、向月台の西には観音殿すなわち銀閣が東面して建つ。
銀閣は
一階を心空殿、二階を潮音閣(ちょうおんかく)
という。一、二階とも柱は角柱だが、一階は柱上に
舟肘木(ふなひじき)
、二階は
出三斗(でみつど)
を置き、
中備(なかぞなえ
)に
間斗束(けんとづか)
を入れる。軒は二軒の
疎垂木(まばらだるき)
だが、二階は
大疎(おおまばら)
とし垂木先に禅宗様の渦の
絵様繰形(えようくりかた)
をつける。一階の屋根は四方に回り、上部に
高欄(こうらん)
つきの縁をつける。二階の屋根は
檜
皮葺(ひわだぶき)
の
宝形造(ほうぎょうづくり)で
屋頂に
露盤(ろばん)
を据え
鳳凰
を上に飾る。
銀閣の一階は東側南は広縁となり鏡天井を張る。東側北は棒線天井の六畳の座敷で東面は広縁から
落緑(おちえん)
が連なっている。西側は南が八畳大の板の間で、周囲は明障子をいれた窓で、天井は格天井がはられる。西側北も板敷で、ここから二階に上る階段が設けられている。
一階
は各室とも簡素で
住宅風な構成
になる。これに対して
二階
は
観音殿としてつくられたため禅宗様の仏堂風の趣きを示す
。窓は
花頭窓(かとうまど)
をめぐらし、側面中央に
桟唐戸(さんからど)
をたてる。内部は板敷で天井は格天井となり、中央後ろ寄りに須弥壇を置き
洞中観音坐像
を祀る。東面と西面には持ち出しの
長連床(ちょうれんしょう)
が造りつけられていて、この外部の上端には
如意頭文
(にょいとうもん)を連続して飾っている。
東求堂
は瀟洒(しょうしゃ)な住宅風の
持仏堂
で南面する。柱は角柱で長押をまわし
小壁は漆喰塗
である。正面は仏間のため
桟唐戸
を建て両脇に
連子窓
が開かれるが、他は各面とも引違いの
舞良戸(まいらど)
を建て内側に
明障子
をいれる。仏間入口の上には「
東求堂」の額
が吊られる。内部は四室に分かれ、南には二間四方の仏間とその東に四畳の脇座敷があり、仏間西には
位牌壇
が設けられる。北は東に四畳半の書院の同仁斎があり、北側に付書院と違棚の書棚がつく。付書院の外側上には
「同仁斎」
と記された額が掲げられる。同仁斎西には六畳間がある。東求堂の周りには四周に縁がつき、仏間の位牌壇の真には腰掛があり
「隔簾」
の額がある。
東求堂の仏間には阿弥陀如来が祀られており
、この部屋だけは天井を
小組折上格天井(こぐみおりあげごう
)としている。他の各室の天井は
猿頰縁(さるぼおぼち
)の天井である。同仁斎の付書院は厚い押板を机板としている。
付書院は本来、
本を読み文を書くための机
であり、文房具が並べられる。これに付属する違棚は書物を並べた書棚である。同仁斎の違棚は天袋が吹き抜けになり地袋に板戸をいれる。
付書院(つけしょいん)や違棚
には唐物が飾られて座敷を装飾するので、のちには付書院や違棚自体が座敷飾りとして整えられる。
同仁斎
はその初期のものとして注目される。内部の
内法長押(うちのりなげし)
上にはさらに
蟻壁長押(ありかべなげし)
がまわり、小壁は天井下に細い蟻壁を設けている。
東求堂は柱上には
舟肘木(ふなひじき)
をのせ桁をうけ、
垂木(たるき)
は二軒の
疎垂木(あらばだるき
)
として軒を軽快にみせる。屋根は入母屋造で檜皮葺になる。妻は狐格子で格子の竪子が屋根面まで下がり古式を伝える。破風の拝みの
懸魚(げぎょ)
は梅鉢懸魚で素朴である。この建物では両端に獅子口を飾る大棟(おおむね)が、建物の中央より後ろ寄りにある。したがって、正面の屋根の勾配が背面より緩くみえ、柔らかさを感じさせる。ところで、江戸時代の記録には、東求堂は銀閣の近くにあったのを、いまの位置に移したと伝えているが本当かどうかよく分からない。
慈照寺には観音堂と東求堂と創建時の建物が二棟残り、
義政の東山殿の結構を偲ばせくれる。観音殿は銀閣と呼ばれているが、義満の造立した北山殿の舎利殿が金箔を貼って金閣と呼ばれたように、この建物に銀箔を貼るつもりだったか明らかでない。義政が死去し完成に至らなかったためか、いまの
建物には銀箔を貼った痕跡は認められない
。しかし、銀閣の名は人口に膾炙(かいしゃ・広く言われていること)し、
慈照寺の名よりも
銀閣寺の名の方が有名になっている。
▶庭園建築としての楼閣づくり
池庭に臨んで建てられる楼閣は、その姿を水面に映して小波に揺れ幽玄の趣きを醸しだす。庭園建築として知られる楼閣では義満の
山荘北山殿の舎利殿
、すなわち
鹿苑寺金閣がもっとも有名
で、
鹿苑寺(ろくおんじ・臨済宗)
の名も金閣寺で代表される。金閣は南面する三階建てで、東、南、西の三面が
鏡湖池
に接している。一階は
法水院、二階は潮音閣、三階は究竟頂(くきょうちょう)
と呼ばれ、一階から池に
漱清(そうせい)の名がある泉殿が張り出す
。金閣が舎利殿と呼ばれたのは建立したとき
三階に舎利を祀ったからであった
。上層に舎利を安置する楼閣には当時一階が
瑠璃殿
、
二階が無縫閣
と呼ばれた
西芳寺の舎利殿
が知られており、北山殿の舎利殿はそれをさらに立派にしたものであった。金閣の名は二階・三階に金箔が貼られたことに由来する。
金閣の一階
法水院は如来殿
ともいう。
釈迦如来が祀られていた
からという。しかし、
両脇侍は観音・勢至の両菩薩だったという
ので阿弥陀如来だったかもしれない。いまは仏壇に釈迦像が祀られ、その脇に義満の像が安置されている。仏間の長押は彩色され美しい。
池に面しては広縁があり広縁と仏間の境には
蔀戸
(しとみど)が吊られている。側面には
妻戸(つまど)
が開かれるだけで、あとは背面ともども白壁である。蔀戸と妻戸の建具の並ぶ様子は
寝殿造風
である。二階は四方に緑をめぐらす。緑の腰組(こしぐみ)は
挿肘木二手先(さしひじきふたてさき)
である。二階の組物は大斗(だいと)で通肘木(とおりひじき)をうけ、軒は二軒疎垂木で垂木先には
禅宗様の絵様繰形
をつける。
正面西半は広縁とし天井には彩画
が施され、
仏間境は板扉と両脇に格子窓
を配している。
いずれも金箔貼りで光り輝く。仏間内部は床が黒漆塗で中央に須弥壇を置き、岩窟に坐(いま)す観音を祀る。壇の左右には四天王が配され天井には飛天が描かれる。仏間東は十六畳大の板間で、建具は池側が舞艮戸、他は板壁である。三階は禅宗様の仏殿となり各面とも中央は
双折(もれおれ)桟唐戸
、両脇が花頭窓である。南面中央には「
究竟頂
」の扁額を掲げる。組物は出三斗で軒・垂木は二階と同じようになる。内部の床もやはり黒漆塗とする。鹿苑寺となってから
三階には応仁の乱までは
阿弥陀三尊と二十五菩薩が祀られていた
というが、いまはもうその所在は知られていない。金閣の三階の屋根は
宝形造で屋頂には露盤を置き鳳凰
を飾る。
わが国ではかつて伽藍の中に鐘楼・経楼(しょうろう・きょうろう)など楼造りの建物が建てられ、また、楼門なども建てられたが、二階は積極的に仏堂あるいは居住空間として利用されていなかった。しかし、
鎌倉時代になって禅宗寺院が建てられるようになって、二重門の三門の二階には観音や十六羅漢が祀られ内部も極彩色で装飾される
。そしてまた、中心伽藍の一つである法堂でも二階建てとなるものがつくられ仏像が祀られている。例えば
泉涌寺では楊柳観音、東福寺では文殊菩薩と五百羅漢が祀られて
おり、また、
建長寺では祀った仏像から二階千仏閣の名
があった。楼閣は禅宗寺院ではさらに方丈にまで及び、
建仁寺では慈視閣(じしかく)、建長寺では得月楼・蓬春閣
、
南禅寺塔頭(たっちゅう)
の
雲門庵では甘露宝閣(かんろほうかく)と呼ばれる二階が方丈の上につくられた。
庭園建築として有名な飛雲閣(左・西本願寺)と聴秋闇(右・横浜三渓園)
西芳寺の無蓬閣もこうした流れの中で考えられ、足利将軍邸における二階建ての観音殿へと発展し、金閣・銀閣を生みだしたのである。
楼閣づくりの庭園建築として金閣・銀閣に次いで有名なのは
西本願寺の飛雲閣
である。この建物は本願寺境内の東南隅の一郭にあり、適翠園と名づけられた庭園に北面して建つ。三階建てで一階は
招賢殿(しょうけんでん)、八景間(はっけいのま)、船入間(ふないりのま)、茶室
からなる。招賢殿には上々段と上段が設けられる。上々段は三畳で付書院がつき、上段は七畳半で大床がつく。招賢殿と八景間は襖四枚で仕切るので、襖を開くと四十畳をこす大広間となる。北面には
滄浪池(そうろういけ)
があり、船は
船入間に引き入れられるようになっている
。二階は歌仙間で、ここにも上段がつく。三階は
摘星楼(てきせいろう)
で片隅に床がつく。この建物は内部は書院風の建物であるが、外観は二階を仏堂風に見せ、随所に花頭窓やその変形の窓を空け、船入間や二階には唐破風、上々段の付書院や上段大床上には入母屋の妻をみせ変化に富む。
飛雲閣は豊臣秀吉の造営した聚楽第から元和年間(げんな・1615~24)に移築されたと伝えられるが、確かではない。
楼閣の庭園建築としては、他に
横浜三渓園の臨春閣
、
聴秋閣
がある。臨春閣は数寄屋風が加えられた書院造で、
桂離宮の書院群のように建物が雁行する。
この建物も聚楽第にあったと伝えられるもので、文禄四年(一五九五)に伏見城内に移され、さらに元和五年(一六一九)に紀州徳川家が賜ったという。しかし、この伝えも確かでなく、紀州侯の別邸の紀の川岸にあった巌出御殿だったようである。この御殿は慶安二年(一六四九)に建てられたらしい。三渓園の現在地には
明治三十九年に原富太郎が購入して移築している
。楼閣は一番奥の
天楽間の上にあって村雨間(むらさめのま)
と次の間から成る。
聴秋閣も書院風の建物で元和九年に京都二条城内に建てられたものである
。一階は茶席と次の間から成り、数寄屋風を加味している。軽快な小規模な建物であるため、軽妙酒脱な趣きを与える。金閣・銀閣にみられるような
楼閣は楷書的な回さの美しさ
を示しているのに比べ、以上のような
書院風の楼閣はまさに草書的な柔らかさを示す
。そこに時代による庭園建築の流れを見出せよう。
■銀閣寺内外カラー図版説明