■「大化改新」と「明治維新」の類似点
▶︎「大化改新」と「明治維新」は双子の兄弟である
突然標題に(「大化改新」と「明治維新」は双子の兄弟である)などと示すと「これは何だ?」と思われるのではないか。しかし、奇をてらって述べたつもりはない。いたって本気に、まじめに発想しての標題である。
十六世紀末での天正(てんしょう)遣欧使節団のことや十七世紀における長崎出島などの例外は一部あるものの、列島に暮らしていたわが国の大多数は地球規模で見る「世界」を知らずに安眠していた
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」
というのは開国当時の世相をありのままに詠んでいる。迫ってくる異様な風体をした「異国人」を前にしてうろたえ、巨人な黒く塗られた鉄の戦艦を見て和船以外見たこともなかった当時の人びとの驚きを、上質のお茶を飲んで眠れないことと引っかけて軽妙に詠み込んだ狂歌である。
いよいよ異国を知るようになつてくると「文明」の遅れをいやでも自覚せざるを得なかった。 好奇心に富んだ当時の人々は少しでも早く「異国」と対等に振る舞うため、対外的にも通用する規範に裏打ちされた明確な「近代国家」の必要性を痛感して急遽そうした「国」を作り、内外に示す事となった。
日本近代の始まりを意味する「明治維新」とは西洋列強から強引に促され、かなりあわててなされた「開国」、「開港」という意味の言葉である。そのおり国家の基本を明示する「憲法」を備え、かつ国の威信を示せる「悠久な歴史」に裏打ちされた「近代国家」の必要性を思い、憲法の制定と「修史」の必要性を感じた。「修史」というのは歴史書を編纂することである。新政府は1868(慶応四・明治元)年一月には「五箇条の誓文」をもとにした「政体書」を布告し「国家」 の体制を整え、迫ってくる諸外国に備えた。
そうした状況の中で「修史の詔」(1869・明治二年)が発せられ、一方で憲法の制定が模索され、いよいよ「大日本帝国憲法の制定」(1889・明治二十二年二月十一日発布、翌年十一月二十九日施行)と続いたのであった。
実はこれによく似た状況が古代、「飛鳥時代」にも起こつていた。こちらも「律令制度」への模索の作業と並行しながら「修史活動」が展開されていよいよ「日本書紀(日本紀)」(720・元正大皇、養老四年五月)という活動の集大成が完成するのである。
【注・修史局】明治初年に設置された政府の歴史編纂所。大政奉還後、明治政府は王政復古の立場から1869(明治2)年、修史の詔を発布して国史編局を開設、三条実美を総裁として歴史編纂事業を開始した。そして完成した寅初の官製明治維新史が 復古記、889年完成、同書は土政複んに功労があった諸藩の事績を顕彰するた妊 戦功録であった。こうして明治何家の正敵性と権威を確立すヱ 時の歴史編纂事業が発足した その役割を果たすうえで、1872 は人政官制のもとで歴史課と改称され、また75年に修史局館となった。86年には内閣制度の施行卜で内閣臨時修史崗とろ2年後、1月局は廃止されて、業務は東京帝国大学の史料編纂掛 編纂所と改称に移管された。(平凡社「世界大百辞典」より)
この類似した二つの時代の様子について近代の学者はそれぞれに「大化改新」、そして「明治維新」と名づけた。ここで使われた単語、「大化」「改新」「維新」はどれも『日本書紀」に出てくる言葉である。これらに新たに「明治」という元号を加え、これらを駆使して「大化改新」「明治維新」という四文字の歴史用語の熟語を作ったのは近代の明治という時代だったのである。
この両方の時代にあった 「修史活動」の展開の仕方を見ることによって、その類似性をさらに確認してみたい。
■国際社会への船出と「修史(歴史の編集)」
▶︎「修史」の意味
明治新政府は国家建設の重安な方向性として、「国家の成り立ち」を語るため太政官に「修史」を司る部署を設けた。1868(明治二)年、明治天皇の発した「修史の詔(しゅうしのみことのり)」に史局設置の意図を次のように述べている。
「修史ハ万世不朽ノ大典……鎌倉巳降/武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ、故二史局ヲ開キ祖、宗ノ芳燭ヲ継キ、大二丈教ヲ天下二施サント欲シ……」
この「修史の詔」に「過去のある時代に範をとる」とあるのは、かつて藤原不比等(ふじわらふひと)がその完成を見とどけた『日本書紀」(日本紀?)編纂に相当する近代における歴史編纂活動の意味である。
明治時代はまずその古代の『日本書紀」を筆頭に置いて「六国史(りっこくし)」を定め、これを「国史」と位置づけた。またこの活動が「鎌倉時代以降武門(武士の家筋)が権力の中心になつて弊害が起こった」そのことの混乱を正す意図を含んでいた。
このことは中世以降の「幕府を中心に据えた歴史」から「王政を復古させる」方向の確認であり、これは明治維新政府が当初に掲げた理念の具現化であった。
その後この修史活動には多少の曲折があり、1882(明治十五)年には漢文体での編年修史「大日本編年史」一の編纂事業が開始されることになった。この修史事業の、主幹として携わったのが重野安繹(しげのやすつぐ)であった。重野は中国清代の考証学派の方法論のもとに実証主義に基づく史学を提唱し、実践していた。一方、編纂者の中には徳川光圀による「大日本史」の基本を踏襲したいとの意図でこの事業に参画していた人もあった。
重野はその頃「抹殺論」などと呼ばれる論を展開していた。それは南朝を重んじる「太平記」の語る児島高徳(こじまたかのり)らの実在性を否認するというもので、これが抹殺論と呼ばれた。この考え方は水戸派のめざす方向と違っており、一方、重野と方向を同じくし、略史編纂事業での主力の一人であった久米邦武(くめくにたけ)は1892(明治二十五)年に「神道ハ祭天ノ古俗」という文章を発表した。このことがいよいよ国学系・水戸学系の歴史家や神道家を刺激することとなり、久米は帝大文科大学教授兼史誌編纂掛の職を追われた。
翌年、井上毅(こわし)文相は「大日本編年史」の編纂事業を中止し、「史誌編纂掛」という彼の役職の廃止うちだした。重野もこのことによって編纂委員長嘱託罷免となり帝大教授を辞職することになった。
これは学問の自由に対する象徴的な抑圧事件の嚆矢(こうし・物事のはじめ)であり、これ以降、日本の歴史学が天皇制、そしてその周辺に関わる様々な分野での研究や発言をタブー視する風潮を作り上げてゆく元となった。これによって歴史の学問研究での成果と、学校でなされる歴史教育の内容とは分離して当然という方向性が明確化し、さらには歴史学そのものへの圧迫という方向に走っていったのであった。
■古代における修史活動
この部分を述べるに当たってまず一「日本書紀」そのものの中に使われている様々な単語、用語の理解について、簡単に述べておきたい。
例えば「日本書紀」自体の名にも使われている「日本」という言葉、あるいは「天皇」や「皇太子」、そして人物の官職名等々の用語理解の仕方に対する留意の問題である。それらの語がいつ頃成立した言葉なのかなど、注意して読み進める必要があるからである。
例えば「日本書紀」という書物の名にしても編纂された当時と、現代での「日本」の意味する概念との隔たりを確認しないと、とんでもない誤解が生ずる (これは後ほど詳述する)。また「国」という言葉はいろいろ複雑な要素を持っている。いわゆる「国」という集団は地域ごとに様々独自の政権を保持して、近代、江戸時代までは「藩」の名での「国」があり、これが解体され総合して近代における「国家」が生まれた。古代の七・八世紀頃には「国郡制度(古代日本において大宝律令により施行された地方行政・地方官制の方式である)」以前の国々があり、これが次第に統一されて、巨大勢力に成長した政治組織に統合される。そして中央集権化してゆくことによって近代のいう国家概念に近い「国」というものに成長していった。
纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。
こう述べると、三世紀には纏向(まきむく)地域にあった政権が、あたかも列島全体に及ぶ中央集権体制をすでに完成していたかのような「常識」がかなり強引な形で席巻していることへの疑問を禁じ得ない。この説、戦前の概念とは違うとして、「大和朝廷」という表現を避けながらも、その根底には払拭できない戦前の国史の影が生きており、このことを筆頭に同様な部分に影響しつつ現在の古代史に反映されているのである。それらのゆがみは「日本書記」を虚心になって読めば理解でき、あるいは「日本列島全体に分布する古墳」の実態を虚心になってありのままに見ればすぐわかることである。
それがどの部分に見られるかを語るのが本書の目的でもある。この真意は徐々に深まることになるが簡単に述べれば、『日本書紀』の完成よりわずか前の時代まで、いわば飛鳥の地にはまだ本格的な中央集権国家は完成していなかった。ちょうどそれは戦国時代の大名が割拠していた時代に似ていたと考えられる。
わが国の古代での、近代のイメージに近い「国家」の成立は飛鳥時代を経て、いわゆる奈良時代と呼ばれる平城京が造営された時代に「大宝律令」が完成し、国郡制も明確に整うことによって中央集権化もはっきり見えてきたと考えられる。日本書紀を読むと、そうした編纂時の状況が、ずっと古い時代をのべている中にも自ずから反映してしまっていることが多々ある。その代表的な言葉といえば「日本」 であり、「天皇」という言葉であると言えるだろう。
これは日本書紀」を読む場合の留意点」で詳述する。初歩的集団であった時代は伝承的な「歴史」で足りていたものだが、「国際的」な顔を持つ段階では、整った「歴史」が必要になる。歴史が整うということ、つまり「修史」が整うということは初歩的な集合体に過ぎなかった一勢力が「国際化」できることのシンボルであって、その完成が急がれたのであった。
そしてわが国の歴史の中では二度、大きなエポックがあった。第一が飛鳥から平城京に移る七世紀と八世紀の境目あたりであり、第二が十九世紀と二十世紀との移行期、いわゆる明治維新の前後である。ともに「律令」または「憲法」という制度の成文化と合わせて「修史」作業の推進、という共通点を持っていた。先に「双子の兄弟」と言ったのはその意味である。
古代に行われた「修史」活動について確認してみよう。
日本書紀」に書かれている「修史」に関わることは、中国では隋が滅び、唐が建国(618年)した頃、ということになる。この政争の余波は様々な形で極東の各地におよんだ。その当時、列島内にあった政権はどうだったろう。しばらく「日本書紀」の記事に従って、年を迫って確認すると以下のようになる。
推古八(600)年、朝鮮半島では任那(みまな)をねらう新羅と高句麗と百済が協力関係のもとで戦いをしていた。当時、畿内(後世の概念だが、便宜上使用する)にあった政権は万余の兵を任那に送り込んだりしていた。
推古十(602)年、百済は僧・観勒(かんろく)に暦本などを畿内政権にもたらしている。
推古十一(603)年、「冠位十二階」制定。
推古二十六(618)年、視野を中国にまで広げてみると、隋が滅亡し、時代はまさに唐に変わろうとする渾沌の中にあった。そうした中で女帝は隋に宛てて盛んに使者を送っている。(『日本書紀」ではこの部分、なぜか「隋」のはずの国名を「唐」と書いている。
推古二十八(620)年、「是の歳」の記事に、皇太子・嶋大臣は共に議して、天皇記及び国記、臣・連・伴造・国造、百八十部、并(ならば)せて公民等の本記を録した。
とある。
これからおよそ三十年近い暗が流れ、皇極四(こうぎょく・645)年六月十三日、大きな政変が起きて、この時に歴史書が焼かれそうになった。当時政治の中枢で活動していた大臣の蘇我蝦夷、その息子鞍作(くらづくり・入鹿・いるか)の親子は権力の転覆を謀議しているとの嫌疑のもとで、命をねらわれたのだった。身の危険が迫った二人は、天皇記・国記・珍宝をことごとく焼こうとしたが船史恵尺(ふねのふひとえさか)が、焼かれそうになった国記を拾い上げて中大兄(『日本書紀」こは一度も「皇子のついた「中大兄」は登場しない)に奉献した、と「日本書紀」は語る。いつこの政変を近代の歴史学は「大化改新」とか「乙巳の変(いつしのへん)」という名で呼んでいる。
「大化改新」という名のついた理由は、これまでの政治組織が「官僚制度の初期的な展開であったのに対して、この事件以降は一気に制度も整い、権力が磐石になっていった状況がうかがえるからである。ところでここにいう「官僚制度というのは「一定の合理的な方法で編成された行政組織が、そのことにより社会に対して統制力を発揮するに至ったとき、そのような作用、または作用の中核となる組織自体をさして同いられる言葉である」(平凡社・世界大百科事典)という意味であるが、この制度もまだ段階的な発展過程の中にあって、当時、こうした政治組織はまだ単独の覇者のものというものではなく、当時権力は並列して存在しているという状況であった。
大化三(六四七)年、「七色十三階」制定。 この日、外国からの賓客を迎えるという名目のもとに仕組まれた儀式の最中に蘇我臣蝦夷及び鞍作(入鹿)は中大兄と鎌子とによって殺されている。これを様に中大兄と鎌子は蘇我氏に代わって政治中枢の権力を担うきっかけを作ったのだった。
これが「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれる政権交代劇である。またこの騒動によって形成された新しい政権は、多くの制度や割拠していた勢力を糾合し、「国家」形成への基礎を作っていった。その一ステップであった政権交代劇を近代の歴史学は「大化改新」と名づけたのである。
この時点より後世に成立している「日本書紀」であるが、編者は完成に向けて編纂活動を進める際、おそらくここに述べられている難を逃れた「国記」なども重要な史料として、利用していたに違いない。
天智元年(668)年、「近江令(おうみりょう)」制定。天武十(681)年三月十七日の記事には、
天皇は大極殿に御して川嶋皇子(かわしまみこ)・忍壁皇子(おさかへみこ)・広瀬王(ひろせおおきみ)・武田王(たけだおおきみ)・桑田王(くわたおおきみ)野土・人錦下子首(こびと)は親しく筆を執って以て録(しる)した。
とある。なお、部分の「天皇・皇太子・大臣……」等の用字については「日本書紀」の記述のままとした。
ところで、ここに「蘇我」と書かれている勢力の方が、この出来事の展開した時点…では権力の中心にあった可能性も考えられる‥そのことを本論からははずれるが、ひとこと述べておきたい。それというのも、「日本書紀」の記述そのものから身分・官職名などをはずし、単なる人物名だけにして読んだとき、ここでは明らかに「蘇我」の権力に対し、正面から歯向かうには力の足りない勢力が、虚を突いて起こした訪として展開しているからである。
それでいながら人物に配された用語を見れば「越権した蘇我氏・横暴な蘇我氏」かのように思える内容として語る一面も持っている。これは編纂時の時代の用語を使っていることによる混乱であり、最終編纂者の意図もからみ、この出来事の勝者や現政権へのおもんばかりも働いて、登場人物に意図的に「現代用語」を冠して語っている可能性もあるのかもしれない。(持統女帝と神話 女帝と「天皇・神」の概念)の項を参照願いたい)もとの論をもう少し続けよう。
その後、天武十四(685年、「諸臣四十八階」制定。このように「律令制度」整備の進捗と「修史」の活動とが絡み合うように充実してきた時代性がわかる。
持統三(689)年、「飛鳥浄御原令」発令こそして、政治の舞台は飛鳥の地から平城京に移っていったこここ以降は奈良時代を語る「続日本紀」右記事によって確認していくことになる
大宝元(701〉年、「大宝律令」制定 「諸臣三十階」制定。
元明天皇和銅七(714)年二月十日の記事に、
従六位上の紀朝臣清人(きのあそみきよひと)と正八位下の三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)に国史撰修の詔(みことのり)出る。
元正天皇養老四(720)年五月二十一日、
一品舎人親王は勅を奉じて「日本紀」を修す。ここに至りて功成せり、奏上す。
ここに歴史書の完成したことが記されている‥推古天皇二十八(620)年に始まった修史活動はちょぅ百年目になる年に完成を見たのである。ただここには「日本紀を修す」とあって、「日本書紀」とは書かれていない。
このことについて万葉集などを見ると「日本紀」と「日本書記」は別の本かのように記されている部分もあり、かつ、「日本紀」表記の方がはるかに多いので、いささか気になるが、ただ現在の歴史学ではほとんど議論にはなっておらず、これを以て「日本書記」の完成とされている。
ここまでは「日本書紀」そして「続日本書紀」に書かれていることをもとにして述べたが、「古事記」「序文」にも「修史」のことが出てくる。そちらの方も確認しておきたい。その序文中「古事記」が編纂されることになつた状況を、
天皇は旧辞の誤りを恐れ、先紀の間違いを正べく、和銅5年正月二十八日、臣の安満侶(やすまろ)に詔し、稗田阿礼の暗唱していた勅語・旧辞を撰録して献上するようにと命じた。そこで謹んで詔(ショウ(セウ)・みことのり)に沿って子細を取りひろった。
と述べている。
ここに 「旧辞の誤り・先紀の間違い」をただすことが目的だとし、その発案者が「天皇」であると書かかれており、末尾に、「和銅五年正月二十八日」に書かれたものであることを記している。「和銅五年」を西暦になおすと712年であり、ここにいう「天皇」とは元明天皇のことになる。この記事に従えば 「日本書紀」の編纂終了より八年前に「古事記」の方は成立していたということになる。
■近代における修史活動
修史に関わる明治時代での動きを編年風にまとめると以下のようになる。
1869
このような文章で始まる「国体の本義』は、広く国民に国家の根本体制について語り、かつそこに生きる国民のあるべき姿について訴えている。全体に流れている主題は、「世界における日本の重大な役割の自覚」であり、「国のあり方が国の歴史のなかに表現されている姿を一般民衆に充分説き聞かせ」ることによって「国民としての自覚と努力とを促す」ことを目的に編集された、と述べられている。
明治時代には、その是非が議論されながら展開していた神話教育であるが、昭和に入るとそんな議論があったことなどはもはや夢のことになった。1940(昭和十五)年に発行された「国史と神話』という書物は、発行された年のこともあわせ考えると、当時の時代相がどういう状況にあったかをよく窺うことができる。著者の松村武雄は世界の神話と日本の神話との比較検討を加えるなど、当時の神話学の第一人者として知られた人だった。「国史と神話」の「序言」に、日本の神話が世界にあっても独特のものであることを次のように述べている。
神話を目して、たはいもない空想的な作り話と考へてゐた時代は、もう過ぎ去りました。神話とお伽噺とを混同するやうな者があつたら、その人は知見と情感とに於いて悲しむべき一種の不具者であるとしなくてはなリません。
神話は、われわれの遠い祖先たちの実生活上の経験と知識とを基盤とするところの自然解釈であり、またそれ以上に文化解釈であります。その意味に於いて神話は、古い昔の人々の物質的並びに精神的な生活をありのままに映し出してゐるところの曇りなき鏡であります。もしわれわれがまだ何等の文献も存しなかつた時代の遠い祖先の生活や理念を窺ひ知らうとするならば、どうしても神話によりかかるほかありません。考古学的な様々の発掘物も、かうしたことを知るに有力な資料ではありますが神話はそれ以上に多面的に古代を語つてくれるのであります。
殊にわが国に於いては、他のもろもろの国と違つて神話のうちに起伏開してゐる民族的精神なり理念なりが、今の世にもいきつづけてゐます。有史以前のわれわれの祖先の胸に燃えてゐたものが、今日のわれわれの血のなかに脈脈として活きて動いてゐます。神話を心読してわれわれ自身を再発見することになります。」
※漢字の旧字体を新字体に置き換えた以外、原書与のまま引甲した‥なお本文中の一間璽は一かいこう音読み、古:呈・とじ る言とで古来「出納・監査妄どの職名に使われた一一妄で、ここでの使鞘は「神話のうちに起伏開聞してゐる一両謡のなかに展開している)といった意味になる。
この「序言」引用部の後半にある「殊に我が国に於いては、今日のわれわれの血のなかに脈脈として活きて動いてゐます」の部分の具体的な意昧は、「日本書紀≡神代巻・下)にある「葦原の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国は、これわが子孫の王たるべき地なり。」の部分を指しており、筆者自身の論として、日本神話は「縦に、時間的につながり流れて」いることに特徴があって、それは「日本国家の成立の史的経過を究め知ることが本願」であり、そこに「国史」の「神話」との重要な関係があると述べている。同筆者は「第二篇 羅馬神話と日本神話」では世界の神話と日本神話を比較して、ローマ神話と日本神話の似ているところがあるとまず指摘する。二つの神話はインド神話・ギリシャ神話・北欧神話などと違って、ともに「国家意識が強い神話」である点は共通する。二つの神話の最も違うところはローマ神話では「治めるべき土地・治める者」とが「制服者:入植者の関係であるのに対し、日本神話では「生成した神」→「造られた大地」であり、これは「血を分け合った関係」になっている。かつ、治められる者(国民)はその「造られた大地」に「同じく血を分け合った王者」がきて「その土地を治めるのを待っている」関係であるという。また、ローマ神話は「民衆相互間の関係」であるのに対して、日本の神話は「神の血筋にある統治者及び統治者のものとしての国家」を主とした上に成り立つ。「皇室及び臣民の関係」なのだと述べている。
言い方を変えると、わが国民は独自に作られた列島に、皇室とともに独自に始まった同一血族による国民であることを神話が教えてくれている、というのである。
■教育と「神話」
国民の心を一つにまとめるその二との徹底を期すために、明治政府は歴史の問題とともに教育を重視した。以下教育行政における歴史問題について年表風にして追ってみよう。なおこの部分の構成には「歴史教科書は古代をどう描いてきたか」(勅使河坂彰著・新□本出版社)に負うところが多かった。
■明治期の教育と歴史
1869(明治二)「文部省と学制」歴史教科書新聞紙印行条例・出版条例、公布。
1871(明治四)文部省設置 学校制度の整備。
1872(明治五)学制の発布‥歴史教科書 六歳以上の男女を学校に通わせることを定める。まだ同定や検定にはなっていない
1880(明治十三)文部省は、各学校が教科書としている書物の内容を調査。
1881(明治十四)「小学校教則綱領」公布。尊皇愛国の志気を養成する内容を持たない本を教科書とすることを禁止し、学校での教科書採 択は届け出て認可を受けることになる。一方教科書内容の統制に危惧を抱く考えも出てきていた。三宅米吉の「小学歴史科に関する一考察」(『東京若渓会雑誌』一一〜一凹(一八八三年〜八凶年))の中の「神代ノ事」で干記紀』に善かれた内容をもとにした教科書の記述について「之ヲ通常歴史ヨリ逐ヒ出シテ別二諸学ノ理論ニヨリまた地質天文等ノ実物研究ニヨリテ穿聖スヘキノミ」と主張した三宅自身は、王政復古の天皇制を肯定する立場にあった人なのだが、それでも「神代」を歴史分野から切りはなすべきだと述べた「)それほどに当時の歴史に対する流れは急進していたのである。
1882(明治十五)年 漢文体編年修史。「大日本編年史」編纂事業開始。
1886(明治十九)年「帝国大学令」「小学校令」「中学校令」「師範学校令」を公布 小学校今では六歳から十四歳を学齢と定め、前半の四年間を義務教育の尋常小学校とし、後半の川年間を高等小学校とした。このときから教科書は文部省による検定制喪が取られ、志気を高めさせる内容のものになった。
1887(明治二十年)年 文部省より「小学校陳史編纂旨意書」公示。
1888(明治二十一年) 文部省より「小学日本史」刊行。三宅はその後も史学を「科学的研究法ニヨリ事蹟ヲ精確二シーとの主張をつづける=尊皇愛国同じ頃、・へ一っ三珂遁世は「日本上古年代孝一を出して=記紀」をもとにしている日本の紀年法について各国の歴史を比較して一人類ノ発達ヲ考究センニハ、信拠スベキ紀年ヲ得ル」べき、つまり世界に通用する紀元は〒記・紀」二卜依るべきではない、と批判した〈 この頃坪井正五郎は東京の芝公園にある古墳を発掘している。
1889(明治二十二)年 大日本帝国憲法発布
(第3章 ㈽ 明治が隠した古墳文化の項参叩ニ㈵■ノこ化己土帯 と  ̄日弓三、台預れ.つ葦′上」f∵八九(二明り竺↑三年 教育勅語発布二「第二次小学校令−公布=一一一高等小学校歴史=刊行=
1892(明治二十五)年
久米邦武はこの年商道ハ祭典ノ古俗一という論蒼轟表二 久米は那珂通世の現行紀年法への危倶という考えに賛同しており、神話は歴史ではないとする 論を展開。それがもとで東京大学の職を追われることになり、歴史の実証主義を唱える重野安繹 〒大日本編年塁編纂委員長罷免、帝大教授を辞職
1903 (明治三十六)年 「小学校令」の改正
小学校を尋常小学校と高等小学校に分けたこ尋常小学校を川年間の義務教育とし、高等小学校 は二年間の修学、そしてさらに二年間の延長が認められたこ教科書固定制度確定。「小学校令」の改訂にともなつて小学校の教聖臼は「文部省二於テ著作権ヲ有スルモノクルヘシ」とされた。
1907(明治四十)年 「小学校令」改訂
尋常小学校の修学期間が六年に延長され、高等小学校は二年、ただし三年まで延長できる、とされた。そして、これまで高等小学校の丁二年で敢えていた初級の日本歴史を尋常小学校の五・ 六年で教えることになり、教科書も新たに毒常小学日本歴史』(一九〇九年)、巻二(完10年)として刊行された
1911(明治四十四)年 「南北朝正閏論」
喜田貞吉は「南北朝正閏論」で吉野朝(南朝のこと)という言葉を使わず一南北朝一と表現した。このことによって文部省の休職を命じられた。当時、南軌を正続とするとの見解があったためでのる。このような経過をたどりながら、学問的な「歴史の真実一とは無関係に、教育上の歴史が強調される一小学日本雁史一が強力に推進されていったのであった〔 森鴎外の作品「かのやうに」 陸軍市医でもあり、作家としても後世に名を残している森鴎外が当時急進的に進んでいった「歴史と神話」つまり「国史」に対して危倶を感じ、自己そのものの思考、そして存存の意味との葛藤を語った「かのように」という作Umがある。この作品の意味を考えてみたい。
1862(文久二)年、石見国(現島根県)津和野に生まれた森林太郎(鴎外)は代々藩主亀井家の御典医という家柄の長男であり、幼少時から漢籍に親しみ、十一歳で父に連れられ上京してドイツ語を学んだこ十一一森の析は東京年子校の予科に、年齢が足りないため万延元(一人六三年の牛まれとして応募して合格したと言われる。十人歳で鞍字校が東京開成校と合併して東京大学医学部となったとき、その本科生となった。
二十歳で学校を卒業し第一管区徴兵副医官となった。そして、すぐに陸軍衛生制度の調査官となり、二二ご紺」と「口約堪れジ〕射」「二歳で国費の掌生としてドイツ警重りれ、人月に琴二↑七歳の七月に喘回したこまる四年間のドイツ生活だったここの間医学の研錯はもとよ墓石絵画などへの造詣も深めて帰国し、その後すぐ童活動も始めている「)そして日清警があり、口蓋争も警つたニ日露琴柱第二軍の軍医部長とLて掌にも加わつていた‥幸い掌には勝利したものの、この間、鴎外は回の歴史を「塁というものでデフォルメし、それを背景に置いて戦争に傾いてゆく時代状況についてひどく疑問を抱いたのだったこしかし妻自分は軍荒長として戦争にも加わる国家公賓である二この蓋に日々苦しんでいたのであつた一明治十葺「中央公論」にその蓋を「かのやうに」という、這奇妙な題の作品にして発表したのである〉登場人物は秀麿・その友人の二人であるこ作品はこの二人の夢−いう形をとるが、二人は鵬外自身の分身であって、鴎外の蓋を立場の違う芸人物に託して述べているのである、−西洋の先進知識に触れてきた、貢公は「神話と歴軍つにして考えることはできない」と旧心っているこしかし、子雫ある父親の手前、そんな意見を語り望ない自分が蘇芳く、神経衰弱に育そうなのである。友人との会話の中で、かつて読んだファイヒンゲルの「かのやうにの哲学」を思い葺これによれば、全ての価値は「蓋した嘘」の上に成苦ている‥)どん嘉理も、例えば数学でも曹操があるかのやぅ妄妄くては、語学は成り若ない」と。この「かのように」という仮案大切である、というこ二三萎卓っことによって白岩部の悩みを解消する方向にもつていくのである
この作品について講談社刊「日本現代文学全集7「「森鴎外≡巻末の作品解説で伊藤整は次のように語っている。作品中の思想問題そのものが、幸徳秋水の大逆事件(明治四十三年)のあとの日本社会では、あからさまに扱ふことの困難なものであったこその実質は、上層官吏である著者自身が、人間社会を批判せ ずにゐられない文芸著作に携ることの矛盾に面して、その苦慮を述べたものとみていいであらう。日 本に神道中心の同体といふものと、科学的真理といふものとの対立として、これはここで描かれている。社会思想の新しい展開は、現実にある国家観を抜け殻のやうなものに見えさせる。しかし秩序を 保持する立場にある貴族は、そのうつろなものを、中身のあるもののやうに扱ふことで民衆の心を安 定させなければならないこその古川で鴎外はこの時代の新思潮にこの時直面してゐたわけである。(「日本現代文学全集7声森鴎外≡巻末・作品解説より。伊藤整)
「かのやうに」を書いたときの鴎外は、このほぼ三十年後に、日本が第二次世界大戦に突入し、戦局が末期的になっても「一億総玉砕を」というスローガンのもとで国民になお戦争を強いた事実を知らない。日本は列島のほとんどの大都市を焦土とし、それだけでなく、広島・長崎に撃丁爆弾を投下され、敏美件降伏をすることになる。 妄、この引用文の筆草伊藤整は一九〇五萌治一手八)年の生まれで、無条件降伏の年は四十歳だったこそして一九六九(昭和四十四)年(六十慧)の逝去であり、いわば第二次世界大戟に日本がどのようにかかわり、この戦争がどのように泥棒化し、どのように敗戦したのかを最もくわしく見聞した世代だ
「人化改新」と【明治維新の類似土た。そしてさらに「戦後」がどのように展開しはじめたのかもはつきり確認していた世代であるともいえる。ただその「戦後」は今日「七十年」という時を重ね、彼の体験した「戦後」はその内の半分程度の年月だった。つまり「戦後の民主主義」を体験しっつ、そこにある種の疑念を抱きながらも、その後の「戟後の後半」を知らずに亡くなつている。この文は一九六四 (昭和三十九)年頃善かれたものである。「戦前」 の鴎外が感じていた危惧について、「戦後」はガラリと世相が変わったように見えたが、果たして一新されたのだろうか。これについてほ、「Ⅲ 現行古代史の実相 戦後と古代史」 のテーマとして後に述べたい。
■「国史」に消されたもの
二〇〇〇年十一月に「旧石器時代の遺跡発掘」の結果の捏造が発覚した事件があった。考古学会もあわてたという出来事である。どうしてこんなことが起こつたのか。この問題を考えてみると、日本の歴史学界がわが国の古代の扱いをおろそかにして来たことに起因しているのではないかと思われる。
明治維新以来、日本は様々な分野で西洋の先進文化を取り入れた。そうした中で「モースの大森貝塚の発見」などに見られるように歴史学も近代の科学となり、それに付随して考古学の分野も新たに近代的な学問の仲間に入るという状況が始まったと言える。
ところが古代での「考古学」に関して、国の方針はその学問を推奨するという方向には進まなかった。文献に記載された資料の方を重んじるという言い方のもとに、考古学の分野の成果を意図的に疎んじたのである。その前駆となった出来事に、口本の古墳に関心を持ったイギリス人のガウランドの例がある。
これについてはこの後に詳細を検討するので、ここでは省略するが、考古学の分野の成果を意岡的に疎二二二の例をここに挙げれば、まず青森県の是川遺跡のことが思い山される。力ご」て、是川遺跡・風張遺跡の総称である〇この遺跡が発掘されたのは一九二〇(大正九)年のことだった。当時は古代に関わる史跡は学者からもほとんど関心を持たれていなかった。しかし自分の住む身近から様々なものが発見され、これに関心を持った土地所有者の兄弟によってこの遺跡の実質的な調杏が行われたのだった。
中居地区の特殊泥炭層からクルミ・トチ・ナラなどの種、木製の腕輪・耳飾り・十器・石器・土偶・骨 角器などが豊富に出土した=なかでも藍胎漆器や赤漆塗りの木製品類など漆に関わるH吉サなどは珍しいものであったため、さすがにこれについては何人かの学者からも関心を持たれることになった‥土器の編年史を下がけていた山内満男、陸軍にありながら八代史に関心を持っていた大山柏などがその主な人たちで、とりわけ山内は当時「先史時代」などとも呼ばれていた縄文時代・弥生時代などに多くの関心を向け、大正時代末には一石器時代にも稲あり」の論文を出すなどの活動もあった人物だった
ただ、多くの議論を呼びながらも、やはり時代の流れのなかで関心は一部の学者のみが承知するだけで、公の組織は動くこともなく、当然、一般国民の知るところとはならなかった。出上した遺物は遺跡の土地所有者が私的に大切に保管し、それら総数六千点あまりの遺物は、戦後になつて八戸市に寄贈され、八戸市立歴史民俗資料館の収蔵品となって今日に伝えられている‥その後、遺跡の重要さの認識が変わって、戦後も十年以上経った1957(昭和32)年七月一口に凶の史跡指定を受け、さらに、それから五年後にI「ノく化改札 と「∥耶台程前」の類仏、土出土品の六百三十三点が何の重安文化財に指定されたのだ。
同じく縄文時代について言えば、焼き物のなかに七偶が多いのもこの時代の特徴であるr)なかでもちょうど雪原などでサングラスをかけているかのように見えるため、「遮光器土器」(光を遮る)という名称の土偶のことはよく知られている。この形のものは、青森県つがる市木造の亀ケ同遺跡で最初に発掘されたもので、その後も主に東北の縄文時代遺跡から発掘されている。これらはすでに江戸時代末期から好事家の注目する物件だつたが、明治になって以降、学問の世界では軽視される方向にあったため、一般の人が一縄文文化」「縄文土偶」に関心を示すのは戦後になってからだった‥
こうした事実に見るように、考古学の成果に関して歴史学会は冷たい扱いだった。どうして明治時代、これらを疎んじたのだろうか。
明治新政府は国の成り立ちについて、「神話」の形で語られる古代史として 『古事記」一〒口本書紀ニの一部をとりわけ強調しっつ、これを「文献」の名のもとに最大の史料とした。このことによってある時代より占い時代に関しては、考古学の分野で確認されるような「物的に証明される」ことなどはむしろ邪魔なものであった。神話で語られる古代のイメージが…朋れてしまうからである‥
この分野に関心を持つ者は「異端者」であり「変人」または「国賊」扱いだった。いきおい「古い時代」の解明は、ほとんどが素人の手探り状態の活動に支えられていたのである‥こうした「伝統」は戦後になっても払拭できずに、今Rに至ってなお生きていると言える。先の「旧石器時代の遺跡発掘」の捏造事件も民間研究同体に属し、かつその活動がある程度認められていた人物が関わっていた事件だった。
次の文はある考古学者の慨嘆である。
個別的な現象の形態論的研究にとどまって記紀の亡目信に根ざした古代史体系に踏み込まないかぎり、考古学は「研究の自由」を、ちょうど日陰の雑草のように、保証された(「戦後日本の考古学の反 省と課題」近藤義郎 −=■日本考古学の諸問題」一考古学研究会十周年論文集 − 所収・一九六四年)
心ある学者も「個別的な現象の形態論的研究にとどまって」いるかぎり安心して、それなりの活動が許され、専門家は古代史を語るとき虹州難な「形態論」の中にしがみついていたのだった。
この傾向は多分に現在の「考古学」の中にも伝統のように残っていると言えるだろう。鏡にも、古墳にも、あるいは焼き物にも、つきものは「型式」の論理である。それなりに意味のある場合もあるが、焼き物の「型式」などはあまりにもマニアックに細かくなり、その専門家以外ほ入り込む余地もない状況になつていると私は感じている。たとえば「庄内式」「布留式」という分け方がある。
この型の違い、それが編年されるとどうなるかなど、多少説明を聞いてもなかなか理解できない。しかし、近頃「纏向遺跡」が古い遺跡であることを語るために、この二つの型式をさらに細分して「纏向1類〜5類」と分け、この中をさらに「前・中・後」と分ける。これは「糎向式」と呼ばれ西暦一〇〇年の途中噴から三〇〇年頃まで約三百年足らずの間を少なくとも六分割している。これなどは「考古学」イコール 「型式学」であるように思えてしまう代表的な例である。
かつて古代史に関わる画期的な発見の多くが素人の手によるものだった。そうした状況の中で、「旧石器時代の捏造」問題は起こつた‥そして考古学は歴史学の中ではいまだに蒋流なのである‥ これらの問題とも大いに関わる例として「古墳」を挙げることができる。目の前にあっても「ない」に等しい形で扱われて来た。とりわけ「東国」の古墳は戦後になってもそうだった‥実は、古墳に関するこI「人化改新」と「明治碓新」の類仁J、.亡ぅしたあり方は単に「東国」だけではなく、硯行の日本古代史を語る際、喧伝される古墳は関西であっても飛鳥や河内地区にある、それも一部の古墳だけなのであるこそこにある真意は、「国史」の語る歴史の流れでは説明しづらいような地域の古代についてはなるべく問題にしない、これはたとえ畿内にあるものであっても同様であるr)まして、東国の古墳などはなおさらということになる。
戦前の「国史」では「縄文時代」も「弥生時代一も必要のない時代だったこせっかく近代化して、歴史の学問も新しい段階に入り、エドワード・S・モースが一人七七(明治十)年に大森貝塚から土器を発見したのをきっかけとして、始動し始めた「古代史分野」だったが、撃別、そして戦後にかけても「先史時代」という奇妙な言い方で括られるあり方が主流でさえあった=ちなみに「先史時代」とは、
考古学における時代区分の一つ。文献記録という意味での歴史が出現する前の時代ここれに対して 文献記録の不十分な時代を原史時代、豊富な時代を歴史時代と呼ぶ‥日本では、弥生時代までを先史 時代、古墳時代を原史時代として扱う。しかし《魂士心倭人伝》の存在を重視して、弥生時代を原史時 代に含める人もある。また歴史は人類出現以来存在するという」り瘍の人は、先史、原史、歴史の区分 自体を認めていない〔、(平凡社・『世界大百科事典』より)
「文献学」という言葉があり、実証資料を「文献にたどれるか」ということを第一と考える見方であるここぅした中で「古墳時代」という時代区分名は微妙である「)というのも近代の歴史学(「文献学」)が最も重要な書物、とする『日本書紀」では天皇陵の記事、及び古墳のことかと思われる「古代の墓」に関しての話題もほんのわずかながら、出てくる。ただここにある記事は古墳の実態とは全く異なつている。おそらく、日本書紀」の編纂者は「古墳一の実態など知っていなかったはずである。
本書の大きなテーマは干日本書紀」という書物のありのままの姿を確認することであり、かつ「古墳」という占代の遺構について、近代史の中での扱われ方の実際を確認することでもある〈 そのため改めて 〒口本吉紀」一を確認する章、また一古墳一を確認する章を設定している。