平頂山事件

■平頂山事件について

講師 坂本博之(弁護士)

▶︎平頂山事件とは 

平頂山事件とは、1932年(昭和7年)9月16日、現在の中国遼寧省撫順市近郊において、撫順炭鉱を警備する日本軍(関東軍独立守備隊)が行った住民虐殺事件

この事件は、その前日(9月15日)夜、「大刀会」という抗日義勇軍が撫順炭坑を襲撃し、日本人数名が殺害されたことに対する報復として行ったものである。

 

■録音-1(26分)

■録音-2(22分)

■録音-3(19分)

▶︎平頂山事件の背景

① 1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)日露戦争

② 1905年(明治38年)9月4日 ポーツマス条約

○日本は、ロシアから、旅順一長春間の鉄道路線と、付属地の炭鉱の租借権について、譲渡を受ける。一この鉄道及び付属地の経営のために設立された半官半民の会社が南満州鉄道株式会社(満鉄)。またこの時、日本は、才無順炭坑の租借権を得る。○日本は、ロシアから、は関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権の譲渡を受ける。

③1911年(明治44年、宣統3年)辛亥革命 清朝滅亡、中華民国成立。蓑世凱が権力を 握るが、その死後、中国は群雄割拠状態となる。張作霧が満州の実力者となる。

④1928年(昭和3年)6月4日 関東軍の謀略による張作需爆殺事件

⑤1931年(昭和6年)9月18日 柳条湖事件(満州事変)関東軍が、張学良(張作霧の長男) が鉄道を爆破したという口実を設けて、奉天で軍事行動を起こし、満州全土を制圧する。

⑥1932年(昭和7年)3月1日 満州国建国 元首は愛新覚羅薄儀

⑦同年9月15日 目満議定書締結

○日本による満洲国の承認

○満洲での日本の既得権益の維持(関東州は租借地として継続して日本の直接支配下)

○共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承

▶︎平頂山事件の概要

(1)大刀会による撫順炭坑襲撃・1932年(昭和7年)9月15日夜抗日義勇軍(大刀会)が才無順炭坑を襲撃し、日本人(満鉄社員)5名が死亡、6名が負傷した。この襲撃の際、大刀会は、平頂山地区を通って撫順の市内に来た

(2)独立守備隊、憲兵隊による報復の謀議・翌9月16日早朝、独立守備隊第2大隊第2中隊(隊長・川上精一大尉)、憲兵隊などが 会議を開き、「大刀会が寸無順に入ることを知りながら通報しなかった」として、大刀会が通った平頂山地区の住民の皆殺しを決定。

・この謀議の時川上大尉は撫順におらず、部下の井上清一中尉が首謀者であるという説も ある。なお、井上中尉は、当時、出征にあたり、妻が「後顧の憂いを断つ」ために自決をした、という「軍国美談」のために有名であった。

(3)平頂山事件

・9月15日の夜は、中秋節であり、住民たちは家族団欒の一夜を過ごした。

・謀議後、独立守備隊、憲兵隊は、平頂山地区を包囲し、「写真を撮ってやる」などと騙し、あるいは、動こうとしない者に対しては暴力を用い、住民らを追い立て、地区の西側にあった崖の下に集めた。この時に抵抗して射殺された者もいる。

・集められた住民らの周囲には、黒い布を被せられた機関銃が並べられていた。しかし、それを本当にカメラだと思って、喜んだ子供もいた。日本軍は、住民たちの中から朝鮮  人を外に出した上、機関銃を覆っていた布を取り除け、一斉掃射を行った。死にきれない者、死体の下に隠れて生きている者も多かったので、日本軍は、息のある者を一人一人、銃剣で刺して歩いた。母親を求めて這い出した幼い弟が銃剣で刺し貫かれ、放り投げられたところを目撃した生存者もいる。

・日本軍は、証拠を隠滅するため、住民らの家に火を放った。

・また、日本軍は、虐殺の証拠を隠すため、死体の山に重油を撒いて放ち、崖にダイナマ  イトを仕掛けて爆破し、土砂で埋めた。

・犠牲者は全て非戦闘員であり、3000名に上ると言われている。

・いわゆる15年戦争における、最初期の虐殺事件であった。

・戦後、虐殺現場が発掘された。すべてが発掘されたわけではなく、焼毀の程度が激しく、灰のようになっていた遺骨もたくさんあった。現在、虐殺現場の上に平頂山殉難同胞遺 骨館が建設されており、参観できる。

4 事件後の日本政府の対応・国際連盟の理事会で、中国代表団から日本代表団は、平頂山の虐殺事件について抗議を 受けた。

・これに対して、日本代表団は、「皇軍の名誉を棄損する」などと抗議をした。

・アメリカ人のジャーナリスト、エドワード・ハンターがアメリカの新聞に平頂山の虐殺 事件を報ずる記事を書いた。

・一方、関東軍と外務省との問で、平頂山事件に対してどのように対処すべきか(上手に 隠ぺいするにはどうしたらよいか)、協議をする極秘の電報が交わされた。

・1932年(昭和7年)12月2日、内田外務大臣名で、国際連盟に対して、「日本兵の一個 中隊が、千金墜村に彼ら(被正規軍や共産党員らのこと)の捜索のために派遣されたが、同 村に入るや否や襲撃され、30分間の戦闘を生じた。奇襲着たちは村から追い払われたが、戦闘中その場所の大半が焼失した。日本軍司令部は、奉天省政府の協力を得たうえで、罹災者の救済と村の再建に必要なことを検討している。以上の事実が意図的に中国政府によって誇張され、無事の人々の虐殺事件として発表された」と表明した。これが、日本政 府の、現在に至るまでの公式見解となっている。

5 戦後裁かれた平頂山事件(戦犯裁判)

・戦後、国民党政府によって、藩陽裁判というBC級戦犯裁判が行われた。

・元才無順炭坑長の久保字ほか、合計11名が被告となり、久保ら7名.が死刑判決を受ける。

・公正な裁判ではなかったという意見も多い。

・川上精一大尉、井上清一中尉ら首謀者たちは、逮捕されなかったということもあり、被  告として裁くことはできなかった。判決文中に「被告川上、井上、小川、柿元、児玉、佐藤は行方不明であるため、逮捕の後に改めて判決を下すこととする」という一文があ  る。

・川上大尉は、戦後疎開先にアメリカ兵が逮捕しに来たが、昭和21年6月、自殺した。井上中尉は、戦犯として問われることなく、昭和40年ころに死去した。6 戦後補償裁判の経緯(1)訴訟提起

・1996年(平成8年)8月14日、生存者のうち、美徳勝(男性、事件当時7歳)、楊宝山(男 性、事件当時9歳)、方素栄(女性、事件当時4歳)の3名が日本国を被告として、一人当 たり金2000万円を請求する訴訟を、東京地裁に提訴した。

・根拠は、㈰中華民国民法184条「故意又は過失により他人の権利を侵害したる者は損害 賠償の責任を負う」、㈪陸戦の放棄慣例に関する条約(1907年のハーグ条約)3条「前記規 則(陸戦規則のこと)の条項に違反したる交戦当事者は、損害あるときは、之が賠償の責を 負うべき者とす。交戦当事者は、之の軍隊を組成する人員の一切の行為につき責を負う」の2点に求めた。

(2)争点

ア ハーグ条約に基づく損害賠償請求権は国家だけではなく、個人にも認められるか。原則として、条約は、国家間の合意であり、権利義務関係が生ずるのは、国家(及び国際機関)だけである、と言われている。

イ 本件に適用される民法は、中華民国民法か、日本国民法か。通常、不法行為に関しては、不法行為地の法律が適用される、とされている。「法の適用に関する通則法」第17条「不法行為によって生ずる債権の成立及び効力は、加害行為の結果が発生した地の法による。ただし、その地における結果の発生が通常予見することのできないものであったときは、加害行為が行われた地の法による。」り時効が成立しているか。日本民法724条「不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った暗から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の暗から二十年を経過したときも、同様とする。」

一3年の時効期間は、通常の時効であるが、20年の期間は、講学上、「除斥期間」と言  われている。通常の時効であれば、時効の起算点について、権利行使をすることが可能  であったかどうか等を具体的に問題にすることができるが、除斥期間では、このような  ことは問題にならない、とされてきた。なお、中華民国民法の時効期間も日本民法の規  定と似ているが、こちらは除斥期間という概念はない。

エ「国家無答責の法理」の適用があるか。明治憲法時代、公務員が、国家の権力的作用に基づいて、第三者に損害を与えた場合、国家は責任を負わない、という「法理」が確立されていた、と言われていた(国の主張)。

オ サンフランシスコ講和条約によって請求権が放棄されているか。サ条約15条の中に「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた連合 国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」という規定がある。

中華民国はサ条約の当事国ではないが、日華平和条約に同様の規定がある。

(3)裁判の経過・弁護団は何度も現地に足を運び、原告本人、その家族、平頂山紀年館、撫順市社会科学院などと信頼関係を結んでいった。

・訴訟提起当時は分からなった生存者とも会い、親交を深めた。

・国内でも支援団体が作られ、原告が来日するたび、証言集会を各地で開いた。

・原告3名とも、東京地裁又は東京高裁で証言をした。初めて来日する原告の中には、「日本に行ったら殺されるかもしれない。帰れないかもしれない」と考え、覚悟を決め て来日した人もいた。しかし、日本に来て、多くの日本人たちの前で証言をするなどして、自分たちの話に耳を傾け、理解をしてくれる日本人もいることを知り、日本人観が変わって行ったという。

・歴史学者、行政法学者、民法学者、憲法学者等の支援もあった。

・中国でも、この訴訟を支援する「声援団」が作られた。

(4)判決

・平成16年6月28日 東京地裁判決・平成17年5月17日東京高裁判決

・平成18年5月16日 最高裁判決・いずれも原告らの請求棄却。

・地裁判決、高裁判決は、正しい事実認定を行った。

・ハーグ条約に基づく請求については、同条約3条の損害賠償請求権は国家だけが有す  る、という判断。個人の請求権を認めた実例は非常に少ない、などという理由。

※ハーグ条約に基づいて個人の請求権を認めた実例は非常に少ない?

一①後に述べるイタリアやギリシャの判決

②2005年12月16日、国連総会決議(全会一致) 「国際人権法及び国際人道法に関する重大な違反の被害者が救済及び賠償を受ける権利に関する基本原則とガイドライン」(BasicPrinciplesandGuidelinesontheRighttoaRemedyandReparationfbrⅥctims of Gross Violations ofInternationalHuman Rigbts Law and Serious  ViolationsofInternationalHumanitarianLaw)を採択し、被害者の個人請求権が明  確にされた。戦勝国国民・戦敗回国民を問わず、被害者個人の権利。

 なお、これに先立つ2005年4月19日、国連人権委員会(2006年6月に国連人権理  事会に昇格)が同様の内容の決議を採択している(同人権委員会全体投票では、賛成40:反対0:危険13)。日本、中国、韓国は賛成。米国・ドイツは棄権。ドイツの意見「国家責任の原則、重大な人権侵害についても法的権利を個人に与えていない。」

 上記「基本原則及びガイドライン」は、重大な国際人権法違反と深刻な国際人道法違反における国際法上の国家の義務について、は以下のとおり述べている。「各法において規定される国際人権法及び国際人道法を尊重し、尊重することを確保し、実施する義務には、特に、以下を含む。

(a)以下のとおり、最終的に違反の責任を負う者が誰かに拘わらず、人権侵害や人道法違反の被害者であると申し立てる者が、平等かつ効果的に司法にアクセスできるようにしなければならない。

(b)以下のとおり、被害者に対し、補償措置を含む効果的な救済を与えなくてはならない。」この効果的な救済への権利に関して、「基本原則及びガイドライン」は、新たにこれを規定するものではなく、すでにこれが存在していることを前提としている。効果的救済への権利も、国際的に認められた権利のひとつとされている。

・民法に基づく請求については、本件のような軍隊の行為は国家の権力的作用であり、こ  のような行為に基づく損害に関しては、「国家無答責の法理」が確立されていた、という  理由。・多くの戦後補償裁判で、請求棄却をした判決では、殆どが請求権放棄を理由としている。

7 裁判終了後の原告たちの願い

(1)原告の人たちの願い

①日本がきちんと事実を認めて謝罪すること。

②日本政府の費用で謝罪の碑を建てること。

③平頂山事件の現場を陵苑として整備し、二度とこのようなことを起こさない場として残してもらうこと。

(2)弁護団の活動の継続

・弁護団を解散せずに、政治的な解決を目指して活動を続ける。

・2005年(平成17年)から、毎年9月16日ころ、国際学術シンポジウムを日中共同で開催している。平頂山事件やその背景についての事実の解明、運動論などについて意見を交わしている。東京でも2回行った。

8 同じ枢軸国だったドイツを巡るいくつかの事例

(1)ギリシャ・ディストモ村事件

・1944年6月10日、ギリシャ、ポイオティア80ど0て 亡α県ディストモ△Lけて0  〃0村で、ドイツ武装SSによって、住民214名が殺害された事件。共産党系パルチザ  ンからの襲撃で、ドイツ軍の責任者がこの村で死亡したが、その時、「この村を全部焼き払え」と遺言した。

・被害者がドイツを被告として、ギリシャ国内の裁判所に提訴。

・1997年10月30日リグァディアA∈ 亡βα∂亡α地裁で原告がドイツに勝訴。

・2000年5月4日ギリシャ最高裁でもドイツに勝訴。

・主権免除(国際法上の基本原則で、「国家主権・主権平等の原則の下、主権国家が他の国家の裁判権に属することはない、という原則)が最大の争点となった。しかし、裁判所は、重大な人権侵害を行った国家は、主権免除を主張することは許されない、という判断をした。

・その後、ドイツが次のチヴィテッラ事件の件でイタリアを被告として、国際司法際場所  に提訴。ギリシャは、イタリアに補助参加した。

(2)イタリア・チヴィテッラ村事件

・1944年6月29日、イタリア、トスカーナ州CiviteuainValdiCbiana村で、ドイツのヘルマン・ゲーリング師団(空軍第一降下装甲師団)の一部隊によって、住民115名が虐殺された事件。同じ目、付近の別の3つの村でも虐殺があり、その合計は244名に上る。

・事件の行為者の一人が逮捕され、イタリアのLaSpezia軍事裁判所に刑事訴追された。イタリアの法律では、刑事事件の被害者が、犯人に対して民事訴訟を起こし、双方を併  合審理することができる。この刑事事件でも、被害者や遺族らが、ドイツを被告とする民事訴訟を提起した。

・2006年10月10日LaSpezia軍事裁判所で原告がドイツに勝訴。

・2007年12月18日軍事裁判所の控訴審でもドイツに勝訴。

・2008年10月21日イタリア破毀院でもドイツに勝訴。

・2008年12月23日ドイツがイタリアを被告として国際司法裁判所に提訴。

・2009年6月28日ドイツ大使がイベントに参加して謝罪をする。

・2012年2月6日 国際司法裁判所(裁判長は小和田恒)でドイツ勝訴の判決。理由は、国際法上の基本原則である主権免除を侵している、というもの。

・イタリアでは、国際司法裁判所の判決を受けて、破毀院の判決を無効にする内容の法律を作る。被害者らは、憲法裁判所に対して、この法律が違憲であるという訴えを起こした。

・2015年イタリア憲法裁判所が、上記の法律が違憲であるという判決。

・Civitella村の市長は、個人的な損害賠償は求めず、第二次大戦中、ドイツ軍が潜んでいたために連合軍の爆撃により破壊された中世の城壁の修復、及び資料収集を、ドイツに求めたい、と言っている。

(3)フランス・オラドゥール村事件・1944年6月10日、Nouvelle・Aquitaine地域圏Oradour−Sur−Glane村で、ドイツのSSによって行われた、住民約600名の虐殺事件。

・戦後、ド・ゴール大統領が、ナチスの残忍さを後世に残すため、破壊されたままの状態で残すことを決めた。

・訴訟は行われていない。

・2013年9月4日 ドイツのガウク大統領、フランスのオランド大統領とともにオラドゥール村を訪問。・遺族会の人たちの話「やったのはナチスであり、今のドイツ人は平和的である。今のドイツ人が謝罪をしてもしょうがない」「私たちはヨーロッパ人だ」「私たちは謝罪を求めない。何故なら、謝罪をさせるということは、相手に恥を与えることになるからだ」

9 東アジアの平和と日本国憲法・相互理解、相互の交流が何よりも大切なこと。

・アジアでも、ヨーロッパにおいてなし得たような、共通の歴史認識を育むことが大切である。

・一人一人の市民が、自立した市民としての自覚を持つこと。

・人権が最大の価値であることをしっかりと認識した公務員を育てること。

・国を信用しないこと=自分たちの手で、自分たちが信用できる政府を作ること。

・日本国憲法の価値体系の中で、個人の尊厳が最大の価値であり、基本的人権の尊重が重 要なことである。裁判官は、憲法の番人であるならば、人権を最大限に尊重する判決を書くように努力すべきである。

・戦争は最大の人権侵害であり、その反省の上に日本国憲法が制定されたものである。このことを、国民は深く理解すべきである。