1830年7月革命と音楽
■1830年7月革命と音楽
中央ヨーロッパがヴィーン(ウイーン)会議の時期に続いて体験した大きな社会変化は、1830年の一連の革命である。
1830年という年は、音楽史においてはそれほど大きくとりあげられることはないが、当時の社会の変動を考えればまさに社会と人びとの思考にとって節目の時期であった。ベルリオーズが《幻想交響曲》を作曲し、シューマンが《アべッグ変奏曲>によって作曲家としてデビューし、ショパンが二曲のピアノ協奏曲を発表したことも、この社会変動と無関係ではない。新ロマン主義と称されたこれらの作曲家の登場は、やはり新しい時代の幕開けであった。
この時代が社会の変動期であったことは、1830年七月にパリで起こったいわゆる七月革命、そしてそれに連動したポーランドの二月蜂起、そしてそのポーランド革命の挫折後に起こったポーランド反乱軍や共鳴者のドイツヘの大量逃避と流入、さらにイタリア統一国家の樹立をめざしたマッツイーニによる「青年イタリア」の結成などによく示されている。これらの事件は、音楽家を含めて人びとの意識にも変化をうながすものであった。伝統の枠にしばられない極端な革新性をもとめるベルリオーズやシューマンのこころみは、同時に「伝統」という価値観が強く社会を支配しはじめたことの反証でもあった。シューマンは、その音楽批評において、作曲家がソナタを作曲するばあいは、こぞって1790年代の様式を模倣することを嘆いているが、独創性よりも過去の様式規範を尊重する傾向はまさにこのころの社会の価値観を象徴している。ウイーン体制が確立して安定したかに見える社会であるが、その安定は規範と伝統、そして過去の様式の尊重と絶対化という新しい価値観を生みだしていくのである。それは革新性を極端にきらい、それに代わって安定した古典的価値観を尊重し、伝統的な音楽を愛好する社会を産みだしていく。
1829年、バッハの《マタイ受難曲》をメンデルスゾーンが再演したことに示されるように、古様式の音楽が愛好されるようになったことも同じ精神風土に由来している。歴史主義ともいわれるこの過去意識は、音楽や建築だけではなく、この時代の精神と密接に関連している。
ドイツにおいては、それは国家意識と密接に結びついていた。フランスやイギリスとくらべると後進国であったプロイセンやバイエルンなどのドイツ諸国では、19世紀前期になると積極的に過去の伝統意識するようになる。そしてシンケルという建築家に設計をゆだねて、古代様式の建物を建設してベルリンとミュンヒェンは都市の再構築をおこなうのである。このときに建設された建物は、古代ギリシアの様式を意識的に模倣している。バイエルンではミュンヒェンを第二のアテネに改造しよぅとしたが、これは歴史と過去の再形成を意図していた。
こうした古代様式によってベルリンでは「ノノイエ・バッヒェ」や「シャウシュピールハウス」などが、ミュンヒェンでは「アルテ・ピナコテーク」などの建造物が建てられたが、これらの建物の様式の登場と「博物館」の建設は関連している。「美的な教会堂」とも「大いなる墳墓礼賛」とも形容された、聖遺物と自国の歴史の記録保管所という機能を課せられた博物館は、近代の国家意識のもうひとつのあらわれであった。
ドイツがこのように、古代ギリシア様式を模倣した建造物によって自国の歴史の正統性を強調し、国家意識を高めていったこの19世紀前期において、フランスでは王制を打撃る民衆の力が爆発する。1830年七月革命である。それがロシアによるこの革命への干渉という流れを生み、またポーランドでのロシアからの独立をもとめる蜂起へとつながるのである。この蜂起の失敗がショパンの練習曲《革命》を生みだすことになる。ポーランドでのこの独立蜂起は、民族意識の高揚というナショナリズムのきわだった現象である。
この時代において注目しなければならないのは、ユダヤ人問題である。18世紀ではユダヤ人問題は表面化することはなかった。しかし、富を得たユダヤ人が保護ユダヤ人、さらに宮廷ユダヤ人としての権利を得て、都市の市民社会に加わってくるにつれて、キリスト教社会とユダヤ人問題、そしてユダヤ人の権利問題が浮上してくるのである。そのユダヤ人問題の裏の対象となった芸術家は、苦楽においてはメンデルスゾーンとマイヤベーアであり、詩人ではハイネであった。このユダヤ人問題は、一九世紀の経済や社会だけではなく、音楽文化においても大きな意味をもっようになる。ユダヤ人をかかえる新しい社会のあり方が問題となっていくのである。
■1830年の二つの革命パリとワルシャワ
■ベルリオーズ《レクイエム》《葬送と勝利の交響曲》-七月革命と音楽
1815年のヴィーン(ウィーン)会議によってもたらされたヨーロッパ社会の均衡体制はヴィーン体制ともいわれるが、この体制は1848年三月革命が起こり、オーストリア宰相メッテルニヒがヴィーンを逃れるまで続く。この1815年から1848年までをひとつの時代とみることができるが、「三月革命以前」という意味で「フォアメルツ(3月以前)ともよばれるこの時代の、ちょうど中間にあたる1830年七月、パリで革命が起こつた。
ヴィーン会議の理念は1790年の時点まで歴史を戻すことにあり、フランスでは正統ブルボン王朝が復活して、ルイ18世が即位した。ルイ18世が1828年に病没すると王の弟のアルトワ伯爵がシャルル10世として即位する。ロッシーニのオペラ《ランスへの旅》は彼の戴冠式のための作品である。シャルル10世は、きわめて強硬な復古主義の思想をもち、自由主義思想にたいする厳しい言論統制をしくいっぽうで、亡命貴族が失った財産を補償するための10億フラン法を制定する。しかし、フランスは経済危機に直面して多数の失業者があふれ、いっきに人びとの不満が爆発するのである。こうして起こつた七月革命に連動してベルギーが独立し、この革命に刺激を受けてポーランド蜂起が起こる。
▶︎ヴィーン体制
ヴィーン会議によって樹立されたヨーロッパの国際政治体制。正統主義の原則によって政治秩序を回復し列強の勢力均衡によって維持。各国に勃興した自由主義、民族主義を弾圧した。
▶︎ルイ一八世(1755-1824)
ブルボン朝フランス王(在位1814-1824) フランス革命でイギリスへ亡命。兄ルイ16世の処刑、その息子ルイ・シャルル(17世)の病死後18世を名乗る。ヴィーン会議後の王政復古により即位。当初国内融和に努めたが、その後反乱し絶対王政を復活させた。
1830年という年は音楽史でも節目の年である。1820年代末にべートーヴェン(1827年没)やシューベルト(1828年没)があいついで世を去り、1829年にロッシーニが日東後のオペラ《ギヨーム・テル>(ウィリアム・テル)》を作曲する。そして新しい世代が登場し、1830年にべルリオーズが《幻想交響曲》を、シューマンが《アベッグ変奏曲》を作曲し、ショパンが二曲のピアノ協奏曲を初演するのである。シューマンの作風は当時、「新ロマン主義」として批評された。18世紀末に文学において起こつたロマン主義運動はヴィーン会議のころには終息したが、シューマンの描きだした夢想的な音楽幻想の世界を、人びとは新しいロマン主義芸術の始まりとみたのである。
ベルリオーズが《幻想交響曲》を作曲し、ショパンが二曲のピアノ協奏曲を初演した年、パリでは七月革命が、ワルシャワでは独立をもとめてポーランド蜂起が起こり、このふたりの作曲家はこの現実と直面するのである。
1830年七月、エクトル・ベルリオーズは学士院の作曲コンクール「ローマ賞」 に五回めの応募をすべく、課題曲のカンタータにとりくんでいた。有名な代表作《幻想交響曲》はこのコンクール応募の前こすでに作曲されている。ベルリオーズにとっては、これが最後の応募と心に決めての挑戦であった。このコンクールでは作曲は学士院の建物にかんづめになっておこなうきまりになっており、彼も学土院に閉じこもって《サルダナパールの死》と題する作品の作曲を進めていた。そして、まさに作品を書き終えたとき、革命が起こった。
▶︎七月革命 1830年
ブルボン朝復古王政が到された革命。帰国したと議会教派が対立、議会の強制的解放や選挙権の大幅な的解散や選挙権の大幅な(七月勅令)が発端となり民衆が蜂起。シャルル10世は亡命し、オルレアン公ル・フィリップが即位
彼の自伝によると、革命の勃発とともに難を逃れるために多くの家族が学士院の建物に入りこんできた。弾丸がバリケードで固めた門を越えて飛んできて、砲弾が正面入口を揺るがす。その銃声と砲弾の炸裂するなか、「わたしは一心にオーケストラ・スコアの最終ページを書き終えようとする。砲弾は屋根を越えて放物線を措き、真っ向からわたしの部屋の外壁に当たった。二九日になってついに書きあげた」。
提出作品を書きあげたベルリオーズは「小銃を手に『聖なる野郎ども』と隊列を組んで翌日まで暴れ回った。彼は、この革命において人びとのみせた表情を忘れることができない、として「下町の男たちの度胸のよさ、売春婦や男たちの熱狂、それにたいする近衛兵たちのあきらめ顔など「パリの巨大な民衆」を生き生きと描いている。そしてベルリオーズは自分のよく知っている旋律がうたわれているのに気づいて興奮する。それは彼が作曲した戦いの頌歌(しょうか)であったからである。彼は群衆とともにこのみずからが作曲した歌を合唱し、さらに<ラ・マルセイエーズ》を歌う。自伝によればこのとき、彼はこの歌を以前フル・オーケストラと合唱用に編曲したことを思い出し、この編曲を《ラ・マルセイエーズ》の原作者ルージュ・ド・リルに献呈する。ルージュ・ド・リルに捧げられた編曲は、テノール・・テノール・バスおよびソプラノーソプラノ・テノール・バスという編成の二重合唱とオーケストラのための作品である。
▶︎べルリオーズ (1803-1869)
フランスの作曲家。1830年[ローマ賞。同年《幻想交響曲》初演。大規模な作品で知られる。ムフランス・ロマン派の代士作曲家で、独自の語法は故に大きな影響をあたえた。
ベルリオーズの言葉を借りれば、「ラ・ファイエットがルイ・フィリップを人民の前に連れ出して、共和政を宣言させた。かくして一回転が生じ、社会の機構はふたたび機能し、芸術アカデミーも仕事を再開した」。そして下された学士院の審査の結果、彼はみごと第一席(ローマ大草を獲得し、これによって彼は晴れて作曲家としての公の評価を得ることができたのである。
その七年後の一八三七年、ベルリオーズは七月革命での犠牲者を追悼するために、一曲のレクイエムを作曲した。一八三〇年の革命以降、毎年追悼式興が開催されていたが、一八三七年七月二八目に式典が開催されるにさいして、内務大臣ド・ガスパランから彼にこの作曲の委嘱が.みずから参加した経験をもつベルリオーズにとっては、特別に感慨深い委嘱であつたと思われる。作品は六月に完成し、公演のための練習をする運びとなった。しかし、「政治的な理由」によって急遽、この年の式典では音楽はもちいないことになる。ベルリオーズの自伝によれば、そこにはケルビーニの策謀があったとのことであるが、このレクイエムはけつきょく、同年三月五日のコンスタンティノープル(コンスタンティノ守ス)攻略のさいに戦死したダムレモン将軍を追悼する式典で初演された。
▶︎ラ・ファイエツト(1757-1834)
フランスの軍人政治家。フランクリンに共鳴しアメリカ独立戦争に従官軍功をあげて帰国。フランス革命初期に立憲君主制をしえて国民軍司令官となり、ランス人権宣言を起草。九二年オーストリア亡命。ナポレオンと復古王政に終爪立し、三〇年七日革命後ふたたび国民軍司令官就任
ナポレオンがセントヘレナ島で亡くなると、このレクイエムの作曲に先んじて彼はナポレオンを追悼する作品の作曲を始め、一八三五年、バス独唱と合唱、オーケストラの編成による《五月五日、ナポレオン皇帝の死に寄せる歌》を完成ざせる。ベルリオーズにはナポレオンに共感するところがあったのであろう。
そして一八四〇年、ベルリオーズは七月革命一〇周年記念式典にさいして、ふたたび革命戦士を追悼する音楽の作曲依頼を受ける。そして作曲されたのが三楽章からなる吹奏楽と合唱にょる《葬送と勝利の交響曲》である。第一楽章は〈葬送行進曲〉、第二楽章は(追悼の辞)、第三楽章は〈昇天〉と題され、この第三楽章には総勢400名からなる大合唱が加わる。レクイエムと同様に感動的なこの作品は、国王フイリップに献呈された。
これらの作品からもうかがわれるように、七月革命はベルリオーズの精神的な原点に位置していた。じじつ、レクイエムや《葬送と勝利の交響曲》では彼の内面的な共感が、作品の迫力となってあらわれているように思える。
▶︎ルイ・フィリップ(1773-1850)
オルレアン朝フランスの王(在位1830-1848)。七月革命イルポン朝が倒れるとブルジョワジーの支持により「フランス国民の王」を称たが四八年二月革命で追放。
パリにおいて、この七月革命をまのあたりにしたもうひとりの大作曲家がいた。フランツ・リストである。彼はヴィーンでチェルニーやサリエーリらに師事した後、パリに活動の場をもとめていた。この革命が起こる以前から彼は、とくに社会や宗教という問題に心をとらわれるようになっており、この革命に前後して彼はサン・シモン主義者(サンシモン主義は、産業化によって個人や社会を豊かにし、人びとの福祉を向上させることをめざしたユートピア社会主義あるいは空想的社会主義と言われることもあるが、この思想に宗教的な衣を着せてその思想を広め実践しようとした集団がサンシモン教団)と交流をもち、社会改革、とりわけ無産労働者の権利と社会的地位の改善に深い関心をもつようになる。リストが『芸術家の社会的地位について』という論文を発表したのはこうした経緯に由来する。この論文のなかで、リストはこのように語っている。「われわれの社会生活における芸術家の地位を厳密にまた詳細に確定し、彼らの政治的、個人的、宗教的な関係を論じ、彼らの苦しみ、不幸、困窮と失望を記述し、そして、彼らのいつも血を流している傷口の包帯を引き裂き、芸術家を責めさいなみ・・彼らを玩具として利用する抑圧的な不公正や破廉恥にたいして力強く抗議する……」。このメッセージは、1830年当時にパリに荒れ狂った社会改革をもとめる民衆の叫びそのものであり、むしろそれを音楽家の社会的な地位の改善というかたちで主張している点でより具体的で、より切実であった。この社会にたいする彼の見識は、その後の彼の創作態度を決定するものであった。
七月革命をまのあたりにしたリストは、《革命交響曲》の作曲にとりかかる。この革命は自身の方向性をみうしなっていたリストに、将来の目標をあたえたといっても過言ではない。作品にあたってはベートーヴェンの《ウェリントンの勝利》をモデルにしていたところはあるにせよ、このスケッチは彼のとくに管弦楽作品の出発点となった。最終的にこの作品の構想は放棄されたが、1848年の革命の時期に彼はふたたびこの構想をとりあげる。そして、上記の交響曲の第一楽章が交響詩<英雄の嘆き》に転用されて日の目をみることになるのである。
▶︎リスト (1811-1886)
ハンガリー生ま心ドイツのピアニスト、作曲家。サリエーリ、チェルニーに師事、パガニーニに影響を受け当代随一のピアニストとして全ヨーロッパに名声を博す。一八四八年ヴアイマル寓打長に就任。作曲家として交響詩を創造するなど新しい音楽語法を生んだ。
▶︎サン=シモン(1760-1825)
フランスの主義思想家。産業を中心た空想的社会主義を構想後弟子たちによってサンモン主義としてひろまり、世の社会主義思想に影響をあたえた。
この時期のリストの関心は、音楽と社会という問題にあったここの間警護は、ドイツ語圏の豪家においてはむしろ例外的であった。しかし、音楽家の社会的地位という問題は、彼のその後の思想を決定するものであつた。この七月革命に続いてヨーロッパが体験した1848年の革命にざいしても、リストはこの問題意警新たにするのである。
■ショパン《革命の練習曲》・1830年11月のポーランド蜂起
ショパンの作曲した<12の練習曲》の第12番<二月革命>にまつわるエピソードはよく知られている。しかし、じつざいこのときに起こつた「革命」とはどのようなものであったのだろぅか。その背景にあるのは、三回にわたっておこなわれたポーランド分割である。このポーランド分割はロシアとプロイセン、オーストリアによっておこなわれたが、ヴイーン会議の結果、国土のはとんどはロシアの支配におかれていた。
1830年、パリで七月革命が起こった。周辺諸国はこの革命を旧体制をくつがえそうとする新たな火種と考え、ロシア皇帝ニコライ1世は、ポーランドの軍隊をもちいてこの7月革命に干渉することをくわだてた。この情報が入ると、1830年11月29日、ポーランドの人びとがロシアにたいする反旗をひるがえし、人びとはワルシャワのベルヴエデル宮殿と武器庫を襲う。駐留していたロシア軍とコンスタンティン大公は国外へ退去し、1831年2月、国民政府の樹立が宣言された。この国民政府にたいしてパスキェヴィッチ将軍ひきいるロシア軍はワルシャワに攻め入り、1831年九月七日、首都は陥落する。
▶︎コライ一世(1796-1855)
ロマノフ朝の皇帝(在位1796-1855) 兄アレクサンドル1世在位中から反動主義者として知られ、即位にさいて自由主義将校たちのデカブリストの乱をまねく。これを鎮圧後、強権専制政治をおこない、ポーンドやハンガリーのナショリズムを弾圧するとともに汎スラヴ主義のもと南下政策を推進。オスマン帝国とのクリミヤ戦争の最中に急死。
ショパンは一八三〇年二月二目、ワルシャワを発ってヴィーンへ向かい、同地で蜂起の報に接して、国家回復の望みをいだくが、1831年九月、シュトゥットガルトで革命の敗北を知ることになる。ワルシャワ陥落の知らせを受けて深く絶望したショパンは、日記にこう記した。
町の郊外地区は壊され・・・焼き払われた・・・ヤン!・・・・ヴィルシはきっと保塁の上で戦死したんだ!・・・捕虜になったマルツェルが見える・・・ソヴィンスキ、あの善人が悪党の手中に!・・・おお神よ、いたか!・・・いるが復讐はしないのか・・・。これでもまだロシア人の犯罪に飽き足りないというのか・・・。
<革命>が作曲されたのは1831年九月である。この革命鎮圧の後には、ロシアによる過酷な粛清が待っていた。数万人がシベリアに流刑にされたほか、二〇万人がロシア軍に兵士として徴集された。そして一万人が国外への亡命を余儀なくされたのである。
▶︎コンスタンティン・パヴロヴィチ(1779-1831)
ヴィーン会議後、兄のロシア皇帝アレクサンドル一世君主とするポーランド立憲王国の総督となり国内の愛国士運動を弾圧。ポーランド貴族の女性と結婚したため帝位承権を失い、弟ニコライ一世が即位。ニコライ一世が(ボランド王となると一八一二〔居城ベルヴエデル宮殿を愛国主義者たちが襲撃、いわゆる11月蜂起が起こつた。
革命はロシア支配地域において起こったが、これに神経を尖(とが)せたのがオーストリアとプロイセンである。ロシア支配地域で起こつたこの蜂起が、オーストリアやプロイセンの支配地域へ波及する恐れがあったからであるこそのためポーランド人であるというだけでヴィザの発行もままならなくなる。ポーランド人の動向にもっとも神経を尖らせていたのは、オーストリアの警察長官ゼードルニッキであった。オーストリア当局では《ラ・マルセイエーズ》と《ポーランド人はくじけない>というふたつの歌がもっとも危険な音楽とされ、ポーランドの国民様式を示唆する音楽は当局の摘発の対象とされた。民族舞踊のポロネーズですら政治的な意図を含んでいると判断されたのである。
ポーランドでは、一八三〇年の独立蜂起に音楽家も加わった。ショパンに大きな影響をおよぼしたエルスネルやクルピニスキといった音楽家は、蜂起に音楽面で参加した。1031年1月にワルシャワで初演されたエルスネルのオペラ<国民の蜂起》やクルピニスキの《ワルシャヴィアンカ》という題の歌曲は、この蜂起に立ちあがった人びとをはげますために書かれた音楽である。<国民の蜂起》はエルスネルの晩年、六二歳のときに書かれたオペラで、彼の最後のオペラであるだけでなく、ポーランド国民楽派の確立をはつきりと象徴する作品である。
一八三〇年代から四〇年代にかけて、ドイツの楽壇ではマリア・シマノフスカや名ヴァイオリニストでドレスデンで活躍したリピニスキらポーランドの作曲家に、人びとは喝采を送った。
そしてこのポーランドの独立をもとめる蜂起は、ドイツにも波及する。この蜂起がロシア軍によって制圧されると、大量のポーランド難民や独立蜂起に立ちあがった人びとがザクセンに逃れてきたのである。これをまのあたりにしたのがシューマンとヴァーグナーであり、とくに敏感に反応したのがヴァーグナーであった。1831年から32年にかけて彼が作曲したポロネーズ作品二や作品番号をもたないニ長調の《ポロネーズ》はこの独立蜂起に刺激されて書かれた作品である。
▶︎ゼードルニッキ (1778-1855)
1815年ヴィーンの警察長官に就任:その後ヴィーン体制保持のために出版物の検閲を強化、情報収集組織をとおして不穏分子の摘発に辣腕をふるつた。四八年三月革命で失脚。
ポーランド蜂起の後にザクセンに逃れた蜂起軍の兵士たちと、ヴァーグナーは会話を交わしている。この蜂起軍はライプツィヒなどのザクセンの若者たちに強い衝撃をあたえた。それは、1849年のドレスデン蜂起でのヴァーグナーの行動に反映することになったように思われる。1830年の蜂起が失敗に終わった後、ポーランドでは1846年や1863年にも繰り返し独立のための蜂起が起こるが、これらはことごとく失敗に終わった。国家の回復が成就されるのは第一次世界大戦後、ピアニスト、パデレフスキによってである。しかしショパン演奏家として不滅の足跡を残したパデレフスキの努力も、ナチス・ドイツの擡頭の前にまたしても灰塵に帰すことになるのである。