鹿嶋地区の古墳群

■鹿嶋地区の古墳群

 関東地方の太平洋の沿岸における古墳についてさらに深めよう。千葉県に隣接して茨城県の庵嶋地区にも多くの古墳が存在する。

 まず鹿嶋市宮中にある宮中野(きゅうちゅうの)古墳群。この古墳群は鹿島神宮の西北部にあって、霞ケ浦の北浦に向かって突きだした二つの台地上に、大きく南北に別れて分布している。前方後円墳十六基・帆立貝形二基、円 墳百十三基からなる大古墳群であるこここにある古墳からは石棺・人骨・鉄刀・刀子・玉類・埴輪等が出土している。ただ、この大古墳群も畑地の耕作や工業用水の浄水場建設で多くが消滅した。

 宮中野南台地での代表的な古墳にお伊勢山古墳がある。前方後円墳。全長九六メートル。この古墳を主墳としてこの台地にはかつて三十二基の古墳が分布していた。

 宮中野北台地には市指定史跡である夫婦塚古墳、大塚古墳がある。夫婦塚(めおとづか)古墳前方後円墳で全長110メートル南台・北台あわせこの古墳群中最大である。六世紀初頭の築造とされ、石室内部赤彩の箱型石棺が確認された。古墳周囲から家・動物・人物埴輪などが確認されている。

 大塚古墳は前方後円墳(または帆立貝型)で全長92メートルある。この他に小野塚古墳など全てで八十三基からなる大古墳群であった。

 また近くには小さな社ながら鎌足神社がある。この鹿鴫は千葉県に多い中臣(藤原)鎌足の出生地との伝承がある。千葉県と同じ文化であることを思わせる。

■茨城県最大の古墳集中地・潮来の周辺

 潮来市大生には県指定史跡大生(おおう)西古墳群がある。大生神社がありその西側に古墳が分布しているここの被葬者は鹿島神宮と密接な関係のあった多氏(おおし)一族とされ、その奥津城(おくつき・上代の墓のこと。またそこから神道式の墓のこと。神道式の墓石に刻まれる文字でもある。奥津城奥城とも書く。)であったことは各方面から立証されている。

 主なものとして鹿見塚(しかみづか)古墳、子子舞塚(まごまいづか)古墳、天神塚古墳、白旗八幡塚古墳ながあり、総数二十数基の古墳からなつている。この古墳群は、古墳時代中期の築造と推定され、同辺の自然が残っているだけに墳形はよく保存されている。この大生西古墳群に隣接して大生東古墳群・カメ森古墳群・田の森古墳群があり、古墳群の集中地である。これらを総称して大生古墳群と言い百数十基からなる茨城県下でも有数の古墳群である。

■謎を秘めた霞ヶ浦周辺の古代史

▶︎謎に満ちた多氏(おおし/おおうじ)とは

日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。

 霞ケ浦及び鹿島神宮周辺には夥(おびただ)しい数の古墳群が集中しているこ この事実は何を意味するのだろう。その古墳群の中でも注目されるのが大生神社周辺の大生古墳群である。

 この古墳群を造営したのは大生神社を祭祀した多氏一族ではなかったかと言われている。この多(人生・人・邑生・意富・於保・妖富等々の表言じあり)氏は最古の皇別で、神武天皇の皇子、神八井耳命の後裔が「多」姓を得たことに始まるとされている。その一族は多岐にわたり、阿蘇国造家や科野国造家などと同族であり、子孫は全国的に広がっている。後裔の太朝臣安麻呂(おおのやすまろ)は「古事記」「日本書紀」の撰者としても知られている。

■建借間命(たけかしまのみこと)と杵島(きしま)ぶり

 茨城県の鹿嶋と同じ地名が佐賀県の鹿嶋市で、「かしま」は、杵島に由来しているという。杵島山は「歌垣」の山として」「肥前国風土記」逸文に出てくる。一方「常陸国風土記」の行方郡の条に建借問命は崇神天皇のとき東の賊を平定するため東国に追わされ、敵がなかなか降伏しないため一計をめぐらせ、七日七夜「杵島ぶり」を歌い、踊り、相手が安心したところを背後から襲い、土着の一族を滅ぼしたという話が出ている。その後建借間命は那珂国造となっており、水戸市最大の愛宕山古墳がその墳墓であると伝えられている。この建借間命は常陸周辺に勢力を張った多氏の祖であろうという説は強い。

■多氏の移動と歌垣と装飾古墳

 この「杵島ぶり」は肥前司の杵島の歌垣での民謡であることを考えると、建借間命は大和朝廷との関係以前に九州に関わりを持ち肥前→常陸」とラインが繋がっていたことが考えられ、そのことと古墳の状況を考えると「装飾古墳」がまず浮かび上がる。つまり、6世紀半ばから7世紀にかけて九州に多く見られるものと類似する装飾古墳・装飾横穴墓が、常陸から陸奥の太平洋岸に多く造られている事実である。毎年春と秋に村の男女が山に登り酒を飲み、歌を掛け合って結ばれる歌垣が風俗として、有明湾を見下ろす杵島山霞ヶ浦を見下ろす筑波山に共通して伝えられる事実もある。

■常陸霞ケ浦周辺の古墳

▶︎霞ケ浦の北端・石岡市の古墳

 霞ケ浦の北端に接している石岡市。市内には石岡地区28基・高浜地区53基・三村地区26基・関川地区25基、計132基の古墳が確認されている。この中で石岡地区の舟塚山古墳は県内最大であるとともに、関東地区でも二番目の大きさである。

 全長188メートルで石岡市北根本にある。5世紀後半の築造とされる。国指定の史跡で、この古墳群中の主墳である)発掘調査は行われていない。墳形は堺市の大仙古墳、奈良市のウワナベ古墳などと共通し、築造は末世紀後半のものとされている‥周辺の堀を含めた墳形全体では250メートルにもなる。霞ケ浦からの入船を模しているとされる。

 同じ地域に府中愛宕山古墳がある。前方後円墳で六世紀前半の築造。全長は96メートル、県指定史跡である。舟塚山古墳と道を隔てて向かい合っている霞ケ浦を眼下に見下ろす丘陵上にあって、舟塚山古墳を主墳とする24基からなる古墳群の中の一つ。主体部の発掘はなされていないが、周溝部より多くの円筒形埴輪けが発見されている。古墳の向きから出船になぞらえている。

 周辺には小円墳など24基が確認されている。

■霞ケ浦西浦東岸・西岸の古墳

 霞ケ捕でも最も奥の入江が西浦。この浦を中に挟み、県下最大の古墳の存在する西岡市を扇の要として、東岸には、国道355線の通る小美玉市・行方市、西岸にはかすみがうら市があって、それぞれ岸辺には多くの古墳、古墳群が続いている。言うならば霞ケ浦のどの岸辺も古墳の群集地なのである。ここでは東岸の行方市と西岸のかすみがうら市の古墳を確認してみたい。

■東岸・行方市の古墳(三昧塚・さんまいづか・古墳)

 行方市沖洲の市指定史跡前方後円墳・全長85メートル六世紀初頭の築造・昭和30年に発掘調査 が実施され、石棺内部から多くの副葬品が出土した。中でも注目されたのは埋葬された人物の頭部に着装したような状態頭馬形飾金銅冠が出たことである。

 左右がそれぞれ山形を呈し、全体の長さは約60センチ、正面には蝶形の飾金具を二段に配し、上様には花形と馬形の飾りを交互に付け、頭に巻く部分には方形に区画した立花形や花形文など複雑な透し彫りの文様等々、他に例を見ない貴重なもの。この他に耳飾り、続、櫛、等々多くの出土品があった。これらは国の重要文化財の指定受け、県立博物館で所蔵している。

■東岸・行方市の古墳(勅使塚古墳・ちょくしづかこふん)

 行方市沖洲にあって前方後方墳。茨城県下では最古の古墳で全長64メートル4世紀末の築造である。霞ケ浦の岸に接した丘陵部に大きくそびえている、丘陵部を利用して作り上げていることからその墳形の立ち上がり方は他にあまり例を見ない急斜面になっている。個人のお宅の敷地内の古墳で、見学には許可を得る必要がある。主体部は粘土床に木棺直葬。管玉・ガラス玉・重圏文鏡など。

■東岸・行方市の古墳(大日塚古墳・だいにちづかこふん)

 行方市沖洲にあり先の二つの古墳と同様、国道355号線に沿った丘陵の上にある。ただ、二つの古墳と違って、こちらは雑木林の中にあるため、ポイントを定めて探さないと見つけにくい‥写真に見るように、石室が開口している。出土した猿の埴輪は国指定重要文化財として国立博物館が所蔵している前方後円墳・全長40m。六世紀前半築造

■西岸・かすみがうら市の古墳(富士見塚古墳)

 霞ケ浦町柏崎にあって、市指定史跡。霞ケ浦に突き出た半島状の丘陵頂部にあり、霞ケ浦町の最高地点でもある。対岸からもはっきり墳形が眺められる。また古墳公園として整備され、資料館も整っている。急な立ち上がりの墳形で、墳頂からは眼下に霞ケ浦を見、北西の方向に筑波山を見ることができる。前方部高11.5m、後円部高10.4mと前方部の方が高いのが特徴である。前方部墳頂の、主体部は盗掘されていたが箱形石棺があり、人骨などを採取した。墳丘裾の周溝部から円筒・形象埴輪などが確認されている。前方後円墳全長78m。石室内部に内部赤彩箱型石棺あり。家・動物・人物などの埴輪あり。六世紀初頭の築造。これらのほかに富士見塚1号墳・5世紀後、富士見塚2号墳・六世紀末など。

 このように多くの古墳の分布する霞ケ浦周辺は、装飾古墳の虎塚古墳がこの茨城県にあることを勘案して、この周辺では太平洋の黒潮に沿って、遠く九州の各地との文化交流があったことをうかがわせるこ古墳時代に続く次の律令時代に入ってこの古墳群の近くに常陸の国分寺が営まれたことも合わせて注目していいだろう。