ヴェルサエル条約とフィンランド及びポーランドの国土回復

■ヴェルサイユ条約とフィンランドおよびポーランドの国土回復

 ロシアの脅威につねにさらされていた周辺諸国のなかで注目されるのはポーランドとフィンランドである。20世紀初期にはこの両国ともロシアの支配下におかれていた。ポーランドは国土が三つに分割されて列強の支配下におかれ、フィンランドはいわゆる属国支配の状態にあった。

 ロシアのフィンランド支配は、アレクサンドル一世の侵攻によって全土がロシアの支配下におかれた1808年にさかのぼる。自治は認められていたものの、完世紀末になるとしだいにロシアの統治権が強まり、フィンランドの人びとの不満は鬱積していった。このような状況のなか、シベリウスが1869年に作曲した作品に、カンタータ《ニコライ二世の戴冠式のためのカンタータ》がある。シベリウスをはじめ多くのフィンランドの人びとが、ロシアの支配に従うことを余儀なくされていたことを象徴する作品である。

 はじめ自由主義的改革を志したがナポレオン戦争を経験したのち「ヨーロッパの救済者」を任じて反動に転じ、ヴィーン会議を主導してのちに神聖同盟を結成、ヨーロッパ諸国の自由主義や国民主義を弾圧した

■シベリウス(1865年12月8日 – 1957年9月20日)

フィンランドの作曲家。スウェーデン系だがフィンランド文化に傾倒、フィンランド古来の叙事詩『カレワラ』をテーマにかずかずの名作を作曲。七曲の交響曲、多数の交響詩、ヴァイオリン協奏曲のほか劇音楽、歌曲、ピアノ曲など多くのジャンルをてがけた。出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)。1899年に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『フィンランディア』作品26として独立し、人気を博した。1900年の音詩『フィンランディア』は、愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていたロシア当局の弾圧を受け、別名で演奏されたこともある

 このカンタータ作曲の四年後の1900年、シベリウスは帝政ロシアによる新聞弾圧に対抗して企画された催しのために交響詩《フィンランディア》を作曲し、皇帝ニコライ二世にたいする反発の姿勢を鮮明にする。1917年に起こつたロシア革命は、フィンランドにとっての天恵であったろう。この年シベリウスが作曲した無伴奏男声四部合唱のための《フィンランド猟騎兵大隊行進曲》は、この時期の緊迫した国際間題を背景にしている。同年、ロシア革命と連動してフィンランド国内では独立運動が起こりロシア10月革命後の12月6日、ついに独立を達成する。

 1918年、ロシアは敗戦国としてドイツと単独講和を結ぶ。また第一次世界大戦後のジュネーヴ会議は、戦後体制を国際社会において確認する意味をもっていた。この会議においてあらためてフィンランドの独立が確認された(1918年に作曲されたカンタータ《わが祖国》、翌年に作曲されたカンタータ<大地の歌》、1920年に作曲されたカンタータ<大地の賛歌》は、フィンランドの独立回復の運動と不可分の関係をもっているのである

 フィンランドと同様、この時期に独立運動を起こしたのがポーランドである。ポーランドはドイツとオーストリア、ロシアによって国土が三分割されていた。ロシア革命の翌年、ドイツが第一次世界大戦で敗戦国となったのは、ポーランドにとって大きなできごとであった1919年のヴェルサイユ条約においてドイツにたいしてはいわゆるポーランド回廊とシューレジェン地方を返還させ、同じく敗戦国のオーストリアにたいしてはサン=ジェルマン条約によって領内のポーランド支配地域の独立を承認させるのである。ポーランドが独立を勝ちとるうえで、ロシア革命と第一次世界大戦でのドイツの敗戦というふたつの大意が大きな意味をもち、ヴェルサイユ条約がそれを正当化した。その意味で、国際社会の大きな歯車がもたらした独立であったということができる。そしてこの独立に大きな役割をはたしたのが、ピアニストで作曲家のパデレフスキであった。

▶︎ニコライ二世 

ロマノ7朝ロシアの皇帝(在位1863-1918)。極東の権益をめぐつて日本と対立し日露戦争が勃発。国内では血の日曜日事件に端を発する動乱が生じ、怪僧ラスプーチンの暗躍などをまねいたのち一九一七年二月革命で退位。その後赤軍により銃殺。

▶︎ヴェルサイユ条約

 一九一九年締結された第一次世界大戦の講和条約。敗戦国ドイツにたいし、莫大な賠償金とドイツ人居住地域の間辺国への割譲という過酷な制裁を科し、逆にナチス擡頭の遠因(えんいん・間接的な原因)となった。

▶︎ポーランド回廊 

 第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約によって ポーランドにドイツ帝国から割譲された領土。一八世紀後期のポーランド分割にさいしてプロイセン領であったためドイツ人が多く住み同地をめぐるポーランドとナチス・ドイツの係争が第二次世界大戦の導火線となった。

■首相になったピアニスト、パデレフスキ・・・ポーランドの国土回復

 イグナツィ・ヤン・パデレフスキは、ポーランドの名ピアニストで、ヴィルトウォーソとして世界各地で絶賛を浴びていた。しかし、名ピアニストとしての音楽活動を彼はみずからの意志で制限することになる。祖国ポーランドの復権と国土の回復のためである。ポーランド独立にかける想いは、彼の脳裏に幼少のころから鮮明に刻印されていた。母方の祖父でヴィリニュス大字教授のノヴイッキが、一八六三年の独立運動に加わったためロシア当局に拘留され、シベリアに流刑されるという過去をもっていたからである。

 ところでドミトリー・ショスタコーヴィチもこのポーランド独立戦争と密接な関係をもっている。彼は、ポーランドの1830年11月蜂起においてウラル流刑となったポーランド人を祖先にもっているのである。つまりショスタコーヴィチの父方の曽祖父は、ショパンの知人

▶︎パテレフスキ 

 ポーランドのピアニスト、作曲家、政治家。世界各地を演奏旅行して名声を博し、ピアノ巧日楽の作曲家としても活躍。一三年アメリカ移住。第一次世界大戦中ポーランド独立運動を指導、独立なったポーランド共和国の初代首相兼外務大臣に就任。その後政界から引退し演奏活動に復帰したが、クーデタで軍事独裁政権が成立すると反体制捕動を指導。