■常陸国・古墳調査
茂木雅弘(元茨大名誉教授・考古学者)
■録音-1(25分)
■録音-2(32分)
■録音-3(28分)
■録音-4(9分)
1999年の夏以来、継続的に進めてきた石神小学校の校庭に残された前方後円墳の発掘調査は、2004年3月に終了しました。
5年間、100日近い発掘調査によって、前方後円墳の周囲の隍(からぼり)から23000片を超える埴はに輪片を採集し、現在は、出土品の整理作業に追われています。
整理作業は、発掘調査よりも時間が必要になりますが、今年は、夏に予定されている真崎古墳群の学術調査までに作業を終わらせたいと、連日学生の手で整理作業が行われ、終盤に入っています。採集された破片は、すべてクリーニングされ、一片ごとに出土地点や土層、採集日が記録された後、出土した地区ごとの接合作業が行われます。不足部分には石こうが補われ、最終段階の実測に入るのです。こうして、出土した23000片の埴輪を分析すると、9割は円筒埴輪で、100本近くが墳丘の周に並んでいたと推定されます。
また、形象埴輪の総数は1096片です。これらを詳細に検討すると、人物・馬・鹿・家などの種類に細分されます。1960年代にこの場所から発見され、一部保存されている埴輪片と合わせると、人物埴輪20体(武人9・女子6・力士2・盾たて持もち人びと1・跪(き)座ざする者2)、馬4、鹿1、家1などが確認されました。写真はその一部です。
大きな耳と頭部に特徴がある左端の盾持人埴輪は、前方部先端の中央部から発見されたもので、頭部は40年前に出土していました。二人で一対で並んでいます。右側の3体は武人埴輪です。中央の1体を除いて武器を担いでいます。左側は右肩に弓を、右側は左肩に頭かぶ椎つちの太た刀ちを表現しており、県内ではほとんど類例がありません。ほかにも、弓と胡祿(ころく・やじりを入れる武具)の部品や、10本以上復元されている円筒埴輪があります。
■土浦市博物館講座より
▶︎はじめに
◉常陸の古墳時代埴輪樹立古墳の調査(東海村茅山古墳と潮来市日天月天塚古墳)
▶︎常陸の埴輪出現以前の古墳
(水戸市安戸星古墳・稲敷市原1号墳・桜川市狐塚古墳・土浦市常名天神山古墳・同后塚古墳・東海柑兵略5号墳・鉾田市大上古墳群・常陸太田市梵天山古墳)
▶︎常陸の初期埴輪出土古墳
(常陸太田市星神社古墳・大洗町鏡塚古墳・潮来市浅間塚古墳・桜川市長辺寺山古墳)
◉東海村茅山古墳の調査(所在地 茨城県那珂郡束梅村石神外宿字中道前)6世紀中葉調査
第1次調査 (1999年8月3日〜8月29日)残存墳丘の確認調査
第2次調査 (2002年3月1日〜3月22日)プラタナスの移植地調査
第3次調査 (2004年2月23日〜3月23日)前方部及び周障の全面調査
第4次調査 (2004年9月29日〜10月28日)工事中偶然箱式石棺発見記録保存
■ 概 要
本墳は西面する全長約40m、後円部径21m、前方部先端幅21mの前方後円墳である。埋葬施設はクビレ部地下に主軸に平行して埋設された白色片岩(俗称寒水石)を使用した箱式石棺である。
◉埴輪について
埴輪片の出土総数は23,228片である。その内円筒埴輪底部片404片、胴部片20、097片、口縁部1631片で、形象埴輪片は1096片である。
○円筒埴輪は全て「低位地突帯」の大形4条5段である(普通円筒18点、朝顔形円筒6点を図化)。
○形象埴輪は家・人物・動物等で校正される。
○家には入母屋式と寄株式がある。
○人物は正装男子・桂甲着用武人全身像・桂甲着用武人半身像・力士全身像・胡座女子 全身像・塚にひざまずく人物・盾持人像等がある。
○動物には馬・鹿・犬・水鳥等がある。
◉埋葬施設について
墳丘下の旧表土(黒土層)を東西4・5m、南北3・6m隅丸長方形に約1・5m掘り込み、白色片岩(寒水石・真弓石)を組んで、箱式石棺を設けている。石棺は長側壁各2枚、妻石敵1枚、床石3枚、蓋石3枚等から構成され、接合部分を板石及び河原石で補填し周囲あ占土で真空状に密封していた。
石棺の内法は長軸(東西)199cm、幅(東)62cm・(中央)59cm・(西)61cm、
深さ(東)40。m・(中央)42cm・(西)42cm等を計測する。
○遺骸は東枕の壮年男子1体。
○副葬品は頭骸骨附近から雲母片数点・遺骸南側に直刀1振・頭の北に刀子1口・北側肢側に鉄鏃1束が矢柄を装着した状態で出土した。
◉ 特 徴
本墳は埋葬後に墳丘が築造されたもので、寿陵ではない。それは埋葬施設が墳丘構築以前であり、埴輪が墳丘の原位置を離れて、全て周隍内(「隍」は、国衙や都にめぐらせた堀)に転落した状態で発見された。
茂木・高橋和成・米川暢敬編 平成18年『常陸茅山古墳』東海村教育委員会。
◉潮来市日天月天塚古墳常陸国の主要な古墳(所在地 潮来市堀之内字吹上) 6世紀後半調査
第1次調査 (1983年3月26日〜3月29日)墳丘測量
第2次調査 (1984年8月19日〜9月2日)後円部の埴輪調査
第3次調査 (1984年9月25日〜10月6日)前方部の埴輪調査
第4次調査 (1985年8月19日〜8月31日)後円部埋葬施設調査
墳丘を粟飯原興行という地元の土砂採取業者が全面採取する情報を得て、保存のため運動中1987年8月17日に墳丘が巧妙に決り取られ、翌18日浬滅して空中となる。
本墳は北面する全長42m、口縁部径22m、前方部先端幅21m、高さ復円部6、3m、前方部4、2mの前方後円墳である。
埋葬施設は復円部頂に設けられたホルンヘルス製の箱式石棺である。
◉埴輪
墳丘の上・下二段に円筒埴輪が樹立され64本を掘り出す。朝顔形円筒埴輪1本と形象埴輪片を採集する。但し前方部先端に径20cm程の柱穴状の落ち込みが数個所検出、木柱を跡か。円筒埴輪は個々の調整手法を整理し、内面の指ナデ調整の精粗を軸に整理すると、
○A類・‥内面の指ナデ調整が丁寧な一群は、突帯の断面がすべて台形で、基部接合部外面の調整が丁寧なものが多く、ハケ目の調整が細かいもので統一されている。
○B類‥・内面の調整が粗雑な一群は、突帯断面が全て三角形で、基部接合部外面が未調整で、ハケ目の調整がやや粗いもので統一される。
更にこれらは2〜3のグループに細分される。この他二段目のみに透かし孔の開けられた個体の製作者と人物埴輪の製作者とを考えられる三者を加えると凡そ9人の製作者が想定される。
(塩谷修)原位置で出土した64個体においては、
A類(Ⅱ群):1個体(1.6%)
B類(Ⅱ群):5個体(7.8%)
C類(Ⅱ群):8個体(12.5%)
D類(Ⅱ群):5個体(7.8%)
合計9人の埴輪製作者が見いだされる。
E類(Ⅱ群):1個体(1.6%)
F類(Ⅲ群):21個体(32.8%)
G類(Ⅲ群):1個体(1.6%)
G類(Ⅲ群):1個体(1.6%)
H類(Ⅲ群):20個体(31.3%) I類(Ⅲ群) :2個体 (1.0%)
また原位置以外から出土した円筒埴輪34個体においては7人の埴輪製作者が見いだされる。
B類(Ⅱ群)3個体(8.8%) F類(Ⅲ群):6個体(17、6%)
C類(Ⅱ群)10個体(29、4%) G類(Ⅲ群):5個体(14、7%)
D類(Ⅱ群)2個体(5、4%) H類(Ⅲ群):7個体(20、6%)
E類(Ⅱ群)1個体(2、4%) (大木努)
◉形象埴輪(未調査破壊)
家形埴輪片と人物埴輪片(女子)
◉埋葬施設(盗掘により石材は大半抜き取られていた)
後円部墳壙の主軸上に東西3.0m、幅1.9m深さ1mの楕円形墓壙(ぼこう・はかあな)を穿ち、長さ1、8m、幅50cm、深さ40cm程度の箱式石棺が埋納されたものと想定される。
副葬品は墓壙周辺に散乱状態で採集された。種類は滑石製臼玉14、ガラス小玉5、桂甲小札789枚、直刀片6、刀子片3、鉄鉱片19本等である。
◉ 特 徴
本墳は明かに埋葬儀礼の前に墳丘が完成しており、寿陵としての前方後円墳である。