来迎院多宝塔(国指定)

■来迎院多宝塔(国指定重要有形文化財)

▶︎来迎院多宝塔二来迎院

◯所在 龍ヶ崎市馴馬町2362

◯山号 箱根山宝塔寺

◯宗派 天台宗

◯由来 寺伝によると永正14年(1517)、逢善寺(稲敷市小野)の末寺(まつじ・本山の支配下にある寺)として創建され、弘治2年(1556)に延暦寺‥覚仙が中興(一度衰えていたり途絶えた物を復興させるという意味)し、寛永八年(1631) に玄辛が再興したと伝えられる。

 寛政三年(1791)には、上野の東叡山寛永寺より二百両を下賜(かし・身分の高い人からくださること)され、本堂・庫裡 (くり・仏教寺院における伽藍のひとつ)が再建されている。また、境内には推定で五百年前とされる関東地方に、唯一現存する最古の多宝塔が建っている

■多宝塔の建築様式

 法華経の見宝塔品の説に基づいて造られた様式の塔である。一重塔に裳階がついているため二重にみえる。平面は下の裳階が方形上の塔身は円形、この上下の連続部は亀腹といわれ、饅頭形に白色の漆喰が塗られている。心柱は上層止めされている。

 この様式では、鎌倉時代に建立された滋賀県石山寺の塔が最古の多宝塔として国宝に指定されている。このほかに、和歌山県の根来寺、長保寺の塔が著名である。

■来迎院多宝塔の建立と修理

 修理記録は、明治二七年(1894)、昭和36年(1961)と江戸時代に馴馬村の山崎茂右衛門が写し取ったとされる相輪の銘文『常総遺文』所収の「希代之廟塔修善」「弘治弐年(一五五六)」が知られている。平成一〇年(1998)から三か年間にわたって行われた平成の大修理で、相輪の伏鉢(ふせばち)に安政七年(1860)、牛久藩主山口弘敞(ひろあきら)塔の修復金を拝借し、東叡山寛永寺から金二〇両が貸し与えられて返済し、金五両と米五俵が牛久藩主から下賜されていることや大正八年 (1919)にも修理が行われていたことがわかった。

 しかし、創建以降に初めて行われた解体を伴う大規模な、この保存 修理工事においても、建立年代と弘治二年から安政七年にかけて、約三百年間の修理経過については判明していない。

※多宝塔部材名称図(文化財建造物保存技術協会提供)

▶︎相輪(九輪)

多宝塔相輪

 塔の最上層の屋根に載せた装飾物を相輪あるいは九輪という。相輪は上から順に、宝珠(ほうじゅ)・八葉・竜車・六葉・竜車・四葉・請花(うけばな)・伏鉢・露盤(ろばん)の各部材からなる。この相輪は鉄製で、表面には領主・大工・土豪・僧侶のほか、無数の民衆らしき名前が刻まれてあり、広い範囲の民衆の崇敬を集め多宝塔宝珠(複製)ていたことを伺い知ることができる。また、安政七年の刻銘がある伏鉢以外の相輪は、宝珠と同じく弘治二年の修理の際に造られたものと推測されている。

多宝塔鉢伏(複製)

四方に火焔(かえん)が取り付けられた宝珠には、次のとおり刻銘されている。

豊葺原中津州之内常 陽河内郡馴馬郷惣守護 従清和天皇五代之後胤土岐 頼光公自ホ以来十有給霜之 □氏土岐美作守治頼嫡男 大膳大夫治美朝臣干伐徐 納希代廟塔修善之為 檀越應此光力郡庄泰平 枝葉繁永崇敬牙他異者乎     

干時弘治弐天丙辰五月吉日 重彫取次治英家老 増尾興六平人臣英茂

▶︎宝珠(複製品)刻銘

▶︎御政所

秋元五郎兵衛藤原朝臣重蔵 旦那小林但馬守源勝義 奏者秋本土佐守藤原繁行 同塚本筑後寺平頼久 権大僧都法印覚範 兼備左近将監朝臣英幹 東候泉元長居士妻女 妙昌同息平朝臣英垂 木願別曹権大僧都都覚仙 大旦那神生石見守同妻千代 小仙足高道徳同妻女 江戸崎塔本願常徳寺平行久 此塔之九輪上留井大工内田大蔵尉繁久 同内田半七 普所大工河村左衛門太 妙善五郎左衛門 松子ウバコ 房升や松奇 妙印良珊多宝塔全景

※多宝塔伏鉢の上写真(文化財建造物保存技術協会提供)

■多宝塔を修理した土岐氏

▶︎土岐(原)氏について

 美濃国(岐阜県)守護土岐氏の庶流で、初め土岐原氏を称す。南北朝時代に山内上杉氏ひでなhリの家臣となって、一四世紀末に土岐原秀成が上杉領である常陸国信太荘(霞ケ浦南岸一帯)そう士チ几どころしきに移り住み、惣政所職に着いて、紛争解決や年貢の取りまとめ、荘内の武士の束ね役を務めている。

 戦国時代には、江戸崎城(稲敷市江戸崎)を拠点に、常陸南部を代表する国人領主に成長する。

▶︎土岐氏の転換期

 一六世紀半ば、美濃土岐本家で守護土岐政よいりたけ よハリな.1リ房が没すると頼武・頼芸兄弟の家督を巡る争いが起こり、長井新九郎 (後の斎藤道三) と結んだ頼芸が勝利する。

 しかし、天文二一年 (一五五二)、家督を継いだ頼芸は、守護代の家名を得た斎藤道三によって美濃を追放され、土岐本家は滅亡する。

 この年は、土岐原氏の主家である関東管領上杉憲政が、小田原の北条氏康によって関東を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた年でもある。

 上杉氏没落を契機として、土岐原氏は自立化を図り、土岐本家から土岐原氏の養子に入っていた頼芸の弟治頼が、土岐の家名を受け継いだとされる頃であり、急速にその地位を向上させた時期でもある。

■宝珠に刻まれている内容 

①馴馬郷惣守護

 室町幕府や鎌倉府の正式な役職ではないが、各国の守護職になぞらえて、刻銘されている大旦那神尾夫妻や旦那小林氏や秋本・塚本氏、来迎院住職である覚仙、馴馬の増尾氏、さらには近郷の東条泉氏(泉町)や足高(つくばみらい市足高)の道徳、江戸崎の常徳寺などの上に立つ存在であることを示している。

②清和天皇五代之後胤…

 清和天皇の五代後に酒呑童子を倒した伝説 よnノみつ がある源頼光がいる。

 実際に土岐を名乗るのは頼光の七代後の光衡で、美濃国土岐郡に土着して、郡名を家名 としたのが始まりとされる。

 清和源氏の頼光を遠祖とする美濃源氏土岐 氏の後継者であることを示している。みまさかのかみはるより

③土岐美作守治頼

 一六世紀初め、美濃国守護である土岐本家 より江戸崎城主土岐原氏の養嗣子として入り、 大永三年(一五二三) には、屋代要害 〔屋代 城〕 (八代町) を攻略するなど信太荘を越え て東条荘(龍ヶ崎市域束部) にまで勢力を伸 ばしている。

 美作守は官職名で、従五位下の位階に相当する。

 晩年に本家より「土岐家惣領識」を譲られ たと伝えられ、この頃に土岐原から土岐に名 字を改めたとされるが、土岐を名乗る史料は 見つかっていない。

④土岐大膳大夫治英(だいせんだいふはるふさ) 

 治頼の嫡子として家督を譲り受け、その立場を内外に示す絶好の機会となったのが、この塔の修理であり、土岐氏を名乗る治頼と治英の名前が登場する最初の史料でもある。

 大陪大夫の官職名は、父治頼より上の正五位上に相当し、当時の東国大名である佐竹・結城・宇都宮・小山氏に匹敵する地位であることから、その勢力を垣間見ることが出来る。

⑤希代廟塔修善之為橿越 

 希代(きたい)は珍しいなどの意味があり、この地方ではJ珍しい廟塔(多宝塔) の修理を壇越 (施主) として治英が務めている。

 この刻銘から建立年代は、弘治二年より遡ることは明らかである。

⑥弘治弐天丙辰(一五五六)五月吉日

 この前月に土岐本家を滅ぼした斎藤道三よLたつは、家督を譲った義龍軍に敗れて討ち死にしている。一二月四日には、土岐氏を国人領主に成長させた治頼も没している。

 また、東国情勢に大きな影響を及ぼす山内上杉氏の家督を継いで、関東へ出陣を繰り返す長尾景虎 (後の上杉謙信) は、この年を挟んで、武田信玄と川中島で第二次と第三次の戦いを行っている。その一方、小田原の北条氏廉は勢力拡大を目指して、常陸出陣計画を公表したのもこの年である。

 以降、大きな勢力抗争の中、土岐氏は北条氏の影響下に置かれていくことになる。