天草・島原の乱の道

■天草・島原の乱の道

■多くのキリシタンが殉じた蟹なる道

 天草・島原の乱の時代、天草諸島を領していたのは、唐津城主の寺沢堅高で、島原半島は松倉勝家の所領となっていた。徳川幕府の禁教令以来(1614年発布)、同地方では徹底的にキリシタンが弾圧され、農民には実収入を無視した不当な年貢が課されていた。当時、天草や島原の農民の多くがキリシタン。殺される者や拷問にかけられて棄教を余儀なくされる農民が多く、不満は爆発寸前であった。

 これに追い打ちをかけたのが、1634年から続く大飢饉による凶作で、一挟は起こるべくして起こったといえる。しかし、この事件がほかの一挟と異なる点は、キリシタンであることが結束力を強め、領主や幕府に対抗する強大な力を生んだことにある。そればかりか、天草四郎時貞という「神の子」を大将にすることで、天草・島原の乱は単なる一揆や反乱ではなく、宗教戦争的な側面をもつものとなった。

 

 なぜ、わずか16歳の四郎が担ぎあげられたのかというと、1637年という年は、宣教師のママコス・フェラロが国外追放される際に残した「25年後に神の子が現れ、苦しむ人々を救うだろう」という予言年に当たり、この年に神童として一目置かれていた四郎が長崎遊学から帰郷。さまざまな善行や奇跡を行い、農民たちに希望の光を与えたことによる。もちろん,四郎の奇跡は伝説に過ぎない。

 だが、四郎がかブスマ性をもっていたことは確かで、総大将となって決起をうながすと、原城籠城に際しては近郊から3万7千人を超える農民や浪人が参集し、強大な勢力となった。対する幕府は、板倉重昌の軍勢(細川、鍋島などの近隣諸藩も加勢)が鎮撫に当たったが、落城させることはできなかった。垂呂が討ち死にした後は、戦後処理を任された幕府重臣・枚平綱が12万の大軍を率いて原城を包囲した。倍額は兵糧攻めを敢行内の糧食が尽きた1638年2月㌘日に稔攻撃を開始。3万7千人の一揆勢全員が幕命によって虐殺された。

■カクレキリシタンとは?

■観音像をマリアに見立てる土着信仰

 明治政府によるキリスト教解禁後、世界のキリスト教史上でも希な出来事が起きた。迫害から逃れるために、仏教の観音像をマリアに見立てて礼拝していた隠れキリシタンたちは、260年も続いた土着信仰を捨てられなかったのである。実は現在でも、長崎の一地方でマリア観音を礼拝する伝統が綿々と続いている。キリスト教の世界では、「隠れ」という言葉に負のイメージが想起されることから、こうした人々を「カクレキリシタン」とカタカナで表記して、その存在を公に認めている。

■天草四郎時貞(1621~1638)

 本名は益田四郎時貞。キリシタン大名小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として生まれ、幼い頃より神童ぶりを発揮する。当時、一家は江部村(現・宇土市)に住んでいたが、四郎は長崎に遊学し、高い学識を身につけていた。洗礼名はジェロニモ。