ポール・ホリウチと日本

■ポール・ホリウチと日本~静寂と調和を求めて~ 

 神野真吾二

 ずっと平穏なもの、平和と静寂を創造したいと望んできました。これらは今日の私たちを取り巻く環境では、快楽主義との折り合いをつけるために必要なものです。私は流行遅れなのかもしれませんが、自然の中にある美と真実を求めています。私のこの哲学はここ50年の間まったく変わっていません。

(ポール・チカマサ・ホリウチ 1906-1999)

■はじめに

 ポール・ホリウチは米国シアトルを中心とするパシフイック・ノースウェストと呼ばれる北西岸地域において、確固たる地位を築いた画家である。その作品はシアトル市内のいたる所で見ることができ、また多くの個人が彼の作品を所有し、所有したがっている。彼の作品がこれほどシアトルを中心にした北西岸地域で愛されている理由はいくつも挙げることができるだろう。例えばこの地域におけるアジア人比率の高さと、それに起因する多様な異文化への寛容な風土。または自然に恵まれ、四季の変化がはっきりと見て取れるこの地域の気候などが、ポール・ホリウチの繊細な美意識によって成し遂げられた芸術を多くの人が支持する背景にあるのかもしれない。

 本稿では日本生まれの日系アメリカ人であるポール・ホリーエがどのような経験を経て画家となり、その偉大な芸術を主み出したのかを見ていきたい。さらには、彼にとっての二三与とはいったい何であったのかということも併せて考察てきれば幸いである。(ポール・チカマサ・ホリウチ)

▶︎山梨県大石村

 ホリウチは1906(明治39)年に山梨県大石村、現在の「 河口湖町大石に、堀内大作、やすの次男として生まれた。名前は親正(ちかまさ)。父はポールが生まれて間もなく渡米した。ポーン・ホリウチは父の顔を知らずに育った

 大石村は、富士山のふもとにある湖、河口湖のほとりにある村である。1894(明治27)年の調査では戸数301戸、、人口1105人。1999(平成11)年でも戸数455戸、人口1608人の小村である。その村の大半は堀内姓を名乗り、村内では皆名前で呼び合っている。背後には山が迫り、目前には湖が迫っている。そのため水田に適したような土地は少なく、稗や粟、蕎麦などの雑穀が、その中でトウモロコシが他を圧して多く作られていた。大石紬と呼ばれる織物が、地元の産業として知られていた。土地の女性の多くが、屋内で紬の織り手を務めていたため、女性たちの肌は白く、美しいことで知られていた。河口湖近辺では「大石女に河口男」という諺が残っている。大石の隣の河口地域では、男たちの多くは御師(おし・おんし・特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者)であったため、百姓仕事をせず、全国に札を売って歩いていたため、小綺麗な酒落た伊達男として知られていた。

 大石村は決して豊かな村ではなかった。そのため1907(明治40)年頃から大正末期にかけて、アメリカヘと移住する者が多く現れた。大石は、近隣地域の間で「アメリカ村」とまで呼ばれたという。アメリカに渡ったのは、主に次男三男で、その多くが出稼ぎのためであり、最初に男性のみが渡り、後に夫婦者であれば妻を呼び寄せるというのが普通であった。独身者の場合、「写真花嫁」というかたちで日本人女性と結婚をする場合が多かったという。これは、写真のやりとりで結婚を決めてしまうもので、後に、自分ではない別の男性の写真を送る男性が現れたり、面識の無い者同士の結婚がアメリカ国内で異質なものとして見られ、日本人への差別意識を助長することにもつながったりしたため、1919(大正8)年には在米日本人会が自粛を呼びかけ、翌年には日本政府は「写真花嫁」への旅券発給を取りやめている。大石からの渡米者が多かったことには、貧しさばかりではなく、米国本土に渡るには保証人が必要であったため、在所から先に渡った者があれば、後に続く者には都合が良かったという理由も挙げられよう。ポール・ホリウチの父も、知人が先にアメリカに渡っており、そこに父の大作が呼び寄せられたのだった。その土地がワイオミング州ロックスプリングスだったのである。

 ポールの少年期については様々なことが語られている。足がとても速く、短距離のオリンピック代表選手に選ぼれそうな記録を残していたのに、心臓に問題がありそれを断念したことや、幼い頃から絵を描くことに類い希な才能を示したことなどである。ホリウチが絵筆を取るようになったのはとても幼い頃だったと言われている。ある記事には「7歳の時には油絵の具を使っていた。」とも書かれている。その真偽はともかく、少なくとも13歳の時に描いたものが今日残されている。菅原道真を揃いたこの作品は、軸装された水墨画である。日本名である「親正」の署名は、なるほどこの画家がまだ幼かったことを示しているが、絵の方の技量はなかなかのものである。日本からアメリカに渡る1,2年前の作にあたるが、大石で池谷という画家から三年間水墨画を習っていたという。その他にも全国規模の絵画コンクールで賞を受賞するなど、絵の才能には早くから秀でていたようである。

▶︎渡米〜戦争

 母やすもポールが8歳の時に、父の住むワイオミングに渡っていたのだが、彼も14歳の時に呼び寄せられ、渡米する1920年にアメリカに渡ってからのポールは、兄の利正と共にユニオン・パシフィック鉄道に職を得るが、仕事を終え家に帰ると、手や顔も洗わずにそのままカンヴァスの前に向かったという。このころのポールは鉄道会社の就業年齢をごまかすため、母方の実家の鎌倉姓を名乗っていたという。

 日本の中国侵攻がアメリカとの間に緊張感をもたらし、1941年の不幸な開戦へとつながったが、日系人であるポールにも、このことは大きな影響を与えた。日本の真珠湾攻撃から2ケ月後の1942年2月19日、大統領令9066号が発令され、在米日系人は居住地を無条件に追われることとなった。近年、日系人の戦時拘束への賠償問題が話題となったため、強制収容は全ての日系人に及んだと思われがちだが、実際に収容所に収容されたのは西海岸の軍事第一区域とされた場所に住む者だけであった。しかし塀の外にいる者がより自由であるという訳では決してなかった。ホリウチが当時住んでいたワイオミング州は指定区域外であったが、長年勤めたユニオン・パシフィック鉄道を解雇され、24時間以内に鉄道会社所有の住宅から出て行かねばならなかった。36歳、ホリウチは自分の集めた書籍や家財道具を焼き払い、その中には彼の描いた絵画も含まれていた。ポールは25点のみを残し、それを木枠からはずしてロール状にして車に積み込んだという。その後トレーラーハウスを手に入れ、家族はそこを家として生活し始める。ポールは1935年29歳バナデット・スタと結婚し、二児をもうけており、戦争が始まった時、長男のポールは3歳、次男のジョンは1歳だった。

 敵性外国人であるポールを雇うものはほとんどいなかった。ポール自身、収容所の中を羨(うらや)み、連邦政府に彼らを収容所に入れてくれるよう交渉もしたが、却下されてしまった。しかしそうした苦境の中でも、塵一つ落ちていない教会の掃除を頼み、賃金を支払ってくれた司祭の話や、ユタ州の鉄道会社が彼を雇ってくれたこと、そしてトレーラーハウスの置き場を提供してくれ、さらにはその中の狭さを気遣って地下の倉庫を貸してくれた親切な人物の話などが伝えられており、ポール一家の生活が、苦しいながらも、人々の好意によって支えられていたことが窺える。しかし、この親切な行為があだとなり、ポールのわずかばかり残された初期作品は殆どが失われてしまう借りていた地下の倉庫が大雨で水浸しになってしまったのだった。

 〈自画像1932〉と《バナデットの肖像1938〉数少ない初期の作品である。〈自画像〉は1932年、彼の妻を描いたものは1938年の作である。モチーフの輪郭を太く、黒く、力強い描線で描く表現方法は、対象の存在感を強めるのに役立っている。こうした黒の描線を際だたせて、対象の力強さを表現しようというのは、当時の社会批判を含むアメリカン・シーンの画家たち、社会派リアリストの表現方法に影響されることもあったのだろう。また、バナデットの背景には、ポール・セザンヌの静物画の描法を窺わせるところも見受けられ、ポールという名前をいただいた大芸術家への愛好が示されている。〈バナデットの肖像〉は、制作年が、二人の結婚後であるが、結婚前に描かれていた《自画像》と対をなすものとして、新たに同じスタイルで新妻を描いた作品である。

▶︎シアトルヘ 〜労働者から画家へ〜

 第二次世界大戦が終わると、1946年にポール・ホリウチは、妻バナデットの生地であるシアトルに居を移す。シアトルは、何もない荒涼たる大地が広がるワイオミングとは大きく異なっていた。四季の変化に富み、緑が多く、近くに美しい湖や漕が多かった。ポールはシアトルで「ポールのボデ十−・アンドゥェンダー・ショップ」という日動車の板金塗装の店を開業する。生来の器用さと、さまざまな仕事を転々とした経験がこの仕事にも生きたようだ。また塗装に関しては、同業者が相談に来るほどで、色合わせに絶対の自信を持っていたという。

 ポール・ホリウチが、絵で生活を営むという意味での職業画家となったのは、全くの偶然からであった。絵の得意な彼は、友人の看板描きなども手伝ったりしていたのだが、1950年、そうした作業をしている時に梯子から落下して、左腕を複雑骨折してしまう。このせいで50年から51年にかけて9ケ月間も療養を余儀なくされた。元の肉体労働の仕事には戻れるはずもなく、ポールは友人の勧めもあって「Tozai(東西)」という店名のアンティーク・ショップを開業する。しかし店の売り上げは芳しくなく閑古鳥が鳴く有様であった。時間を持てあましたポールは、店の奥にある小さなスペースをアトリエにして、絵を描くことで時間を潰し、それが仕上がると店内に飾った。するとその作品を買い求める人が出てきた。さらにその内の一人、保険の外交員であったサイ・スピノラは、ポールの絵を預かり、顧客に売り始めたのである。絵の売れ行きはポールが信じられないほど良く、当時の家計のほとんどを稼いでいた妻バナデットのひと月の収入が、4点の作品を売ることだけで得られたりもした。

 当時のポール・ホリウチの作品はほとんどが風景画であった。油彩で揃し−たものもあったが、水彩画の方が彼の性質に合っていたようだ。水彩画を得意とする一流の画家がそうであるように、彼は、絵の具の染み込みや溜まり、かすれ具合を巧みにコントロールし、また紙自体の地の色を活かすことに長けている。ポールは自宅から眺めたワシントン湖を何校も描いており、また故郷の大石に戻った時にも、ほぼ同じ構図の風景を何校も描いている。またワイオミングの記憶をもとにした絵も多く描いており、その多くは雪景色のもので、紙の地色の白を活かした表現が際だっている。

▶︎マーク・トビーとの交流

 1955年前後に描かれた「雨」のシリーズは、雨が多く緑の豊かなシアトルの気候、風土から生まれたものであった。針葉樹のシルエットを背景に、雨の雫の軌跡が画面上を横切っていく様を描いたものである。少なくとも5年以上の間ポールはこのシリーズを描いているが具象的なイメージを下敷きにしながら、それを超えようとする意志が感じられる。「雨」のシリーズを巡る興味深い逸話がある。ポールが作品を描いていると、当時親交のあった画家マーク・トビーがアトリエを覗き「まだ雨の桧を描いているのかい、ポール?ここでは雨がいっぱい降るじゃないか。」と雨の多いシアトルで雨の絵を描くホリウチをからかったのだという。彼自身もその忠告に韻くところがあり、間もなく「海老」のシリーズに取りかかった。しかし今度もトビーに「ポール、シアトルの魚市場を仕切るつもりなのかい?」と言われてしまい、きっぱりと止めてしまうのである。芸術家というものは、他人の忠告などには耳を貸さないのが普通であろうが、かくもポール・ホリウチにとってのマーク・トビーの影響は大きかったのである。ポールはこう語っている。「[マーク]トビイは私のことを友人だといって扱ってくれましたが、私は師だと思っています。彼は日本の美術や思想に関心があったものですから滝崎保さんや私とよく話をしました。(中略)トビイはニューヨークまで私を連れて絵を見に行くなどし、おかげで私は多くを学んだと思います。あの出会いがなければ今の私はないでしょう。」滝崎は剣道の達人で、禅の思想にも通じていた人物である。しかもポール・ホリウチとトビーを結びつけた人でもあり、妻のバナデットの両親とも親し存在であった。

 トビーの忠告に従ったポールの作品には彼の影響が強く現れている。1957年の《夏祭〉では、記号もしくは文字のような白い線が描かれ、カリグラフィーの要素を抽象美術の世界に導入したトビーとの類似性が見て取れる。そして1959年の《祭〉(図)《無題〉(図)では、幅の広い筆を用い短いストロークで描いた矩形を幾つも画面上に置いていく手法を取っている。

 これは1950年代末のトビーがしばしば用いていたものである。また(雪の中の足跡〔図1−13)L《物事の本質3ノ(1−12)ではマーク・トビーの作品に見られるような、オールオーヴァーな画面、そして東洋のカリグラフィーを彷彿とさせる画面上のリズミカルな筆運びの跡を見ることができる。

 半透明のカゼインが下の色を透過させることを利用した画面上の奥行きにもトビーの影響は現れている。

 こうした作品のほとんどがカゼインを画材としている。カゼインは牛乳から採られるタンパク質で、メディウムや展色剤として用いられる水溶性の画材である。乾燥すると水やアルコールに溶けないが、アンモニアなどのアルカリ性の液体には溶ける。北西岸の画家たちは、トビーにせよモーリス・グレーヴスにせよ、紙の上にカゼインを用いて描くということを好むものが多かった。

 カゼインは油絵の具のようにぎらぎらした仕上がりにならず、乾くと艶のない落ち着いた色彩にトビー、グレーヴス、ケネス・キャラハン、ガイ・アンダーセンの4人は北西岸の代表的な画家たちであるが、彼らはそれぞれが重要な画家であっただけでなく、共にお互いの芸術を高め合った仲間でもあった。彼らは東洋美術の質を高く評価し、自らの作品に進んでその影響を反映させた。それには、中国をはじめ、束アジアを旅し、1934年に日本の禅寺でひと月を過ごした経験のあるトビーの存在が大きかったのはもちろんだが、シアトル美術館の、中国、朝鮮、日本などの束洋美術のコレクションが充実していたことも挙げられよう。そうした彼らがカゼインという画材を好んだのも、支持体の素材感と絵の具の存在感とが、ぶつかり合わずに調和する東洋的なアプローチに惹かれたからかもしれない。

 このようにこの時期のポール・ホリウチの作品がトビーの影響を強く受けていたのは明白であるが、その一方でその中に潜むポール・ホリウチの独自性や可能性に気づいている者もいた。北西岸の有名な画家の一人であり、シアトル美術館のキュレーターを長く務めていたケネス・キャラハンは、1958年のシアトル美術館での個展の展評でこう語つている。

 「ホリウチの変化、地上の自然の形態を具象的な、見てそれとわかるように描くスタイルから、日本のカリグラフィーを意識した有機的な抽象への変化はゆるやかなものだ。(中略)多くは、認識可能な形態という点においては全く非具象ではあるが、作品に潜む雰囲気や感覚は、その絵が本質的に装飾的でなければ時々起きうるのだが、宇宙の意味を感じさせる自然の雰囲気や感覚なのである。ホリウチが、トビーの絵画やおそらくは彼の目指す方向の仕事をしている他の画家たちに影響を受けているのは確かだが、この魅力的な作品で自分自身のスタイルを生み出している。[出品作品は]主題やその扱い方において日本の伝統との関連を感じさせるが、私は特に気に入っている。矛盾に聞こえるかもしれないが、今のホリウチの作品は、過去の彼の作品よりも、日本の伝統と現代西洋の表現形式の両方に近づいてし−るようだ。

▶︎コラージュ・マスター誕生

 こうしてトビーの影響を受けつつ、抽象の世界に入っていたポールだが、そうした影響下から羽ばたいていく別の仕事にも同時に取り組んでいた。トビーとポール・ホリウチとは1950年代に頻繁に行き来をし、二人で車に乗り、タコマのダウンタウンの建物を見て廻ったという。そこでは風雨にさらされた建物が様々な渋みのある色彩を帯びていた。自然の中で朽ち、風化していくことに美を見いだすことが、ポールに次のステージを用意したのである。彼がシアトルのチャイナタウンを歩いていたとき、風雨に晒され、破れかけたポスターを見かけ、それに強い衝撃を受ける。それがきっかけとなり生まれたのが1954年の《風化》であり、この作品がポール・ホリウチの転機となったのである。この作品には漢字の書かれた紙が貼り付けられており、後にポール・ホリウチの名を世に知らしめたコラージュ作品の始まりだとされている。しかしこの作品では、コラージュによる画面構成というよりはむしろ、自身の見た光景の丹念な再現と言った方が適切かもしれない。

 ポール・ホリウチが文字に依存せずに、コラージュのみでの画面構成を行ったのがいつ頃なのかはっきりとは分からない。遅くとも1956年にはそうした作品が制作されていた。初期のコラージュは、黒や灰、茶、ベージュなど色彩のあまり感じられない作品が多い。ポールのコラージュは後のカラフルな色彩のものも含め、和紙をカゼイン絵の具で染め付け、それを千切ったものを貼り付けている。

 この時期の抑制的な色彩のコラージュには3つの傾向が見て取れる。1つは、画面上を全てコラージュで覆い尽くした作品である《地層と亀裂》(上図左)《無題》(上図右)などがこれにあたる。千切られた紙が何層にも貼り重ねられ、支持体の表面は見えない。この種の作品は、物質の集積という印象を強く与えアルマンのアッサンブラージュすら連想させる。おそらくポールも、単調な単なる紙の重なりに見えてしまうことを恐れたのだろう、画面上には墨のような濃い黒色の細い緑が、貼り付けられた紙の輪郭をなぞるようにひかれている。黒の描線はイリュージョンの要素を画面に持ち込み、作品表面の物質性を弱め、バランスを取る役割を果たしている。 

 2つ目の傾向は、紙が貼り付けられていない部分には彩色を施し、全体を絵画的に構成したものである《壁 1960》(上図左)はその代表的なものだ。コラージュは主に画面の中央に集中し、その周りの空間に絵の具で調子をつけている。貼り付けられる紙は黒や焦げ茶といった濃い色に彩色されているため、中央のコラージュ部分が中心的なモチーフである様に見える。《12月No.2〉は動きを感じさせる作品だが、《岩〉(上図右)はそれとは異なり静かな雰囲気を伝えるものである。しかし、この作品も中央に配されたコラージュ部分を取り囲むように空間が残され、やはりそこには中心部分が浮き立つよう彩色が施されている。

 最後の3つ目の傾向は、余白は余白として残し、地と図の関係がはっきりと示されている類の作品である。<壁・上左図>は鮮やかな赤を背景に、画面下方向に貼り付けられた紙が集中している。タイトルの《壁》からも想像ができるように、地面から立ち上がる重々しい障壁のように見える。この作品がホロコーストを題材としているという話は、本図録の中根和子の論文に詳しく書かれている。こうした地と図の関係がはっきりしている作品は、具象的な傾向のコラージュ作品として、70年代に新しいスタイルの作品として展開されることになり、またそれとは逆に1978年の〈静寂〉(図4−03)のような、地と図の関係を抽象的な画面として昇華させた流れも存在する。

 50年代末から60年代初めはポール・ホリウチにとっての、飛躍の年であり、その後のポールの進むべき方向がはっきりと示された時代だと言えるだろう。先に挙げた3つの方向性が様々な形で試され、その多くが結実したのだった。しかし次第に3つ目の傾向が彼の作品の中では支配的なものとなっていく。ただ、色彩やコラージュの仕方という点では新たな展開がなされている

 

 例えば60年代後半の作品は、色彩の上では控えめながら、黒や茶などの地味な色彩からの脱皮を試みている様子が窺える。〈寺院にて》(上図)《砂漠の幻想》(上図右)では、コラージュの背景として赤や黄土色がカンヴァスに塗られており、それまでのポールの作品とは雰囲気ががらりと変わっている。また〈砂漠の幻想〉では、貼り付けるというよりはむしろ、剥がされたというように見えるコラージュが施されている。こうした「剥がされた」タイプの代表作である《自然による風化(感性の残存)》図)は既に1965年に制作されている

しかし似たように見える両者の間にも大きな変化を見て取ることが可能だ。1965年の作品は、自然によって風化した壁のような印象が強いのに対して、1970年頃の《砂漠の幻想〉の貼り付けられた紙は、もはや壁の表面に残った残骸ではなく、別の空間を漂う存在となつている。

 1960年代がポール・ホリウチの時代であったことの証拠は彼の絵画における評価ばかりではない。1962年に「21世紀−1962シアトル・ワールド・フェアー」という博覧会がシアトルを会場として開催されたが、ポールはその野外舞台の縦17フィート、横60フィートもある巨体な壁画の制作を依頼されたのだった=この壁画のためにポールはベネチアに赴き、職人たちと共に2ケ月間仕事をした。《シアトル・ミューラル〉と名付けられた作品は、今では「シアトル・センター」と呼ばれる公園の中に変わらずに存在している。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー館長であったジョン・ウオーカーは「私がこれまでに見た最も素晴らしい野外芸術の一つだ。」と語っている。

▶︎日本でのホリウチ

 シアトルでのこうした華々しい活躍とは別に、ポールは日本との交渉もひっそりと始めていた。1956年50歳には、ポールの初の日本での展覧会が東方銀座の養清堂画廊での三人展として開かれている。他の二人はグレン・アルプスとジョージ・ツタカワであった。この展覧会を企画したのが版画家の 斎藤清であったことはあまり知られていない。米国でポールやツタカワの作品を見た斎藤が推薦したため、養清堂での展覧会が実現したのだった。

 ポールはこの二年後日本の土を踏んでいる。1927年21歳から28年22歳にかけて一時帰国しているが、実に30年ぶりの帰国だった。そしてこの時を皮切りに、毎年のように日本を訪れ、郷里の大石に滞在した。その帰国の回数はのベ30数回にも及ぶという。当時、アンティーク・ショップ「Tozai」を経営していたポールにとっては、里帰りは骨董を物色する目的もあったようだ。日本に帰ると最初の頃は東京にも何泊かしていたが、それは最初の数回のみで、それからは東京の空港から山梨へ直行するのが通例になったという。

 大石でのポールは全くの「普通の人」で通したという。親戚の家に逗留し、近所をぶらぶらと散歩するのが日課だった。その日に何か誰かと会う約束があると、朝からそわそわし、できることなら中止にしたいといつも感じていたという。大石でのポールは、故郷のゆっくりとした時間の中に身を置きたかったのだろう。ただ、1960年54歳代前半には、河口湖畔の空き家を借り、そこをアトリエとして作品の制作も行っている。特に1962年56歳と1965年59歳には熱心に制作に取り組んだようで、現在大石に残されている作品の多くがこの2つの年に制作されている。

 大石で制作された作品はどれも小さなものである。それは、大石には制作をするための充分な環境が整っていなかったことと、作品が自分の親しい人たちへの贈り物となる場合が多かったからであろう。またこの小さな作品が、大きく高価なポールの作品を買うことのできないシアトルの人たちにとっても、意味のあるものだとポールは考えていたという。

 大石でのコラージュ作品は同時期の彼の作品傾向を反映したものが多いが、その中に極めて似通った図柄の作品(図左右)が何点かある。これは大石の伝統的な祭りである「十四日祭礼」という新年の1月14日に行われる行事をモチーフにしたものだと言われている。十四日祭礼は、大石の部落をあげてのお祭りであり、さまざまな行事が行われる。神木が切り倒され、運ばれ、飾り立てられ、神社の境内に立てられる。そして子どもたちが「お練り」と呼ばれるグループになって、前年に祝い事のあった家や厄年の人のいる家を巡っていく。ポール・ホリウチは、古くから行われてきたこの祭礼を自らのインスピレーションの源としているのである。

 ポールがモチーフとしたのは大石の民俗的な伝統行事ぼかりではない。日本の歴史の中からも好んで題材を採っている。「源氏物語」などの平安時代、桃山の華美な装飾性、そして元禄時代は最も古くから彼がモチーフとして取り組んできたものの一つと言えるだろう。「[元禄時代には]美術、文学そして日常生活は最も詩的で美しい時代でした。私はそこから得られる多くのものに霊感を与えられているのです。」そして70年代以降の作品で見られる仮名文字がコラージュされている作品は、江戸期の木版印刷された読み物を切り取って、画面上に貼ったものだ支持体でも、古い屏風を古道具屋で見つけ、そこにコラージュを施して自分の作品とするようなことも始めている。こうして見ると、時代が下るにつれ、ポールの作品は日本的な傾向を強めていったようだ。

 ポール・ホリウチにとっての日本とはどういう存在だったのだろう。国立国際美術館の館長だった本間正義はこういう逸話を紹介している。「夢の中で彼は激しい喧嘩をしていた。しかしその時、彼は果たして今、いったい、日本語でののしっているのか、英語で叫んでいるのかわからなくなってしまうのである。目が覚めてからもそれは跡を引いて、重く残っているというのである。なんという不思議な状態であろうか。」(註15)ポール・ホリウチは控えめで温厚な人物であったため、インタビューでもあまり多くを語らない人物であったが、ほとんどの記事には戦時中の苦労話が取り上げられている。しかし、彼自身が自らのアイデンティティの揺らぎに苦しむという言引ま全く述べられていない。しかしポールが本間に語った逸話から推測するなら、ポールは日系アメリカ人としての自らの存在につし−て常に潜在的に考え続けてきたのではないだろうか。もしかすると、そうした意識が、日本的な表現を次第に直接的なやり方で作品の中に持ち込むことを彼にさせたのかもしれない。アメリカ人となった自分と日本にルーツを持つ自分とのバランスをとるための身振りだったのだろうか。

 彼の絶筆だとされる1996年に制作された四曲一隻の屏風《祭り>。金箔の貼られた画面にポールらしい様々な和紙の断片がコラージュされている。その中に写真が二枚貼り付けられている。一枚はコートハンガーに掛けられたコートの写真。もう一枚は隣の部屋への入り口のように見える。これが何を意味するのかは不明だが、意味ありげな写真に見える。コートを脱ぎ、屏風の空間の奥へと入っていったのか?それとも誰もいない不在の写真は、自らの文化的アイデンティティの不在を表しているのか?それは結局誰にも分からないだろう。

■結 び

 ポールは、自分が調和と静寂とを追求してきたことを繰り返し述べている。そして、それこそが物質主義、快楽主義に陥って、騒がしく落ち着かない現代において最も必要な要素だとも考えていた。彼の絵画は、自身の考え方が反映されたものであり、かつまたその作品に触れることで見る者が静寂と平静を享受することのできるリソースでもあるのだ。こうした作品の在り方は、近代以降の西洋美術の中では見つけることが難しい、むしろ西洋の近代主義からすれば何も新しいものの見いだせない古くさいものにしか見えないのかもしれない。しかし、マーク・トビーがポールに語った言葉は示唆的である。「彼(トビー)曰く西洋には自分たちの求めているものは最早ない。無限にある東洋に求むべきだ。水墨画のマスター達の作品はENERGYそのものだとも言った。」彼らが目指したものは絵の中に精神性を求めることだったのだと言えよう。ENERGYというのは、そこに込められた精神性を、観る者が蘇らせることを可能にする作品の力ということになろう。そこでほ具象も抽象も関係は無くなってしまう。

 日本は明治以降の近代化政策の中で「欧化」する事を目指してきた。そして日本の伝統的な文化を、単なる過去の文化遺産としてそれを括り、自分とは直接の関わりのないものとして客体視するようになってしまった。その傾向は第二次世界大戦に敗北することでさらに強化されたと言えるだろう。性急な近代化による歪みや不足分を、「精神性」で補うという無理なやり方で突き進んだ日本の近代化の果てには未曾有の惨禍が待ち受けていたのは周知の通りだが、その結果、日本人にとって「精神性」という言葉は軍国主義の代名詞として、後ろに退けられてしまった感がある。しかし、精神性は日本の文化の重要な要素であり、ポール・ホリウチの作品もそれを抜きにしては成立し得ないだろう。

 ポール・ホリウチは戦前の日本で育ち、そしてアメリカに渡った人物である。伝統との連続性を持つ古き佳き日本人の感性が、ポール・ホリウチの中にはずっと生き続けていたのではないだろうか。彼は日本で培われた感性を、もしくは日本で感じた感覚を大事にし、作品に取り組んでいたのだろう。人と対峠するときの清新な気持ち自然に向き合う時の緊張感目の前の事物に精神を没入すること、日本人が長く大事にしてきた価値観がポールの生み出す世界には存在しているのだ。そうした行為によって世界を常に新しいものとして新鮮に眺められるということは素晴らしいことだ。そしてポール・ホリウチの生み出す作品が、シアトルを中心としたパシフィック・ノースウエストの人たちに広く愛されてきたというのはとても希望に満ちた事実だと言って間違いない。平和や静寂を現代社会の中で成し遂げることを希望し、体現し続けた作家が、文化的なルーツを共有する人たちだけでなく、国際的な広がりの中で受け入れられたことは、未来への光明として理解したいと思うのである。

(山梨県立美術館学芸員)